皆様覚えてらっしゃいますか?TOYOTA7と戦い抜いた 天才レーシングドライバーと呼ばれていた高橋晴邦選手を!
あのルマン24時間レースを日本人として初めて完走した方である。1960年代後半から、1970年代前半のオイルショックによるモータースポーツ活動縮小に至るまで、8年の間、トヨタのドライバーとして数々の名レースに参戦した。20代の若さで第一線から退き、1974年と1975年のル・マン24時間レースに日本製マシンで参戦し完走した。何と今私が住んでいるあたりにあった船橋サーキット(今はない)での第2回ゴールデンビーチトロフィーにフェアレディ1500で初参戦し、総合5位になったとも記録されている。1967年にTMSC(トヨタ・モータースポーツ・クラブ)に加入。1968年はTMSCの若手ドライバーとしてトヨタ・カローラを操り、全日本ドライバー選手権T-Ⅰ部門で9戦中7勝してチャンピオンとなる。当時は、F1ドライバーになることを夢見ており、ヨーロッパのレーシングスクールに入校希望の手紙を書いたこともあったらしいが、トヨタのワークスドライバーを選択する。1969年にトヨタ自販ワークスとして契約し、プロドライバーとなる。今もこんな選択肢を持つドライバーがいるといいんですがね!みんなF-1とかに本当に行ってしまう!同じ年の4月にトヨタ・1600GTで出場した第11回全日本クラブマンレース(富士スピードウェイ)では、ニッサン・ワークスのブルーバードSSSを破り優勝。後トヨタ7 のドライバーに抜擢される。トヨタは、新型プロトタイプレーシングカーの5リッタートヨタ・7の開発と選手層強化をはかり、ワークスに当時22歳の高橋選手 を選択。高橋選手は好タイムを記録し、総勢5台のトヨタ・7で決勝レースに鮒子田寛選手とコンビを組み出場。だが鮒子田選手がバンク下でスピンし脱落。高橋選手の出番はなかった。トヨタは福沢幸雄氏と川合稔氏を立て続けに失い社会批判を浴びた。結果トヨタは1971年新たにTMSC-Rというレース活動専門の別会社を設立。この会社から選手と契約を交わした。トヨタのレーシングカー開発部門も大幅に縮小され、以後しばらくセリカ、カローラ、スターレットといった市販車をベースのレース活動が中心になった。高橋選手のレースは上記のGT-R勢との争いの他、1972年3月、全日本鈴鹿自動車レースでのニッサン・ワークスvsトヨタ・ワークス(高橋晴邦選手と久木留博之選手のカローラクーペ(たぶんレビン))との激闘があったらしい。1973年7月富士1000km、新型セリカ・リフトバック・ターボを駆り、見崎清選手とコンビを組んでの大雨の中の快勝が挙げられる。1973年の秋にオイルショックが発生。本当についていないのだが世界的にモータースポーツ活動の自粛が叫ばれた。1974年初旬にはTMSC-Rが活動休止を表明。事実上、トヨタのワークス・レース活動が消滅(再開は約15年後になるのだが)。海外レースへの挑戦に挑もうと高橋選手のレーサーとしての活動は事実上ここで終了した。オイルショック明けの1974年7月、富士1000km(ショートコース = 30度バンクを使わない後の標準仕様)では、かつての僚友・鮒子田寛氏に請われて彼のシェブロン・フォードをドライブし総合優勝。前年に次いでの富士1000km連覇となった。上記写真はこの頃の前哨戦のカローラレビンの写真なのでは?レーサーとして日本での参戦はこれが最後となった。その後、1974年と1975年のル・マン24時間レースに参戦。シグマMC74・マツダロータリーを岡本安弘選手/寺田陽次朗選手とのトリオで駆った。1975年春、家族とともに渡米し、約一年半ロサンゼルスにビジネス留学する。帰国後、現在は自動車関連部品を取り扱う会社の代表取締役社長を務めて活躍してるとの事。
コウジロウの独り言
目的地までのドライブのサウンドが心を揺さぶっていた。 本当にスチール撮影ロケは楽しかった。
前の会社のディレクタ−時代のスチール撮影。一軒家スタジオ前の駐車風景です。完璧なスーパースポーツカーを目指した4代目フェアレディZとスカイライン2000GT「スポーツカーに乗ろうと思う」というキャッチフレーズだったZの向こうにはBMW2002がある。バブル景気を物語っているかの様に面白い光景である。確か久里浜だったと思うが、ロケバスとスタジオが写ってる写真には'90が記されている。Zがモデルチェンジした次の年である。このZは日産が景気低迷だったのか?人気があったのか?世界戦力品だったのか?不明だが長期に渡り生産されたモデルである。スカイラインは1980年代のポールニューマンバージョンがあった最後のL型エンジン搭載車のノーマル2000GT4Door。Zのエクステリアデザインは当時の日産自動車デザイン部にいた前澤義雄氏・園勲夫氏・山下敏男氏等数名の手によるものだそうだ。トレンドを考慮し、新たにワイド&ローというスポーツカーという概念の元に制作されたらしい。「沈まないカリフォルニアの太陽に映えるボディデザイン」を考慮したと言われてたので自分はアメリカ人の「カリフォルナデザイン」かと思っていた。マイナーチェンジの際に前後オーバーフェンダーにし、ホイールを17インチ化する計画があったものの実現しなかったらしい。ただこれには続きがあり、友人のダットサンを取り扱っているオーナーがアメリカから逆輸入をし、日本でもワイド&ローの迫力のあるボディが見ることが出来ていた。当然左ハンドルだった。ヘッドランプは3代目のパラレルライジングタイプから、再び固定式に戻された。ただし欧州仕様のみフルリトラクタブル式を採用してたらしい。車体寸法は幅方向が特に大きくなり完全な3ナンバーサイズに変更された。2シーターおよび2by2と2つのボディがあり、この写真は2by2である。フェアレディZの2シーターと2by2の外観上の違いは燃料給油口の位置が2シーターはドアとリヤタイヤハウスの間で2by2はリヤタイヤハウスの後ろに位置しているこの差があるのだ。但しAピラーからCピラーに行くルーフからの曲線が後の車軸に(ホイールの真ん中)設計されておりデザイン場の差はあまり感じられないように設計されていた。2代目(S130型)の様に2by2と2シーターの差はなかった。Tバールーフも引き継がれ、2by2はTバールーフが標準装備になっていた。特徴的なのは車載ジャッキはアルミ製、スペースセーバー式スペアタイヤもアルミホイールである。つまり軽く強度のあるものを選んで設定してたようだ。現在では多くの外車を始めとする新車にはスペアタイアという存在すらなくなって来ているが、その方向性をいち早く導入していたようでもある。BMW2002は今から50年前の1966年、BMWが通称「02シリーズ」として発表。現在の『3シリーズ』のルーツともいえる。1973年に追加された高性能グレードが2002ターボ。写真のクルマはターボルックのノーマル。シートは運転席のみレカロだった記憶がある。レトロな雰囲気を持たせたボディは、ターボを思わせるデザインとカラーリング。フロントスポイラーやオーバーフェンダー、リアスポイラーが、迫力のルックスを実現していた。なぜこのブログではZのことを長く述べたかと言うと、先ほどの友人のクルマ屋での陸送の際、Zか32GTRどちらを選んでいいことになり自分はガンメタGTRよりも黄色のZを選んだ。「Zが単純に好きだったから」それがこのブログでのZの取り上げたコピーが多かった理由です。
コウジロウの独り言
W124メルセデスはコンフォータブルないいクルマだった!どの位今でも走ってるのでしょうか?
W123型の後継車にあたる1980年代に自分が乗っていたW124型メルセデス。ボディは4ドアセダン。230Eの右ハンドル。230Eしか当時は右ハンドルはなかった。リアシートのヘッドレストが運転席の操作でパタ−ンと倒れるのが面白かった。今ではバックモニタ−があるのでその必要はなくなったが後が見やすい設計なのか配慮が素晴らしかった。イタリアに家族で旅行した時、イタリア語なんか当然話せない自分。着いてからのトラブルを避ける為に、安全策としての迎車を日本で手配しておいた。日本が大雪で飛行機が遅れ、ミラノの到着が一日遅れてしまった。前日から泊まっていた成田のホテルに自分のW124を残し、ロンドン〜レオナルド・ダビンチ空港経由の空の旅でマルペンサ空港へ。迎えてくれたのは一日遅れなのにも関わらずリムジン。自分たちの前にサーッと現れた。紺色のW123のロングボディーメルセデスだった。ホテルまでの30分間、快適に自分達を運んでくれた。ヨーロッパではこのメルセデスを見ない国はないと言える位W123/W124は多かった。ローマでも英語のできるガイド付きクルマをチャーター。実際にはバスツアーと変わらない費用だったので、東京で予約しておいた。この時も白いW124のロングボディのリムジンだった。本国ドイツではタクシーがW124だった。このクルマは機構的にW201型 (190E)のサイズと全長を大型化したもので、台形のテールランプが特徴だった。リアサスペンションは190Eで開発されたマルチリンク式に。外板の平滑化が推し進められた結果、以前ブログで述べた様にメルセデスの市販車では初となる0.29のCd値を得ている。つまり何も突起がないということだ。最後のミディアム・クラスとして現在でも人気は高く、W124を中心に中古車販売店では扱う店も多かった。1985年、ドイツ本国で発売開始。翌1986年に日本に輸入。当初はセダンの230E、260E、300Eだったはず。詳しくは自分でもよく解っていない。1987年に260Eとクーペの300CEが追加。ともに230Eの右ハンドル車があった。1988年、ステーションワゴン230TEを追加。W123以来、あの後席に3つのヘッドレストがあるものです。1989年、300TE、260E 右ハンドル追加。1990年には外装を中心にマイナーチェンジされたそうだ。自分のメルセデスは9万8千kmでミッションが壊れ、自分の手からは離れて行ったのだが、維持費がやたら高かった印象がある。後にクーペに装備されていたサイドプロテクトパネル (サッコプレート) を全車に標準装備とした。自分のにはこのプレートはついていなかった。ナンバープレート脇も面一に変わっていた。それ以前のクルマに純正とは思われないパネルをはったクルマも多かったようだ。年式の違いがエクステリアで見分けられた。1991年には500Eおよび400Eを発売。500Eは標準のボディに500SL (R129系) に搭載されていたV8エンジンを載せたモデル。ノーマルに比べフェンダーが大きく張り出している。あこがれたものだ!ポルシェのバイザッハ研究所が開発し、生産工程の一部は1992年までポルシェの工場で行われていたらしい。限定車としてE500リミテッドが500台限定発売された。日本へはヤナセではなく並行輸入が多かった。。400Eも北米や日本向けのクルマで、開発のきっかけとなったのはレクサスLS400 (トヨタ・セルシオ) に対抗したクルマ。W124はレクサスよりもクラス下のセグメントだが、北米での価格・車格はほぼ同等で実質的なライバルとされていた。日本車もここまで脅かしてるとは凄いことである。とにもかくにも未だに高額なクルマ、メルセデス。といっても日本車のレクサスブランドも高額設定である。選ぶ基準が難しくなっている今日この頃です。
コウジロウの独り言
一枚の写真から当時の本当の歴史の一遍を! 碓氷峠と熊の平信号所。
かつて駅だった「熊の平」で停車していた急行列車と鈍行列車。確かではないがサイドから見るに165系を押すEF63の重連連結なのか?熊ノ平駅で急行列車に抜かれる茶褐色の旧型客車・鈍行列車。「熊ノ平駅」は、かつて群馬県碓氷郡松井田町にあった、日本国有鉄道(国鉄)信越本線の駅である。自分はJRとなっても「熊ノ平駅」であったような感じがしてしょうがない。この写真の次期は「信号場」になっている。旧・国鉄=JRの路線としては最も急勾配の線区「碓氷峠」。日本の鉄道技術の歴史に置いて特殊な急勾配線区でした。駅から「信号場」に降格したという歴史を持つ「熊ノ平」。現在もトンネルやホームなどの面影と跡地があるらしい。大昔にこの駅でお弁当をを買った記憶もあるのだが、1966年2月1日に信号場に降格とのこと。自分が小学生の頃である。まさか「おぎのやの釜飯」ではと疑問を抱く?雉子焼き弁当だったかも?記憶違いかもしれないが「横河駅」と間違えてるのかも知れません?1987年4月1日 の国鉄民営化に伴い、JR東日本になるのだが。1997年9月30日に北陸新幹線(高崎駅 から 長野駅間)開通、信越本線横川駅から軽井沢駅間の廃線・廃止。信号場となり「熊ノ平信号場」となる。国鉄と国鉄民営化後はJR東日本が管轄。信越本線は中山道・善光寺街道・北陸道と高崎駅から長野駅・直江津駅から新潟駅に至る路線。1997年10月1日の北陸新幹線高崎駅から長野駅間が先行開業となり新幹線の並行在来線区間の横川駅と軽井沢駅間が廃止となった。軽井沢駅から 篠ノ井駅間が「第三セクターのしなの鉄道」になった。2015年3月14日の北陸新幹線長野駅から金沢駅間が開業し長野駅 から直江津駅間も経営が分離。長野駅から妙高高原駅間が「しなの鉄道」。妙高高原駅から直江津駅間が「えちごトキめき鉄道」に。3区間に路線も分断されてしまった。何がなんだか解らない。全線を直通できる列車は、信越本線全線開通後からなくなってしまったのだ。現在信越本線として残されている区間のうち、直江津駅から新潟駅間は、JR東日本の羽越本線と奥羽本線。「えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン」、「あいの風とやま鉄道線」、「IRいしかわ鉄道線」、JR西日本の北陸本線・湖西線とともに、日本海縦貫線とよばれ優等列車や貨物列車が多く運行されているらしい。「熊の平駅」時代ははトンネルに挟まれ有効長を十分に確保できないため、「アプト式」鉄道時代の列車は突込線によっていったんトンネルに突っ込んでから本線脇の引上線に後退して停車する、スイッチバック駅だった記憶がある。信号場としての末期は複線だったため、閉塞境界としての機能があった。アプト式終了後は横川からのEF63系電気機関車の切り離し地点だったのか?相互間の乗り入れ待ちなのかスイッチバックなのか数分止まってから走り出したのも記憶に新しい。残念ながら列車の記録写真は少なく、世の中の好景気に伴って家族兄弟全員がスカイラインGT党であり、長野へはクルマでのドライブが多くなった次期でもある。碓氷峠の旧道をトラックの隙間を縫ってタイヤをならしながら走って行った記憶もある。
コウジロウの独り言
超高層と呼ばれていたビルも、クルマ以上に進歩している。
スカイライン2000GTX・ケンとメリーに見つめられた新宿の「新宿三井ビル」。
建設途中の写真である。1974年の高度成長期に建てられた。
オフィス需要がひっ迫した超高層ビルの先駆けとして誕生した。
前のブログで紹介した「はしご消防車」の反対側の風景。
地上55階、地下3階建ての超高層ビルで、高さ223.6mの建物。
竣工当時は日本一の高さでした。ビルの高層化にならって建設。
下のスペースでは毎年各イベントが開催され、
ほのぼのとした空間演出を今でも提供している。
現在の開発で当たり前の様に取り入れられているコンセプトは
三井ビルで先駆的に行われ、当時としては新しかった。
今では名前が当時とは違うかもしれない
損保ジャパン本社ビルや国際ビルディング等のビルが風景の中に入ってくるが
この時点ではまだ建てられていない。
クルマの性能も時間の経過の中でかなり機能や性能が変わって来ている。
免震機構や制震機構なのか興味があってこのビルは何だったんだろうと思い
調べてみると、竣工当時から40年を経過した今でも
東日本大震災以降高まった安全の為の対応工事を実施して、
エレベータ耐震補強工事および「自動診断仮復旧システム」の導入や
非常用発電機の長時間大容量化工事等が実施されているそうだ。
しかも、三井不動産が鹿島建設の施工により「新宿三井ビルディング」において、
長周期地震動が発生した場合の揺れを大幅に低減させるため、
屋上に設置しているらしい。
「TMD」、「AMD」、「ATMD」を設置した超高層ビルは結構あるらしいが、
通常は新築時に最上階付近に組み込むそうです。
既存の超高層ビルに設置が可能なんて凄いことです。
もちろん日本で初めてで、世界でも例がないようです。
そんな構造になるビルだから、狙ってその試写体を撮っていたのですかね?
コウジロウの独り言
日本の高度成長期の乗用車の形もよければ、 はしご消防自動車までもかっこいい!
ここで改めて感謝を込めて言いたい。消防隊員の皆様に。述べさせて頂きたいのは隊員達もさることながら消防自動車もかっこいいと改めて感じたことである。写真は「日野TC343型 25m屈折はしご付消防車」だと思われる。1973年当時は授業の帰りに新宿の副都心前で「ケンメリ」の撮影でもしておこうと思いつき、また「キャノンペリックス」を片手になんか見たこともない消防はしご車だと思い、「FD24mmレンズ」を速やかにシャッタ−をきったのを覚えている。今やこの背景には東京都庁や三井ビル等高層ビルの宝庫の場所。何故この場所で、はしご車何でしょう?今を予感させる未来型はしご車が当時ハイソカーだった「ケンメリ」と写ってたのです。「トミカのミニカー」だけでしか今は見られないのか?「田原市消防署」と書かれた写真しか見れてない。「小山市消防署」とも書かれたミミカーまで発見。このミニカーもマニアの間では5万円もしている。このクルマは本当に人気があったようだ。これだけでもお分かりの様に人命救助に携わっている方々には、やはり視覚的にも目を見張る歴史と形が残されていることを忘れてはならない。ここで言わせて頂きたいのは、「かっこいいものはカッコいい」のだから仕方がない。このクルマ達に乗ってかっこよく活躍してる人たちには本当に感謝をしたい
コウジロウの独り言
今や近寄れない草津白根山油釜。 時の過ぎ行くまま、自然に人は合わせないと生きて活けないのか?
標高2030メートルの「エメラルドグリーンの湖面に近づきたい」と思っても
今は500メートル手前でロープが貼られて近づけないそうです。
昔は湖面近くまで降り石で文字をかけたりもした。
自分が歳をとったのか、
自然の「風景までも遠くに行ってしまったのか」と嘆いている。
かつてある女性とドライブに三菱ミラージュで来たこともある草津白根山。
祖母の田舎が信州湯田中だったからよくこの志賀高原草津ルートを経由して
ドライブしたものだった。自分のクルマははケンメリやローレルだった。
昔のミラージュも世の中から消え、
ましてや同行した女性もこの世から去ってしまった。
そんな淋しい場所なのか?草津白根山も最近ではなかなか行けなくなった。
近年、富士山の噴火もあり得るらしいし、
九州阿蘇山でも大噴火が起こるかもと予想を立てる人もいる。
その場合、九州全島が包まれる火砕流が起こるとも言われている。
この軽井沢にはよく来てるものの、最近では草津白根山には足を運ぶことがない。
以前はこの近辺での浅間山の噴火のニュースは聞いてたこともあるが、
最近 、ネットやニュースでこの近辺での草津白根山も
「噴火警戒レベル1」になってるらしく
中央登山道が利用出来なくなってしまってる。
見える風景はこの写真のような時の風景ではないそうです。
「時の過ぎ行くままに」なんて曲を思い浮かべるのは自分だけでしょうか?
クルマはモデルチェンジをしながら、
そのブランドも消えたりもするが改良され生まれ変わる。
大きく動かす自然の威力は恐ろしく大きい。
自然の力は、モデルチェンジどころかそれこそ天変地異だってあり得る。
自然に頼り包まれて生活している我々は一度命を落とすと生まれ変わることはない。
普段歩けていた風景がなくなってしまったら
人が生きる道をも失うことでもある。
コウジロウの独り言