超高層と呼ばれていたビルも、クルマ以上に進歩している。

スカイライン2000GTX・ケンとメリーに見つめられた新宿の「新宿三井ビル」。

建設途中の写真である。1974年の高度成長期に建てられた。

オフィス需要がひっ迫した超高層ビルの先駆けとして誕生した。

前のブログで紹介した「はしご消防車」の反対側の風景。

地上55階、地下3階建ての超高層ビルで、高さ223.6mの建物。

竣工当時は日本一の高さでした。ビルの高層化にならって建設。

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下のスペースでは毎年各イベントが開催され、

ほのぼのとした空間演出を今でも提供している。

現在の開発で当たり前の様に取り入れられているコンセプトは

三井ビルで先駆的に行われ、当時としては新しかった。

今では名前が当時とは違うかもしれない

損保ジャパン本社ビルや国際ビルディング等のビルが風景の中に入ってくるが

この時点ではまだ建てられていない。

クルマの性能も時間の経過の中でかなり機能や性能が変わって来ている。

免震機構や制震機構なのか興味があってこのビルは何だったんだろうと思い

調べてみると、竣工当時から40年を経過した今でも

東日本大震災以降高まった安全の為の対応工事を実施して、

エレベータ耐震補強工事および「自動診断仮復旧システム」の導入や

非常用発電機の長時間大容量化工事等が実施されているそうだ。

しかも、三井不動産鹿島建設の施工により「新宿三井ビルディング」において、

長周期地震動が発生した場合の揺れを大幅に低減させるため、

超大型制震装置「TMD(チューンド・マス・ダンパー)」を

屋上に設置しているらしい。

TMD」、「AMD」、「ATMD」を設置した超高層ビルは結構あるらしいが、

通常は新築時に最上階付近に組み込むそうです。

既存の超高層ビルに設置が可能なんて凄いことです。

もちろん日本で初めてで、世界でも例がないようです。

そんな構造になるビルだから、狙ってその試写体を撮っていたのですかね?

 

コウジロウの独り言

 

日本の高度成長期の乗用車の形もよければ、 はしご消防自動車までもかっこいい!

ここで改めて感謝を込めて言いたい。消防隊員の皆様に。述べさせて頂きたいのは隊員達もさることながら消防自動車もかっこいいと改めて感じたことである。写真は「日野TC343型 25m屈折はしご付消防車」だと思われる。1973年当時は授業の帰りに新宿の副都心前で「ケンメリ」の撮影でもしておこうと思いつき、また「キャノンペリックス」を片手になんか見たこともない消防はしご車だと思い、「FD24mmレンズ」を速やかにシャッタ−をきったのを覚えている。今やこの背景には東京都庁や三井ビル等高層ビルの宝庫の場所。何故この場所で、はしご車何でしょう?今を予感させる未来型はしご車が当時ハイソカーだった「ケンメリ」と写ってたのです。「トミカのミニカー」だけでしか今は見られないのか?「田原市消防署」と書かれた写真しか見れてない。「小山市消防署」とも書かれたミミカーまで発見。このミニカーもマニアの間では5万円もしている。このクルマは本当に人気があったようだ。これだけでもお分かりの様に人命救助に携わっている方々には、やはり視覚的にも目を見張る歴史と形が残されていることを忘れてはならない。ここで言わせて頂きたいのは、「かっこいいものはカッコいい」のだから仕方がない。このクルマ達に乗ってかっこよく活躍してる人たちには本当に感謝をしたい

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コウジロウの独り言

今や近寄れない草津白根山油釜。 時の過ぎ行くまま、自然に人は合わせないと生きて活けないのか?

標高2030メートルの「エメラルドグリーンの湖面に近づきたい」と思っても

今は500メートル手前でロープが貼られて近づけないそうです。

昔は湖面近くまで降り石で文字をかけたりもした。

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自分が歳をとったのか、

自然の「風景までも遠くに行ってしまったのか」と嘆いている。

かつてある女性とドライブに三菱ミラージュで来たこともある草津白根山

祖母の田舎が信州湯田中だったからよくこの志賀高原草津ルートを経由して

ドライブしたものだった。自分のクルマははケンメリやローレルだった。

昔のミラージュも世の中から消え、

ましてや同行した女性もこの世から去ってしまった。

そんな淋しい場所なのか?草津白根山も最近ではなかなか行けなくなった。

茨城県周辺で地震が多く発生して今日も東京で揺れていた。

遠くの震源地なのに東京でも揺れるのだから地震は恐い。

近年、富士山の噴火もあり得るらしいし、

九州阿蘇山でも大噴火が起こるかもと予想を立てる人もいる。

その場合、九州全島が包まれる火砕流が起こるとも言われている。

この軽井沢にはよく来てるものの、最近では草津白根山には足を運ぶことがない。

以前はこの近辺での浅間山の噴火のニュースは聞いてたこともあるが、

最近 、ネットやニュースでこの近辺での草津白根山

「噴火警戒レベル1」になってるらしく

中央登山道が利用出来なくなってしまってる。

見える風景はこの写真のような時の風景ではないそうです。

「時の過ぎ行くままに」なんて曲を思い浮かべるのは自分だけでしょうか?

クルマはモデルチェンジをしながら、

そのブランドも消えたりもするが改良され生まれ変わる。

大きく動かす自然の威力は恐ろしく大きい。

自然の力は、モデルチェンジどころかそれこそ天変地異だってあり得る。

自然に頼り包まれて生活している我々は一度命を落とすと生まれ変わることはない。

普段歩けていた風景がなくなってしまったら

人が生きる道をも失うことでもある。

 

 

コウジロウの独り言

消えたドクターイエローと キャノンF-1とキャノンFDレンズ。そしてネオパンSSS

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写真は1974年2代目として登場したして通称「ドクターイエロー

(モノクロだからドクターグレーだろう?って言わないで下さい)

新幹線の線路を検査する電気軌道総合試験車である。

現在はT4編成とT5編成が採用されその3代目にあたる。 

初代のT1編成が登場したのは、東海道新幹線が開業してすぐの1965年1月。

最高速度160km/hのディーゼル機関車が軌道の検査。

T1編成は電気の検査のみを行ってました。

そのため効率が低く、速度が遅く旅客車に影響が出るため

走行可能な時間が限られるといった運用上の問題点があり、

車両の老朽化も進んでいたため、新型の開発に至ったらしい。 

1974年、2代目として登場するのがT2編成。この写真の車両である。

電気と軌道の両方を同時に検測することはもとより、

最高速度は何と210km/hを達成したのです。それを撮影してたのだから凄い!

この写真は当時日吉付近を通過する時にケンメリで走行中に路肩に止め撮影したもの。

ネオパンSSSを増感現像したもの。だから粒子も荒れている。

細かいデータは録っていない。カメラはキャノンF-1,レンズはFD24mm。

当時1979年には姉妹車両のT3編成も誕生し、T2編成とT3編成の両方を交互に運転。

片方が点検で使えなくても一方、もう一方が検測が可能という

相互体制が構築されていた。 

ドクターイエロー」のシステムはこのT2・T3編成で確立され

現在まで続いているそうだ。 

「のぞみ」登場で270km/h時代を迎えたことから2001年にデビューしたのが

700系ベース。270km/hでの検測が可能な3代目のT4編成。

2005年にはT3編成の置き換えとして、姉妹車両であるT5編成も登場。

以後、この2編成が交互に検測任務に就き、新幹線の安全を守ってるらしい。 

最近はどんどんデジタル化し、録る試写体も体こちら側のカメラもスマホoriPad。

1974年当時のスピード感ある試写体をフィルムを巻き上げながら追っかける姿は

自分の周りからは消えている。

今後どこかでどこかでこのドクタ−イエロー達にお目にかかりたいものだ!

 

コウジロウの独り言

 

時を超えても生活者のマインドを限りなく掴む ボルボのマーチャンダイジングは面白い!

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Photo by Kojiro

メルセデスW124の後に自分の愛車となったボルボ850セダン。この形が自分は好きだった。240シリーズの後継として登場。「850は、ピニンファリーナのデザインなのにフェラーリのようにバッチがついてないのはなぜ?」とかベルトーネがデザインした780には、バッチがちゃんとついているのに850にはない!」780は本当にベルトーネカロッツェリアなのだがマルチェロガンディーニなのかもしれませんね?正確には850はスカンジナビアデザインらしい?バッチやサインの入ってないものは日本車を除くヨーロッパ車等はほとんどが不明か自社ブランド品。マルチェロガンディーニだったらと?デザイナーのブランド化が脳裏を掠める中でボルボを語らせて下さい。850のボディはクラッシャブルボディと言って衝突した時に「グシャ」とつぶれることによって衝撃を吸収する構造に現在はなっている。昔は何台重ねても丈夫なボルボと言って来たのをベンツ等に影響されたのか、180度方向を変えたのだ。エンジン横置きとFFレイアウトの直列5気筒エンジン(ポルシェが開発に携わった960の直6から1シリンダー減らした5気筒)を搭載。当初はボルボ伝統のセダン一種だった。1993年にはワゴンモデルが追加され、セダンより爆発的人気だった。日本ではトヨタスプリンターカリブ等、ルーフまで達する縦長のテールライトのデザインが多かった。ポルシェがチューニング担当。自分が好きだった新設計された850は「従来のボルボとの共通点は事実上ゼロ」と言える程のニューモデルであり、当時の安全第一だが鈍重なイメージが強かったボルボのイメージを変えるモデルだった。また850の戦略的なBTCC(英国ツーリングカー選手権)参戦によってボルボ=スポーティー」という現在まで受け継がれ、確たるイメージを定着させた。ワゴンで参戦して世界を驚かせた。特に限定スペシャルモデルの850T-5R、850R(いずれもターボモデル)は即完売するなど、大ヒットをした。日本では850が1990年代のステーションワゴンブームの火付け役となり、スバル・レガシィ日産・ステージアなの日本の自動車メーカーのステーションワゴン大きな影響を与えた。850エステートは1994年度グッドデザイン大賞を受賞している。フルモデルチェンジでS70/V70と改名され、2000年のチェンジでS60、2代目V70にバトンタッチされた。ボルボはヨーロッパのスウェーデンを拠点とした自動車メーカー。そんなボルボのエントリーモデルに位置するのがV40。高い安全性や走行性能、日本の高級車に匹敵する程。後で調べたのですが850までのデザイナーは:ヤン・ヴィルスガード。フィルップから850までのデザインを長年にわたってやっれてた。ことがわかった。

ボルボと言えば、角型のボディがひとつのアイデンティティでした。がしかし、このV40を筆頭に四角くないボルボの卓越したデザインは注目を集めた。中国の資本の会社となって初めてのデザイン。エクステリアチーフデザイナーはサイモン・ラマー氏。ケベック出身のカナダ人。スウェーデンのデザインセンターで1995年から勤務。機能性に感覚的な要素を加味したプレミアムコンパクトカーV40はだから凄い。

スポーツカーを思わせるクーペ調のエクステリアデザインは目を見張る。マツダアクセラが類似。違いは5ドアハッチバックでありながら全高はわずか1440mmしかないこと。この全高の低さの違いが洗練されているのだ。全長はコンパクトですが、低く長いワイドな車体を演出。ボディラインも素晴らしいが、リヤハッチのデザインが個性的です。V60をよりシャープに、ビルトインした形状は以前のボルボから大きく変わったがテールランプのデザインなどは面影を残している。カチカチの中から生まれた美学から生まれた直曲線からの流麗美何がそうさせたのかは各所に着いたセンサーだったのかもしれない。

追従型クルーズコントロールシステムや自動縦列駐車システム。自分の車には付けてないが歩行者用エアバック等。安全と言う括りからビルトインされたデザインがオーナー達の心を動かされる事由なのかもしれない。ハイブリットのないガソリン車とディーゼル車のボルボV40は流麗な形と安全なスピード感を確保しスムースなコンフォータブルでスタイリッシュな乗り物として何処までも活躍し続けるでしょう。

 

                                    コウジロウの独り言

 

一枚の写真からTVR タスカンを探した2017.1.1。自分は新年早々、幸先がいい!

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photo by Kojiro

1974年のヨーロッパのガススタンド(たぶんイギリスで撮った一枚の写真)のクルマ。

カーマガジンやネットで探っていたのだが今年になってようやく解った。

1968年に発売。「TVRグリフィス400」の後継者イギリスのクルマ「TVRタスカン」だった。

鋼管フレームを採用。ボディはFRP製。Mシリーズに似た外観を持ちフォード性のエンジンでV8だった。

自分はつい最近までフェラーリではないかと、

ネットや別册カーグラフィックの自動車アーカイヴを調べたりもしていた。

モデルカー&クルマ好きの友人に聞くと「フェラーリでは絶対ないですよ」とかえってきた。

「ボンネットの開け方が違う。エンブレムの形が違う。ライトとグリルの間隔が違う」等いろいろ言われた。

最近はミッドシップレイアウトが多いフェラーリでも、

フロントエンジンのデイトナをはじめとするクルマはあるが、ボンネットの開け方は違っていた。

こんな話をきっかけに「TVRタスカン」が判明するとは思ってもなかった。

足回りが4輪ダブルウィッシュボーンの他は何もついていないクルマで

ABS、トラクションコントロール、エアバックなどの装備は皆無。LSDだけはなぜか付いていた。

日本ではこのクルマの年式の異なる後期型かもしれませんが、西部警察2003の事故があった。

見学してた観衆に突っ込むというものだった。クセのあるクルマだったからかもしれません。

運転に高い技術が必要とされており、当時20代の自分が運転出来たのなら、

「本当に楽しかったであろう」と思われた。

2代目を1999年に発売。翌2000年11月より日本では発売開始。

1代目は1971年に生産終了されていた。

数はいずれにしても100数十台程度しか生産されておらず、

撮影したこのクルマも希少価値のあるものに違いないはず。

写真のオーナーは勿論、このクルマもこの世には存在してないかもしれません。

自分も撮影した時から40年以上も経過。

記憶を蘇えらせてくれる一枚の写真は、遠い昔の異国の地のことでも心や気持をコンフォートしてくれる。

動画が氾濫してる今日この頃。静止画がこんなにも心を動かしてくれるとは思ってもみませんでした。

この写真が物語っている様に、心の一枚をもう一度取り戻してみたいものです。

そして、世界の何処でも心のゆとりを持ち続けたい。

 

コウジロウの独り言

 

落書きはEF15でも許されない。

f:id:kohyusya:20161127191426j:plainEF15で有る。これは渋谷近くの国鉄の路線を走っていた当時のPhoto。落書きはされているものの何故か精悍である。1973年に当時の国鉄国労動労が順法闘争を争議戦術として経営側に対抗していた。その意思表示がこのEF15の落書きである。発車しない。ダイヤの乱れを起こすなど、乗客達に多大な迷惑をかけた。そして乗客達の暴動まで起こったらしい。この頃学生だった自分は私鉄の利用が多かった為か?(ブルジョアでない私でしたが交通費を減らす為に)マイカーで通学してたからか?我関せずだった。当時の闘争者達からすればおしかりを受けるからかもしれないが、ここで見てもらいたいのはこの落書きである。殆どクロに近い茶褐色ボディのEF15に白い文字。貨物専用機関車だったEF15でも我々乗客のホームの横を通った。この威圧感こそ迷惑なのである。自分たちの愛車を汚すのはともかく威圧感を与える事は許されなかったはず。暴動はこういった威圧感や遅れ、運行停止まで影響は及んだとされている。輸送需要に対応するために設計された貨物用機関車EF15は1947年から1958年までに202両が日立製作所川崎重工業三菱重工業(中日本重工業・新三菱重工業)東京芝浦電気汽車製造日本車輌製造で製造された。旅客用のEF58形とは台車や電気機器など主要部品が共通化されており、共に事実上の標準型として大量に製作されたらしい。そんな由緒ある機関車に落書き。でも自分達の商売道具に書き入れる気持はどんなものだったのでしょうか?先頭車両の文字はデザイン的に素晴らしかったが2両目のそれは見れるものではなかった。タイポグラフィとしての書体は東大闘争などの学生運動の方が上手かった気がします。今やある芸能人の家の門の横にひどい落書きをする人がいたなんて情報を聞くと本当に頭に来ます。自分のものに自分の思想を描くならまだしも同じ迷惑の掛け方だったら、体制にもの申す方がよっぽどましである。T氏の世田谷ベースは男のみんなの憧れの場所である。そこを汚すとはとんでもない事。直ぐに謝罪し美しく清掃でもして公的にも個人的にも制裁を受けてもらいたい。一枚の写真からまだまだ1970年代を語って行きたいが、こんな事件が起きてしまうと写真の見方や出し方まで変わってしまう。残念である。今回は本当にコウジロウの独り言でした。