チタ製22フィートセイルボートクルーザーとシーボニア。

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Photo by Kojiro

2019年も2月がまた過ぎようとしている。まだ寒いですね。来週は暖かくなるそうで、昔ならばそわそわして春スキーに行くか、ヨットの整備にでも行くか?週末が忙しくなる。また、前回のブログと同じような写真が見つかった。ヨットハーバーのシーボニアをバックにそのマンションを臨んでいる。写真はモノクロ。船はチタ製で22フィート、品種名は不明ですが前のオーナーが昔の人には有名な作曲家だったためFon−jrと命名していた。苗字から英語読みした名前ですが。ここはあまり詳しくは言えませんのですが。今はもうシーボニアにも存在していないらしい。操船しているのは自分、つまりブロガーである。顔を出せないため、サングラスをまたかけました。ちょっと不自然ですね。こんなにこの頃操船できるなら自分がエクステリアのペイントデザインをやればよかったとつくづく思います。この着用してるものはディンギーヨット用ブーツ、当時で1万円位で一番高額。シャツはHAWAII-5-O用のセキュリティオフィサーが着ていたハワイで購入したものとサーファーパンツと機能優先のいで立ち。このブーツを履いてるとチョット格が上に見られた。暖かい穏やかな小網代湾を出た相模湾の入り口。仮称ですがチタ22フィートのエクステリアペイントのデザインは以前の会社の自分の上司にあたるチーフデザイナーが依頼されてやった。ただ2本のブラックとレッドのラインが入ってるだけだった。自分だったらこうしたいとアイデアはあったのだが、まだヨットをはじめる前だったので依頼さえこなかった。ヤマハ・ヨット・シカーラは所有していたのですがこのクルーザーのオーナーは当時の会社の社長。決してレースに出るわけでもないブルーウォーター派の自分は会社のヨット部の部長に名前だけが載っていたらしい。だから当時は5月の連休とか夏休みでこちらをオーナーが利用しない時は借りることができた。ヨット部と載っていたらしいというのはなぜか最近知ったのである。シーボニアの陸置きなので一回上げ下げするのに何千円かかっていたみたいです。自分個人では到底無理なもの。シーボニアとは三浦半島最南端のプライベートなリゾート。ヨットマンの聖地、リビエラシーボニアマリーナと正式には云うらしい。謳い文句に「関東圏とは思えないほどの大自然と穏やかな湾。マリンリゾートとして理想的な環境に恵まれた「リビエラシーボニアマリーナ」は、プロ志向のヨットマンをはじめ、海の楽しみを追求する多くの人々に愛されています」と書かれたます。シーボニアヨットクラブは、1968年創立の日本の代表的なヨットクラブの一つで、クラブ 会員数は300名の限定となっているそうだ。この自分をみてください。モノクロだけに分かりづらいのですが色合いは前回のブログを参照してください。メインセイルを汚くまとめてエンジンで出航したところ。ライフジャケットもつけずに出航。違反ですね?この絵ではわからないのですが、ちょっと風の強い日にジブセイルをストームで出かけて行ったこともあり、周囲のヘビーヨットクルーから笑われたこともあった。この日は本当に静かな海だった。ほのぼのとした温暖なサウスウィンドの空気を吸いながら、こんな1日を日本の最高のリゾートで過ごしたこともあったのです。 コウジロウの独り言

ヤマハ製シカーラとWINDSURFER製ウインドサーフィン。

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平成が終わろうとしてる2019年・一月もすぐに終わろうとしている。ここんとこ朝晩寒いですね。そんな時にちょうどいい写真が出てきた。暖かい穏やかな小網代湾でヤマハディンギー・シカーラとWINDSURFER製のウインドサーフィッンを操船してるシーンである。ヨットハーバーのシーボニアを背にウインドサーフィンを操ってる方は、当時務めさせていただいていた会社の社長。現会長。60半ばを超えた自分と同じぐらいの年だったのだろうか?そのくらいだったのかもしれません?1980年の夏の一コマ。自分だったらとても今できるわけがない。ちょうど「釣りバカ日誌」を表してるようなシーン。ディンギーは自分がオーナーとなるのだが、こんなにまともに操船をしてる写真は滅多になかった。ウインドサーフィンのセイルの形は今は3分の一が透明な素材でできているのが多く、それとは透明部部分が少なくちょっと異なる。それを除くとそんなにも変わってないのかも?WINDSURFER1980~1990年、一世を風靡したマリンスポーツ「ウインドサーフィン」。この頃でもセールのデザインはモダンである。バテンの数や形状が異なる。この頃、多くのウインドサーファーが愛用していたのが 「サーファー艇」と呼ばれる道具らしい。WINDSURFERのホームページに書かれてるのですが!「初心者~上級者でも誰もが乗りやすいシンプルなデザインのボードと言われている。風に揺らめき海に 映える色鮮やかなセイル。ウインドサーファーの憧れだったのだそうだ。時が流れ、たくさんのメーカーから新しい道具が生まれ、進化し、楽しみ方によって使う道具も細分化されました。 そして、今、ウインドサーフィンの原点、ウインドサーファー艇が復活したんだそうだ! では、何故いまさらウインドサーファー艇なのか?そんな時代の流れの中でも、「やはりあの頃の道具はよかったね」「今はもう販売してもらえませんか?」そんなお問い合わせを 多くいただいていました。まず1つは、どんな技量の方でも幅広い方が「ウインドサーフィン」を楽しめる道具だということ。風をつかみ、風と一緒に海の上を進む感覚を初心者の人に是非とも習得してもらいたいのです」写真を見てください。ディンギー・シカーラの方はセイルをシバーさせ操船が不安定になってるのにもかかわらず、ウインドサーフィンの方は、見事に優しく風を捉えてる。生簀も少なかったのか、絶好のウインドサーフィンのエリアですね?自分は静かな「シャバ、シャバ」という波の音とバシッ、シーフィーというセイルに流れる風の音が大好きでした。今から数年前の東北の震災以来、静けさを若干取り戻したものの、災害はやなものである。災害の被害はは最小限で止まったものの、この周辺のエリアは水上バイクジェットスキーでとてもうるさくなっていた。あの頃の静かな海はもう帰ってこないのか?地震のない日本が証明され、身体が許してくれればマリンスポーツに戻ってみたいものである。

コウジロウの独り言

地域の観光資源に着目した『界KAI 加賀 星野リゾート』。

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我々・家族3人は兼六園・21世紀美術館・西茶屋を後にすると『界KAI 加賀 星野リゾート』石川県にある加賀伝統の温泉宿に向かった。石川県加賀市山代温泉野中に「星野リゾート 界 加賀」がある。最近ではこの星野リゾート系の宿泊施設を利用せていただいている。福島に軽井沢そして熱海と!「星野リゾート リゾナーレ熱海」は部屋がやたら広くモダンな印象で、熱海の景色が一望でき、この加賀とは180度違うタイプだった印象がある。そして福島 「磐梯山温泉ホテル」この印象もまるで違うタイプのホテルだった。熱海と福島の「星野リゾート」は朝夕食ともにバイキング形式で熱海より福島の方が美味しかった印象がある。熱海と福島と今回の宿泊宿の系列が同じとはまるで思いもつかなかった。一番食事が良かったのは当然今回の「星野リゾート 界 加賀」であるのだが、「界」がつくかつかないかでこんなにもスタイルが違うとは思わなかったのである。 星野社長の経営手腕はどこに着目して運営しているのか興味が湧いてきた。調べてみると以下の通りの答えが書かれていた。星野リゾート=旅館を所有せず運営に特化した「やめる」決断の強みを星野佳路氏はもっていた。日経=ビジネスパーソン必読の「最新コンテンツ」から、星野リゾートの概況が見えてくる。『1914年に開業した星野温泉は、開業当時「明星館」という名で、この名称は歌人与謝野鉄幹、晶子夫妻が名付け親と言われています。大正から昭和にかけて軽井沢は多くの文化人、著名人が利用する避暑地として栄え、「星野温泉」も与謝野夫妻の他、北原白秋島崎藤村などが逗留していたと伝わっています。日本の古き良き時代、温泉旅館が国内旅行の主流だった時代は過ぎ、バブル崩壊と共に旅館業が斜陽を迎えた1991年4代目当主として星野佳路氏が社長に就任します。この当時、軽井沢だけで観光業を営んでいた中小企業に過ぎなかった「星野温泉」はその後、1995年「株式会社星野リゾート」に改名、温泉旅館を所有し運営するオーナー制からの脱却を図り、リゾート施設の運営管理に特化したマネジメントを打ち出します。2005年にはゴールドマン・サックスと提携し資産管理部門を分社化。そこからREITと呼ばれる不動産信託事業を介して、更なる資本提供、出資者を募ることでビジネスモデルの拍車化に成功します。現在は、国内の再生事業の他、日本初のラグジュアリーホテル「星のや」、地域の観光資源に着目した「界」、日本の和を世界に発信する都市型ホテル「OMO」などの運営を行い、グローバルに発展し続けています。星野リゾートを、軽井沢の温泉旅館から日本を代表するリゾート運営会社に成長させた星野佳路代表(56)。リゾート業界のカリスマ、風雲児などと呼ばれ、斬新な発想や経営手腕は、海外からも注目を浴びる』と描かれている。その『加賀 星野リゾート「界」』に訪れたのである。

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前述にもあるように、「金沢兼六園」そして「21世紀美術館」を拝観して『加賀 星野リゾート「界」』に向かった我々は金沢県の県境近く夕方ようやく『加賀 星野リゾート「界」』に着いた。正式名称はなんだろうとホームページをめくると『界KAI 加賀 星野リゾート』となっている。ここは地域の観光資源に着目した「界」であることは確かである。長々と書いてきたがここで献立メニュウと夕・朝食の献立をご紹介しておきましょう。

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2019.1.11 東京オートサロンに行ってきました。

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東京オートサロンは、1983年にチューニングカーマガジン「OPTION」誌初代編集長が、カスタムカー文化を世に広めるべく「東京エキサイティングカーショー」としてスタートしたそうです。モーターショーと比較するとはるかにその歴史は新しい。2005年のモーターショーの文面にこのように書かれてました。「1954の第1回全日本自動車ショーから50年という節目の年に開催された第39回東京モーターショーは10月21日(金)から17日間、千葉市幕張メッセで開催され、会期中の総入場者数は151万2,100人となった」と2005年で50年なんで2年に一回なのでその間20数回実行された計算になる。2017年が第45回東京モーターショー」だった。江東区有明東京ビッグサイトにおいて10月27日(金)から11月5日(日)までの10日間の会期で開催。11月5日(日)午後6時に閉幕致しました。なんと10日間もやっていたのだ。第46回東京モーターショー2019は2019年 10月24日(木)から11月4日(月・祝)まで、東京ビッグサイト江東区有明)を中心に開催することを発表している。開催期間がなんと2週間以上もある。自動車工業会の豊田会長の考える事なので何か期待できる。東京オートサロンは毎年行われるのでその歴史はすぐにモーターショーを追い抜くと思っていたのですが今年で37回目となっている。算数のわかる人だったら計算して行くといつかは抜く計算になる。オートサロンは1987年の第5回からは「東京オートサロン」に名称を変更し、会場も晴海から有明、そして幕張メッセと開催場所を変え、年々規模を拡大して行ったのだった。丁度モーターショーの逆になっているのも面白い。最近での開催では自動車メーカーも出展し、オートサロンに合わせて新車発表を行なったり、各種パーツの展示販売や、レーシングマシンのデモランや豪華アーティストが出演するライブステージを開催するなど、コアな自動車ファンだけでなく、自動車を利用する家族連れでも十分に楽しめるビッグイベントにまで変化発展しているようだ。

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第37回目となる「東京オートサロン2019」では、前回に引き続き1~11ホールを加えイベントホールも使用して、東京オートサロン史上でも最大規模の世界最大級のカスタムカーイベントとして開催。とある。ただ自分の感想なのだが、あまり進展してないように感じた。オプショナルパーツの扱っている中堅の製造会社は多く出店されてるようなのだが、零細企業で細かくインタレストをそそるメーカーは少なくなってきてる気がした。なぜと言われてみるとランボルギーニ・アベンタドールやフェラーリの新型「Capital Markets Day」に登場していた商品ラインナップが来ていなかった事だ。最新のフェラーリは大きく4種類に分類する。『488』シリーズや『812スーパーファスト』が属するのが「スポーツカーレンジ」・『ポルトフィーノ』や『GTC4ルッソ』が属するのが「グラントゥーリズモレンジ」・『488ピスタ』などの特別モデルが属するのが「スペシャルシリーズ」:少量限定モデルが属するのが「ICONA」となるとされる。それらの一部でも 見れていたなら何か新鮮味でもあったのだろうが、そういったものが見られなかった。当然、スポーツカーレンジのF1の技術を応用したハイブリッドテクノロジーを導入する予定の車両や、2021年までに、全車種ハイブリッド化を目指す車両のモデル。とか見たかったのである。ほとんど外車ショーを期待してるのかもしれませんが。グラントゥーリズモレンジには、プラグインハイブリッド(PHV)パワートレイン車を設定する計画だ思想なのだが、こういったものはモーターショーや輸入車ショーになるのかもしれませんがね。なお、このグラントゥーリズモレンジには、フェラーリ初のSUVも含まれると見られるらしい。そんなこんなでクルマはの祭典があるというのは本当にウキウキさせてくれるものだ。当然ニッサントヨタ、ホンダ、マツダとそしてスバルとスズキ。優秀な日本のメーカーのスポーツ、ラリーカーなどの出展もあり賑やかせていた。残念だったのはトヨタスープラの次期モデルが発表されてなかったこと。(後日、スーパーGT等で出品されていたことがわかったのだが、我々の手の届くか買うになるということまで言われてたのがきになるのだが?)海外の自動車ショーでトヨタ社長が発表されてたようで、BMWとコラボレーションしているらしいのだが、はやくみたかったですね。だからこそ本年に開催されるモーターショーが待ちどうしいのす。          コウジロウの独り言    

A HAPPY NEW YEAR.WAKE UP YOUR EYES. MASERATI GHIBLI.

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あけましてとばかりリトラクタブル・ヘッドライトの4ツ目を開いているのはマセラテイ・ギブリ。デザインはジョルジェット・ジウジアローによるスーパーカー。当然カロッツェリア・ギア時代の作品。1966年に発表された。スタイリングは、鋼管フレームにスチールボディを被せた当時の高級スポーツカーに共通して見られる地を這うような背の低いプロポーションだった。写真は金町の当時のオーナーの方の庭での一コマ。当然ロングノーズ、ショートデッキ、ファストバックスタイル(リアハッチはリアガラス下のパネルが開くのみ)で、マセラティとしては初のリトラクタブル・ヘッドライトを採用していた。後、何台かはこのスタイルをとっていたのだが、性能と当時のスーパーカーがそうであったようにミッドシップになっていった。時のライバル車、フェラーリデイトナだけがフロントエンジンのロングノーズとバランスはこのクルマと近かった。当時人気のあったランボルギーニミウラと比較して直線的、平面的に見えるが、エッジと曲面とが使い分けられているのがとっても美しかった。当時のジウジアローデザインはウェッジシェイプ志向がよく現れていたとされており、このギブリはジウジアローの代表作ともなっている。乗車定員は2名であり、とあるのだが本当のエマージェンシー用だと思うのですが横向きにプラスチックファイバーの椅子が後ろにあり、写真のクルマはちょっとそこまでであれば、首を曲げなけばならないが3名乗車が可能であった。インテリアにはレザーが多用されていた。車高の低さから見ると車内が狭く感じられるのですが、最低地上高が低いからなのか、ヘッドクリアランスは今のボルボV40よりも広かった気がします。 f:id:kohyusya:20190109134033j:plain

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トランスミッションは5速MT、オプションで3速ATが選べた。と書かれていたのだが、このクルマは3速AT。当時マニュアル派だった自分が左ハンドルの外車を運転できたのはこのノークラだったからなのである。幅2メートル近くあったと思うのだがボディサイズは全長4,690mm×全幅1,800mm×全高1,160mmと今のボルボV40と長さのみでそんなに変わらない。ちなみにボルボV40は全長4,370mm×全幅1,800mm×全高1,440mmとなっており、ボルボV40も低いと思っていたのだが、このギブリが30cmもボルボV40より低いのには驚いた。写真のケン・メリGT-X・2ドアクーペと比較するとよくお解りかもしれません。コクピットはお借りした写真ですが、各メーターが小さいせいか室内が広く見えるのはお解りできるでしょ。出力330PSの4.7L V型8気筒エンジンを前方に積むFRレイアウトで、0-60mph加速は6.8秒、最高速度は265km/hであった。当時は世界最速、人気ともにフェラーリデイトナランボルギーニミウラP400と争った、リッターあたり4kmぐらいしか走らな買った記憶があり、当時のアメ車と同じ位だった。マセラティのヒット作である。総計1,274台が生産された。とあるのだがそのうちノークラがなん台だったのだろう?1200分の1の確率の車に乗って前に述べたように江ノ島に行けたのは夢だったのでしょうか?年をとってからの初夢としたいものだ?

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1990年代のニッサン・サンタナとサンルーフの我が子の思い出!

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写真のサンタナは、ドイツのフォルクスワーゲンが生産する乗用車だった。自分が乗っていたボルボ850かベンツW124の代車として以前住んでいたマンションの駐車場に置かれていた。以前には自分は200台以上のクルマのハンドルを握ったことがあり、それでも代車で外車が来るととても楽しくてしょうがなかった。当時はスーパーカーでも数台しかないのですがコクピットに座るとすぐ運転ができる得意技を持っていた。度胸だけがあるのだ。左ハンドルの右マニュアルシフトの時だけ手こずるのだが、ほとんど平気でしたね。サンルーフから頭をだしていた我が子とともにクルマが被写体になっている。我が子も5〜6歳の頃だと思われます。このサンタナは1980年から1988年まで生産されていたフォルクスワーゲンの乗用車・パサートの姉妹車であり、同モデルのセダンに冠された名称である。「サンタナ」の名称はアメリカ南西部やメキシコで秋に強く吹く季節風サンタナの風」に由来。南アメリカや日本、中国市場において用いられたこの名前を使用したとある。パサートからの派生車種は様々な名称で販売されたのだそうだ。中国では現在まで製造・販売される「国民車」的存在となっており、ブラジルでも2006年まで製造・販売されていたのだそうだ。1980年に移行したパサートの第2世代ではワゴンとハッチバックだけとなった。その際に、セダン型の後継モデルとして新たに独立したモデルがこの「サンタナ」だったのだ。第2世代のパサートサンタナとは姉妹車の関係であり、いずれもアウディ・80(第2世代)とプラットフォームを共用していたのだった。縦置きエンジンを採用し、駆動方式は前輪駆動のみの中型4ドアセダンであった。日本では1984年から、日産自動車によって神奈川県座間市にあった日産自動車座間工場でノックダウン生産・販売されたのだった。1980年、当時積極的な国外展開戦略をとっていた日産自動車の社長石原俊氏は、フォルクスワーゲンとの全面提携を望んでいたそうで、その足掛かりとしてサンタナの製造・販売を提案したのだそうだ。翌1981年、証券会社の仲介によって同車のノックダウン生産に関する提携は成立したが、フォルクスワーゲンはそれ以上の業務提携拡大には関心を示さなかった。その後、日本におけるサンタナの販売は、当初合意された月産4,000-5,000台の計画に対して、生産を終了した1991年までの7年間の合計でも約5万台という不調に終わってしまい、両社の関係も後退してしまったのだそうだ。1990年に発売されたパサート(第3世代)は、当初日産によって取扱販売されたのだが、1991年、フォルクスワーゲンは、日本での販売に関してはトヨタ自動車と提携し日産との提携は解消されたのだそうだ。何かワーゲンもフラフラする拙僧ない企業のようにしか見えない。1990年 - 日産でのライセンス生産を終了。その後継車として3代目パサートを輸入し、サニー店系列とプリンス店系列で取り扱っていたが、1992年にはトヨタ系のDUOでのフォルクスワーゲンの販売が開始され、日産ディーラーでの販売は中止となった。思い出せば色々なディーラーが本八幡周辺にはできていた記憶がある。見た目3ナンバーのこのサンタナが5ナンバーだったとは忘れていた事実でもある。                    コウジロウの独り言

Modulo style Honda SENSINGとは程遠いフィット13Gだが以外と走りは良かった。

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金沢と福井を観光するために。駅レンタカーを借りた。今まで自分はちょっとした旅行でも旅行代理店に依頼してパックとオプショナルツアーの組み合わせなどで自分流でアレンジしてくことが多かったのですが、今回は「JRのびゅうパック」で申し込みをし、ホテルと新幹線代とレンタカー代のセットの見積もりをJRの窓口で見積もってもらい実行した。そのレンタカーで来たクルマがこの「フィット」だった。細かいキズはあるものの外観は2013年製そのものだった。動力性能を挙げてみると次の通りになる 新車当時時価格(税込み)130.1万円 型式・駆動方式FF・DBA-GK3’・ボディタイプ=ハッチバック・ハンドル位置=右ハンドル・FF・5人乗・燃費26.00とカタログ記載・総排気量1317・サイズ=3955×1695×1525・トランスミッションCVTJC・08モード燃費24.6km/L燃費は両方書かれてるが、実際には測っていない。そうとう走ったと思う。ヨーロッパは3回行っているんですが、3回ともハスで回っていた。当然飛行機とバスになるのであるが、家族では一回だけイタリアにバスで回った。JALバスでそのソファとか乗りご心地はよかつたのですが、それにくらべると乗り心地は良かったとは言えませんね。特に自分は運転もせず、助手席どころか運転も一回もせず、後ろの席でふんずり返っていたからであるのだが。最近仕事では乗ってないせいか、毎日仕事で運転をしている息子に任せていた。なぜ後席のリクライニングがないのか?自分の乗っている廉価版のボルボV40-T4もないのですが、アルファード等ラグジャリーなワンボックスワゴンや会社の何種かは付いていた。一番必要なのがこのコンパクトシリーズではないでしょうか?どうせ後ろはトランクスペース。シートそのものは動かせなくても背もたれだけでも動かせたらいいのに!と思う。ただこのサイズ感は最高である。この高級グレードは最高なのではないのか?MODULOスタイルは?ただ230万円と思うとこの車より100万も高いの?ちょっと考えてしまいますよね?それにまた150万円足せばボルボが買えてしまうのですから!考えてしまいますね?                コウジロウの独り言