金沢甘味どころ「かわむら茶房」

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2018年10月25日(木曜日)午後には金沢の「甘納豆かわむら」にいた。「甘納豆かわむら」は花街の「にし茶屋街」にあった。当初はエリアの周囲に塀が張り巡らされ、一般社会と遮断された「廓(くるわ)」が形成されてたそうだ。「かわむら」に行きたかった訳ではなく、昼終わって兼六園の後にデザートでもという感覚でクルマで向かった。「ひがし茶屋」でも良かったのであるのだが、『星野リゾート 「界 加賀」』に向かうにはには「にし茶屋街」が都合が良かった。かつては、「ひがし茶屋街」も同じ年に公許され、金沢城からの方角によって「東の廓」「西の廓」と呼ばれていたそうだ。「にし茶屋街」は、「ひがし茶屋街」と比べると規模は小さいらしいのですが、通りの両側には木造の茶屋建築が並び往時の賑わいを偲ばせているのだそうです。来てみてその思惑以上な場所であった。最初は「妻が行きたい」と言っても聞き入れなかった自分…息子のUターンで決まった。思っていた以上に素晴らしい一角であった。ただし、1820年の公許以来、金沢で最高の格式を誇ってきた茶屋街は「ひがし」だったそうです。どこもそうですが旅行で行くと必ず「あそこも見ておけば良かった」となることたくさんありますね。そのことから「にし」には「ひがし」に対抗するかのように、尖がった試みをするという気質が育まれてきたそうです。「ひがし茶屋街」への対抗心という視点で街並みを眺めていると、「にしの街並み」の方にはキラリと光る斬新さが見られるそうです。何か自分ゆがんだの気持ちみたいですね?

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その中でも「ひがし」への対抗心が垣間見える建物が、1922年(大正11年)に竣工した「西検番事務所」です。現在は、「にし茶屋街」のお茶屋に在籍する芸妓さんの稽古場となっている建物ですが、「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街の事務所」が和風のデザインなのに対して、「にし茶屋街の事務所」には洋風のデザインが施されています。この「かわむら」は2001年に此処、「西茶屋街」で開業し現在に至ってるそうです。当初は芸妓さんから常連様へ「茶屋街のおもたせ」として始まり、そして茶屋の常連様から愛される方への金沢の贈り物として御利用して頂き今日があるとのこと。茶屋街にこれからも存在し、「かわむら」が独自に考え出した製法で、金沢にしかない甘納豆店として洗練させていかなければと思っておるそうです。この「かわむら」の精神が素晴らしいじゃあないでしょうか?今日まで振り返ってみると、菓子を只一つの商品として作るのではなく、『心を創り御縁を頂いた方へお届けするという事、それが「甘納豆かわむら」の存在価値だと感じております』とのこと。「甘納豆かわむら」は甘納豆の専門店です。店舗は、金沢市野町の「にし茶屋街」にある本店のみとなってるそうです。とてもなく美味しかった、いただいた甘味スィーツ名前を覚えていなかったのが残念でならないです。しゃしんだけでガマンしてください。   コウジロウの独り言    

ブラタモリ[総合]2018年12月8日(土) 午後7:30~午後8:15(45分)で東尋坊・恐竜博物館を放映されました。

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今回の番組内容は福井県。大迫力の断崖絶壁・東尋坊と日本有数の恐竜化石の産地をブラタモリ。二大名物はなぜ生まれた?そこに情緒豊かな港町・三国の存在も?タモリさんが福井の魅力に迫るとのこと。遠いと思って行けなかった東尋坊も放映しました。高さ25m、東尋坊の断崖絶壁へ!目もくらむ眺めにタモリさんが絶句!極太の岩の束、気になるその正体は?堆積と風化の繰り返しから創造された。これはよくわからなかったのだが。

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東尋坊のすごさは意外なところにも。重要文化財突堤に隠された秘密とは?精巧すぎるタンスや、ゴージャスすぎる銀行も登場!するそうな。私たちが先日旅行した金沢からすぐの福井県の「恐竜王国」勝山市、化石がザクザク採れるそのわけは、1億2千万年前の地球!?ダイナミックすぎる理由とは?タモリさんも発掘に挑戦、世紀の大発見なるか!?当然我々は手の汚れることはしませんでしたけど!

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福井名物を生み出した大地の営みに大感動!とある。先日のブログでも紹介してた通り、恐竜博物館が面白かった訳が放映されそうである。予告で見てただけなのでなんとも言えないのですが、実際の発掘の場所の紹介や今まで発見された化石の量もおしえてくれた。自分たちはそこまで余裕はなかったのですが、それをしないでも面白いとこだとわかるはずです。

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まあ東尋坊に行かなかった後悔は必至ですが。出演者ほか【出演】タモリ,林田理沙,【語り】草彅剛。この林田理沙アナウンサーが異色。私立湘南白百合学園高校から東京芸術大学音楽学部楽理科を卒業と言われている。キョトンとして動じていない様はなんとも不思議チャンを感じる。だからこの静寂な教養番組が務まるのかもしれませんね!まぁ、それはそれとして、今回のブラタモリは必見ですゾ!    

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コウジロウの独り言    

ボルボXC40に遭遇してきた。

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こんなフレーズから始まる。「都市を駆け巡る本物のSUVとして生まれたXC40。正統派のSUVらしく、力強さにあふれた佇まい。その一方で大胆な造形のフロントグリルからテールライトにいたるまで、外観の造形はボルボそのものです。スカンジナビアの独創性と都会的な雰囲気を身にまとった、都市で生活するあなたのために作られた一台です」何がボルボそのものなんでしょうか?今までのデザインから逸脱したそのフォルム。「好きではない」と言い切った自分がそこにいた。正規代理店・「ボルボカーズ市川」にV40の定期点検に来た自分を待ち構えていたのはそう、この「XC40」だったのです。試乗させて車はT4 AWD Inscription 水冷4気筒DOHC16バルブ インタークーラーターボチャージャー(ガソリン)1,998cc8速AT。XC60や90のようにインテリアのハンドルがコンビネーションカラーをしていないので、そんなに目新しさは感じなかった初見。見事に自分の感覚を崩されていたのである。周りの道路が混んでいたのと自分にそんなに時間がなかったので、敷地内を動かすだけにした。なんだこのシフトは?ノブが短いのは解っていたのだが本当にスムースなスイッチに化してたのだ。音も立てず人差し指と親指だけでコントロールできる。この時はAWDつまり4輪駆動とは思わなかった。後日確かめてわかったのである。ただ自分の4駆の感覚は32のGT-R以来ないかもしれないですが、トヨタランクルプラドの記憶と比べても、2輪駆動にしか感じない軽さだった。「パイロット・アシスト」もついており、「アダプティブクルーズコントロール付きのパイロット・アシスト」では、車線を維持するためにステアリングを穏やかに自動修正するステアリング・アシストが働き、わずかなステアリング操作で車線の中央を保持できるよう支援するとの事。行動に出るとわかるのだろうがこの日は体感できなかった。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」で都市部の運転をよりリラックスしたものにしたようである。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」は、自動的に設定速度や前方車両との距離を維持。また、ステアリングアシストを行い車線内を走行するように維持してくれるそうだ。これはV40にも近いものがありその発展系なのだと思われるのですが。ボルボXC40は、「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」で都市部の運転をよりリラックスしたものに。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」は、自動的に設定速度や前方車両との距離を維持。また、ステアリングアシストを行い車線内を走行するように維持します。上空からの視点についてもニッサンには負けてなかった。360°ビューカメラは、複数のカメラからの画像を使用し、上からみたクルマの様子を作成するのだそうだ。クルマの周囲の障害物に対して自分のクルマがどこにあるのか一目でわかる。敷地内を走っただけでこれは体感できた。とにかく凄い。あとクルマのデザインに着いてもグッドデザイン賞を獲得するなどクリエイターにはすこぶる評判が良い。ヨーロッパ・カー・オブ・ジ・イヤーをも獲得するなどとんでもないクルマのようである。すこしハンドルが小さい気がしたがハンドリングも最高でした。市内の駐車場の問題やそれこそコストパフォーマンスを考えて今度やってくるハイブリッドが出てくるときには考えなくてはならないクルマには間違いない。最後に残念だったのは「おぎやはぎの愛車遍歴」でもXC60と90が紹介されていたのだが、室内の音響システムが最高なサウンドを奏でてくれるとのこと。オギヤハギが双方共にXC90と60の所有者だから若干贔屓目かもしれませんが。このXC40も一番安い車種はスピーカーの数が少ないのですが、他のスピーカーは8つもついてるそうな?当たり前って言えば当たり前なのかもしれませんが、コンサートフォールの中にいるみたいなんて聞こえてくると、自分のものにしてしまいたくなる一台になることまちがいない。なんとこのInscriptionにはプレミアムサウンドオーディオシステムとして13スピーカーとなっていたのにはいささか驚いた。         コウジロウの独り言

永平寺は、木々で囲まれたとても美しい寺院だった。

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Photo by Kojiro                                永平寺とは、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山道元が開山とある。前述のブログのように文面は続くのだが、永平寺に着いたのは10月26日の午後。ややひんやりとした空気感が漂う。でも決して寒くはなかった。出家参禅の道場として名高く、敷地には山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司など修行の中心となる七堂伽藍の他にも、大小70余りの殿堂楼閣があると言われてます。曹洞宗大本山として知られる永平寺は、寛元2(1244)年、道元禅師によって創建された出家参禅の道場。今も多くの修行僧が修行を行い、独特の雰囲気が漂う。紅葉の美しさも名高く、木々が色づく見ごろには紅葉目当ての観光客が大勢訪れる。特に境内の入口付近や最奥の法堂周辺が紅葉の見どころだそうだ。我々家族がついた午後。空は曇天。爽やかな空気が漂う北陸の地で木々の深さを感じていた。自然だけではない人工の林。建物との関係は美しいという言葉以外出てこなかった。

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まだ紅葉には早い時期のようである。それでも各所の所々染まりかけている木々もあった。樹齢何百年の木々の中からフィトンチットの風が吹いていたのだが、急勾配の階段や床が滑るのでやや疲れ気味になってきた自分。室内履きをあらかじめ用意していればよかったのかもしれませんが、樹齢700年の木がどれかは、帰ってきてからわかった次第である。とにもかくにもこの木々たちが自分の空気となって疲れを飛ばしてくれていた。今回のこのブログは画像で木々を見てもらうことにする。建物がとても素晴らしく、あの東照宮のように色とりどりに塗られていない。この風景がまさしく永平寺だと思う。当時は華飾な建築までかもしれませんが、今が一番いい感じである。    

コウジロウの独り言    

永平寺は、福井県の曹洞宗の寺院。

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永平寺とは、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山です。道元が開山とある。永平寺に着いたのは10月26日の午後。ややひんやりとした感が漂う。でも決して寒くはなかった。出家参禅の道場として名高く、敷地には山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司など修行の中心となる七堂伽藍の他にも、大小70余りの殿堂楼閣があると言われてます。室町時代天皇から「曹洞宗第1道場」の勅額を贈られたことから、その歴史は始まったとなってます。樹齢600年といわれる老杉など深い森に囲まれ、現在でも200名前後の雲水たちが、厳しい禅の修行を営んでいます。その木々達の写真は次回乞うご期待。樹齢600年の木々がどれとどれなのかは定かではありませんが、とにかくその木々に圧倒されました。管理をどうなさっているのだろう。この風景を見るだけでも来た価値はあったと思います。静かに建たずむこの空気感はなんといっていいのかわかりません。自分が高校時代に描いた油絵に出てくる木々にそっくりでした。歴史的には結構厳しい立場に置かれていた永平寺道元没後は、道元を福井へ招き入れた外護者の波多野氏の援助も弱まり、一時は廃寺寸前まで衰えたものの、5世義雲が復興させたのだそうです。1749年に再建された三門は、修行の際の入門口にあたり、四天王像が安置されています。とにもかくにも色々な方々がその関係性を作ってきたのでしょう。幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元はとても丈夫だったに違いない。

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道元はそして天童山景徳寺の如浄に入門し、修行にはげんだとある。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国したのだそうだ。日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。このパワーもどうやっても膣続けていたのか不思議なのである。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。それでもこんなに深い山に建てたのだから凄い。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」とある。長い歴史の産物「永平寺」は決して安易な発想で建てられた寺院ではないことは確かである。かつて入り口近くに大工村と言われる大工が常に常駐する村があった。火事で焼失した建造物や増築する際に70人くらいおり、すぐに建築できるようにシステム的に対処していたようである。だから素晴らしい建築ができているようである。人数確保は勿論、そのレベルの高い大工さんだったに違いないと確信している。帰る際に言われた「瓦の修理にご寄付を!一口千円です」とよっぽど参加しようと思ったのですが、靴を履くのに手こずりその場を去ってきた。ここを後に金沢駅に向かった。 (ウィキペデイアを参考に書かせていただきました)                    コウジロウの独り言    

金沢から福井へ、恐竜博物館は面白かった。

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ご覧のように本当に恐竜の博物館。動くのがあると聞いていてあの人間が操作するのが何体かいるアトラクションがあるのかと思っていたら、まるでそんなのはなく、本当に化石発掘から入る真面目な博物館だった。遠くからドーム状の輝く建物が見えたらそれがそうだった。近代的なモダンな建物である。黒川紀章建築都市設計事務所が手がけているからなのか、この周辺にはない建物だから、すぐに目を引いた。2007年に黒川紀章が亡くなっているから、実際に本人が取り組んでいるかは不明ですが?とにかく目を引いた。1982年に勝山市北谷の杉山川流域で、中生代白亜紀前期のワニ類の全身骨格化石が発見された事が発端となり、1988年に同地で福井県立博物館職員による予備調査が実施。小型肉食恐竜の歯化石が発見された。と最初に書かれていました。博物館施設として最初に福井県立博物館が、自然、歴史、民俗、産業に関する展示などを行う総合博物館として誕生、1984年に福井市に開館した。その後、2000年に自然科学分野に関する展示が勝山市に新規開館した福井県立恐竜博物館へと移管されたそうだ。2013年7月に設立されたアジア恐竜協会の事務局が博物館内に置かれている。恐竜に関する資料を中心とした地球史を学習できる国内最大級の博物館です。銀色に光るドームの内部にある展示室は、「恐竜の世界」「地球の科学」「生命の歴史」の3ゾーンで構成されており、エスカレータで降りるとそこの世界を期待させた。

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写真のレインボーサウルス」は、高さは16メートル、イタリア人のアレッサンドロ・メンディーニ氏のデザインで、2000年7月の恐竜エキスポふくい2000開催時にシンボルモニュメントとして制作されたものだそうです。昨年10月からリニューアル工事を行いようやく完了したものだそうです。恐竜全身骨格をはじめ、大型復元ジオラマや映像など子供から大人まで楽しんで見ることができる。恐竜たちも冬眠に入りますので、今年は11/18で、終了します。とのこと、ちょっと早い気がしますがちょっと遠過ぎるかもしれませんね。永平寺に行く途中にあるから立ち寄っただけであまり期待はしてなかったのが正直なところ。永平寺福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。そして博物館に程近い勝山市北谷町の手取層群北谷層からは、恐竜のほか、ワニ、カメ、魚類、淡水生貝類、陸生植物などの化石が産出している。この化石発掘現場は、2014年7月から野外恐竜博物館の一部として、見学することができるのだそうだ。2009年10月に、勝山市全域が恐竜渓谷ふくい勝山ジオパークとして日本ジオパークに認定され。2017年2月には、勝山で発見された5種の新種の恐竜の化石標本とその発掘現場が「学術上重要な標本とその産地として貴重である」と認められ、「勝山恐竜化石群及び産地」として国の天然記念物(地質・鉱物)に指定されたのだそうだ。44体の恐竜の全身骨格が展示されており、この中には、福井県で発掘された5種のうち復元されたフクイサウルス、フクイラプトル、フクイベナートルの全身骨格もあるのである。このうちカマラサウルスやアロサウルスなど10体は実物の骨の化石を用いて組み上げられている。展示物の『複製』の記載の有無で判別できるほか、博物館配布の利用案内などには実物の説明がある。特にカマラサウルスは、アメリカで発掘された骨を当館でクリーニング作業を行い組み立てたもの。ティラノサウルスの巨大な骨格を間近に観察できる「ダイノラボ」もある。そもそも期待をしてないで行かせてもらったこの博物館は結構面白かった。写真でちょっと覗いて見てください。  コウジロウの独り言

北陸新幹線デザイナーは日本人のフェラーリのデザイナーだった。

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前回でも金沢に旅をしてたことを述べていた。今回の話題はトランスポートしてくれた新幹線のこと。たまにはJR車両ののことも書いてみようと思う。当然のごとくエクステリアのお話しになるのですが。なんと北陸新幹線のデザインはフェラーリをデザインしたケン・オクヤマ氏だった。以前からスーパーこまち秋田新幹線のエクステリアの監修をしていたり、北陸新幹線のデザインも手がけているとも言われていた。よく見ると何かフェラーリを連想させるのだから面白い。ちょっと加工して見てみると、本当にクルマに見えてくる。特に北陸新幹線フェラーリそのものですね?自分は新幹線の中では500系が好きだった。本系列のデザインはドイツのインダストリアルデザイナーアレクサンダー・ノイマイスターによって行われ、それまでの車両と比べると高速性を感じさせるデザインとなっていたのである。それに比べるとちょっと大人しいのだが、北陸新幹線はノーマルに美しいのである。そのデザイナーが日本人であるのはちょっと嬉しい限りである。その名が「ケン・オクヤマ氏」。クルマ中心に今まで手がけられた仕事を並べてみると面白い。 f:id:kohyusya:20181107184829j:plain

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代表作は自動車=・フェラーリ・エンツォフェラーリフェラーリ・599GTBフィオラノ(ディレクターとして)・フェラーリ・456M GT・フェラーリ・カリフォルニア・フェラーリ・ロッサ(The Best Concept Car of The Year award in 2000)・P4/5ピニンファリーナ(ディレクターとして)・マセラティクアトロポルテマセラティ・バードケージ 75th(ディレクターとして)・シボレー・カマロ(4代目)ゼネラルモーターズのチーフデザイナー、ポルシェのシニアデザイナーを務めた後に、1995年にイタリアのデザイン会社ピニンファリーナにデザイナーとして入社を果たし。1998年に日本人初の同社チーフデザイナーに就任。フェラーリ・エンツォフェラーリマセラティクアトロポルテなどのカーデザインを担当したのだそうだ。特にエンツォフェラーリのデザインに関しては「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」として話題となった。2004年に同社のデザインディレクターに就任した後、「やりたいことを全てやったから」との理由で2006年にピニンファリーナを退社したのだそうだ。 f:id:kohyusya:20181107185007j:plain

カーデザインのほか、鉄道車両、航空機、農業機械、船舶等のデザインも手掛ける。現在はKEN OKUYAMA DESIGNのCEOを務め、山形に工場と店舗、東京の青山に店舗、ロスアンゼルスに事務所を構え、自動車、鉄道車両、農業機械、家具、ロボット、化粧品、眼鏡、腕時計、テーマパークのデザインも手掛けているそうだ。2008年から川崎重工業のデザインチームと組み、新幹線や地下鉄、海外向けLRTのデザイン監修を行っているとのこと]。山形県山形市出身。イタリアピニンファリーナ社デザインディレクター(Creative Director)を経て2006年9月に独立。現在、KEN OKUYAMA DESIGNのCEO。アメリカ合衆国アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン学部長・同校客員教授中華人民共和国中国中央美術学院客員教授多摩美術大学客員教授山形大学工学部客員教授金沢美術工芸大学客員教授名古屋芸術大学特別客員教授(2007・2009年度)、東北芸術工科大学大学院客員教授、イタリアピニンファリーナ社顧問、山形カロッツェリア研究会代表、グッドデザイン賞選考副委員長、ニュートンデザイン代表。2013年4月1日よりヤンマーホールディングス社外取締役に就任していた。(彼のウィキペディア・ホームページより抜粋)現在全てに関連してるとは言えないそうだが、すごい経歴の持ち主には変わりない。エディトリアル・デザインでチマチマやってる自分からすると羨ましい限りである。北陸新幹線に乗って残念だったのは、エコノミーだったからかインテリアが少しお粗末。シートの後ろについているテーブルなどは前の人が動くと振動をまともに受けるし、せめて飛行機のビジンネスクラスのレベルがほしかった。グランクラスに乗れる費用は出せないので残念でしたが。そして山手線。インテリアのカラーリングが素晴らしい。デジタル・サイネージが多く使われていて面白かった。特にエクステリアは未だに子供達に人気のプラレールにすぐ使えるフロントマスクだったり、新しさをも感じられた。兎にもかくにも素晴らしいデザイン・ディレクターが日本にいたもんですね。   コウジロウの独り言