その風は近くでもあり、モウ遠い記憶になってしまった!

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Photo by Kojiro

何年か前に山登りというか、ハイキングレベルのトレッキングつまり山の尾根や麓を歩くことをしてました。トレッキング(英語:trekking)とは、山歩きのこと。登頂を目指すことを主な目的としている登山に対し、トレッキングは特に山頂にはこだわらず、山の中を歩くことを目的としている言葉とある。ただし、結果的に行動の過程で、当然、山頂を通過することもある。ニュージーランドでは、トランピング (tramping) と呼ばれているのだそうだ。今は亡き妻のご両親と妻の妹夫妻と甥っ子二人、そして我が家族3人の合計9人でよく初夏から晩夏にかけ、そのトレッキングをしていた。あ。妻はピンピンしてますのでご安心を!土曜日の朝はなぜか一緒にヨガをしてます。当然僕はやらされてる感が強いのですが、インストラクターが可愛いのでつい参加してしまいます。写真に戻ると、ここは車山近くの牧場。美ヶ原牧場らしい。調べてもなかなか出てこないアンテナがあるのでわかる人はわかるはず。あえてこの場所の説明はしない。まさかこの周辺が火山でできたものとは思えなかった。険しいところはなくやわらかな円弧を描くような尾根ばかりだからです。日本列島そのものが火山で覆い尽くされている。これは事実。特にこの辺は安山岩質の組成を持つ火山が風化浸食され地形とされています。この周辺の最高峰は、王ヶ頭=2,034m、他に、王ヶ鼻=2,008m、茶臼山=2,006m、牛伏山=1,990m、鹿伏山=1,977m、武石峰=1,973m、といった峰に囲まれており、山頂周囲は平坦で広大な台地状の地形で、美ヶ原牧場と呼ばれる牛の放牧地となっています。山岳に囲まれた松本平では、古来、西の山並を西山、東の山並を東山と総称し、松本盆地の人々は、美ヶ原を東山または王ヶ鼻と呼んできたのだそうだ。祖母がながの出身あったがそんなこと初めて知った。「美ヶ原」と呼ばれるようになったは、1921年に木暮理太郎が、日本山岳会の会報『山岳』に登山の記録を載せてからだそうです。美ヶ原台地の恵まれた自然の恩恵の受容は続き、狩猟・漁労や植物採集の生業の場であったことには変わりません。また、この辺の冬にスキー場になる場所を歩くと、その大地に小さな虫たちがうようよしてるのが目に付いた記憶がある。よく見ているとそんな大地が虫たちから生まれてきてるようにも思えてきたりもした。        コウジロウの独り言

二ケは衣装をはためかす風の攻撃に耐える、勝利の女神。

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Photo by Kojiro

船の船首に立つ羽を生やした女性の姿で表れている。1974年やはり2月のこと。大雪のパリの地下鉄を出てグショグショの革靴でルーブルに入った。今やファッションデザイナーになって遠い存在なってしまったY氏と二人きりだった。雪のせいかそんなにも混んではいなかった。『サモトラケのニケ』像に会ったのは入ってすぐにだった。あのスタチュウ(彫像)たちと違い、壮大な印象の彫像である。『サモトラケのニケ』(フランス語: Victoire de Samothrace, 英語: Winged Victory, ギリシャ共和国サモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発掘され、現在はルーヴル美術館に所蔵されている勝利の女神ニケの彫像である。羽根を付けた勝利の女神は、サモトラキ島にあった、偉大なる神々の神殿に張り出していた船の船首に立っていたとされる。この建造物は、前2世紀初頭の海戦の勝利を記念するため、ロードス島民が奉納品として献上したものと思われている。姿勢の劇的効果、動きの力強さ、力動感あふれる襞をもつヘレニズム時代のこの作品は、クラシック時代の基準と交わりながら、ペルガモンのバロック的彫刻を予兆するのだそうだ。この彫像についての古文書はひとつも発見されていないため、様式および傍証から年代を推定することしかできないのだそうだ。次に、ロードス島のリンドスで発見された船を象った浮き彫りの形態と台座の大理石の由来から、彫像がロードス島のものであり、コス島、シデ島、あるいはミヨニソス島での勝利を祝したものと考える説があるのだそうだ。年代はそれぞれ紀元前261年頃、紀元前190年、おなじく紀元前190年である。そんな前の彫刻なのになぜこんな迫力迫ってくるのだろうか?美ヶ原高原美術館(長野県上田市)にレプリカがあり見たことが記憶にあるのだが、このパリのニケ像は本当に何十年も経ってるのに記憶に新しいのである。パリは2回しか訪れてない。イタリアの3回に比べちょっと劣るだけなのだが。イタリアのミケランジェロの大理石彫刻よりもかなり大きい気持ちがする。大プリニウスにも言及されている。チモカリスの息子ピトクリトスが彫刻家として活動していた時期に符合する。ピトクリトスはリンドスのアクロポリスの彫像を手がけたことでも知られているとの事。そしてシャンポワゾは1892年、彫像の直近からロードス島ラルトス産の大理石の断片を発見したのだが、これには「…Σ ΡΟΔΙΟΣ / …S RHODIOS」という表記があり、「ロードスのピトクリトス」に符合する可能性を示すものとして注目されたのだった。しかしながら、この断片とニケの彫像が置かれていたエクセドラ(半円状に突出した建築部位)の関係は明らかではなく、とりわけ、この断片の小さな凹部はそれが小像の台座であることを物語っているといわれている。他に、この彫像がアンティゴノス2世ゴナタスの奉納物であるとする説もある。すなわち紀元前250年代のコス島でのプトレマイオス2世に対する勝利の記念物である。アンティゴノス2世はデロス島に彫像を建立していることから、アンティゴノス朝が伝統的に守ってきた聖域であるサモトラケ島にも同様なことを行っていたと考えることは可能と言われてる。日本のM美術大学やT美大、J美大などにもレプリカはあり、見るものを楽しみの時間で包んでくれる。引用は: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』               コウジロウの独り言

                     

イタリアの街で初めて出会ったフェラーリ246GT/GTS.1974年2月のこと。

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Photo by Kojiro

1974年2月のイタリアのミラノだと思われる。詳しい場所はわからないのだが、フェラーリ246GT/GTSだとおもわれます。こんな写真が撮れたのも数少ないイタリアの旅の中でも本当に偶然の出会いだった。このことを述べるにはウィキペディアによる方が正確だろうと思い、そこからの引用が多くなります。それによるとエンジン数がホモロゲートの必要生産台数を満たして2.4リットルに拡大したポルシェ・911に対抗するため、より実用スポーツとするとともに開発や製造費用などを減らすために、1969年2月より1974年に246GTを製造したのだそうだ。高回転型で高価なマグネシウムとアルミ製のエンジンを用い、ホイールベースもレーシングカーと同一でアルティジャンと呼ばれるイタリアの職人たちによりオールハンドメイドで製造されたのだそうだ。運転に高い技量を求められる206GTから、最高出力の低回転化と排気量拡大によりトルクを増幅し、アルミ製ヘッド以外鋳鉄製のブロックエンジンでコストダウンし、ボディも鉄製としホイールベースの延長によってクセのない普通に乗れるクルマになったそうだ。ハンドメイドに近いのだから本当は芸術品とも呼べるはず。また燃料タンクが拡大され重量は増えたが、2割の排気量アップによりカタログ値の235km/hの最高速度まで達することができるなど当時のスポーツカーの中でも高性能を誇っていた。1971年ティーポEの途中からタルガトップの「246GTS」が追加された。2,487台のGTと1,274台のGTS、合計3,761台が作られたのだった。その後、Dino 206/246 は、イタリアの自動車メーカーであるフェラーリが製造した初のミッドシップ2座席スポーツカーである。今日ではしばしば「フェラーリ・ディーノ」と呼ばれるが本来別ブランドとされている。しかしフェラーリ自身がリアにオプションとしてferrariのエンブレムや跳ね馬を新車時に取り付 けを行なっていた事実が立証されている為(洋書 dino compendium より)、どちらでも良いというのが実際のところであろうとされている。 2018年現在でフェラーリ唯一のV型6気筒エンジン搭載市販車であり、現代V型8気筒エンジンを搭載するフェラーリの始祖的存在であるのだそうだ。フェラーリの創業者エンツォ・フェラーリの長男で1956年に夭折したアルフレードフェラーリ(愛称:ディーノ)が病床でアイデアを出したとされる65度V型6気筒DOHCエンジンを持ち、V型12気筒エンジン搭載の既存車種とも区別するため、新しく長男の名前で「ディーノ」ブランドが与えられたのだそうだ。当時のF2用エンジンホモロゲートの条件となる台数確保のために、フェラーリが設計しフィアットが製作協力をしてエンジンを作成しフィアットはディーノスパイダー、ディーノクーペという名のFR駆動2車を、フェラーリは1967年から1969年に206GTを製造し、両社合わせてエンジンのホモロゲートの台数をクリアし、レースに出場が可能となった。 なお、エンジンの鋳込みはFIATが実行、エンジンの組み立てから車体への アッセンブリーは3台共にフェラーリで行われた。 また忘れられがちなのは このエンジンを使用した二座レーシングカーdino206S等があり小排気量ながら各レースにおいて善戦している事で有る。なお、dinoはプロトタイプを除いて全てのシャーシナンバーは偶数のみを使用しているのだそうだ。いづれにしても最高のクルマだったことには間違いない。芸術品フェラーリミッドの先駆者とは初めて知ったのはそもそも恥ずかしいのだが。 (出典dino compendiumと他、ウィキペディアにより)            コウジロウの独り言

初夏の風はうねりとともにやってきた!

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シーボニア小網代湾から長者ヶ崎までの水上での時間はそんなにかからなかった。元の会社のオーナーに誘われ、ディンギーをやっていた自分がなぜか?よくわからないのだが、ヨット部の部長になっていたらしい。30年経った今解ったことでもある。独身時代の土日ほとんどが油壺・シーボニア・小網代湾周辺で過ごしてた。写真のクルーやスキッパーは、訳ありで全員ヘルメットを装着させていただいている。当然実際にはかぶっていない。各々のオーケーも取っていないことと、この中にどうしても顔を出してはならない方がいらっしゃるのでこのような形の紹介になってしまった。オーナーとスキッパーが免許を持っていた。当然、自分は船舶免許を持っていない。ディンギーはエンジンが着いていないためにいらないのである。写真のヨットはエンジンが付いており、小網代湾を出るまではエンジンをかけて出航することが多い。船台に乗っていたヨットを海に入れ船台を戻す。これだけでもお金がかかる。到底小生では払える訳はない。シーボニアヨットハーバーまでのクルマのドライブも楽しみの一つであるのだが、京急三崎口で降りて歩いてオーナーの建物まで行くのも結構いい運動になった。シーボニアの向かいになるのだが。今は年をとりすぎたこともあり、体の冷える ヨットまで手を伸ばそうとはなかなか思わなくなった。それと東北の津波を画面で見てしまったことも重なり、海がますます怖くなった。この写真の頃は高中正義が「憧れのシェイシェル諸島」なんてサウンドを飛び跳ねさせてくれていたり、どうしても加山雄三の「海その愛」を口づさみながら進んでいくシーンが思い浮かばせて、イメージしていた。それでも何か今は、写真を見ているとドラクロワの油絵を思い出してくるのである。「難破船」です。彼はたまたま当時のフェカンと言われる海岸で見た難破船を見て「ドン・ジュアンの難船」を制作したといわれているのだそうだ。この写真の海は本当は荒 れていて、白波が立ち、うねりも大きくなってきており、ドス黒い雲が遠くの方から風に乗ってこちらに向かってくるようなシーンが思い出深く残っている。決して上手くはない操船でハルをバシャンバシャンと打ちながら、必死に操船してるスキッパーと、怖さを知らない何人かの人々の模様が描かれているのが滑稽でたまらなかった。写真の水平線が斜めになっているのを水平にして頂くとお分かりになるはず、相当ヨットが傾いていることが。だからブログに載せてしまったのです。行動派だと自負してる自分はこの後日、ヨット乞食となり葉山マリーナに出かけて行った。ラ・マーレ茶屋の美味しいスィーツが目当てだったのかもしれませんが。1979年初夏の絵日記より。               コウジロウの独り言

碓氷峠の眼鏡橋と斬新なミラージュ。

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写真のクルマは三菱初のFF車として発売された1978年生初代ミラージュ。エンジンは、横置きのSOHC・直列4気筒ガソリンエンジンのみで、排気量は1,200ccで、後に1,600ccが追加された。このクルマは1200cc。また、初代のみチルトボンネットを採用。マニュアルトランスミッションは、スーパーシフトと呼ばれる2速の副変速機を持つ特長があり、主変速機と合わせ、4×2速の8速として使用できた。これはとてつもなく面白かった。ミラージュは、エンジンとトランスアクスルの配置の関係から、トランスアクスルへの入力をエンジン本来の回転方向と逆転させる必要があり、副変速機は、そのために設けられたギアを利用していたとのこと。サスペンションは、フロントはマクファーソンストラット、リアはミラージュ独自のトレーリング式U字型サスペンションの4輪独立懸架を採用した。発売に合わせてカープラザ店が展開され、映画『未知との遭遇』とのタイアップや、日本テレビとも組んでのアメリカンフットボールの試合である「ミラージュボウル」の開催によるプレキャンペーンなど、話題方な登場の仕方だった。直線を基調としたシンプルでクリーンでスタイリッシュなボディスタイルも特長。このデザインは「青いリンゴ」のイメージから発想されたものと言われ、その黄緑色は黄色などとともにイメージカラーの一つでもあった。このクルマがそれである。元の会社の今は亡き同僚と二人での独身時代のドライブ。面白い運転感覚だったため,旧道の碓氷峠まで来てしまった。ヒゲでカモフラージュしているのは筆者。今とは比べ物にならないくらい、とてつもなくスマートである。ヒ−ルもさりげなく履いていたんですね!後ろの赤レンガの碓氷峠眼鏡橋も今も残っているものの本当に思い出深い一枚の写真である。その向こうに見えるのが新幹線ではなく通常の信越線の鉄橋である。眼鏡橋明治25年、1892年に完成。芸術と技術が融合した美しいレンガのアーチ橋と言われてます。この形にしたのは日本では眼鏡橋が最初で、高さ31m 長さ91m と我が国最大のものです。使用されたレンガは200万個を超えます。この4連の雄大なアーチ橋は通称「めがね橋」として、多くの人に親しまれています。橋梁は、第2橋梁から第6橋梁までの5基が残っており、すべてが煉瓦造りで、国重要文化財に指定されているのだそうだ。 コウジロウの独り言

ニューヨークのとうもろこしとカタツムリ。

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Photo by Kojiro

写真は1980年代にニューヨークにカレンダーの撮影に行った最終日のオフの日。実際のロケはお隣りのペンシルベニアニア州で実行されたのだが、ニューヨークのマジソンスクウェア近くの歩道に巨大な「とうもろこしとカタツムリのオブジェ」があったのだ。カメラマンのアシスタントとともに、ニューヨークの歩道を歩いていた時の出来事。当時は日本で、ディレクションさせてもらって、自分がディスプレイもやってたこともあり、興味津々であった。にもかかわらず、知らず間に何十年も時が経ち、調べよう調べようと思いながら今になってしまった。ネットで引用させてもらったり参考にさせてもらおうと「ニューヨークの巨大とうもろこしとカタツムリ」なんてタイトルでいろいろ調べてもこの画像は出てこなかった。誰の何という作品なのか全くわからない。ジャックと豆の木の巨人の国へ行った時の自分のようである。「LOVE」やオブジェの「ハート」やこの頃のニューヨークにはスタチュウがいっぱい置かれていた。日本では「Jウォーク」なんて言葉も流行り、赤信号ブッチギツテ渡れば怖くない的な、そんな言葉もよく聞こえてきた。そう言えば「Jウォーク」というグループもいましたね?どうしてるんですかね?薬とかマリファナやドラッグはダメですよね!今回のブログはこの程度にしておくので4分の一世紀も前のオブジェをとくとご覧あれ!ちなみにLOVE の作者はロバート・インディアナ(Robert Indiana, 本名:ロバート・クラーク (Robert Clark)。アメリカ合衆国現代美術家・舞台美術家・コスチュームデザイナーとしても活躍していた方。世界各地の街角にパブリックアートとして設置されているのだそうだ。スペイン語ヘブライ語などに訳された「LOVE」の彫刻も制作している。また彼の絵画作品には、ウォルト・ホイットマンアメリカの代表的な詩人の作品を取り上げるなど、アメリカらしさのテーマも頻出する。       コウジロウの独り言    

1972年頃の大間・函館フェリーの絵葉書

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スキャニング by Kojiro

絵葉書である。学生時代の実家に出したハガキが自分の紙焼きボックスから出てきた。日付を見るのを忘れたが、1972年の7月だろう。当時は青函連絡船が頻繁に運行しており、学生だった我々のバイト代で旅行する者たちには高額のフェリー代だった為、下北半島の大間港から函館のフェリーを利用した。層雲峡の写真にあったスカGで乗船。帰りは福島港から出るフェリーだった記憶がある。こちらのフェリーはかなり小さかった記憶がある。福島漁港は渡島半島の最南端に位置しており、津軽海峡に面している。白符地区は北海道におけるニシン漁発祥の地であり、福島町は水産業を中心に栄えてきたと紹介されている。この漁港近くの漁師夫婦にたらふくイクラとスジコの間のご飯をご馳走になった記憶があり、住所をもらわなかったことや調べてこなかった実情で、40年以上経った今でもお礼が言えていない。記憶だけが残っている。そのうち紹介できるかもしれませんが?モノクロのキャビネの紙焼きだけは残っていた気がします。そうその当時の自分達とその御夫婦の記念写真を!まあ40何年も経っている。自分の親父も亡くなっているし、北海道に新幹線も通ってる時代。世の中も変わりました。ただし、大間港から函館間のフェリーの所要時間は今も変わってないようである。90分、それしかかからないのである。海峡を渡るのがその時間しかかからない。当時としては交通網の発展してない時代だったのですが、青函連絡船よりはるかに安く、しかも所用時間のかからない、とてつもなくリーズナブルな交通手段だった。下北半島北端で津軽海峡に面する位置にあり、北緯41度33分・東経140度54分。対岸に位置する北海道の汐首岬との間は僅々18km足らずに過ぎないとのこと。本州・北海道間の最短地点なのである。下北半島で行く途中には恐山もあり、かなり面白い旅だった記憶と数々の写真が残っている。岬南方には大間町の市街地及び大間漁港が展開する。潮流の速い地域であり、周辺は良好な漁場で、マグロの一本釣りの名所として知られる。トラックなどの物流の利用も多く、相変わらずまた夏場の北海道ツーリングなど北海道観光のレジャー用としても利用されている。情報によると函館便を運航している東日本フェリーの撤退報道がなされ、航路休止の危機となったが、2008年12月から1年間の暫定として道南自動車フェリーに運営譲渡の上、運賃が増額となったらしいのですが運航は続けられることとなったらしい。その後、津軽海峡フェリーが同航路を運航していると記述されている。思い出すに自分には一人息子が、よく朝帰りをしたり家の帰りが遅いことが多い。「どこいってたの?」なんて気にしたたりする自分が今ここにいるのだが、その当時の自分は「ちょっとドライブに行って来る」と言って1ヶ月も帰ってこなかったことを考えると自由人だったことは否めないようですね!            コウジロウの独り言