カモメはカモメ。本当は海猫。南船橋・ウォーターフロントの3分間。

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Photo by Kojiro

ヨガのレッスンをゴールド・ジムで受けた帰り道。その日は家のクルマは無く、なぜかチャリンコで出かけていた。ララポート裏に海老川の下流にカモメが一羽飛来してきた。ipad miniを近づけても飛び立とうとしない。よく見ると海猫と判別がつけ難かった。ただし嘴の先の色味が違うのは確か海猫だった気がしていたのだが。帰宅後、調べたらやはり海猫のようだ。海猫は、チドリ目カモメ科カモメ属に分類される鳥類。だからカモメといっても大きな意味では変わりはないと思われる 。近寄るとなぜか目線を合わせてくれなかった。感覚的に言うとカモメのジョナサン側にいるというよりもニーチェが浮かび上がって第三者的発想になってしまう自分がそこにいた。なぜなのだろう?近寄る自分に対しての海猫と自分に対しての葛藤がうごめいてきた。「逃げていく!彼のほうが逃げていく、私の唯ひとりの伴侶・私の大いなる敵、未知なる方、わが神,虐待者でもあるわが神が!」「いいえ!逃げてはならぬ、帰って来てください!あなたのせいでわたしが蒙る責苦ももろともに!私の涙の河はみんなあなたを目指して流れていく!しかも私の心の最後の炎は!あなたへともえあがる!ああ......帰ってきてください、まだ見知らぬ私の神よ!わが苦悩?わが竟の幸福?」(朝日出版社ジル・ドゥルーズニーチェ」より)思い込むとなぜか自分の中に「神」まで出てきてしまう。信じてはもらえないだろうが、究極の野生動物-鳥類との関係。優しい愛らしい顔立ちのその海猫は僕の方に目を投じるとサァッっと海の上に飛んで行った。ウィキペディアによると=冬季になると中華人民共和国東部などへ南下し越冬するか、ロシア南東部や朝鮮半島では周年生息すると書かれている。最も 日本では周年生息(留鳥)するらしいのだが、冬季は北海道や本州北部で繁殖する。個体群は南下する個体が多いとも言われている。全長44-48センチメートルもある。翼開張120-128センチメートル。羽を広げるとかなり大きい。体重は0.5-0.6キログラムとされる。頭部や体下面の羽衣は白、体上面の羽衣は黒灰色。尾羽も白いが内側尾羽10枚の先端付近が黒く、英名はblack-tailed=黒い尾をした=まさしくである。翼上面は黒灰色。初列風切先端は黒く、先端に白い斑紋が入る個体もいるのだそうだ。嘴は太く頑丈。種小名crassirostrisは「太い嘴の」の意。嘴の色彩は黄色で、先端が赤くその内側に黒い斑紋が入る。後肢の色彩はお黄色。夏季は後頭が白(夏羽)、冬季は後頭に灰褐色の斑紋が入る(冬羽)。説明されたとおりなのだが、とにかく大きかった。こんな鳥たちがヒッチコックの映画『鳥』のように襲ってきたらどんなに怖いことか?でも絶対とは言えないが我々人間、少なくとも自分には襲うどころか、飼い猫のような優しい顔立ちと「目」をしていたのは事実である。             コウジロウの独り言

層雲峡とスカイラインそしてスーパーオスカー。

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Photo by Kojiro

1972年7月。箱スカで来ていた北海道。そして品川ナンバーと真上のグリルに嵌め込まれたスーパーオスカー。1968年10月。直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)は誕生した。S5型同様、フロントノーズを延長しているが、S54型と違い、開発当初から6気筒化を配慮した設計構造とデザインを備えていたためか、6気筒モデルの方がバランスの整った外見となっていたのは事実。4気筒のスカイラインはわざとボンネットを短くしたのでは?と疑問である。S54型に搭載されていたプリンス製G7型エンジンに代わり、日産製直列6気筒OHC2,000ccのL20型(シングルキャブ)を搭載する。ローレルと反対で、エンジンを日産、ボディをプリンスが担当した逸材品。発売当初はかまぼこ型シリンダーヘッドと呼ばる後年主流となるL系エンジンとは形状が異なる物が搭載されていたのだそうだ。最高出力は105馬力。1969年以降L20型エンジンを搭載する全車種で新設計のエンジンに順次切り替わり、115PS(レギュラーガソリン仕様)となった。新旧を区別するため、新型をL20Aと呼称(車検証上の原動機の型式に変更はない)したがって、旧エンジン追いやられ、後年は新型もL20と呼称するようになった。このL20は世界的にも有名な量産品であった。サスペンションは、4輪独立懸架となる。だからこの時の北海道探索一周ツアーで4人乗車となると後ろのタイヤはハの字を書いて横に広がってちょっと滑稽だった。のちの暴走族のステータスシンボルにもなるのだが。第15回東京モーターショーに、「スカイラインGTレーシング仕様」が出品された。翌年発売されるGT-Rのコンセプトカーであった。このスカGは暴走族ではなく、オートバイの蜂の子族に対してモグラ族とでも言われそうだった。そんな人気のある時代のクルマに乗り層雲峡まで来たのだった。層雲峡は、北海道上川町にある峡谷。大雪山国立公園に中にあり、石狩川を挟みなんと約24kmの断崖絶壁が続いている処。1921年(大正10年)に訪れた大町桂月氏が命名。大雪山黒岳山麓にある層雲峡温泉は現在では大型ホテルなどが立ち並ぶ北海道有数の規模を誇る温泉街を担ってるが1972年当時はそれほどでもなかった気がする。層雲峡および大雪山観光の中心地となっている。この写真あたりが当時道路から撮影する場所としては雲峡の峡谷美が最も素晴らしい場所だと思ってた。約3万年前の大雪山の噴火により堆積した溶結凝灰岩が石狩川によって浸食されたことにより生まれたとされている。今現在では国道39号層雲峡温泉から石北峠方面に向かうと長さ3,388 mの銀河トンネルがあるそうだ。もともと国道39号は層雲峡の渓谷に沿った断崖絶壁の直下を通過しており、石狩川をはさんでそびえ立つ柱状節理の巨大な岩盤「天城岩」や「流星の滝」「銀河の滝」、さらに巨大な岩壁が目と鼻の先に迫る「神削壁」などのダイナミックな光景を見ながら通過することができていたのだ。がしかし安全を確保するため、特に落石の危険性が高いとされた「神削壁」の区間をトンネルで迂回するようになっているとの事。この写真を撮ってから8年後の1979年(昭和54年)に小函トンネル(延長1,134 m)が建設された。その後も落石は頻発し、1987年(昭和62年)6月9日早朝、天城岩の一部が11,000 m3に及ぶ大規模な崩落を起こしたとある。石狩川を上から被さるように埋め尽くし、対岸の国道39号を走っていたトラック等の車両5台とサイクリングの集団を直撃し、約100 mに渡って国道をも埋め尽くした。人的被害は岩盤の直撃を受けた数名が亡くなった大惨事だったとあります。この災害以後、復旧までの間、国道39号は当該区間が通行止めとなり、利用者は遠軽周りの大きな迂回を強いられた。その後も落石が頻発したことから、後に流星・銀河の滝から先は完全に閉鎖。自転車・歩行者を含め一切の通行が禁止されたのだった。この場所は今でもこうやって顕在するんでしょうかね?ここが見れなかったら本当につまらない街道と壁が名ばかりのものになってしまいますね。           コウジロウの独り言   

Lonesome Car-boy。でちょっと一息。

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This illust was drawn by kojiro

ロンサムカーボーイとは、ウィキペデアから1977年から登場したブランドで1986年にパイオニアカロッツェリアにブランド変更するまでラインナップされたカーコンポのブランド名なのである。その広告のワン・シーンのビジュアルを模写したのがこの絵なのだと思うのですが、ネットで調べたら、画像は見つかりませんでした。このデッサンは今は描けない。その当時の観察力と豊富なデッサン力の問題なんでしょうか?いや、忍耐力も?今ならスマ・ホで撮って画像処理したほうが早い。って思ってしまうからなのでしょう。この画像はもしかしたら、キャノンかホンダの広告のワン・シーンだったのかもしれませんが?これが流行っていた頃は、リアスピーカーのボックスタイプが多かった。音にこだわるユーザーは音を良くする為に、トランク埋め込め式を選んでいたと思われます。このタイプは取り付けが簡単で、後付け感があってクルマ同様チューンしてるぞという存在感があった。まあクルマをそんなに触れない人向けの音のチューンナップ=カーステレオ時代の主流だった。当然カセットでした。カースピーカーといえばKENWOODも最高のイメージリーダーだったですよね?メーカー各社はこぞってデザインしたがってロゴデザインに拘っていたた時代ですよね。そうCIです。そんなこんなで時代も変わり、その当時は当然、今みたいにリヤ・ガラスがスモーク化されてませんでしたから! コウジロウの独り言

フィアット・128とジェントルマン

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Photo by Kojiro

イタリアのミラノかローマの1972年のワン・ショットである。こうなると記憶がないのです。クルマの横の男性に目が行ってしまい、おもわずキャノン・ペリックスのシャッターをきっていた1カット。クルマは「フィアット・128」。1969年3月にデビューしたクルマ。128のボディタイプは最初、4ドアセダンと2ドアセダンしかなかったそうだ。さらにその年の11月トリノショーで追加となった3ドアのステーションワゴンFamiliare:家族の意)をベースとし、1971年に排気量をアップした1,290ccのエンジンとともに、クーペ、とラリーを追加した。写真はそのワゴンである。そして1975年クーペの3ドアハッチバック版として3P(ポルテ:ドアの意 型式は128AC)を追加、1974年5月からはその1,290ccをラインナップすべてに加え、内外装に若干の変更を加え、1985年までになんと350万台以上を生産する。革新的な技術を取り入れた歴史的モデルであると同時に、大衆車としても大ヒットモデルとなった一台である。ジアコーザ発案の直列式横置きエンジン前輪駆動が、世界の前輪駆動車の大勢を占めることになったことは大変に意義深いものである。1972年のホンダ・シビック、1974年のフォルクスワーゲン・ゴルフなどが先駆例であるが、その後世界各国に出現した横置きエンジン方式の前輪駆動車のほとんどが、「128」で確立された方式を踏襲しているとのこと。自分が乗っていたシトロエンBXも同じジャンルのクルマだったのですね。兎にも角にも、この決まった写真は自分でもすばらしいものだとおもっています。このクルマに手を伸ばしているポーズをとっている男性は一体何者なんでしょうか?もうちょっと語学がこの頃できていたら勇気を振り絞って聞いてたと思うんですが?せいぜい「Where ware yo come from?」。もう違ってるって?いいんです。会話はハートですから。そう、日本ではフィアット総代理店であった西欧自動車(西武自動車販売の前身)によって、1970年頃に4ドアセダンが輸入開始されたらしいのデスが、あまりに質素なスタイリングや貧弱な装備だったため販売は不振。1972年に西武自販が代理権を返上した際に販売は中止となったらしい。このクルマの印象がまるでないのはそんな理由だからなのですかね?フィアット輸入権を継承したロイヤル・モータースによって、1974年から輸入と販売が再開された。販売されたのは米国・仕様車の4ドアセダン、2ドアセダンとクーペで、1,116ccエンジンは若干デチューンされ、49馬力となったと書かれている。クーペの1,290ccは51馬力であった。その後、昭和48年排ガス規制に対応する形で、セダンもクーペと同じ1,290ccに変更され、車重も欧州仕様の800kgに比べ、848kgと若干重くなっていた。なんなんでしょうね?ミラーとか排出規制の触媒とかでですかね?         コウジロウの独り言

上野毛のミニ・クーパーS

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自ずとしれたミニ・クーパーです。T美大の横のブロック塀に路上駐車していた。1971年頃の事。 設計者イシゴニスの友人のクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパー。彼は1959年と1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いた凄い逸材。当時英国内のサルーンカー選手権に参加していたところ、ライバルのロータスの抜群のハンドリングに太刀打ち出来なかった。この時とばかりイシゴニスにミニの試作車を見せられ、その驚異的なハンドリングに注目させたのだった。イシゴニスと共同で、機敏で経済的で、何回ものテストを重ねて、安価な車を作ることを決意したのだそうだ。それが1962年にADO50、「オースチン・ミニ・クーパー」と、「インリス・ミニ・クーパー」の誕生となるのであった。ミニ(Mini )は、イギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が生んだ大衆車。自動車の必要最小限の設計は、当時、クルマの革命とまでいわれた。搭載されていた848 cc のエンジンは997 cc まで排気量が増やされ、出力も34馬力から55馬力に高められた。このころはちょっと遅れてかスバル1000が日本に登場! 55馬力だったのを覚えている。このミニのエンジンにはレース向けのチューニングが施され、当時小型車には馴染みのなかったSUツインキャブレターとディスクブレーキが装備された。経営陣は1,000台を発注したのだった。1964年、997 cc のエンジンが、よりストロークの短い998 cc のモデルに変更された。これ以降、1967年にクーパーモデルの生産が終了するまでに計12,274台の「クーパー」が販売された。1963年にはよりパワフルな「クーパーS」モデルが相前後して開発、生産されたのだった。ミニ・クーパーは1964年、クーパーSでは1965年、1967年のモンテカルロ・ラリーで総合優勝している。なんと補助灯のレギュレーション違反で失格となってしまったが、1966年にもゴール時の成績は優勝相当であったのだった。この写真のミニを見よう!補助灯の向かって左がスポット。右がフォグと当時としてはベストのつけ方。運転席から遠い所はフォグで照らし、遠くのストレイトをスポットライトで照らす、最適な付け方である。1960年代のミニの売り上げは全モデルで好調であったが、生産メーカーにはほとんど利益をもたらさなかったと言われている。複雑な駆動システムが製造コストを嵩ませ、競合他社との競争に勝つための製造原価を下げる事ができなかったからである。「クーパーS」は1,071 cc のエンジンと、より大径のディスクブレーキを特徴とし、1964年8月のモデルチェンジまでに計4,030台が生産、販売されたそうだ。当初エンジンの排気量拡大は1,071 cc が限界と見られていたが、ダウントンのダニエル・リッチモンドがボア・ピッチをずらして、またもや1,275 cc まで拡大する手法を考案。量産型「1275クーパーS」の計画がスタートした。量産に向けて、サーキット・レースのクラス分けにあった970 cc と1,275 cc の2つのモデルを追加、970 cc モデルはあまり売れなかった。963台が生産された後1965年に生産終了となったが、1,275 cc の「クーパーS」はなんと40,000台以上が生産され、1971年に生産終了となった。 当時の写真を見直そう。ミニ・クーパーSである。このモノクロームの写真でわかるのは塗装表面が素晴らしかった事。曲面がまるで手作りだったからか?滑らかな光を放ってるのである。それだけでも価値があったMINI。この頃の日本車のプレスと比較すると蘊嶺の差があった事がうかがえる。いくらこの紙焼きの現像が固い5号のハイ・コントラストの印画紙を使って焼いているからといえ、この滑らかさに今の日本車は勝てているのでしょうか?      コウジロウの独り言

旧系国電40系車両の希少写真。

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Photo by Kojiro

急に昔の写真(蔵出し写真)に舞い戻ります。多分クモハ40033です。国分寺から東京競馬場前駅行きの電車である。廃止直前時点において、閑散時は武蔵小金井電車区所属のクモハ40071, 074のどちらかが単行で運用されていたのだそうだ。この辺言われてもクーラーのない板の床ぞこの電車。どことなく油臭かった気がします。現在の20代の方々にはとても信じられない板製床。その油臭さは本当に印象的だった。窓を開ける機会が多く床下の台車のブレーキ臭もしてきていたのだと思う。ラッシュ時及び競馬開催時には101系の5両編成で運行されていたのだそうだ。なお、101系の検査時には中原電車区より72系の5両編成を借り入れて運行していたとのこと。また、競馬開催日には東京駅や総武本線からの直通列車が101系6-7両で運転されたこともあったそうだ。この写真はもっと前なのかもしれませんが?「クモハ40」と書かれている。フロントの表示のクモハ40がその印字なのか不明なのだが?乗車している子供達を見てみると、今の鉄道オタクのような印象でもあり、最終日の記念電車に違いないと思われる。40 系車両について色々見てきたのですが、その中で クモハ 40054・クモハ400 74号車はイベント用 車両 として平成 まで活躍。もっとも15年以上前のことであるのだが。掲下河原線の旅客路線としての終着駅であり、南武線府中本町駅の南方200m程の場所に位置していたのも事実。同駅に近かったが面倒なことに乗換駅ではなかったのだ。東京競馬場の最寄り駅の一つであった。競馬場の観客には、国分寺・東京方面からの観客は当駅を、立川・川崎方面からの観客は府中本町駅を、京王八王子聖蹟桜ヶ丘・新宿方面からの観客は府中競馬正門前駅を、と言う具合に使い分けられていたようである。なお、「東京競馬場前」の駅名が国鉄で最も長い駅名であった時期があったらしい。当駅は武蔵野線が開業した日に下河原線(国分寺 - 北府中 - 東京競馬場前間)廃線に伴って廃止された。下河原線が武蔵野線に置き換えられたのと同様、この駅の機能は府中本町駅に置き換えられた。廃止後、跡地の多くは「下河原緑道」と呼ばれる遊歩道に整備されたり、団地の敷地に利用されたり、一部では記念として線路が残されている所もある。廃止後も、しばらくは中央線から武蔵野線方面へと南進する痕跡を確認することができていた。子ども心になぜか覚えいたのである。その後西国分寺駅周辺の再開発に伴い痕跡はあらかた消滅した。それでもGoogle Map/Earthなどで付近の航空写真をよく見ると、府中街道西側の建物の立ち方などに、まだわずかに残っているらしく、駅施設では、国分寺駅にはしばらく短い島式ホームが残されていた。しかし1988年の駅ビル工事に伴い、完全に撤去された。レールは中央線の国分寺駅 - 西国分寺駅間において側線のようにして残っていたのですが、2009年1月下旬に行われた架線柱工事において撤去され、最後の廃線跡も消滅したのだそうだ。これは同線の廃止後も国鉄の教育施設中央鉄道学園への引き込み線として利用されていた線路の一部で、学園の廃止後も中央線に沿っていた部分が草に埋もれながらも残されていたものであった。(一部・ウィキペディアから引用) コウジロウの独り言

ドリームカーのポンティアックファイアーバードが幕張のイオンにやって来ていた。

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写真のクルマはナイト2000-ポンティアックファイヤーバードである。Knight Riderは、アメリカの特撮テレビドラマ。私立探偵機関の調査員、マイケル・ナイトが、人間の言葉を話し特殊装備を搭載したドリーム・カー『ナイト2000』とともにさまざまな事件を解決するカーアクションドラマである。そして「ナイトライダー」とは主人公の「マイケル・ナイト」本人の通称でもある。日本でまた最近BSなのか見た記憶があるのですが、本国米国では1982年から1986年までNBCで全84話が放送されたらしいのですが、 日本ではテレビ朝日系列でうち74本が放映されたのだそうだ。調べたら2016年にはNHK BSプレミアムでもシーズン1の未放映9エピソード(シーズン2の第11話にあたる1エピソードは未放送)が同じく放送されたのだそうだ。そのための宣伝だったのか三年ぐらい前の写真なのかもしれませんが、そのドリームカー「ナイト2000」が幕張にいたのである。あまり興味がないと言ったら嘘になるであろう。しっかりと撮影してたのだから。ナイト2000(KNIGHT 2000)とは、「未来の車の原型」を志向して製作された“ドリーム・カー”なのだ。ナイト2000と同じ仕様のトランザムを求めてポンティアックのディーラーに来店する客が出てきたため、車両を提供していたGMサイドから制作側へ、ポンティアックのロゴをエンドロールに表示しないよう直接要請があったほど売れたり社会的な刺激を受けていたのだそうだ。嬉しい誤算だつた。また劇中でナイト2000を指す台詞も、「New black Trans-Am「吹替:黒のトランザム」だったり「Black T-top(吹替:黒のスポーツカー)」に変化もしているのだそうだ。数々の先進的な機能を搭載した車体をKnight Industries Two Thousand の略で命名。外観は黒一色のポンティアック・ファイヤーバード・トランザム(1982年型)のカスタマイズ車。このボディの黒は「塗料の色」(本当は塗装色なのであるが)ではなく、外板に施されている新開発の分子結合殻を組み込んだ特殊セラミックが見えているとされている。これは金属ともファイバーグラス等とも違う新物質で、ナイト2000は大抵の銃器では傷すら付けられない程の強力な耐弾・耐爆性を実現させている。駆動方式はフロントエンジン・リアドライブの2WD。最高速度はノーマルモード時でなんと322mph(約520km/h)、トランスミッションは8段フルオートマチックトランスミッション。マイケルとエイプリルの手によってファイヤーペイント、サイドマフラー、ルーフスポイラー、ダブルリアウィング、5スポーク・ワイドリムホイールがこのエピソードのみ装着され登場したのだそうだ。面白い事に燃料については一部に「水素」としている資料もあるものの、実際の劇中での燃料については明確ではないようである。シーズン1においてガソリンスタンドで給油するシーンがあったり、同シーズンで「代替燃料を用いたレースに出場するために液体水素エンジンに載せ換える」というシーンがある程度で、具体的な設定としては言及されてはいない。製作総指揮のグレン・おA・ラーソンによれば「ナイト2000」とは車の部分であり、「K.I.T.T.」は車に搭載された人工知能を指すとある。とにかく当時としてはこのハンドルのスタイルや、メ−ターまわりのコクピットがもう古くも見えるのだが当時としては斬新だった。古く感じるのは自分だけなのかもしれませんが、最高速は及ばないが今のクルマの性能が追いついてきているのには驚きさえ感じる。          コウジロウの独り言