フィアット・128とジェントルマン

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Photo by Kojiro

イタリアのミラノかローマの1972年のワン・ショットである。こうなると記憶がないのです。クルマの横の男性に目が行ってしまい、おもわずキャノン・ペリックスのシャッターをきっていた1カット。クルマは「フィアット・128」。1969年3月にデビューしたクルマ。128のボディタイプは最初、4ドアセダンと2ドアセダンしかなかったそうだ。さらにその年の11月トリノショーで追加となった3ドアのステーションワゴンFamiliare:家族の意)をベースとし、1971年に排気量をアップした1,290ccのエンジンとともに、クーペ、とラリーを追加した。写真はそのワゴンである。そして1975年クーペの3ドアハッチバック版として3P(ポルテ:ドアの意 型式は128AC)を追加、1974年5月からはその1,290ccをラインナップすべてに加え、内外装に若干の変更を加え、1985年までになんと350万台以上を生産する。革新的な技術を取り入れた歴史的モデルであると同時に、大衆車としても大ヒットモデルとなった一台である。ジアコーザ発案の直列式横置きエンジン前輪駆動が、世界の前輪駆動車の大勢を占めることになったことは大変に意義深いものである。1972年のホンダ・シビック、1974年のフォルクスワーゲン・ゴルフなどが先駆例であるが、その後世界各国に出現した横置きエンジン方式の前輪駆動車のほとんどが、「128」で確立された方式を踏襲しているとのこと。自分が乗っていたシトロエンBXも同じジャンルのクルマだったのですね。兎にも角にも、この決まった写真は自分でもすばらしいものだとおもっています。このクルマに手を伸ばしているポーズをとっている男性は一体何者なんでしょうか?もうちょっと語学がこの頃できていたら勇気を振り絞って聞いてたと思うんですが?せいぜい「Where ware yo come from?」。もう違ってるって?いいんです。会話はハートですから。そう、日本ではフィアット総代理店であった西欧自動車(西武自動車販売の前身)によって、1970年頃に4ドアセダンが輸入開始されたらしいのデスが、あまりに質素なスタイリングや貧弱な装備だったため販売は不振。1972年に西武自販が代理権を返上した際に販売は中止となったらしい。このクルマの印象がまるでないのはそんな理由だからなのですかね?フィアット輸入権を継承したロイヤル・モータースによって、1974年から輸入と販売が再開された。販売されたのは米国・仕様車の4ドアセダン、2ドアセダンとクーペで、1,116ccエンジンは若干デチューンされ、49馬力となったと書かれている。クーペの1,290ccは51馬力であった。その後、昭和48年排ガス規制に対応する形で、セダンもクーペと同じ1,290ccに変更され、車重も欧州仕様の800kgに比べ、848kgと若干重くなっていた。なんなんでしょうね?ミラーとか排出規制の触媒とかでですかね?         コウジロウの独り言

上野毛のミニ・クーパーS

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Photo by Kojiro

自ずとしれたミニ・クーパーです。T美大の横のブロック塀に路上駐車していた。1971年頃の事。 設計者イシゴニスの友人のクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパー。彼は1959年と1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いた凄い逸材。当時英国内のサルーンカー選手権に参加していたところ、ライバルのロータスの抜群のハンドリングに太刀打ち出来なかった。この時とばかりイシゴニスにミニの試作車を見せられ、その驚異的なハンドリングに注目させたのだった。イシゴニスと共同で、機敏で経済的で、何回ものテストを重ねて、安価な車を作ることを決意したのだそうだ。それが1962年にADO50、「オースチン・ミニ・クーパー」と、「インリス・ミニ・クーパー」の誕生となるのであった。ミニ(Mini )は、イギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が生んだ大衆車。自動車の必要最小限の設計は、当時、クルマの革命とまでいわれた。搭載されていた848 cc のエンジンは997 cc まで排気量が増やされ、出力も34馬力から55馬力に高められた。このころはちょっと遅れてかスバル1000が日本に登場! 55馬力だったのを覚えている。このミニのエンジンにはレース向けのチューニングが施され、当時小型車には馴染みのなかったSUツインキャブレターとディスクブレーキが装備された。経営陣は1,000台を発注したのだった。1964年、997 cc のエンジンが、よりストロークの短い998 cc のモデルに変更された。これ以降、1967年にクーパーモデルの生産が終了するまでに計12,274台の「クーパー」が販売された。1963年にはよりパワフルな「クーパーS」モデルが相前後して開発、生産されたのだった。ミニ・クーパーは1964年、クーパーSでは1965年、1967年のモンテカルロ・ラリーで総合優勝している。なんと補助灯のレギュレーション違反で失格となってしまったが、1966年にもゴール時の成績は優勝相当であったのだった。この写真のミニを見よう!補助灯の向かって左がスポット。右がフォグと当時としてはベストのつけ方。運転席から遠い所はフォグで照らし、遠くのストレイトをスポットライトで照らす、最適な付け方である。1960年代のミニの売り上げは全モデルで好調であったが、生産メーカーにはほとんど利益をもたらさなかったと言われている。複雑な駆動システムが製造コストを嵩ませ、競合他社との競争に勝つための製造原価を下げる事ができなかったからである。「クーパーS」は1,071 cc のエンジンと、より大径のディスクブレーキを特徴とし、1964年8月のモデルチェンジまでに計4,030台が生産、販売されたそうだ。当初エンジンの排気量拡大は1,071 cc が限界と見られていたが、ダウントンのダニエル・リッチモンドがボア・ピッチをずらして、またもや1,275 cc まで拡大する手法を考案。量産型「1275クーパーS」の計画がスタートした。量産に向けて、サーキット・レースのクラス分けにあった970 cc と1,275 cc の2つのモデルを追加、970 cc モデルはあまり売れなかった。963台が生産された後1965年に生産終了となったが、1,275 cc の「クーパーS」はなんと40,000台以上が生産され、1971年に生産終了となった。 当時の写真を見直そう。ミニ・クーパーSである。このモノクロームの写真でわかるのは塗装表面が素晴らしかった事。曲面がまるで手作りだったからか?滑らかな光を放ってるのである。それだけでも価値があったMINI。この頃の日本車のプレスと比較すると蘊嶺の差があった事がうかがえる。いくらこの紙焼きの現像が固い5号のハイ・コントラストの印画紙を使って焼いているからといえ、この滑らかさに今の日本車は勝てているのでしょうか?      コウジロウの独り言

旧系国電40系車両の希少写真。

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急に昔の写真(蔵出し写真)に舞い戻ります。多分クモハ40033です。国分寺から東京競馬場前駅行きの電車である。廃止直前時点において、閑散時は武蔵小金井電車区所属のクモハ40071, 074のどちらかが単行で運用されていたのだそうだ。この辺言われてもクーラーのない板の床ぞこの電車。どことなく油臭かった気がします。現在の20代の方々にはとても信じられない板製床。その油臭さは本当に印象的だった。窓を開ける機会が多く床下の台車のブレーキ臭もしてきていたのだと思う。ラッシュ時及び競馬開催時には101系の5両編成で運行されていたのだそうだ。なお、101系の検査時には中原電車区より72系の5両編成を借り入れて運行していたとのこと。また、競馬開催日には東京駅や総武本線からの直通列車が101系6-7両で運転されたこともあったそうだ。この写真はもっと前なのかもしれませんが?「クモハ40」と書かれている。フロントの表示のクモハ40がその印字なのか不明なのだが?乗車している子供達を見てみると、今の鉄道オタクのような印象でもあり、最終日の記念電車に違いないと思われる。40 系車両について色々見てきたのですが、その中で クモハ 40054・クモハ400 74号車はイベント用 車両 として平成 まで活躍。もっとも15年以上前のことであるのだが。掲下河原線の旅客路線としての終着駅であり、南武線府中本町駅の南方200m程の場所に位置していたのも事実。同駅に近かったが面倒なことに乗換駅ではなかったのだ。東京競馬場の最寄り駅の一つであった。競馬場の観客には、国分寺・東京方面からの観客は当駅を、立川・川崎方面からの観客は府中本町駅を、京王八王子聖蹟桜ヶ丘・新宿方面からの観客は府中競馬正門前駅を、と言う具合に使い分けられていたようである。なお、「東京競馬場前」の駅名が国鉄で最も長い駅名であった時期があったらしい。当駅は武蔵野線が開業した日に下河原線(国分寺 - 北府中 - 東京競馬場前間)廃線に伴って廃止された。下河原線が武蔵野線に置き換えられたのと同様、この駅の機能は府中本町駅に置き換えられた。廃止後、跡地の多くは「下河原緑道」と呼ばれる遊歩道に整備されたり、団地の敷地に利用されたり、一部では記念として線路が残されている所もある。廃止後も、しばらくは中央線から武蔵野線方面へと南進する痕跡を確認することができていた。子ども心になぜか覚えいたのである。その後西国分寺駅周辺の再開発に伴い痕跡はあらかた消滅した。それでもGoogle Map/Earthなどで付近の航空写真をよく見ると、府中街道西側の建物の立ち方などに、まだわずかに残っているらしく、駅施設では、国分寺駅にはしばらく短い島式ホームが残されていた。しかし1988年の駅ビル工事に伴い、完全に撤去された。レールは中央線の国分寺駅 - 西国分寺駅間において側線のようにして残っていたのですが、2009年1月下旬に行われた架線柱工事において撤去され、最後の廃線跡も消滅したのだそうだ。これは同線の廃止後も国鉄の教育施設中央鉄道学園への引き込み線として利用されていた線路の一部で、学園の廃止後も中央線に沿っていた部分が草に埋もれながらも残されていたものであった。(一部・ウィキペディアから引用) コウジロウの独り言

ドリームカーのポンティアックファイアーバードが幕張のイオンにやって来ていた。

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写真のクルマはナイト2000-ポンティアックファイヤーバードである。Knight Riderは、アメリカの特撮テレビドラマ。私立探偵機関の調査員、マイケル・ナイトが、人間の言葉を話し特殊装備を搭載したドリーム・カー『ナイト2000』とともにさまざまな事件を解決するカーアクションドラマである。そして「ナイトライダー」とは主人公の「マイケル・ナイト」本人の通称でもある。日本でまた最近BSなのか見た記憶があるのですが、本国米国では1982年から1986年までNBCで全84話が放送されたらしいのですが、 日本ではテレビ朝日系列でうち74本が放映されたのだそうだ。調べたら2016年にはNHK BSプレミアムでもシーズン1の未放映9エピソード(シーズン2の第11話にあたる1エピソードは未放送)が同じく放送されたのだそうだ。そのための宣伝だったのか三年ぐらい前の写真なのかもしれませんが、そのドリームカー「ナイト2000」が幕張にいたのである。あまり興味がないと言ったら嘘になるであろう。しっかりと撮影してたのだから。ナイト2000(KNIGHT 2000)とは、「未来の車の原型」を志向して製作された“ドリーム・カー”なのだ。ナイト2000と同じ仕様のトランザムを求めてポンティアックのディーラーに来店する客が出てきたため、車両を提供していたGMサイドから制作側へ、ポンティアックのロゴをエンドロールに表示しないよう直接要請があったほど売れたり社会的な刺激を受けていたのだそうだ。嬉しい誤算だつた。また劇中でナイト2000を指す台詞も、「New black Trans-Am「吹替:黒のトランザム」だったり「Black T-top(吹替:黒のスポーツカー)」に変化もしているのだそうだ。数々の先進的な機能を搭載した車体をKnight Industries Two Thousand の略で命名。外観は黒一色のポンティアック・ファイヤーバード・トランザム(1982年型)のカスタマイズ車。このボディの黒は「塗料の色」(本当は塗装色なのであるが)ではなく、外板に施されている新開発の分子結合殻を組み込んだ特殊セラミックが見えているとされている。これは金属ともファイバーグラス等とも違う新物質で、ナイト2000は大抵の銃器では傷すら付けられない程の強力な耐弾・耐爆性を実現させている。駆動方式はフロントエンジン・リアドライブの2WD。最高速度はノーマルモード時でなんと322mph(約520km/h)、トランスミッションは8段フルオートマチックトランスミッション。マイケルとエイプリルの手によってファイヤーペイント、サイドマフラー、ルーフスポイラー、ダブルリアウィング、5スポーク・ワイドリムホイールがこのエピソードのみ装着され登場したのだそうだ。面白い事に燃料については一部に「水素」としている資料もあるものの、実際の劇中での燃料については明確ではないようである。シーズン1においてガソリンスタンドで給油するシーンがあったり、同シーズンで「代替燃料を用いたレースに出場するために液体水素エンジンに載せ換える」というシーンがある程度で、具体的な設定としては言及されてはいない。製作総指揮のグレン・おA・ラーソンによれば「ナイト2000」とは車の部分であり、「K.I.T.T.」は車に搭載された人工知能を指すとある。とにかく当時としてはこのハンドルのスタイルや、メ−ターまわりのコクピットがもう古くも見えるのだが当時としては斬新だった。古く感じるのは自分だけなのかもしれませんが、最高速は及ばないが今のクルマの性能が追いついてきているのには驚きさえ感じる。          コウジロウの独り言 

ライン川のプファルツ城。白い色のヨーロッパのお城。

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ライン下りの際に一際目立つ建物、それは前のブログで書いていた。ライン川の船上でドイツの白ワイン飲み競争を1974年2月にJ美大の方とやっていたら何と上空に城が聳え立っていた。写真のネコ城(Burg Katz)である。そこへ向かう前にか眼に入る建物・プファルツ城である。この写真のお城です。白い色なので日本のお城見たいとよく言われる建物。昔はライン川の通行税を取り立てるための税関所だったとか言われているのですが。700 年近く前の 1326年に通行税を徴収する関所として、右岸にあるカウプ街のライン川の中州に建てられた真っ白な古城なのである。現在は、資料館となっていて見学できるんだそうです。中洲までは渡し舟に乗って行くとのこと。これに乗るだけでもちょっとした船旅が楽しめるそうです。平らな岩島にルートヴィヒ4世によって築かれた、軍艦を模して造られたお城だったそうです。五角形の船の形をしているのは、激流化した水の流れによる損傷や流木などで城壁が崩されるのを防ぐためといわれています。今、温暖化で日本列島では川の氾濫とか起きこんな平静を保って存在できない場所の河原。その対策をも計算して建てられていたとは凄いことです。はじめに中核の五角形で6層の大塔が建設され1327年に完成。跡を継いだ甥のルドルフ2世によって1338から1342年に塔を囲む城壁が増設されたのだそうだ。この頃から「城」と呼ばれるようになっています。1607年には右端に稜保とアーケードの内部も造られています。どんどん拡充されレンガと漆喰で造られた白い城壁の高さは12mもあり、天然スレートで葺いた黒い屋根とのコラボレーションも見どころのひとつとなっているそうです。城壁の上には矢狭間や石落としを供えた木造の防御施設も整っています。その都度改築がされてたみたいで、城は1714年になんとバロック様式に改築され、現在のような姿になったのだそうだ。税徴収のために作られたお城なので、戦争などの被害にあうこともなかったようです。現代人にとっては行き易くありがたい立地にあるプファルツ城ですが、中世の頃から既にこの場所は交通の要塞でした。オランダ語で Rijn,英語では Rhine,フランス語ではラン Rhin。Rheinはドイツ語。全長 1238.8km。貿易の要であるライン川中流、城の上流には川を狭める船の難所「ローレライ」があり、フランクフルトやサッカーで有名なFC東京から渡った武藤がいたマインツと言った大都市を目指す船は必ずこのプファルツ城の傍らを通る必要があったのだそうだ。そんな理由から、プファルツ城は小さくとも立派な税金の稼ぎ頭として君臨していたのです。この写真でも登ってく大型の船。今でも行き交う輸送船も多いようです。                             コウジロウの独り言

30型ニッサンローレルは上高地の清らかな風を感じていた。

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上高地帝国ホテル。その前になぜかガラガラだった道路脇の駐車スペースに一台のエレガントなクルマが写っている。久々チョットピンボケの写真で申し訳ありません。クルマの向こうにいた兄の画像を消すのにチョット苦労した写真なんですが、写ってるのがC30型ニッサンローレルである。自分が初めて免許を取ったときのクルマである。当然「所有者は親、使用者が自分」という関係のクルマ。今では若い人でもローンの普及によりボンボン買える時代なのですが,当時はこの形の登録が多かった。1968年にデビュー。水冷・直列4気筒SOHCのエンジンを持つこのクルマは旧プリンス設計のG18型を搭載していた。なんと日本初の1800CCである。所得水準の向上や高速道路の普及により高速安定性の高いクルマが要求されだした頃のクルマ。スーパーソニックライン・ブルーバード510よりひとまわり大きいシャシーで発売当初は4ドアのみ。Aピラーの傾斜角度が物語るように、当時としては本当に進歩的な技術の結集されたクルマだったこと。そしてその一つが4輪独立懸架であった。ハイ・オーナーカーの第一人者であり、バンを持たないハイソ・カーとも言われた。スバル1000などには技術的に感化されたのかもしれませんが、当時のプリンスとニッサンの結晶と言えるクルマの誕生だったのです。T美大の時代。ヘビー級のボクサーのモハメッド・アリの運転手をしてから後に運転の好きだった自分がこのクルマでラリーのオフィシャルとして活躍もしたこともあった。ただ後輪がこの独立懸架のため車体が下がってしまい、デフをよく擦っていたのも40年も前のお話なのですが、記憶に新しい。環状8号線横の校内の中庭・楕円形サークルでタイヤ交換をしたり、ブリジストンのロゴにチョークで塗ってタイヤのクルクルを見ては楽しんでいた時代である。ホイールがアルミまで手が届かなかったのでキャップを外したとの差別化を図るためそんなこともしてたのです。「コラー!」と以前のブログにも書いてますがプロダクト・デザインの先生から怒られていたこともありましたっけ。トヨタマークIIがライバルでワイドバリエーションのマークIIには足元には及ばなかったニッサンローレル。後半、「ゆっくり走ろう」尾崎潔彦のCMでハードトップが2000CCで誕生。世の中をリアのハミングライト同様騒がせた。この上高地。交通安全と自然環境保護のため、現在では自家用車(二輪車、レンタカー含む)の入場が規制されており、路線バス・タクシー等許可のある車両のみ通行が可能になっている。上高地入口釜トンネルより通行禁止のため、「沢渡駐車場」または「あかんだな駐車場(平湯)」にてシャトルバスやタクシーで行くことになる。参考まで通行可能時間…午前5時~午後7時(7月~8月は午前5時~午後8時)となっている。ホームページには「神の郷、神河内と呼ばれ聖域だった頃から変わらぬ地、上高地上高地帝国ホテルはその自然は神秘的なまでに美しく、訪れる人々を魅了しつづけています 」と書かれている。「清らかな梓川、気高き穂高の山々、静寂なたたずまいの明神池…。季節が織りなすハーモニーの中で過ごす時こそ、最高の贅沢。」だったことは確かなことである。我々クルマ3台はこれから飛騨高山に向かって行った。  コウジロウの独り言

プジョ−508は新型508を待つ間でも新鮮である。

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プジョー508は、フランスの自動車メーカー・プジョーが生産・販売するセダンが「508」。ステーションワゴンが「508SW」というクルマ名となっています。写真は実弟のクルマ。見るからに高級車というイメージのクルマ。自分の乗っているボルボV40と同じく小エンジン1600CCで、全域ターボのイキのいいエンジン。ノーマルなら2.500CC〜3.000CCにあたる。最初は大きなエンジンルームを開くと空間だらけなのには驚いた。エンジンカバーがなかったからかもしれませんが、とにかくエンジンが小さく見えたのが印象的だったのも記憶に新しい。静かなスムーズなエンジンを持つプジョー508は、プジョー508/プジョー407の後継車として2011年3月に発売され、中国、マレーシア、ナイジェリアでも生産される世界戦略車なのだそうだ。フランスのレンヌ工場以外の世界の各地に工場があるらしい!グループ企業に属するシトロエンとは兄弟車。以前弟はプジョーの405Mi16×4(フルタイプ四駆)。自分はシトロエンBX16Vと同じプジョーエンジンのクルマに兄弟で乗っていたことがある。面白いのは同じフランス車なのに「ピニンファリーナ」と「ベルトーネ時代のマルチェロガンディーニ」とデザイナーとカロッツェリアがイタリア国籍だったことです。このプジョーは2015年にはビッグマイナーチェンジがなされている。写真のクルマはそれ以前の形だと思われる。ボルボV60と比較すると皮のシートはやや硬い印象でしたが白のボディに明るめのグレーのシートはエレガントこの上ない。ちょっとステッチは気になる類かもしれませんが?その他のバリエーションとして搭載されるエンジンは、排気量1600cc、2,000c、直列4気筒ディーゼル、さらに今では2.000ccディーゼル+モーターというハイブリッドも用意されているとのこと。プジョー新508が秋からイギリスで発売されるのだそうだ。5ドアのファストバックなのだそうだ。これも情報として写真を載せてみたいものだが、ブログでも載せてはいけないと言われ断念する。常に新しい情報を共有しようと試みてきたのだが残念なことである。ヨーロッパ各社がファストバックスタイルの5ドアクーペセダンが誕生してくる。特にオススメはこの新型プジョー508とOpel Insignia GSi 。よくネットで見ておいてください。今までこのブログで他のネットからの引用の写真を2回ぐらい使ったのですが、ブログとしてもダメなこととして言われたりもする。それでもこれからも今まで同様に、自分の撮影した写真中心で構成していくことにしますのでよろしくお願いします。但し、よくウエブを見ていると、同じ質問されてる方がいて「だったらグーグルアースはどうなるんですかね」といってる方がいてこの方が問題と言っている。何故ならば自分もかつて昼ご路に自分のマンションの駐車場に車を入れてたのが写ってたこともあった。しかもブレーキランプがついてる瞬間なんですよ!近くのクライアントに行った帰りに立ち寄ったのが理由なんですが、こんなのまで写っちゃうんだから?プライベートもないんだって思っていた。これなんかは訴えられてもしょうがないことだと思う。まあそういう風にあやふやのところがまだまだあるようで自分のはそこまで至ってない物思い、少し安心はしている。しばらくは引用先を明記してやっていくつもり。そうしていけば今からも乗り越えられると思う。  コウジロウの独り言。