Stream:「流れ」「時流」の意味していたのに STREAMをマーチャンダイジングから消していたHONDA。

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新しい7人乗り車両の潮流を創り出すという意思を含んでいたらしいネーミィング。また、本田技研工業はかつて同名の三輪スクーターも製造していた。プラモデルで「Streamがあった」と喜んでいると、箱に描かれたイラストがスクータ−だったりしてがっかりした事もあった。2006年7月13日にフルモデルチェンジを行なわれ2代目が誕生。ロゴが「Stream」からすべて大文字の「STREAM」に変更されたそうだ。5ナンバー枠いっぱいの車高を低床低重心設計にし機械式駐車場に入れるられるよう低く、スタイリッシュなデザインだった。また、低重心効果により走行性能が向上しているとのこと。エンジンは、R20A型とR18A型の2.0L/1.8L 直4 SOHC i-VTECがあり、それぞれ150PSと140PSの出力を発生した。10馬力しか差がないのがよく解らなかった。それしか差がないのかと思い、ローンを組んだのがこのクルマ。1.8L直4 SOHC i-VTEC.。池袋の営業だった方が田無の支店長になったのもきっかけでホンダ車に決めていた。支店長はこちらの要望で中古をと言われていたので中古車センタ−当然ホンダのU-CAR専門店に足を運んでくれ、探してくれた。ただ、中古車と新車のローン支払いがあまり変わらないこともあり、このクルマに決めたのである。南船橋から田無の北多摩営業所に整備に行くのもちょっとかったるかったが1時間待たされても、かつて住んでいた事もあり、田無の駅界隈を歩くのも苦ではなかった。トランスミッションには1.8Lおよび2.0L 4WDには5速ATが、2.0L FFにはトルクコンバータCVTが採用されている。さらに「RSZ」はステアリングにパドルシフトを備えており、マニュアル感覚の操作を行うことができたとされている。ネーミングもトヨタやスバルより先を云っていた様に思われてしょうがない。スバルのBRZトヨタC-HRにしてもHONDAのRSZCR-Xそっくりである。絶対トヨタのネーミング担当者はアンテナとして頭に入っていたはず。新車乗用車販売台数は、2007年1月~12月の販売台数は57,351台。対前年比では139.4%であった[5]。なお、目標月間販売台数は5,000台と発表されている。フルモデルチェンジにより基本性能が大幅に進化した2代目ストリームは、ウィッシュから人気をホンダに取り戻したといわれている。2009年6月18日、 マイナーチェンジを実施。新たに、優れた加速性能とスポーティなエクステリアを採用した2列シート仕様の「RST」(1.8L・2.0L共に設定)を追加したそうだ。2010年4月5日 既存の「X」をベースに、メッシュタイプのフロントグリル、大型テールゲートスポイラー(ハイマウントストップランプ内蔵)、15インチアルミホイール、ディスチャージヘッドランプなどを装備した2列シート仕様の新グレード「TS」(1.8L・2.0L共に設定)を追加した(4月8日販売開始)。写真は3列シートの7人乗り。2010年9月にエアウェイブが生産を終了し、2011年6月にフィットシャトルが発売するまでの間、当車種の「RST」と「TS」がホンダでは唯一の5ナンバーステーションワゴンであったらしい。2011年8月、「ZS」をベースに、メッシュタイプのフロントグリル、LEDハイマウント・ストップランプを内蔵した大型テールゲートスポイラー、エアロリアバンパー&アンダーカバー、レッドステッチ付の本革巻3本スポークステアリングホイール、応急パンク修理キット(本装備に伴い、スペアタイヤレスとなる)を装備した特別仕様車「スポーティエディション」を発売した。そうこの写真がそのクルマなのである。ホンダが生産するミニバンとしては唯一車高低いモデルであった。2014年6月5日に、本田技研より同月中に生産中止することを明らかにした。これにより、2015年2月にジェイドが発売するまでの間、ホンダが生産するミニバンで車高低いモデルが一旦消滅した。自分はジェイドに期待したのだがガラス面積が大きいのとそれほど新しさを感じず、VOLVO V40の方にユーザー目線が流れて行ったのも事実である。ホンダの無限デザインはいいのだが純正デザインはグリルが特にダメ。比較してください。V40はグリルデザインはもとより、自動縦列駐車やアイサイト的なオートブレーキ追従システムなどHYBRIDより斬新なスタイリッシュなクルマに心動かされたのである。自分より妻と息子が心動かされたのは事実である。  コウジロウの独り言

「クジラ」の愛称を持った4代目トヨタ・クラウンと モハメッド・アリ。

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1972年に初来日。この年の4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めたモハメッド・アリ。その数週間前。神宮外苑でトレーニングを終えて送迎のクラウンに乗ろうとしているアリ。自分は普段は3代目クラウンのハードトップに乗りマネージャーを乗せていた。この日だけは何故か神宮までのせて行った。一緒に写ったいるのは当時ICUに所属していたO氏。やがてJALパイロットになるのであるが、世の中狭いもので自分の息子の友達のお父様もJALパイロットであり、同僚である事を知らされ数十年前に驚かされた。この時のアリの相手はマック・フォスタ−で、試合のチケットのナンバーリングやPRESS CARDのデザイン等は自分がやった記憶がある。今覚えているのは、アリと共にしていた自分のネクタイにサインを貰ったこと。ただし残念なのはそれが何処へ行ったかまるで解らなくなってしまった事である。実家の洋服ダンスに架けておいたのに不明になった。アリが恋人の『ズーリー。ズーリー』とエレベータ−から呼んでいた事が耳から離れない。今だから言えるお話かも知れませんが。英会話での電話での応対でこの頃覚えたのが「Now Calling Mr.Who?Miss. Who?」でした。もう一人の通訳がよく事務机の前で言ってるのを聞かされました。クルマのお話にしましょう。そう、このクラウンのボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアハードトップ、カスタム(ワゴン)、バンの3種でした(車両型式はハードトップがS7#系、それ以外がS6#系)。このモデルからは「トヨタ・クラウン」となったそうだ。「スピンドル・シェイプ(紡錘形)」と呼ばれる、丸みを帯びたスタイルから「クジラ」の愛称を得たようだ。高速性能や安全性を意識して曲面を多用した車体や、組み込み式のカラードバンパーを特徴とする斬新なスタイリングは、先代のS5#型以上に個人ユーザーへアピールするものとなった。時代を先取りしたスタイリングは当時の保守的なユーザーに敬遠された。ウィンカーをグリルの最上段にするなど、先頭のボディを絞り込んだデザインによってなのかエンジンルームへの通風が不足、夏季にオーバーヒートが続発したことが多くあり、ボディーの先端形状の見切りの悪さから、取り回しに支障が出たことによる不評が相次いだそうだ。この同時期にモデルチェンジしたセドリック/グロリアに販売台数で逆転されたことも有名なお話で「クラウン史上唯一にして最大の失敗作」と言われた。ただ、自分達はアリ同様マックフォスターの送迎の時のマークII GSSやロータリー・サバンナ等を運転出来ている事に鼻が高かった。午前3時頃、一人家に帰ろうとしたロータリーサバンナで井の頭通りの交差点で5〜6台一挙抜きしようと突っ込んで歩道に乗り上げて事故りそうになった事も記憶に新しい。これも今だからお話出来るんですよね。ロータスヨーロッパ/ロータリー・コスモ/エンジンが壊れていたセンチュリー等も運転出来たのはまるで夢。但しロータスヨーロッパはプロモータ−の社長のものだったと思うが、ニュージャパンからホテル・オークラまで運転するも、うるさいのと背中が暑かったのを覚えている。           コウジロウの独り言

TOKYO MOTOR SHOW 2017 vs MINAMI FUNABASHI MOTOR SHOW.

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いよいよ第45回東京モーターショー2017が始まった。自分は10/25(水)と10/26(木)プレスデーのチケットをまた手にする事が出来、治療中の身にもかかわらず、初日は愛車でクライアントに立ち寄ってから二日目は会社から出かけて行った。正直感激するものは一つもなかった。プレスカードでサンドイッチとコーヒーを手に黒いTMSのバッグも貰いボールペンを手に会場入り。感激がなぜかない。特にクルマのエクステリアからしてもインテリアを見てもどれを見ても普通だった。以前、我が社の方々が取り組んでくれていた、モータ−ショウNEWSも今回のは二日とも同じ内容だった。つまり変化がなかった。最もクルマのディーラーに愛車点検のために出かけるからなのか?とにかく新鮮さに欠けていたのである。一般公開を前に二日も出かけていた自分が言う事ではない。電気自動車が主流とマスコミはよくニュースで流しているのにも影響されていたのかもしれないが決してそういう事だけではなかった。おもちゃのトミカも普通!商品数が少ない。思い出せば1〜2週間前に南船橋のララポート東京ベイの駐車場とビビットスクェアの屋上の駐車場にLEXUS LC 500(B)と500h(C)が普通に駐車してるんです。(C)のLC 500hは屋根が空くにもかかわらず、大雨の日に平気で停めていた。(A)はモーターショウのLC500。それぞれが1,350万円と1,300万円でスゾ!少なくとも初日のモータ−ショウの駐車場でもこの光景は見なかった。レクサスの関係者かもしれないが、普段乗りしてる人たちが高級車に増えて来ているのは事実。ましてや発売から数ヶ月も経たずにして普段乗りできる人たちが世の中には増えて来ているのだろうか?メルセデスAMG-C63にモーターショウでコンパニオンに聞くと平気で2,000万円と返事が返ってくる。中古かもしれないがマンションも買える位な金額がクルマの価格になって来ている。前からポルシェを買ってアパートの4畳半に住もうなんて人もいたらしいが、一家に一台から一人に一台。5人乗りではなくて2人乗りでも国産車で1,000万円を超えるクルマに乗る人が増えて来てる事実もいなめないのである。学生時代にマーチャンダイジングボルボのようなロータリー・エンジンのワゴンを提案した事もある自分が感じるのは、静かなサウンドを取り得ようとしていたのとは対象的に、東京の日本橋や原宿・表参道でランボルギーニアヴェンタドールガヤルドをよく見かけその大排気量のエンジン音を聞いて感激し、 特別を感じてた自分。オートサロンの方がまじめな自分にもその響きが届いてくるのかもしれない。でもモータ−ショウでも最高なプレミアムをみた。MAZDAのプレス用のデータが入ったUSBである。コンセプトカーを彷彿するその銀色に輝くUSBはMAZDAのセンスを感じさせる逸品だった。コウジロウの独り言

Citroen BX 16v は Citroen BX GTI 16Vとは言わない。

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The Citroen BX 16v was perhaps one of the performance car surprises of the ‘80s, given the base car’s utter lack of go-faster pretension. But when they slotted in an all-aluminium engine pumping out 160bhp (shared with the much more revered Peugeot 405 Mi16), beefed up the suspension and tacked-on a bodykit, a sporting express was created. With a top speed of 135mph and a 0-60mph time comfortably under 8 seconds, the BX could trade punches with far more expensive cars, but despite being relatively good value, sales were disappointing after an initial flurry. Most have gone now, having fallen prey to the 205 GTI engine-swap brigade.(Octane) シトロエンは、古くは1950年代の「DS」からはじまって、「Ami」「CX」など、丸みを帯びた宇宙船のようなクルマをクリエイトしてきた。その流れを変えさせたのがベルトーネ時代のガンディーニ・デザイン。シトロエンBXは直線を基調としたファストバックスタイルの大きなウインドウ、グリルのないツルッとした鉄仮面ノーズ。ブリスターフェンダーとはまた違う半分隠れたリアタイヤなど、いま見ても斬新なスタイリング。その中でGTIの上を行く最高峰のBX16Vに乗っていた自分。あのCGでもネット上でもGTiを付けている表示が多く、ノークラッチの多いGTiに対しBX 16Vはマニュアルしかないスポーツカーなのだ。表示で間違えたところはマニアが書いてない証拠ですね。要修正ですね。くれぐれもBX16VはGTIの名前は付きませんのでよろしく!BX16Vのリヤタイヤカバーはオーバーフェンダー的にとびだしたビルトインデザインされたもの。フランスのソファを連想させるシート。16Vはサイドのサポートも適度に固く引き締まったもので、背とソファー部そのものはトリコットクロススポンジの如し。とてもしなやかで柔かった記憶がある。以前のブログにも記述をしてるのですが、左ハンドルのマニュアルシフト。スコーンスコーンと入るそのギヤノイズに小気味好さを感じていたのも記憶に新しい。あ、そう弟が乗っていたプジョー405 Mi16も同じエンジンだった。Mi16のデザインはピニンファリーナシトロエンBX(ベイクス=自分はビーエックスと呼んでいるが)は、GSAとCXの車格の間を埋める目的で1982年秋にパリサロンで発表されたのだそうだ。1985年にはブレークと呼ばれるステーションワゴンを追加し、1993年に後継車種のエグザンティアが登場するまで製造された。11年間、毎年改良を加えられたBXだったらしい。1980年代の自動車デザインの流行であったスペース効率の追求を徹底していた。ハイドロニューマチックのセルフレベリング機能により、荷重によるリアの沈み込みは全くない。但しLHMオイルか窒素ガスが無くなると、駐車時や止まった時、直ぐ後ろがローダウンしてしまい、戸惑ったこともある。デザインは前述にもある様にイタリアのカロッツェリアベルトーネにおいて、ランボルギーニカウンタックランチアストラトスなどのデザインで有名なマルチェロ・ガンディーニベルトーネ社在籍時における、ガンディーニの最後の作品らしいのだ)。このモデルはボルボ用にプレゼンテーションモデルとして不採用になったものみたいですが。ベルトーネはBXを機にシトロエンと関係を深め、XMやZX、エグザンティアでもデザインを担当したとされている。ボディサイズは、全長4230×全幅1660×全高1365、ホイールベース2655(mm)980kgと非常に軽量化されたボディ(日本仕様 1040kg~1110kg)は、フロントボンネットやリアハッチゲートがFRP製であった。(但し、初期型や一部の最後期型ではボンネットがスチール製)。自分が首都高速事故に巻き込まれた時のハッチバックが割れていた事を思い出しました。エンジンは、16Vで排気量1.9Lで直列4気筒DOHCのハイオク・ガソリンエンジンシトロエン伝統のFF方式。サスペンションは、シトロエンとしては初めてストラット式で、リアがトレーリングアーム式。スプリングは、前後共にハイドロニューマティック。BXには、 世界ラリー選手権・グループBの参戦資格を得るために200台製造された「4TC」と言うモデルが存在した。外観は、ワイドトレッド化にともない前後フェンダーブリスターフェンダーとなり、フロントライトの間に補助ライトが4灯埋め込まれ、リアには大型スポイラーが装着されていた。かなりいい過激なアウディクワトロ的デザインだった。エンジンは、プジョー・504用エンジンがベースの、排気量2.1Lで4気筒OHCターボのガソリンエンジン。それを縦置き(BX16Vは横置き)フロントオーバーハングに積み、4WD方式で駆動した。サスペンションは、前後ともにダブルウィッシュボーン式に変更されたものの、スプリングはそのままハイドロニューマティックを使ったとある。今や自分の感覚ではシトエン=プジョーになっていたものの、最近では市販車はかなり方向性が異なって来ており、どうしても北欧の小排気量でフルターボのボルボに触手が伸びてしまってるのが実情である。CGでシトエンが格好いいと言われても、今ではスカンジナビアデザインの方が好きだから仕方がないのである。特にエンジンルームは今のクルマはとてつもなく綺麗なのである。当然両社ともそうでしょうが?正直シトロエンのボンネットは開けてませんけど。 コウジロウの独り言

スカイライン・ケンメリとCIBIE TYPE45

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1970年代から1980年代まで実はケンメリに自分は乗っていた。4代目 C110型(1972年-1977年)である。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通だったそうだ。2ドアハードトップは太いCピラーを特長としていた。これは後部を除くとまるで死角が多く、当時バックモニタ−がなかった時代によく運輸省が認可したものだと思う。ただ、自分はこの形が大好きである。スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーデカール式のピンストライプが設定されている。これは当時の日産自動車の社長命令だったらしいのだがさだかではない。写真を見てほしい。付いているフォグランプとスポットランプである。シビエのタイプ45をバンパー下に付けたのは見事だと思う。自分で言うのもなんだが、ディーラーなのかメーカーなのかは解らないが、最終のケンメリのオプションカタログに載っているのである。そしてWEBにも写真入りでシビエのカバーをこの位置につけているのもあるのだ。ただ、フォグが黄色でスポットが白色が通常。自分のケンメリはそれが逆である。フォグは運転席から見にくい縁石等を照らす為向かって右側に。スポットを前を照らす為運転席側に付けるものだった。そのスポットが黄色なのだからラリー通のドライバーからしたらお笑い者。売り切れてたのでそうしてしまった。当初、グリルの中ラジエター前に装着したのだが光る範囲が限られてくる為、バンパー下にしたのであった。GTXだったため、パワーウィンドウは標準装備。前にも述べたがステアリングがバリアブルシフトの低速域で軽く、高速でしっかりホールドすると言う素晴らしいものだった。ただパワーステがなかった当時としてはユニークな発想のものだったが、今乗ったら本当にとてつもない重ステだった記憶がある。中古のディーラーで撮影の際に乗せてもらった時、体感したからです。箱スカはもっと重たかったが、そのとき乗った感じは同じ重ステだった。CIBIE TYPE45を探してもなかなか出てこなかったので「CIBIE  スーパーオスカー」を検索。なかなか出てこない。TYPE45なんて殆どない。やっと出て来たのがやはり「CIBIE スーパーオスカー」だけだった。バイクのライトではいまだにシビエは多そうだ。そして【総評】としての紹介のみ。「ラリーをしていた父の友人から譲り受け、その後父のスプリンター・カリブに付いていましたが雪国に行く時にバンパーガードと共に装備。とてもデカイフォグランプでフロントガラス越しでも分かるその存在感 ...」(2016年6月20日 [パーツレビュー] 86dog さん)だけだった。やはり70年代を走って来た我々しか知らない世界。エスエスリミテッドも今や手を引いたみたいですね。まあ、その残像を見てやって下さい。左の写真のカラーの方は軽井沢。モノクロは濃霧に包まれた『箱根ターンパイク』にてである。軽井沢はまあともかく、タ−ンパイクなんかは一人でグングン攻めたののです。ツインキャブなのにレギュラーガソリンと当時は今ほどガソリンが高くなかったせいで、簡単にドライブしたものだ。こんな濃霧の時はこのコンビネーションのランプは活躍した。ハイオク使わなくていいGTXは多分これが1号車なのではないかと思います。なぜならばまだカタログにはのってなかったのですから! コウジロウの独り言

2001年9.11アメリカ同時多発テロの真実と陰謀は?

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自分がニューヨークロケに行ったのが1980年代。この写真はクォ−タードルで渡れた(1997年には無料化になっいる)フェリーのスタテンアイランドの帰りの船上から撮影した7 ワールドトレードセンター(セブンワールドトレードセンター、英語: Seven World Trade Center, 7 WTC)。当時のニューヨークのワールドトレードセンターを構成する超高層ビルのひとつである。まさか十数年後に旅客機が突っ込むと誰が想像するでしょうか?現在のビルは2006年に完成。旧ビルは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で倒壊。元の写真の7 ワールドトレードセンターは1987年に完成した。47階建てで、赤い花崗岩の外観のビルであった。写真には写ってなく後の建造物かもしれませんが、訳あって自分も東京のど真ん中の18階の病棟に1週間ばかり入院していたのですが、47階なんて2.6倍も高い。高すぎて想像もできない。本当の高層ビルの最大の入居者はソロモン・ブラザーズだったようだ。7ワールドトレードセンター・プラザとはペデストリアンデッキで結ばれていたのだそうだ。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件でワールドトレードセンターの北棟が倒壊、瓦礫が7 ワールドトレードセンターに降りかかり火災が発生、消火活動ができない状況で、午後5時20分、 7 ワールドトレードセンターも倒壊した。直接航空機が衝突したわけではない本ビルが崩壊したことについて疑問が殺到。火災の熱で鉄骨の強度が落ちていたのに加えて、ツインタワーの崩壊による破片の直撃や大地震を上回る猛烈な縦揺れの影響で崩壊したとされていた。倒壊は実際より早い午後4時54分に英国放送協会が報じたそうだ。倒壊を知らせるキャスターの背後には7 ワールドトレードセンターがしっかり立っており、カメラの切り替えがないまま午後5時20分となったときにビルは崩れた。この映像がYouTubeに上がったときBBCのウェブサイトは炎上した。この点、いまだに説得力のある説明はされていないのだ。新しい 7 ワールドトレードセンターの建設は2002年に始まり、2006年に完成した。高さ226m、52階建てである。新しいビルは鉄筋コンクリートのコアに、広い階段や太い耐火性の柱など安全面に配慮した構造となっている。新しいビルにはムーディーズABNアムロ銀行がはいってるらしい。崩壊したビルが、実はもう1棟存在してたのだそうだ。WTC7 (世界貿易センター第七ビル・47階建)。このビルには、9.11事件で航空機が1機も衝突していないが、謎の崩壊により消滅している。ツインタワーが航空機によるものであれば、この崩壊原因は、一体何だったのだろうか。WTC7に入っていたテナントはCIAやウォール街の証券取引の記録管理をする金融機関だったと言われている。お気に入り詳細を見るとタワーから一番離れた場所にあった第7ビルの損傷は少なかったうえ、47階建てのビルが、6.5秒というありえないスピードで崩壊してしまったからだ。そして、その崩壊する姿を見ると、爆薬を使ってビルを解体する様子に、よく似ているように思えるのである。故意にもう一つのテロがあったともされているのだ。9.11で飛び降り落下する人間と、ビルの倒壊スピードは変わらない。つまり強固な下層階が、何らかの理由で突如消滅したことになる。直接航空機が衝突したわけではない本ビルが崩壊したことについて疑問を呈する声も多かった。火災の熱で鉄骨の強度が落ちていたのに加えて、ツインタワーの崩壊による破片の直撃や大地震を上回る猛烈な縦揺れの影響で崩壊したとされている。ちなみにこの記述を編集して消すと、管理者が即座に現れる仕組みのようだ。何が何でも裏の裏が暴かれていない歴史上の最大の出来事なのだ。 コウジロウの独り言

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ホテル ザンクト ゲオルグ ハイデルベルグ

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ハイデルベルグ旧市街の中心地、聖霊教会の近くに位置する17世紀建築のルネッサンススタイルのホテル。ハイデルベルグ城を見学する時に必ず目に入るホテル。1974年2月に訪れた時に自分のキャノンペリックスの視界に入っていた。ロマンティックな雰囲気と機能性を兼ね備えている。今でも外観は同じようだ。このホテルが今や人気になってるそうだ。客室はバスタブ付きまたはシャワーオンリーを選べるらしい。ハイデルベルグ城行きのケーブルカー乗り場までは徒歩で5分足らずとある。中央駅までは約3km。2007年8月1日より全館禁煙。 当然と言えば当然だが、1974年当時のヨーロッパは確か何処でも吸えていた。イギリスのピカデリーサーカスなんかはパイプ全盛期。路面店の売店にもリーズナブルなパイプやタバコを巻くタバコ紙が売られていた。ドイツではまだ東西に分かれていた時代。15年後にベルリンの壁が壊されるのだから、貴重な写真とも言えよう。ハイデルベルグが哲学の街として知られるようになった黄金時代の雰囲気を味わいたい旅行者に最適とされている。ホームページや旅行ガイドにも乗っており三ツ星以上のレッテルを押された。日本からも観光客が多く訪れる人気の都市ハイデルベルクはドイツ バーデン・ビュルテンベルク州の北部に位置する人口約14万人の古都だそうです。ネッカー川沿いに広がる街並みは、ドイツを代表する美しい街。ハイデルベルグといえば一番に思い浮かぶ「アルト ハイデルベルグ」に象徴される大学都市でもあります。ドイツで最古の大学であるハイデルベルク大学は1386年に創設され、今日においてもドイツ有数の名門大学の地位にあります。ハイデルベルクには有史以前から人類が住んでいたと言われますが,その名前が歴史上注目されるのは,神聖ローマ帝国の有力領邦であったプファルツ選帝侯ハイデルベルクを首都とした14世紀あたりからのことだそうです。ハイデルベルグは宗教改革の際にプロテスタント側に立ち、そのために30年戦争で重大な被害を受けたそうです。17世紀末のプファルツ継承戦争ハイデルベルクフランス軍の攻撃を受け、ハイデルベルク城は破壊されたそうです。ハイデルベルクはこの地域の政治の中心という地位を失って一旦は衰退しますが、新たな支配者となったバーデン大公国の初代大公のカール・フリードリッヒの庇護のもとで、ドイツ最古の大学街として有名になりました。第2次世界大戦では、ドイツ全土は空爆による大きな被害を受けていますが、幸いにもハイデルベルクは小規模な空爆ですんだおかげで、現在でも中世以来の美しい建物を残すことができました。だから、このホテルの雄視を今でも見られるのですね。          コウジロウの独り言