懐かしの星野一義氏と松本恵二氏そして萩原光氏のグループC.カー。

f:id:kohyusya:20170905171506j:plain Photo by Kojiro Yoshida Photo Data Canon F-1 FD24mm F8

このお話の中でも萩原光氏は1986年、ニッサン初参戦となるル・マン24時間レースのドライバーに決定していたのだが、それを目前にした4月7日に懐かしのレイトンハウスのメルセデス・ベンツ 190E 2.3-16のテスト走行中、スポーツランド菅生(当時)の2コーナーでコースアウトしクラッシュ。マシンは炎上し、そのまま息を引き取った。なんと言う若さなのか享年29。ピットやパドックで爽快にホットパンツつまり赤い短パンでサーッと風を切って足早に星野氏と一緒に去って行く印象の人だった。他界したのは知ってましたが29歳で亡くなっていたなんて本当にもったいなかったですね。写真はそのトリオで挑んでいた富士1000kmの勇士の後ろ姿。もう亡くなってしまった松本恵二氏の名前も書かれているニッサンマーチ・85G。萩原氏の記憶が消えて無くなろうとしている現在、淋しさや哀愁と言う形になって現れて来ているのだろか?それだけではなく時代の歴史が変わって来てるのですね。マーチ・85Gは、マーチ・エンジニアリングの1985年型グループC・IMSA-GTP用シャシに、日産自動車のセドリック・グロリア用3リットルV型6気筒ターボエンジン・VG30を搭載したグループCカー。1985年の全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)参戦用に日産がマーチより3台購入した。なおマーチ85Gシャーシは全部で11台製作されているらしい。シェイクダウンは日本でなく、米・リバーサイドで行った。デビュー戦は7月の富士500マイル。ウィングからの景観が格好良かった。2戦目の鈴鹿1000kmで早くもポールポジションを獲得。3戦目となるWEC-JAPANでは予選初日にワークス・ポルシェを相手に1-2位を独占(翌2日目にポルシェに逆転される)。豪雨の決勝では、海外勢が撤退し2時間に短縮された変則レースながらも星野一義氏のドライブで初優勝を遂げる。星野氏は日本人初の世界選手権ウィナーとなった。翌1986年にはル・マン24時間レースに参戦。長谷見昌弘氏/和田孝夫氏/ウィーバー氏(James Weaver )組が16位ながら完走している。日産はル・マン初出場で初完走となった。なお1985年シーズンは「シルビアターボC」「スカイラインターボC」の名前でエントリーしていたが、1986年シーズンからは「ニッサンR85V」の名でエントリーしているとなっている。とにもかくにも貴重な写真の一枚である。

コウジロウの独り言

スタ−ト直後の事故。富士逆回りスピードウェイ。

f:id:kohyusya:20170818184138j:plain Photo by Kojiro Photo data Canon Perix FD 200 F5.6

あの超高速30度バンクで注目していた富士スピードウェイ。6kmのフルコース以外にも戦いの場があった。後のF-1GPを想定してバンクを使わないレイアウトを創った。ストレートの終わりで右に急転回し、バンクを通らずに元のコースに合流する1周4.3kmのショートコースである。現在の国際コースは4.563km。初期にはこのショートコースをフルコースとは逆の左回り(反時計回り)で使うことも多かった。バンクを使わない分安全だなんて思われていたのだが、長い下り勾配で続く第1コーナー(フルコースの最終コーナー)への突っ込みにはかなりの度胸が必要だったそうだ。ハイスピード勝負がどちらにしても売り物であった。鈴鹿サーキットから4年後の1966年に、富士スピードウェイは開業。富士スピードウェイ鈴鹿と対照的な性格で半世紀にわたり「東の富士、西の鈴鹿」と呼ばれた。日本を代表する国際レーシングコースの地位を確立。特長は超高速タイプの広大なレイアウト。計画の発端がアメリカ式のオーバルトラックを想定したものだったらしいのだが、御殿場市近郊の駿東郡小山町という丘陵地のため、完全なオーバルの建造は難しく、中・高速コーナーを組み合わせたロードサーキットの形に落ち着いていたのだ。アメリカ式を本当の意味で目指した名残が、超高速の右曲がり30度バンクだったそうだ。1972年の日本オールスターレースの様子。レースカーの向きとコントロールタワー、メインスタンドの位置に注目。富士スピードウェイではいわゆる“逆まわり”でレースが行われることも多かった。ただ前哨戦だったのかよく覚えてないのだがセリカには見崎氏、カローラには高橋晴邦氏、サニーには高橋国光氏が乗っていてこのような事故が起こっていた。この次のメインレースにサバンナがスカイラインGTRに勝つのである。レース場には行かないとわからないドラマがある。                                  コウジロウの独り言

モハメッド・アリはトランプ大統領をどう思っているか?

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Photo by Kojiro Photo data Canon Perix FD200mm F4

このブログの連載の一番最初に書かせて頂いたモハメッド・アリ。1972年の神宮外苑でのスパークリング帰りのクルマに乗る前のワンシーン。彼が生まれた1942年。出生地はケンタッキー州ルイビル。初めの名前は、カシアス・クレイ。今、アメリカのヘビー級ボクサーの話題があがってこないのは何なのか?まるでトランプ大統領がプロレスラーのラリアットをCNNにかけているシーンがあった。こんな格闘技が流行るからかもしれない。大統領のロシア疑惑ばかりがめだっている。モハメッド・アリが生きていたらなんて言うのだろうか?聞いてみたいものだ。カシアス・クレイは1960年のローマ五輪で金メダルを獲得するが、帰郷したケンタッキーで人種差別を受け、悔しさから金メダルを川に投げ捨てた事実。1960年にプロデビュー。当時、アフリカ系アメリカ人(黒人)が公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った公民権運動が盛り上がりを見せており、クレイもマルコムXらが所属するネーション・オブ・イスラム(黒人のイスラム運動組織。イスラム教から派生した新宗教)に入信。但し、1970年代の日本での試合のトレーニング中のアリは相手のマックフォスターに比べると真っ黒な黒人ではなかった。やや茶褐色の皮膚感だった。こんなことを言うのもなんだが、当時としてはインテリジェンスすら感じる優れた黒人に見えた。格好良かった。アリはリングネームをモハメド・アリに改めた。1975年にはイスラムスンナ派に改宗。1964年、世界ヘビー級王座を獲得。本名をモハメド・アリへと改名。1967年、アリの良心的兵役拒否(宗教の信条や政治的、哲学的な背景に基づく兵役拒否)により、最初の裁判で禁固5年と罰金1万ドルを科せられ、ヘビー級王座とボクサーライセンスも剥奪された。その後も信念を曲げずにアリは戦い続け、4年後の1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取る。1972年の神宮。再びリングにあがる為の特訓として日本でのマック・フォスタ−戦を企画。リングに復帰したアリは、1971年に世界ヘビー級王座に挑戦するも敗北していた。その後1974年にジョージ・フォアマンに勝利し王座に返り咲いた。1976年には、再来日してアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦を特別ルールで戦い、引き分けとなっている。一年前の2016年6月3日、米国アリゾナ州の病院にて74歳で永眠。朝のトレーニングのクルマは4代目クラウンだったと以前にも言っていた。国内では『クジラ』の愛称でも呼ばれた。当時はそんなには言われてなかったようですけど。このモデルですが、未だにカッコよく感じる1台。さすが名車という風格が漂ってた。この代から正式名称が「トヨペット・クラウン」から「トヨタ・クラウン」に改称、ボディタイプは4ドアセダン、ハードトップステーションワゴンワゴン、ライトバンの4種に固定されてた。外観の丸みを帯びたイメージより『クジラ』の愛称で親しまれていた。当時では先進的なボディで先端を絞り込んだデザインなどによりエンジンルームへの通風が不足しオーバーヒートが頻発したなど多くの問題が生じたらしく不評が相次ぎ、「クラウン史上最大の失敗作」とまで言われたそうだ。機能としても先進技術を搭載しており、電動リクライニングシートや世界ではじめてのアイドリングストップ機能を搭載するなど話題に欠けなかった1台だった。ただ自分の記憶の中にアイドリングストップだったとは覚えていない。                                    コウジロウの独り言

正丸峠とケン&メリー

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Photo by Kojiro                           

峠の茶屋での頂上地点でのワンカット。1972年頃、当時はセンターラインなんてものはありません。その峠の道には、その名は正丸峠。何回か出かけて、怖かった記憶があります。コーナーを攻めすぎて、何て格好つけて言いたいのですが、ハンドルの手さばきが遅すぎてアンダーステアになってしまったからです。特に下りは怖かった。4速のGTXはセカンドサードそしてローと3段階しかなく、セカンドがやたら伸びた。したがってエンジンブレーキが効かないのである。下りだとコーナーを外に降られてしまい飛び出そうになるのだ。ケン&メリーの後輪の泥除けを見てください。篠塚氏のギャランに比べたら質素なぐらい遠慮して装備されている。如何にもはないにしろ、ラリーカーっぽくも見える。この車ではラリーは出たことはないがレーシーな走りを見せていたことは分かっていただきたい。自分は峠で燃えるタイプなのである。その峠は埼玉県飯能市と同県秩父郡横瀬町の境界にある。秩父・奥武蔵にある峠の一つで旧国道299号にあたる。峠のコースは狭く対向車とのすれ違いも困難な峠としては低速テクニカルコース。当時はラリーチームの為のコースの下見で出かけていた。兄に教わっている最中。ちょっと前に流行った峠のドリフトとは異なるものだった。当然舗装もデコボコでガードレールがないコーナーもたくさんあった。むしろ今より本当に少なかった。当時の国内ラリーでは林道を走ることが多くあり、その最高峰として正丸峠があったようなものだった。今では人気アニメ頭文字(イニシャルD )2nd Stageに登場する峠であり聖地巡礼のドライバーも多いそうだ。この正丸峠、ちょっと前の昔は走り屋さんたちの集合場所だったようです。今でもコースとしては狭く、対向車が来た際は離合に苦労するポイントが多々あるそうです。どちら側から入っても上り、頂上地点で下りという複合ステージとなるコースだそうだ。頂上地点には峠の茶屋があります。国道299号線ではGW後半戦なんかは、うだるほどの上り渋滞になるそうだ。当時、走ってても対向車は驚く程少なかった。路面も汚くガタガタまでは行かないが、林道よりもちょっとましな程度。右へ左へとうねりくねったコーナーが迫って来ます。プレイドライブ的に言うならチェックポイントが少なく、ラリーではスペシャルステージ向きだったのかもしれません。カーブ具合なら自分が大好きだった旧碓氷峠を超えていたかも知れません。この峠は草木と土砂が襲って来るそうです。今ならセンターラインもありますが、話にならない程度らしいですが。その昔はここをバスも通っていたそうですよ。そう、こんな峠を越えて運転していたバスの運転手さんが一番運転がうまかったかもしれませんね!当時はですが!現在では正丸トンネルとなるものがが開通したため、使われる機会が減ったようです。ここをドライブするにはライトを付けるような時間帯を!と言いたいのですが、夜は鹿やアライグマが平気で道路を横断するそうです。「夜中走るみなさんはご注意を!」とあんまりいい印象のない正丸峠。それでも当時は丹沢を除いたコースとしては最高峰のラリーコースだった。 コウジロウの独り言

銀座の朝は淋しくも輝いていた。

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Photo by Kojiro

この写真は1975年頃の早朝のギンザ。以前の松坂屋の前。2017年8月現在はGSIXとなっている。国内外 のお客に向けて観光案内やチケット販売や外貨の両替、何故か宅配までもある。国内外へのお土産も買え、コンビニもある。便利機能をワンストップで備えた「ツーリストセンター」も設置。ターゲットをキチンとコンセプトに盛り込み、全てのお客にコミュニケーションの場として機能させるようになっているとの事。観光バスの発着場もあり、銀座の玄関と国際商業拠点とされている。外観の設計はあの丹下健三氏の弟子で谷口吉生氏。丹下氏は東京カテドラル大聖堂とつり天井の国立代々木競技場、東京都庁、そして新宿パークタワー横浜美術館と素晴らしい建築物を設計してる方。弟子だからだったからか、GSIXは外観からはその特徴は見難い。またこの写真に戻るとワシントン靴店の看板しか新橋方向からは見えない。ビルが少ないのです。ただこの当時から銀座ではライフラインの電線がない。最近の幕張とかしか見たことのない光景である。素晴らしい立地条件で建設されたGSIX。かつて資生堂さんが「THE GINZA」という店舗をネーミング。「GINZA SIX 」「GSIX」はそれ以上にネーミングとして価値がありそう。昔の銀座にそうっと停車してるスカイライン2000GTX4代目C110系。「ケンとメリーのスカイライン」という愛称で呼ばれかつてから最高に売り上げを上げたスカイライン桜井真一郎氏が産みの親。この名前は日産自動車の中で一番長く使われている。ネーミングでこの当時から残っているのは何もなくなっている。これから先、車、中古車はモディファイされ 残るものの、都市の景観はどんどん変わってしまう。街路灯はもとよりビル全体が変わっていく。今回はくわしくは紹介しないが残念なのは人間の歩く姿勢なんです。5割以上の人が下を向いて歩いているのです。モバイルフォンを見ながらラインをしたり酷い主婦なんかはゲームをしながら地下鉄の階段を降りていく。人間がもしかして一番変わってるのかもしれませんね。あ、そう今病院でこれから自分も簡単なメンテナンス手術をしに行くちょっと前なんで。それでなのかGSIXの外国の方のインテリアデザイナーの名前が出てこず申し訳ありません。このビルの良さはもしかしたらインテリアにあるのかもしれません。草間彌生のデザインは嫌いですけどね。何故皆がいいというのかよくわかりません。またのブログを乞うご期待。 コウジロウの独り言

1972年スカイライン2000GT・ローレル1800・セドリックハードトップ

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学生時代のT美大の構内。ドアミラーにグリルには当時ポピュラーだったシビエのバケツ=スーパーオスカーだ。知る人ぞ知る抜群の発光体だった。これは友人のクルマN氏のスカイライン箱型・シングルキャブレターの2000GT。このクルマと後ろのローレルの持ち主、つまり自分と東名で最高速競争をやったこともある。当然ローレルの持ち主だった自分はスカイライン・ケン・メリのGT-X・ツインキャブに乗り換えてからだった。ほんの頭だけ徐々に離していく感じだった。当然メーターは振り切るちょっと手前。メーター上で180kmはオーバーしていたが。ただこの箱型スカイライン2000GTには学生時代1ヵ月もお世話になるのである。北海道をこのクルマで一周するのである。東北の松島に一泊。恐山を通り大間から函館に抜けた。駒ヶ岳の下で警察に厄介になり小言を言われ、「歩道橋を造るのはお前らだ」なんて言われた。稚内にクルマを置き、礼文島にも渡った。4人で行った為2人づつに意見が解れ、野宿の際、テントとクルマと別々に寝たりもした。帰りは秋田経由妙高高原の彼の山荘で1週間ぐらいか体を休めてから東京に帰った。途中碓氷峠ぐらいからキャブにゴミが入りエンジンの制動がおかしくなったのを思い出した。豊島区の営業所で見てもらったから言えるのだが、本当は自分が壊したのかと思った。そうとう飛ばしてたからである。当時はネズミ捕り以外高速でも速度感知器は少なかったからである。自分の家のローレルは上高地や富士山スバルラインや伊豆にはよく行った。セドリックでは日帰り軽井沢や鎌倉に学校をさぼって行ったものだ。当然運転は自分。この三台。各自親のすねかじりでねだって買ってもらったものだと思った。車は自分達のものではないにしろ、よく三人とも学校に乗ってくていたのだから否定は出来ない。この構内でブーンブーンとエンジンをならしキィーなんてタイヤもならしていたら、レクサスのデザイナ−の卵「F氏」(当時プロダクトデザイン科)の先生に「コラー」としかられていたことも事実だし、記憶にもある。 何しに学校に行ってたのでしょう?そう、あの学園紛争を超えたT美大の自分たちの学年以下は皆八王子だったからこんな風景も生まれてたのでしょうね!

                                                                                                                     コウジロウの独り言

ケオラ・ビーマーのギタ−が奏でる、ハワイアン・ララバイ。

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カーペンターズなど多くのアーティストにカヴァーされ続ける名曲「ホノルルシティライツ」 、サーフィンを題材とした名作「Big Wednesday(ビッグ ウェンズデー)」のエンディングタイトルを手がけたKeola Beamer(ケオラ ビーマー)。好きなアーティストはたくさんいるけど、やっぱりダントツはこの人、ケオラ ビーマー氏。ハワイ特有のスラックキーギターの第一人者。ハワイ生まれのスラックキー・ギター奏者でヴォーカリスト。1973年に弟のカポノ・ビーマーとビーマー・ブラザーズとして活動開始。1978年に『Honolulu City Lights』がヒットする。90年代以降は、ダンシング・キャット・レコーズから続々と力作を発表し話題を呼んだ。そのビーマーファミリーのマヒ・ビーマーと彼の奏でるピアノのもとで一緒に唄ったことは以前のブログでご紹介させて頂いた。今回は珍しくそのギタ−のルーツになるDiscの紹介である。ハワイに何回か行った者だけがハワイを知ることになる、その第一歩が音楽である。コーディネータ−『ジミー』が一番熱心に教えてくれたのをもう何十年も前になるのにしっかりと覚えている。「ビーマーブラザーズ・ケオラビーマー」の弾くギタ−はなんと素晴らしいのだろうか?ハワイのレコード屋で初めて買った『Honolulu City Lights」。ちょうどレコードからCDに代わる頃、両方の音源を選べた。ホノルル郊外に行くと別の二人のライブのBGM的音楽が流れてくるレストランがあった。当然やや料金も高めだったかもしれないがビーマーブラザースには巡り合わせがなかったが、レストランのグループは『トマ&ナット』と言って、会い紹介してもらった。残念ながら自分がコマーシャルのスチル撮影のみだったこともあり、デモテープを貰ったりして紹介されても直ぐにマーケットに流すことはできなかった。1〜2年経ったか直ぐにそのグループの紹介が日本でも聞くことが出来た。ハワイでは『ビートルズ』をハモって奏でられて素晴らしかったのだがオリジナルはちょっといいんだが難しかった。そんな世界にはまっていた自分が40年以上経っても飽きずにいるのが大好きなケオラ・ビーマー&ビーマー・ブラザーズ。Keola Beamer Discography『愛しきハワイアン・ララバイーカ・レオ・オ・ロコ』を聞いてみて下さい。(写真のCD) 。何時の日か?サンセットの浜辺のビーチサイドでスパークリング・ワインシャンパンを片手に、グラスの向こうに貨物船ではなく「カタマラン・ヨット」がセイリングをしてる優美な世界に入って観たいものです。『ケオラ・ビーマー』のサウンドは本当に大人の超越した人だけの耳の入って行くやさしい音楽なんです。「ジョージ・ウィンストン」がプロデュースであるからなのか?最高に美しいギタ−の音色だけで永遠の楽曲を創れるなんてなんと素晴らしいことなんでしょう!残念なのはドライブには気をつけた方がいいことです!眠気が誘ってくるからです。フィンガータッチでいつものスチール弦からナイロン弦に置き換えて演奏してる曲がいくつもあり、歯切れの良いイメージだけではなく、「マロい」優しい音色だからです!2014年マスタ−使用のCDである。写真は鴨川のタワーから太平洋に沈む夕日をIpad miniで 撮影したものと紹介したCDジャケット(2015年日本発売)。20年以上前になる記憶をたどっても音楽は忘れられないし、時代を超越してくれさせてくれる。                                    コウジロウの独り言