スカイライン・ケンメリとCIBIE TYPE45

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Photo by Kojiro

1970年代から1980年代まで実はケンメリに自分は乗っていた。4代目 C110型(1972年-1977年)である。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通だったそうだ。2ドアハードトップは太いCピラーを特長としていた。これは後部を除くとまるで死角が多く、当時バックモニタ−がなかった時代によく運輸省が認可したものだと思う。ただ、自分はこの形が大好きである。スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーデカール式のピンストライプが設定されている。これは当時の日産自動車の社長命令だったらしいのだがさだかではない。写真を見てほしい。付いているフォグランプとスポットランプである。シビエのタイプ45をバンパー下に付けたのは見事だと思う。自分で言うのもなんだが、ディーラーなのかメーカーなのかは解らないが、最終のケンメリのオプションカタログに載っているのである。そしてWEBにも写真入りでシビエのカバーをこの位置につけているのもあるのだ。ただ、フォグが黄色でスポットが白色が通常。自分のケンメリはそれが逆である。フォグは運転席から見にくい縁石等を照らす為向かって右側に。スポットを前を照らす為運転席側に付けるものだった。そのスポットが黄色なのだからラリー通のドライバーからしたらお笑い者。売り切れてたのでそうしてしまった。当初、グリルの中ラジエター前に装着したのだが光る範囲が限られてくる為、バンパー下にしたのであった。GTXだったため、パワーウィンドウは標準装備。前にも述べたがステアリングがバリアブルシフトの低速域で軽く、高速でしっかりホールドすると言う素晴らしいものだった。ただパワーステがなかった当時としてはユニークな発想のものだったが、今乗ったら本当にとてつもない重ステだった記憶がある。中古のディーラーで撮影の際に乗せてもらった時、体感したからです。箱スカはもっと重たかったが、そのとき乗った感じは同じ重ステだった。CIBIE TYPE45を探してもなかなか出てこなかったので「CIBIE  スーパーオスカー」を検索。なかなか出てこない。TYPE45なんて殆どない。やっと出て来たのがやはり「CIBIE スーパーオスカー」だけだった。バイクのライトではいまだにシビエは多そうだ。そして【総評】としての紹介のみ。「ラリーをしていた父の友人から譲り受け、その後父のスプリンター・カリブに付いていましたが雪国に行く時にバンパーガードと共に装備。とてもデカイフォグランプでフロントガラス越しでも分かるその存在感 ...」(2016年6月20日 [パーツレビュー] 86dog さん)だけだった。やはり70年代を走って来た我々しか知らない世界。エスエスリミテッドも今や手を引いたみたいですね。まあ、その残像を見てやって下さい。左の写真のカラーの方は軽井沢。モノクロは濃霧に包まれた『箱根ターンパイク』にてである。軽井沢はまあともかく、タ−ンパイクなんかは一人でグングン攻めたののです。ツインキャブなのにレギュラーガソリンと当時は今ほどガソリンが高くなかったせいで、簡単にドライブしたものだ。こんな濃霧の時はこのコンビネーションのランプは活躍した。ハイオク使わなくていいGTXは多分これが1号車なのではないかと思います。なぜならばまだカタログにはのってなかったのですから! コウジロウの独り言

2001年9.11アメリカ同時多発テロの真実と陰謀は?

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Photo by Kojiro

自分がニューヨークロケに行ったのが1980年代。この写真はクォ−タードルで渡れた(1997年には無料化になっいる)フェリーのスタテンアイランドの帰りの船上から撮影した7 ワールドトレードセンター(セブンワールドトレードセンター、英語: Seven World Trade Center, 7 WTC)。当時のニューヨークのワールドトレードセンターを構成する超高層ビルのひとつである。まさか十数年後に旅客機が突っ込むと誰が想像するでしょうか?現在のビルは2006年に完成。旧ビルは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で倒壊。元の写真の7 ワールドトレードセンターは1987年に完成した。47階建てで、赤い花崗岩の外観のビルであった。写真には写ってなく後の建造物かもしれませんが、訳あって自分も東京のど真ん中の18階の病棟に1週間ばかり入院していたのですが、47階なんて2.6倍も高い。高すぎて想像もできない。本当の高層ビルの最大の入居者はソロモン・ブラザーズだったようだ。7ワールドトレードセンター・プラザとはペデストリアンデッキで結ばれていたのだそうだ。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件でワールドトレードセンターの北棟が倒壊、瓦礫が7 ワールドトレードセンターに降りかかり火災が発生、消火活動ができない状況で、午後5時20分、 7 ワールドトレードセンターも倒壊した。直接航空機が衝突したわけではない本ビルが崩壊したことについて疑問が殺到。火災の熱で鉄骨の強度が落ちていたのに加えて、ツインタワーの崩壊による破片の直撃や大地震を上回る猛烈な縦揺れの影響で崩壊したとされていた。倒壊は実際より早い午後4時54分に英国放送協会が報じたそうだ。倒壊を知らせるキャスターの背後には7 ワールドトレードセンターがしっかり立っており、カメラの切り替えがないまま午後5時20分となったときにビルは崩れた。この映像がYouTubeに上がったときBBCのウェブサイトは炎上した。この点、いまだに説得力のある説明はされていないのだ。新しい 7 ワールドトレードセンターの建設は2002年に始まり、2006年に完成した。高さ226m、52階建てである。新しいビルは鉄筋コンクリートのコアに、広い階段や太い耐火性の柱など安全面に配慮した構造となっている。新しいビルにはムーディーズABNアムロ銀行がはいってるらしい。崩壊したビルが、実はもう1棟存在してたのだそうだ。WTC7 (世界貿易センター第七ビル・47階建)。このビルには、9.11事件で航空機が1機も衝突していないが、謎の崩壊により消滅している。ツインタワーが航空機によるものであれば、この崩壊原因は、一体何だったのだろうか。WTC7に入っていたテナントはCIAやウォール街の証券取引の記録管理をする金融機関だったと言われている。お気に入り詳細を見るとタワーから一番離れた場所にあった第7ビルの損傷は少なかったうえ、47階建てのビルが、6.5秒というありえないスピードで崩壊してしまったからだ。そして、その崩壊する姿を見ると、爆薬を使ってビルを解体する様子に、よく似ているように思えるのである。故意にもう一つのテロがあったともされているのだ。9.11で飛び降り落下する人間と、ビルの倒壊スピードは変わらない。つまり強固な下層階が、何らかの理由で突如消滅したことになる。直接航空機が衝突したわけではない本ビルが崩壊したことについて疑問を呈する声も多かった。火災の熱で鉄骨の強度が落ちていたのに加えて、ツインタワーの崩壊による破片の直撃や大地震を上回る猛烈な縦揺れの影響で崩壊したとされている。ちなみにこの記述を編集して消すと、管理者が即座に現れる仕組みのようだ。何が何でも裏の裏が暴かれていない歴史上の最大の出来事なのだ。 コウジロウの独り言

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ホテル ザンクト ゲオルグ ハイデルベルグ

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Photo by Kojiro

ハイデルベルグ旧市街の中心地、聖霊教会の近くに位置する17世紀建築のルネッサンススタイルのホテル。ハイデルベルグ城を見学する時に必ず目に入るホテル。1974年2月に訪れた時に自分のキャノンペリックスの視界に入っていた。ロマンティックな雰囲気と機能性を兼ね備えている。今でも外観は同じようだ。このホテルが今や人気になってるそうだ。客室はバスタブ付きまたはシャワーオンリーを選べるらしい。ハイデルベルグ城行きのケーブルカー乗り場までは徒歩で5分足らずとある。中央駅までは約3km。2007年8月1日より全館禁煙。 当然と言えば当然だが、1974年当時のヨーロッパは確か何処でも吸えていた。イギリスのピカデリーサーカスなんかはパイプ全盛期。路面店の売店にもリーズナブルなパイプやタバコを巻くタバコ紙が売られていた。ドイツではまだ東西に分かれていた時代。15年後にベルリンの壁が壊されるのだから、貴重な写真とも言えよう。ハイデルベルグが哲学の街として知られるようになった黄金時代の雰囲気を味わいたい旅行者に最適とされている。ホームページや旅行ガイドにも乗っており三ツ星以上のレッテルを押された。日本からも観光客が多く訪れる人気の都市ハイデルベルクはドイツ バーデン・ビュルテンベルク州の北部に位置する人口約14万人の古都だそうです。ネッカー川沿いに広がる街並みは、ドイツを代表する美しい街。ハイデルベルグといえば一番に思い浮かぶ「アルト ハイデルベルグ」に象徴される大学都市でもあります。ドイツで最古の大学であるハイデルベルク大学は1386年に創設され、今日においてもドイツ有数の名門大学の地位にあります。ハイデルベルクには有史以前から人類が住んでいたと言われますが,その名前が歴史上注目されるのは,神聖ローマ帝国の有力領邦であったプファルツ選帝侯ハイデルベルクを首都とした14世紀あたりからのことだそうです。ハイデルベルグは宗教改革の際にプロテスタント側に立ち、そのために30年戦争で重大な被害を受けたそうです。17世紀末のプファルツ継承戦争ハイデルベルクフランス軍の攻撃を受け、ハイデルベルク城は破壊されたそうです。ハイデルベルクはこの地域の政治の中心という地位を失って一旦は衰退しますが、新たな支配者となったバーデン大公国の初代大公のカール・フリードリッヒの庇護のもとで、ドイツ最古の大学街として有名になりました。第2次世界大戦では、ドイツ全土は空爆による大きな被害を受けていますが、幸いにもハイデルベルクは小規模な空爆ですんだおかげで、現在でも中世以来の美しい建物を残すことができました。だから、このホテルの雄視を今でも見られるのですね。          コウジロウの独り言

懐かしの星野一義氏と松本恵二氏そして萩原光氏のグループC.カー。

f:id:kohyusya:20170905171506j:plain Photo by Kojiro Yoshida Photo Data Canon F-1 FD24mm F8

このお話の中でも萩原光氏は1986年、ニッサン初参戦となるル・マン24時間レースのドライバーに決定していたのだが、それを目前にした4月7日に懐かしのレイトンハウスのメルセデス・ベンツ 190E 2.3-16のテスト走行中、スポーツランド菅生(当時)の2コーナーでコースアウトしクラッシュ。マシンは炎上し、そのまま息を引き取った。なんと言う若さなのか享年29。ピットやパドックで爽快にホットパンツつまり赤い短パンでサーッと風を切って足早に星野氏と一緒に去って行く印象の人だった。他界したのは知ってましたが29歳で亡くなっていたなんて本当にもったいなかったですね。写真はそのトリオで挑んでいた富士1000kmの勇士の後ろ姿。もう亡くなってしまった松本恵二氏の名前も書かれているニッサンマーチ・85G。萩原氏の記憶が消えて無くなろうとしている現在、淋しさや哀愁と言う形になって現れて来ているのだろか?それだけではなく時代の歴史が変わって来てるのですね。マーチ・85Gは、マーチ・エンジニアリングの1985年型グループC・IMSA-GTP用シャシに、日産自動車のセドリック・グロリア用3リットルV型6気筒ターボエンジン・VG30を搭載したグループCカー。1985年の全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)参戦用に日産がマーチより3台購入した。なおマーチ85Gシャーシは全部で11台製作されているらしい。シェイクダウンは日本でなく、米・リバーサイドで行った。デビュー戦は7月の富士500マイル。ウィングからの景観が格好良かった。2戦目の鈴鹿1000kmで早くもポールポジションを獲得。3戦目となるWEC-JAPANでは予選初日にワークス・ポルシェを相手に1-2位を独占(翌2日目にポルシェに逆転される)。豪雨の決勝では、海外勢が撤退し2時間に短縮された変則レースながらも星野一義氏のドライブで初優勝を遂げる。星野氏は日本人初の世界選手権ウィナーとなった。翌1986年にはル・マン24時間レースに参戦。長谷見昌弘氏/和田孝夫氏/ウィーバー氏(James Weaver )組が16位ながら完走している。日産はル・マン初出場で初完走となった。なお1985年シーズンは「シルビアターボC」「スカイラインターボC」の名前でエントリーしていたが、1986年シーズンからは「ニッサンR85V」の名でエントリーしているとなっている。とにもかくにも貴重な写真の一枚である。

コウジロウの独り言

スタ−ト直後の事故。富士逆回りスピードウェイ。

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あの超高速30度バンクで注目していた富士スピードウェイ。6kmのフルコース以外にも戦いの場があった。後のF-1GPを想定してバンクを使わないレイアウトを創った。ストレートの終わりで右に急転回し、バンクを通らずに元のコースに合流する1周4.3kmのショートコースである。現在の国際コースは4.563km。初期にはこのショートコースをフルコースとは逆の左回り(反時計回り)で使うことも多かった。バンクを使わない分安全だなんて思われていたのだが、長い下り勾配で続く第1コーナー(フルコースの最終コーナー)への突っ込みにはかなりの度胸が必要だったそうだ。ハイスピード勝負がどちらにしても売り物であった。鈴鹿サーキットから4年後の1966年に、富士スピードウェイは開業。富士スピードウェイ鈴鹿と対照的な性格で半世紀にわたり「東の富士、西の鈴鹿」と呼ばれた。日本を代表する国際レーシングコースの地位を確立。特長は超高速タイプの広大なレイアウト。計画の発端がアメリカ式のオーバルトラックを想定したものだったらしいのだが、御殿場市近郊の駿東郡小山町という丘陵地のため、完全なオーバルの建造は難しく、中・高速コーナーを組み合わせたロードサーキットの形に落ち着いていたのだ。アメリカ式を本当の意味で目指した名残が、超高速の右曲がり30度バンクだったそうだ。1972年の日本オールスターレースの様子。レースカーの向きとコントロールタワー、メインスタンドの位置に注目。富士スピードウェイではいわゆる“逆まわり”でレースが行われることも多かった。ただ前哨戦だったのかよく覚えてないのだがセリカには見崎氏、カローラには高橋晴邦氏、サニーには高橋国光氏が乗っていてこのような事故が起こっていた。この次のメインレースにサバンナがスカイラインGTRに勝つのである。レース場には行かないとわからないドラマがある。                                  コウジロウの独り言

モハメッド・アリはトランプ大統領をどう思っているか?

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Photo by Kojiro Photo data Canon Perix FD200mm F4

このブログの連載の一番最初に書かせて頂いたモハメッド・アリ。1972年の神宮外苑でのスパークリング帰りのクルマに乗る前のワンシーン。彼が生まれた1942年。出生地はケンタッキー州ルイビル。初めの名前は、カシアス・クレイ。今、アメリカのヘビー級ボクサーの話題があがってこないのは何なのか?まるでトランプ大統領がプロレスラーのラリアットをCNNにかけているシーンがあった。こんな格闘技が流行るからかもしれない。大統領のロシア疑惑ばかりがめだっている。モハメッド・アリが生きていたらなんて言うのだろうか?聞いてみたいものだ。カシアス・クレイは1960年のローマ五輪で金メダルを獲得するが、帰郷したケンタッキーで人種差別を受け、悔しさから金メダルを川に投げ捨てた事実。1960年にプロデビュー。当時、アフリカ系アメリカ人(黒人)が公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った公民権運動が盛り上がりを見せており、クレイもマルコムXらが所属するネーション・オブ・イスラム(黒人のイスラム運動組織。イスラム教から派生した新宗教)に入信。但し、1970年代の日本での試合のトレーニング中のアリは相手のマックフォスターに比べると真っ黒な黒人ではなかった。やや茶褐色の皮膚感だった。こんなことを言うのもなんだが、当時としてはインテリジェンスすら感じる優れた黒人に見えた。格好良かった。アリはリングネームをモハメド・アリに改めた。1975年にはイスラムスンナ派に改宗。1964年、世界ヘビー級王座を獲得。本名をモハメド・アリへと改名。1967年、アリの良心的兵役拒否(宗教の信条や政治的、哲学的な背景に基づく兵役拒否)により、最初の裁判で禁固5年と罰金1万ドルを科せられ、ヘビー級王座とボクサーライセンスも剥奪された。その後も信念を曲げずにアリは戦い続け、4年後の1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取る。1972年の神宮。再びリングにあがる為の特訓として日本でのマック・フォスタ−戦を企画。リングに復帰したアリは、1971年に世界ヘビー級王座に挑戦するも敗北していた。その後1974年にジョージ・フォアマンに勝利し王座に返り咲いた。1976年には、再来日してアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦を特別ルールで戦い、引き分けとなっている。一年前の2016年6月3日、米国アリゾナ州の病院にて74歳で永眠。朝のトレーニングのクルマは4代目クラウンだったと以前にも言っていた。国内では『クジラ』の愛称でも呼ばれた。当時はそんなには言われてなかったようですけど。このモデルですが、未だにカッコよく感じる1台。さすが名車という風格が漂ってた。この代から正式名称が「トヨペット・クラウン」から「トヨタ・クラウン」に改称、ボディタイプは4ドアセダン、ハードトップステーションワゴンワゴン、ライトバンの4種に固定されてた。外観の丸みを帯びたイメージより『クジラ』の愛称で親しまれていた。当時では先進的なボディで先端を絞り込んだデザインなどによりエンジンルームへの通風が不足しオーバーヒートが頻発したなど多くの問題が生じたらしく不評が相次ぎ、「クラウン史上最大の失敗作」とまで言われたそうだ。機能としても先進技術を搭載しており、電動リクライニングシートや世界ではじめてのアイドリングストップ機能を搭載するなど話題に欠けなかった1台だった。ただ自分の記憶の中にアイドリングストップだったとは覚えていない。                                    コウジロウの独り言

正丸峠とケン&メリー

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Photo by Kojiro                           

峠の茶屋での頂上地点でのワンカット。1972年頃、当時はセンターラインなんてものはありません。その峠の道には、その名は正丸峠。何回か出かけて、怖かった記憶があります。コーナーを攻めすぎて、何て格好つけて言いたいのですが、ハンドルの手さばきが遅すぎてアンダーステアになってしまったからです。特に下りは怖かった。4速のGTXはセカンドサードそしてローと3段階しかなく、セカンドがやたら伸びた。したがってエンジンブレーキが効かないのである。下りだとコーナーを外に降られてしまい飛び出そうになるのだ。ケン&メリーの後輪の泥除けを見てください。篠塚氏のギャランに比べたら質素なぐらい遠慮して装備されている。如何にもはないにしろ、ラリーカーっぽくも見える。この車ではラリーは出たことはないがレーシーな走りを見せていたことは分かっていただきたい。自分は峠で燃えるタイプなのである。その峠は埼玉県飯能市と同県秩父郡横瀬町の境界にある。秩父・奥武蔵にある峠の一つで旧国道299号にあたる。峠のコースは狭く対向車とのすれ違いも困難な峠としては低速テクニカルコース。当時はラリーチームの為のコースの下見で出かけていた。兄に教わっている最中。ちょっと前に流行った峠のドリフトとは異なるものだった。当然舗装もデコボコでガードレールがないコーナーもたくさんあった。むしろ今より本当に少なかった。当時の国内ラリーでは林道を走ることが多くあり、その最高峰として正丸峠があったようなものだった。今では人気アニメ頭文字(イニシャルD )2nd Stageに登場する峠であり聖地巡礼のドライバーも多いそうだ。この正丸峠、ちょっと前の昔は走り屋さんたちの集合場所だったようです。今でもコースとしては狭く、対向車が来た際は離合に苦労するポイントが多々あるそうです。どちら側から入っても上り、頂上地点で下りという複合ステージとなるコースだそうだ。頂上地点には峠の茶屋があります。国道299号線ではGW後半戦なんかは、うだるほどの上り渋滞になるそうだ。当時、走ってても対向車は驚く程少なかった。路面も汚くガタガタまでは行かないが、林道よりもちょっとましな程度。右へ左へとうねりくねったコーナーが迫って来ます。プレイドライブ的に言うならチェックポイントが少なく、ラリーではスペシャルステージ向きだったのかもしれません。カーブ具合なら自分が大好きだった旧碓氷峠を超えていたかも知れません。この峠は草木と土砂が襲って来るそうです。今ならセンターラインもありますが、話にならない程度らしいですが。その昔はここをバスも通っていたそうですよ。そう、こんな峠を越えて運転していたバスの運転手さんが一番運転がうまかったかもしれませんね!当時はですが!現在では正丸トンネルとなるものがが開通したため、使われる機会が減ったようです。ここをドライブするにはライトを付けるような時間帯を!と言いたいのですが、夜は鹿やアライグマが平気で道路を横断するそうです。「夜中走るみなさんはご注意を!」とあんまりいい印象のない正丸峠。それでも当時は丹沢を除いたコースとしては最高峰のラリーコースだった。 コウジロウの独り言