ちょっと一休み。写真表現と材料。

ここで前に登場してた白根山の紙焼き写真とモノクロと比較して心象度の違いを述べてみよう。はじめに登場するのがコダックのキットで焼いた2種類のカラー写真。遠い昔の画像処理であるが、今とは異なりフィルム現像をしてから紙焼きをする段取り。フィルム現像は温度が非常に敏感で上高下するだけで色が出なくなる。従ってフィルム現像はノーマル。外部でやってもらっている。カラ−紙焼きがが何枚かありますが自分で現像した紙焼きに、マックのPhoto shopで加工したものである。色が出てないのがお分かりですよね。

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次はあまりご存じないであろうモノクロのフィルムのお話。今や便利になりスマフォやiPadで撮影が出来、すぐに画面で見られ、ヨドバシやビックカメラの出力機に持って行くとわずか数十円で紙焼きが出来る。昔のコダックのキットなんか一枚焼くのでもバットや現像する容器等揃えると何万円もかかった。お水も必要でしたし、後はサーモスタット付現像バットや水洗が出来る大きめなスペースが必要になるのです。次にみて頂きたいのはモノクロの写真である。最初の一枚はカラーをグレースケールにしたもの。(まだ載せてない)  何か甘い感じがしますよね。次にお見せするのが赤外フィルムで撮影し、紙焼き現像をやや硬めにしたもの。当然レンズには赤外線レッドフィルタ−を付けて撮影している。空と白根山コントラスト、そして浮遊する雲。僕はこれが一番好きなんです。まるで違う星に来たような錯覚になるからなんです。黒のコントラストはいつも自分に刺激を与えてくれる。今やモノクロをもう一度見直す次期なのではないでしょうか?この白根山が一番イメージだと思う!

f:id:kohyusya:20170203205155j:plainコウジロウの独り言

やさしく心地よい風はクルーの心を温め和ませてくれる。

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三浦半島和田名浜の6月。三戸浜の隣。神奈川県の青少年の家なんかも傍にあった浜辺から一艘のヨットが海に出ていった。1980年頃のお話。まだ海水浴客がいない海の家が出来る前の浜から操船して出航したヤマハ・シカーラ「HARBOR LIGHT」ディンギーだった。「HARBOR LIGHT」の名前は当時好きだった「ボズ・スギャックス」の曲名からとった。「シーボニア」や「葉山マリーナ」とは訳が違い海岸からの出航は防波堤的な係留出来る場所はまるでない。ディンギーは2人乗りなのだが4人まで乗れるので3人だととてもスムースである。この遠浅の海岸のこの波がくせ者なのである。風がなく海そのものが凪いでいる時がある。安心してマストを建てボーラインノットや8ノットでシートを縛り上げ操船の準備をする。先端に座ってパドリングをする。これは自分の役割。波打ち際に大きな波が来てセールに風が入らないとそのまま先端が持ち上がってチンすることもあった。本来兄弟で操船してるのだが、この日は学生時代の同級生のF氏と操船。当時は千駄ヶ谷と青山の間にある「ビクタ−スタジオ」の裏にあった飲み屋さんのマスタ−兼オーナーF氏。そのお店にはスタジオの裏だけに「ユーミン」やあの「矢沢永吉さん」までも来たことのあるそれでいてリーズナブルな飲み屋でもあり、なぜか敷居の高いお店でもあった。そこのマスタ−がその時のクルー。当時、客として通ってたのでよく会ってくれ、ヨットの話で盛り上がっていた。そんなこんなでヨットに誘い、同船することとなったのだ。お店に来た時はその前の通りにクルマを置いて、そのままでも警察のご厄介にもならないいい時代でした。当然自分も独身時代だった。高度成長のまっただ中なのか、イケイケドンドンとそのまま六本木の「フライデー」に行き、今は亡き「清水クーコ」さんとか「サーカス」のメンバー。そして「かまやつひろし氏」とかとおなじフロアで談笑してたのを遠くからみてたことを思い出す。だから「知り合い」って言えないんですよ。見かけたって程度ですよ。シカーラ「HARBORLIGHT」は「スクリュー・マリーンクラブ」と名前がつけられていた民宿の駐車場のような場所に陸揚げされていた。その海辺に艇を出すまでは専用の台車に乗せ、砂浜にのって斜めに海の中にすべらせて、そおっと浮かべる原始的なやり方で海に。ゴルフに興味を抱かなかった自分は、まじめな品行方正な青年と思っていたのですが、今思えばかなり行動派のやなタイプの男だったのかも知れませんせんね!少しでもその感触が残っていれば海辺の家に留まり、まだSea Breezeの音を聞けてたでしょう。

 

 

コウジロウの独り言

2度と訪れなかったピサの斜塔は外観を、 観光としての見学は大聖堂をみたほうがいい!

前にブログに書かいた、「フィレンツェの駅からピサへの旅が出来る」と言ってたのを覚えてますか?有名なあのピサの斜塔は、ロマネスク建築の代表例である。イタリア・トスカーナ州、ピサに位置する「ピサのドゥオモ広場」に建てられたピサ大聖堂としての一部。8階建ての塔ですが、増改築中に土台が地面にめり込んで傾いてしまったらしい。学者達が計算した結果、完成させても倒れないというので、建造を続けたという。写真はピサの斜塔の最上階付近から撮影した「ピサの大聖堂=ドゥオーモ」(Duomo di Pisa)です。この角度から大聖堂を撮った写真は見たことがない。

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調べてみると1063年にこの大聖堂の建築が始められたそうだ。完成したのは14世紀になってから。上から眺めるとラテン十字の形をしている、ピサ・ロマネスク様式の最高傑作。68本の円柱が内部には密に並んでいる。その円柱の多くは古代遺跡から戦利品として運ばれたものだそうだ。内装にはビサンティン様式やイスラムなど様々なスタイルが融合してる。フランスのパリやイタリアのミラノのドウモとはまた違ったみえかたをしてる。パリとミラノのドウモは何回か足を運んだことがあるのでその見え方の違いが分かる。このドウモのファサード全面にはアーチが5段にわたって整然と並び、2段目から上にはそのアーチとアーチを支えるかのように優美な柱が並んでいます。なんと、これらの柱は飾りであり、建物を支えているものではないのだそうだ。建物全体に軽快さを与え、建物全体にレース模様を施したような優美さを感じさせる。8枚のパネルを6本の円柱と人物像の彫られた5本の柱が支える造りで、柱には信仰、希望、慈愛を表す擬人像がいる。1枚のパネルの人物像に動きや激しさを感じることができるそうです。大聖堂の中には、ピサの守護聖人ラニエリの墓があります。今では透明な棺に移されいつもその姿を見ることができます。 6月17日の聖人の祝日には伝統的なピサの祭りである「聖ラニエリレガッタ(ボートレース)」が催され、その前日16日には14世紀から続く何千ものろうそくでアルノ川沿を美しく照らし出すルミナーラが開催されるそうです。このピサの斜塔と大聖堂のある奇跡の広場まではPisa中央駅から約徒歩25分、Pisa San Rossore駅からは徒歩約5分と、実はPisa San Rossore駅の方が最寄り駅になってるそうです。せっかく訪れたのならピサの斜塔だけではなく、この大聖堂を観光して帰国することを絶対お勧めします。40年以上前に一回訪れ、登ることだけを考え、ピサの斜塔の天辺までの経験はあるものの、この40年間の間にの数回イタリアに訪れたものの、ピサに足を運ぶことはなかったから言ってるんです。

 

コウジロウの独り言

葉山港の風を呼ぶ!1等航海士は台風の前日でも出航! ベテランのスキッパーは超スリリングだった!

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嵐が2日後には上陸か?とニュースで伝えられていたある土曜日の朝。兄弟二人とオーナ−のI氏が旧葉山港(鎧摺港)に集合。ラマーレ茶屋の隣の港。三浦半島相模湾側に位置し、「鎧摺港」と呼ばれてかつては古くからの沿岸漁業の基地だったが、当時「コンンテッサJr」(石原慎太郎が元所有してた)を代表とするクルーザーが多く置かれていた港である。当時は周辺にクルマが停められた「コンテッサJr」の隣に停泊していた国産の木造船のデッキにもう一人のボーイッシュな女性と4名のスキッパー&クルーが揃った。写真ではあまり厳しくは写ってはいないが、この後パーカーを冠っていた全身がズブ濡れになる。よく見て頂きたいのがヨットの傾斜角度。そして遠方のウネリ。その操船の技術が素晴らしかった。自分とか若いスキッパーだったら、強い風に任せて風の向きに合わせボートのハルを思い切りたたいてでもまっすぐ角度の通り向かい、速度を上げ「ドンドン・バタンバタン」進んで行ってしまう。がそのI氏は違っていた。海軍の経験もあるとか言われるだけあって、「1等航海士」であることは間違う余地もなかった。素晴らしい風を掴みながらの操船。波の尾根づたいになめらかに進んで行くのだ。「ディンギー」ではやや横波にあたる量が多かったらチンしそうなイメージがあるが、長さが短い24フィートの「クルーザー」でもびくともせず風をとらえてスムースに進んで行った。「ゼノア(前の帆)」も「ストーム」にせずノーマルで操船。(自分では絶対無理)1980年近い70年代のお話である。船の種類も解らず?足立の木造船か?I氏がご健在なのか?も現在は解っていない。自分も震災後の海の怖さを知りあまり通わなくなった「ヨットハーバー」。三浦半島では「シーボニア」や「佐島マリーナ」にはドライブでよらせていただいていたが、ここのところ「葉山マリーナ」や「旧葉山港」に近寄ったこともない。一枚の写真からあの頃のスリリングな時や、あの船はどうしてるのか?色々と思い出と質問したい内容までも蘇ってくる。もう帰ってこないクルーとしてのポジショニング。30年前のまた別のクルーと操船したことのある油壷のクルーザー。「ブルーウォータ−派」の「格好附けヨットマン」は自分の体の中の思いでからも消えて行ってしまうのか?ヨットの時はカメラを持たない主義だった自分がほんの数枚だけ残した写真。本当に嘘をつかない新鮮な空気、そして風までも運んでくれた。

 

コウジロウの独り言

公営の鬼押出し園方向の道路の方がドライバー的には気持良かったが、 火山博物館の上には淋しく荒れ放題の展望台が残ってた。

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1974年頃の大好きだった「鬼押出し展望台」に向かう「230型セドリックGX」!何故かこのクルマは「スカイラインと同じ2000cc」だった。シングルキャブの「L20型エンジン」搭載。エクステリアはまるでアメ車を連想させるかのごとく迫力があった。特にこのテールランプは印象的だった。当時ではこの程度でも目を見張る程、格好よかったのだ。「Playboy」のロゴステッカーを貼るだけでも、クルマの性格を変た。後輪は「ホイール」こそ同じ径だったが扁平率が異なるワイドタイヤを履いていて、うしろが迫り上っていた記憶がある。但し、タイヤがタイヤハウスの縁にあたってしまうのでその部分は曲げていた。当然、自分のクルマではない。オーナー本人はデザイナーへの道は進まず、今ではスポーツカー関係のクルマを扱う会社の経営をしている。まあそのことは置いといて、本題に入ろう!クルマの走っている方向を見て頂きたい。まっすぐに延びる道。まるで何処までも行ってしまうような道が続いてるではありませんか。左手奥には「浅間山」。現在は手前でクロスし、公営の「火山博物館」方向と民営の「鬼押出し園」に分かれています。この道をご存知の方も多いと思いますが、公営の展望台方向、つまり「火山博物館」のある道へは数年前までに何回か訪れていました。というよりも、軽井沢周辺に来ると必ずこの道だけはドライブしていたんです。ここはドライバーにとって最高なシチュエーション。「すばらしいロード」いや「道」です。いつもここでは「ビートルズ」の「Here Comes The Sun」とか「The Long and Winding Road」を聞きながらドライブを楽しんで走行しています。日本の代表的「活火山」、「浅間山」の麓。この「浅間山」は「円錐{えんすい}火山」で、標高2568m。山麓には「天明の大噴火(1783年)」による「溶岩流群」「鬼押出し」が広がり、鬼神の造化を思わせる巨岩が累々と連なっている。だからなのか、この辺の景色は素晴らしい。軽井沢への行く途中には「白糸の滝」があったり、下に降りると「三笠会館」があった。「万平ホテル」で宿泊したり、知人の別荘も多く、よく足を運んでいた。このエリアの道路も素晴らしくよくなっている。「白糸の滝」や「旧軽井沢周辺」は観光客でごった返している。「プリンスホテルのコテージ」や「スキ−場」にも何回か来たこともある。道路整備が整い、東京から日帰りでも楽しめる総合的レジャーエリアになった。大好きな「軽井沢千住博美術館」が高速の出入り口近くにあったりするが、美術館へよったりもするが、今では観光よりも軽井沢のアウトレットモールへ足を運んでしまうことが多い!

 

コウジロウの独り言

Firenze Santa Maria Novella railway stationですかね?

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イタリアの旅の途中下車。のワンカット。途中下車と言っても43年前のバスツアーの途中下車。この写真の列車はいくら調べても名称やナンバーが解らなかった。

「Firenze Santa Maria Novella railway station  」であることは60%あたってるはず。連結部のストッパーの突起の形がイタリアンだと思う。駅の名前は記憶にある。友人達がこの駅から「ピサの斜塔」に向かったからだ。当然自分たちもオプショナルツアーでバスで向かった。そんな場面を心残りしないように写真におさめこの日の一日は終えた。日本に帰ってからフィルム現像から紙焼きまですべて自分でやっていた1974年。だから「ネオパンSSS」であり「4号の紙焼き」とか言ってるんです。「トライX」とかだと現像液とか異なるからか国産フィルムばかり使ってたのです。鉄道の趣味も若干ありましたが、それは兄弟に譲り自分はクルマへの興味を抱くこととなるのです。かといってオモチャレベルのミニカーしか収集していないのですが。ドライブ好きで若干レーシィーな走りが得意である。最近ではやや高額のミニカーを買える様にはなったものの、2年に1回程度。イタリアでかった「フェラーリのミニカー」なんかMade in Chinaだったんです。ドライブのハンドリングはやや衰えたものの「レインボーブリッジ」から首都高速、湾岸に入る「お台場ジャンクション」が大好き。あの滑る様におりて行くスピード感と景色がたまらないのである。お話は脱線したものの、この駅の風景も43年経った今でも忘れられない。この写真では人が少なくローカルな印象になってるけど、到着した時は多くのヨーロッパの人々で混雑してた。当時の上野駅のようではないが、海外の心地よい混雑風景が脳裏に蘇って来た。もしこの車両が何なのかお分かりの方がいらしたらこのブログの意見に書き入れて下さい。一枚の写真から勝手ですが自分はこのブログを書き続ける様にします。もしつまらなかったら、画像だけでも見てやって下さい。100回目位になったら本人登場なんてしてもいいですかね?本人が何故か写ってる写真も多くあり、(ナルシストなのかな)なかなか難しいところに来ています。ただ、自分の周りの風景と空気をご紹介することでわたし自身を理解してくれるだろうと思ってます。「See you again!」

 

コウジロウの独り言

クロスオーバーのダイヤを引いていた房総特急。 三鷹電車区の「わかしお」。

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1972年7月に房総電化が完成、国鉄総武本線の東京乗り入れが開始された。

わかしお」「さざなみ」は房総初の特急である。運転を開始したのもこの頃。自分では忘れてるが1970年始めの三鷹電車区の「わかしお」である。「わかしお」「さざなみ」は、初登場でありながらいきなり夏ダイヤで運転を任されたらしい。かつての寝台特急をも感じさせていたフロントマスクは何故か間延びをしたカピバラのようである。鉄仮面にも見える。特急だったのだが時刻の変更は往々にしてあった。80年代になってから大船発の「わかしお」が出てきたりもした。72年には八王子発着の「わかしお」と「さざなみ」もあったそうだ。だから三鷹電車区にあったのか季節列車扱いで設定された。それは新宿発だった。1往復が八王子までの延長運転を行ったという事だが、こんな列車は国鉄時代の72年だけだった。写真は「わかしお」です。今では信じられない区間を走るのが当たり前の時代。国鉄時代のクロスオーバー列車とも言えよう「わかしお」の写真はモノクロのため帯がブルーかと思っていた。本当は東海道線に最初に走った「特急こだま」カラーのエンジ色の帯だった。

 

 

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