ボルボXC40に遭遇してきた。

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Photo by Kojiro

こんなフレーズから始まる。「都市を駆け巡る本物のSUVとして生まれたXC40。正統派のSUVらしく、力強さにあふれた佇まい。その一方で大胆な造形のフロントグリルからテールライトにいたるまで、外観の造形はボルボそのものです。スカンジナビアの独創性と都会的な雰囲気を身にまとった、都市で生活するあなたのために作られた一台です」何がボルボそのものなんでしょうか?今までのデザインから逸脱したそのフォルム。「好きではない」と言い切った自分がそこにいた。正規代理店・「ボルボカーズ市川」にV40の定期点検に来た自分を待ち構えていたのはそう、この「XC40」だったのです。試乗させて車はT4 AWD Inscription 水冷4気筒DOHC16バルブ インタークーラーターボチャージャー(ガソリン)1,998cc8速AT。XC60や90のようにインテリアのハンドルがコンビネーションカラーをしていないので、そんなに目新しさは感じなかった初見。見事に自分の感覚を崩されていたのである。周りの道路が混んでいたのと自分にそんなに時間がなかったので、敷地内を動かすだけにした。なんだこのシフトは?ノブが短いのは解っていたのだが本当にスムースなスイッチに化してたのだ。音も立てず人差し指と親指だけでコントロールできる。この時はAWDつまり4輪駆動とは思わなかった。後日確かめてわかったのである。ただ自分の4駆の感覚は32のGT-R以来ないかもしれないですが、トヨタランクルプラドの記憶と比べても、2輪駆動にしか感じない軽さだった。「パイロット・アシスト」もついており、「アダプティブクルーズコントロール付きのパイロット・アシスト」では、車線を維持するためにステアリングを穏やかに自動修正するステアリング・アシストが働き、わずかなステアリング操作で車線の中央を保持できるよう支援するとの事。行動に出るとわかるのだろうがこの日は体感できなかった。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」で都市部の運転をよりリラックスしたものにしたようである。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」は、自動的に設定速度や前方車両との距離を維持。また、ステアリングアシストを行い車線内を走行するように維持してくれるそうだ。これはV40にも近いものがありその発展系なのだと思われるのですが。ボルボXC40は、「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」で都市部の運転をよりリラックスしたものに。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」は、自動的に設定速度や前方車両との距離を維持。また、ステアリングアシストを行い車線内を走行するように維持します。上空からの視点についてもニッサンには負けてなかった。360°ビューカメラは、複数のカメラからの画像を使用し、上からみたクルマの様子を作成するのだそうだ。クルマの周囲の障害物に対して自分のクルマがどこにあるのか一目でわかる。敷地内を走っただけでこれは体感できた。とにかく凄い。あとクルマのデザインに着いてもグッドデザイン賞を獲得するなどクリエイターにはすこぶる評判が良い。ヨーロッパ・カー・オブ・ジ・イヤーをも獲得するなどとんでもないクルマのようである。すこしハンドルが小さい気がしたがハンドリングも最高でした。市内の駐車場の問題やそれこそコストパフォーマンスを考えて今度やってくるハイブリッドが出てくるときには考えなくてはならないクルマには間違いない。最後に残念だったのは「おぎやはぎの愛車遍歴」でもXC60と90が紹介されていたのだが、室内の音響システムが最高なサウンドを奏でてくれるとのこと。オギヤハギが双方共にXC90と60の所有者だから若干贔屓目かもしれませんが。このXC40も一番安い車種はスピーカーの数が少ないのですが、他のスピーカーは8つもついてるそうな?当たり前って言えば当たり前なのかもしれませんが、コンサートフォールの中にいるみたいなんて聞こえてくると、自分のものにしてしまいたくなる一台になることまちがいない。なんとこのInscriptionにはプレミアムサウンドオーディオシステムとして13スピーカーとなっていたのにはいささか驚いた。         コウジロウの独り言

永平寺は、木々で囲まれたとても美しい寺院だった。

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Photo by Kojiro                                永平寺とは、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山道元が開山とある。前述のブログのように文面は続くのだが、永平寺に着いたのは10月26日の午後。ややひんやりとした空気感が漂う。でも決して寒くはなかった。出家参禅の道場として名高く、敷地には山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司など修行の中心となる七堂伽藍の他にも、大小70余りの殿堂楼閣があると言われてます。曹洞宗大本山として知られる永平寺は、寛元2(1244)年、道元禅師によって創建された出家参禅の道場。今も多くの修行僧が修行を行い、独特の雰囲気が漂う。紅葉の美しさも名高く、木々が色づく見ごろには紅葉目当ての観光客が大勢訪れる。特に境内の入口付近や最奥の法堂周辺が紅葉の見どころだそうだ。我々家族がついた午後。空は曇天。爽やかな空気が漂う北陸の地で木々の深さを感じていた。自然だけではない人工の林。建物との関係は美しいという言葉以外出てこなかった。

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Photo by Kojiro

まだ紅葉には早い時期のようである。それでも各所の所々染まりかけている木々もあった。樹齢何百年の木々の中からフィトンチットの風が吹いていたのだが、急勾配の階段や床が滑るのでやや疲れ気味になってきた自分。室内履きをあらかじめ用意していればよかったのかもしれませんが、樹齢700年の木がどれかは、帰ってきてからわかった次第である。とにもかくにもこの木々たちが自分の空気となって疲れを飛ばしてくれていた。今回のこのブログは画像で木々を見てもらうことにする。建物がとても素晴らしく、あの東照宮のように色とりどりに塗られていない。この風景がまさしく永平寺だと思う。当時は華飾な建築までかもしれませんが、今が一番いい感じである。    

コウジロウの独り言    

永平寺は、福井県の曹洞宗の寺院。

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永平寺とは、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山です。道元が開山とある。永平寺に着いたのは10月26日の午後。ややひんやりとした感が漂う。でも決して寒くはなかった。出家参禅の道場として名高く、敷地には山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司など修行の中心となる七堂伽藍の他にも、大小70余りの殿堂楼閣があると言われてます。室町時代天皇から「曹洞宗第1道場」の勅額を贈られたことから、その歴史は始まったとなってます。樹齢600年といわれる老杉など深い森に囲まれ、現在でも200名前後の雲水たちが、厳しい禅の修行を営んでいます。その木々達の写真は次回乞うご期待。樹齢600年の木々がどれとどれなのかは定かではありませんが、とにかくその木々に圧倒されました。管理をどうなさっているのだろう。この風景を見るだけでも来た価値はあったと思います。静かに建たずむこの空気感はなんといっていいのかわかりません。自分が高校時代に描いた油絵に出てくる木々にそっくりでした。歴史的には結構厳しい立場に置かれていた永平寺道元没後は、道元を福井へ招き入れた外護者の波多野氏の援助も弱まり、一時は廃寺寸前まで衰えたものの、5世義雲が復興させたのだそうです。1749年に再建された三門は、修行の際の入門口にあたり、四天王像が安置されています。とにもかくにも色々な方々がその関係性を作ってきたのでしょう。幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元はとても丈夫だったに違いない。

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道元はそして天童山景徳寺の如浄に入門し、修行にはげんだとある。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国したのだそうだ。日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。このパワーもどうやっても膣続けていたのか不思議なのである。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。それでもこんなに深い山に建てたのだから凄い。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」とある。長い歴史の産物「永平寺」は決して安易な発想で建てられた寺院ではないことは確かである。かつて入り口近くに大工村と言われる大工が常に常駐する村があった。火事で焼失した建造物や増築する際に70人くらいおり、すぐに建築できるようにシステム的に対処していたようである。だから素晴らしい建築ができているようである。人数確保は勿論、そのレベルの高い大工さんだったに違いないと確信している。帰る際に言われた「瓦の修理にご寄付を!一口千円です」とよっぽど参加しようと思ったのですが、靴を履くのに手こずりその場を去ってきた。ここを後に金沢駅に向かった。 (ウィキペデイアを参考に書かせていただきました)                    コウジロウの独り言    

金沢から福井へ、恐竜博物館は面白かった。

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ご覧のように本当に恐竜の博物館。動くのがあると聞いていてあの人間が操作するのが何体かいるアトラクションがあるのかと思っていたら、まるでそんなのはなく、本当に化石発掘から入る真面目な博物館だった。遠くからドーム状の輝く建物が見えたらそれがそうだった。近代的なモダンな建物である。黒川紀章建築都市設計事務所が手がけているからなのか、この周辺にはない建物だから、すぐに目を引いた。2007年に黒川紀章が亡くなっているから、実際に本人が取り組んでいるかは不明ですが?とにかく目を引いた。1982年に勝山市北谷の杉山川流域で、中生代白亜紀前期のワニ類の全身骨格化石が発見された事が発端となり、1988年に同地で福井県立博物館職員による予備調査が実施。小型肉食恐竜の歯化石が発見された。と最初に書かれていました。博物館施設として最初に福井県立博物館が、自然、歴史、民俗、産業に関する展示などを行う総合博物館として誕生、1984年に福井市に開館した。その後、2000年に自然科学分野に関する展示が勝山市に新規開館した福井県立恐竜博物館へと移管されたそうだ。2013年7月に設立されたアジア恐竜協会の事務局が博物館内に置かれている。恐竜に関する資料を中心とした地球史を学習できる国内最大級の博物館です。銀色に光るドームの内部にある展示室は、「恐竜の世界」「地球の科学」「生命の歴史」の3ゾーンで構成されており、エスカレータで降りるとそこの世界を期待させた。

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写真のレインボーサウルス」は、高さは16メートル、イタリア人のアレッサンドロ・メンディーニ氏のデザインで、2000年7月の恐竜エキスポふくい2000開催時にシンボルモニュメントとして制作されたものだそうです。昨年10月からリニューアル工事を行いようやく完了したものだそうです。恐竜全身骨格をはじめ、大型復元ジオラマや映像など子供から大人まで楽しんで見ることができる。恐竜たちも冬眠に入りますので、今年は11/18で、終了します。とのこと、ちょっと早い気がしますがちょっと遠過ぎるかもしれませんね。永平寺に行く途中にあるから立ち寄っただけであまり期待はしてなかったのが正直なところ。永平寺福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。そして博物館に程近い勝山市北谷町の手取層群北谷層からは、恐竜のほか、ワニ、カメ、魚類、淡水生貝類、陸生植物などの化石が産出している。この化石発掘現場は、2014年7月から野外恐竜博物館の一部として、見学することができるのだそうだ。2009年10月に、勝山市全域が恐竜渓谷ふくい勝山ジオパークとして日本ジオパークに認定され。2017年2月には、勝山で発見された5種の新種の恐竜の化石標本とその発掘現場が「学術上重要な標本とその産地として貴重である」と認められ、「勝山恐竜化石群及び産地」として国の天然記念物(地質・鉱物)に指定されたのだそうだ。44体の恐竜の全身骨格が展示されており、この中には、福井県で発掘された5種のうち復元されたフクイサウルス、フクイラプトル、フクイベナートルの全身骨格もあるのである。このうちカマラサウルスやアロサウルスなど10体は実物の骨の化石を用いて組み上げられている。展示物の『複製』の記載の有無で判別できるほか、博物館配布の利用案内などには実物の説明がある。特にカマラサウルスは、アメリカで発掘された骨を当館でクリーニング作業を行い組み立てたもの。ティラノサウルスの巨大な骨格を間近に観察できる「ダイノラボ」もある。そもそも期待をしてないで行かせてもらったこの博物館は結構面白かった。写真でちょっと覗いて見てください。  コウジロウの独り言

北陸新幹線デザイナーは日本人のフェラーリのデザイナーだった。

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前回でも金沢に旅をしてたことを述べていた。今回の話題はトランスポートしてくれた新幹線のこと。たまにはJR車両ののことも書いてみようと思う。当然のごとくエクステリアのお話しになるのですが。なんと北陸新幹線のデザインはフェラーリをデザインしたケン・オクヤマ氏だった。以前からスーパーこまち秋田新幹線のエクステリアの監修をしていたり、北陸新幹線のデザインも手がけているとも言われていた。よく見ると何かフェラーリを連想させるのだから面白い。ちょっと加工して見てみると、本当にクルマに見えてくる。特に北陸新幹線フェラーリそのものですね?自分は新幹線の中では500系が好きだった。本系列のデザインはドイツのインダストリアルデザイナーアレクサンダー・ノイマイスターによって行われ、それまでの車両と比べると高速性を感じさせるデザインとなっていたのである。それに比べるとちょっと大人しいのだが、北陸新幹線はノーマルに美しいのである。そのデザイナーが日本人であるのはちょっと嬉しい限りである。その名が「ケン・オクヤマ氏」。クルマ中心に今まで手がけられた仕事を並べてみると面白い。 f:id:kohyusya:20181107184829j:plain

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代表作は自動車=・フェラーリ・エンツォフェラーリフェラーリ・599GTBフィオラノ(ディレクターとして)・フェラーリ・456M GT・フェラーリ・カリフォルニア・フェラーリ・ロッサ(The Best Concept Car of The Year award in 2000)・P4/5ピニンファリーナ(ディレクターとして)・マセラティクアトロポルテマセラティ・バードケージ 75th(ディレクターとして)・シボレー・カマロ(4代目)ゼネラルモーターズのチーフデザイナー、ポルシェのシニアデザイナーを務めた後に、1995年にイタリアのデザイン会社ピニンファリーナにデザイナーとして入社を果たし。1998年に日本人初の同社チーフデザイナーに就任。フェラーリ・エンツォフェラーリマセラティクアトロポルテなどのカーデザインを担当したのだそうだ。特にエンツォフェラーリのデザインに関しては「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」として話題となった。2004年に同社のデザインディレクターに就任した後、「やりたいことを全てやったから」との理由で2006年にピニンファリーナを退社したのだそうだ。 f:id:kohyusya:20181107185007j:plain

カーデザインのほか、鉄道車両、航空機、農業機械、船舶等のデザインも手掛ける。現在はKEN OKUYAMA DESIGNのCEOを務め、山形に工場と店舗、東京の青山に店舗、ロスアンゼルスに事務所を構え、自動車、鉄道車両、農業機械、家具、ロボット、化粧品、眼鏡、腕時計、テーマパークのデザインも手掛けているそうだ。2008年から川崎重工業のデザインチームと組み、新幹線や地下鉄、海外向けLRTのデザイン監修を行っているとのこと]。山形県山形市出身。イタリアピニンファリーナ社デザインディレクター(Creative Director)を経て2006年9月に独立。現在、KEN OKUYAMA DESIGNのCEO。アメリカ合衆国アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン学部長・同校客員教授中華人民共和国中国中央美術学院客員教授多摩美術大学客員教授山形大学工学部客員教授金沢美術工芸大学客員教授名古屋芸術大学特別客員教授(2007・2009年度)、東北芸術工科大学大学院客員教授、イタリアピニンファリーナ社顧問、山形カロッツェリア研究会代表、グッドデザイン賞選考副委員長、ニュートンデザイン代表。2013年4月1日よりヤンマーホールディングス社外取締役に就任していた。(彼のウィキペディア・ホームページより抜粋)現在全てに関連してるとは言えないそうだが、すごい経歴の持ち主には変わりない。エディトリアル・デザインでチマチマやってる自分からすると羨ましい限りである。北陸新幹線に乗って残念だったのは、エコノミーだったからかインテリアが少しお粗末。シートの後ろについているテーブルなどは前の人が動くと振動をまともに受けるし、せめて飛行機のビジンネスクラスのレベルがほしかった。グランクラスに乗れる費用は出せないので残念でしたが。そして山手線。インテリアのカラーリングが素晴らしい。デジタル・サイネージが多く使われていて面白かった。特にエクステリアは未だに子供達に人気のプラレールにすぐ使えるフロントマスクだったり、新しさをも感じられた。兎にもかくにも素晴らしいデザイン・ディレクターが日本にいたもんですね。   コウジロウの独り言

21st Century Museum of Contemporary Art,Kanazawa 金沢21世紀美術館

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金沢駅に着いて早々、レンタカーで市内へ。駐車場に向かった。兼六園21世紀美術館に行くなら、21世紀美術館の駐車場が便利とネットには書かれていた。21世紀美術館の駐車場はすぐに見つかって、近代的なコンクリートの明るいグレーの建物に入っていった。目的はプールの底にいる人を上から見ることとプールの底から水面に写る人影だった。「スイミング・プール」と名前がついた作品。2004年作。レアンドロ・エルリッヒが作者。ライムストーンのデッキが周囲を縁取りここから見下ろすと、あたかも深く水で見た荒れているかの様に見えるとされていた。ただしこの日は常陳の地下の部屋には入れず、上からのみとなってしまった。残念である。最大の目的のプールの下から覗けなかったのはほんとうに残念でした。当たり前の日常の感覚を揺さぶられる、この作品を情報として聞いた時興味が相当湧いた。上と下との空間の関わり方を生み出してくれる作品。とにかくこの日は天気には恵まれていた。ただし、東京でも開催されていた深海誠展を見ることができ「光の妙技」を改めて体感出来た。油圧式のエレベーターにも乗りアートの幅の広さを感じた。

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次の作品は球体のパビリオン「まる」となってる。妹島和世 + 西沢立衛 / SANAAによる金沢21世紀美術館のシンボルとして、2014年の開館10周年を機に、新たな象徴として計画された「まる」は、直径1.8mのステンレスの鏡面の球が16個集まって全体とし1つの球となる形のオブジェで、美術館の新たなランドマークとなっています。とのこと。これは美術品であり、建築構造物でもあるパビリオン「まる」は彼らがかつて関わった作品作りの中でもとりわけ特別なものとなったそうだ。設計者SANAA+構造設計Arup+㈱竹中工務店+㈱北海製作所の4者が完璧なまでのスクラムを組み、制作と製作の融合がこの作品と言えよう。自分が思うに、自分で油絵とか彫刻を制作する時に、自らが手を汚し、手を入れてこそが作品とされていたのに対し、お互いの信頼関係と熱意があって創られる作品もあるという。ことの実感をも感じた。さらに金沢21世紀美術館という空間が、または金沢という美術と工藝が融合した文化をもつ地域がそうさせたのか、このプロジェクトを通して、金沢で製作・設置に関わった工事関係者に素晴らしく充実した時間を与えてくれた。とある。これからも永遠に金沢の景色を映していってほしいものです。何か遊べそうで遊べない作品がこの「まる」なのだが......。        コウジロウの独り言    

2018年10月25日(木曜日)午前中には金沢にいた。

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昨年の今頃は、築地の国立Gセンターに入院し,処置を終ろうとしてた頃。そして今年、寛解した記念もかねてなのか、妻のアイデアで家族旅行をすることができたのである。息子も独身で居られるのも少ないと思ってが一番の事由なのだが?以前から「3人が行ったこととないところへ行きたいね!」と話をしていて、やっとの思いで金沢に旅することができた。クルマでいかない旅。久々である。35年以上前に自分一人で組合のオルグでここに訪れはしてたものの、寒い冬の2月頃だった。ビジネスホテルから一歩も出なかった思いがある。大雪だったからである。アクセスも京都から米原と特急で向かった記憶があるだけで、こんなにも近代化された金沢駅ではなかった。今では「もてなしドーム」と「鼓門」で印象付けられるファサードを持つ素晴らしい駅と化粧している。「鼓門」は、能や素囃子で使用される「鼓(つづみ)」をモチーフにしてデザインされてるのは聞いていたのですが、今まで情報で見すぎてたせいかそれほどの感動はなかった。もっともこれが数十年経ったときに再び訪れてみるとその感動は蘇って来るのだと思う。パリの凱旋門がそうであるように!かつて金沢では加賀藩主・前田家のお殿様が庶民に能を奨励したことから、大工さんや植木職人が仕事をしながら謡を口ずさんだと言われています。屋根や木の上から職人さんの謡が聞こえてくる様子は、“空から謡が降ってくる” と形容されたのだそうだ。21世紀に入り、金沢は観光都市として急速に整備され、特にひがし茶屋街、にし茶屋街、主計町茶屋街の3つの茶屋街が観光地化に向けて誕生し、2001年に金沢城公園の五十間長屋が復元され、2004年には金沢21世紀美術館がオープンしたのだそうだ。にし茶屋街に立ち寄って「かわむら茶房」でパフェをいただいたのだが、甘納豆のコラボレーションのパフェはとてつもなく美味しかった。後日ブログデ紹介するかもしれませんが、最近になってムーブメン トとして茶屋街を作り、そこにスィーツを創作して、観光客を招こうと努力してる姿は目を見張るものがある。ただ、創れば全てが当たるわけではないはず。その新メニューには隠された過去の歩んできた伝統が隠されていると、味の中に感じた。とても美味しかったのだ。小豆のアンの量と白玉そして優しいソフトの絶妙な量 と、素晴らしい計算がされており美味しさのバランスが最高でした。金沢駅周辺も急ピッチで再開発され、2005年3月に「もてなしドーム」と「鼓門」が完成した。もてなしドームは巨大なガラス張りのドームで、雨の多い金沢を訪れる観光客の方に傘を差しだすイメージで建設された。パリのオルセー美術館になっている元駅舎の現代版のようである。石川県は年間降雨日数が全国で最も多い県で、地元では “昼飯忘れても傘忘れるな” という言い伝えがあるほどです。「鼓門」は、能や素囃子で使用される「鼓(つづみ)」をモチーフにしてデザインされているんだそうだ。屋根や木の上から職人さんの謡が聞こえてくる様子は、“空から謡が降ってくる” と形容された。直線の木々を束ねクヅスことによってできる柱は自分が高校生の体育祭用に造った入退場門がちょうどこれの縦横逆版だった記憶がある。金沢駅アメリカの旅行雑誌から「世界で最も美しい駅」のひとつに選ばれましたが、“美しい駅” と称される決め手となった景観が「もてなしドーム」と「鼓門」だったそうだ。観光客の方だれもが、「もてなしドーム」と「鼓門」を見ると「金沢に来たのね」と思われるのではないでしょうか。例えば、東京駅に降り立った人は、有名な赤煉瓦の駅舎がそうさせ様に「東京に来たんだ」と思わせる。それと同じような感覚になるかと思います出口に向かって歩を進めていくと、少しずつ巨大なガラスのドームが顔を覗かせ、駅舎から出ると頭上にガラス張りの天井が広がっています。観光客の方たちが、金沢観光で最初にデジカメやスマホを取り出すのがこの地点だそうな。ある人は前方の鼓門に向かって、ある人はガラス張りの天井に向かってシャッターを切ります。また、天井から下がっている懸垂幕を撮影する人も多く見られます。自分は全く気付きませんでしたが......。               コウジロウの独り言