フランスの画家ベルナール・ビュフェを富士の麓で!

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Photo by Kojiro

静岡県長泉町東野の「クレマチスの丘(スルガ平)」にあるベルナール・ビュフェ美術館。フランスの画家「ベルナール・ビュフェ」の作品を収蔵・展示するために、岡野喜一郎 (1917-1995)によって1973年11月25日に創設された美術館である。以前はリトグラフを我が家にも展示してたのだが、訳あり親戚の家にある。妻が静岡県出身という事もあり、妻のお父様のコレクションの一枚がビュッフェのものだった。我が家にはプリントだが何枚かのビュッフェの額が吊りされていて洗面所の3面鏡に写るピエロは圧巻である。独特のフォルムと描線。白と黒と灰 色を基調とした沈潜した色。「私はビュフェの虜となった」と岡野喜一郎著「ビュフェと私」1978年4月(ベルナール・ビュッフェ美術館HPより)が言ってる様に、我々夫婦まで虜になってしまっているにかもしれません。伊豆方面にドライブすると必ず寄る中堅地点でもある。当然、「クレマチスの丘」で軽食もとれる。この美術館の収蔵作品数は油彩画、水彩画、素描、版画、挿画本、ポスター等あわせて2000 点を超え、世界一のビュフェコレクションを誇っているとのこと。このビュッフェの戦後の虚無感や不安感を描き出した表現は、岡野氏の心に深く刻 まれたのこと。その後、各年代の代表作の蒐集を続けた岡野氏は、この稀有な画家を20世紀の時代の証人として残すため、「ひとりの天才の才能を通じ、この大地 に文化の花咲くことをのぞむ」という願いのもと、故郷に近いこの地に美術館の創設を決意したらしい。何を隠そう自分も影響を受けた一人かも知れません。そのうちこのブログでもご紹介したいのですが、直線の集合体をベラム紙に描きその描画をスキャンし、写真で撮ったRGBをCMYKに置き換え、プリントする作品を10数枚創作している。今はデジタルになってMacがあればその作業も出来るであろうが、数十年前の当時は板橋の凸版印刷のグラフフィックアーツの製版の方々ににお世話になって10枚づつ位、B2校正刷で制作して頂いていたのである。要はプリントメディアもリトグラフ同様表現の一部であると自負して創造に至ったのであり、その理解を求めようとした。ただ、ビュッフェの表現の線と面には到底追いつけるものではなく、ただ小綺麗なグラフィックイラストレーションに終わっているのかもしれないと考え、少しあきらめも生じていた。その表現した作品はまた後日ご紹介することにして、この美術館のお話に戻します。この建物の設計は「建築:菊竹清訓建築設計事務所」。何かファサードがカッコいい。設計者・菊竹清訓氏は独自のデザイン論である『代謝建築論 か・かた・かたち』を掲げ、黒川紀章氏らとともに建築と都市の新陳代謝、循環更新システムによる建築の創造を図ろうとする「メタボリズム」を提唱していた。2000年にユーゴスラヴィアビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれている。1970年の日本万国博覧会大阪万博)では『エキスポタワー』、1975年の沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)では『アクアポリス』を設計し、1985年の「国際科学技術博覧会(つくば科学万博)」ではマスタープラン作成委員としてBブロックの会場計画および外国館の設計を担当、2005年「日本国際博覧会愛知万博)」では総合プロデューサーとして会場計画を担当するなど、日本国内で開催されてきた国際博覧会にも深く関わってきた方である。デザインが格好いいのでご紹介したのだが、一つ皆さんにお伝えしたいのは、美術館側には失礼なお話なのだが、常陳がすべてご紹介されている時にこの美術館を訪れた方がいいという事である。何かイベントや特集が組まれていると「ベルナール・ビュッフェ」は堪能出来ないからである。見たい絵画が見れない時、「こんなに悲しい事なのか?」と何回も実感してるからなのです。特にビュッフェ美術館は多い気がします。間違いだったらゴメンナサイ。

コウジロウの独り言

VOLVO V40と今はもう無い「NISSAN Carest」

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Photo by Kojiro

いつも洗車をしていた、カレスト幕張「Carest」。愛車V40はコーティングしているのでいつも水洗いのみ。でもカレストのシチュエーションとポジショニングは最高によかった。家から10分位で隣には「TOKYO INTERIOR」があり場所としては最高だった。パームツリーが何本も並び、背景にそれが写るだけで真夏の頃はハワイのようだった。それが今年無くなってしまったのだ。(2018年2月27日現在ではパームツリーも全て無くなり更地となっている)がっかりである。かつては「おぎやはぎの愛車遍歴」のロケ地でもあった。あのドン小西氏の時はスカイライン2000GT-Aでこの周遊をグルグル廻っていた。youtubeか「おぎやはぎの愛車遍歴』のDVDを見て頂ければ場所が「良かった」って事が解ってくれるはず。もうぼくなんかは洗車はおかげで自分でやる事なく、ガススタンでやる事になってしまった。その洗車場にはランボルギーニフェラーリはさすがに来なかったが、BMWメルセデス、そしてアウディ達もよく来ていた。何故かニッサンのサービスステーションなのに外車が多かったのが印象的である。久々クルマについて語ることにする。愛車はVOLVO V40 T4。2012年春のジュネーブモーターショーでデビューし、日本では2013年2月19日に発売された新型「V40」は、ボルボの最小5ドアモデル。車名は初代V40(1995~2004年)の復活という形になるが、実質的にはC30/S40/V50(2004~2013年)のクロスオーバー後継車と言われている。いわゆるコンパクトカーに属し、ライバルはVW ゴルフ、メルセデス・ベンツ Aクラス、BMW 1シリーズ、アルファロメオ ジュリエッタ、レクサス CT200hなどとなる。その開発コンセプトは、ボルボの上級モデルが備える機能をコンパクトカーに取り入れる、というものだった。中でも安全装備に関しては、世界初を含めた最先端のシステムを採用しており、作動速度域を従来の30km/h以下から50km/h以下まで高めた自動ブレーキ「シティ・セーフティ」を標準装備。そして歩行者を検知する「ヒューマン・セーフティ」や世界初の「歩行者エアバッグ」をオプションで用意するなど、クラスレスな内容となっている。なんと縦列駐車は自動運転してくれるのだ。ただ、まだ一度しか使ってないのだが。デザイナーはサイモン・ラマー氏でV40の 外観デザインを統括したケベック出身のカナダ人でスカンジナビアデザインとなっている。C30のクーペスタイルを5ドアで再現したという感じでもある。エンジン型式は B4164T。2013年バージョンで購入。本来なら2014年バージョンとなる時期なのに、直ぐにリーズナブルな価格帯で欲しいという事でこの時期となり、スタッドレスタイヤ4本(純正品)もホイール付で入手。 ●最高出力:180ps(132kW)/5700rpm 最大トルク:24.5kg・m(240Nm)/1600~5000rpm●種類 :水冷直列4気筒DOHC16バルブICターボ ●総排気量:1595cc 内径×行程:79.0mm×81.4mm 圧縮比:10.0過給機:IC付きターボ ●燃料供給装置:電子燃料噴射式 燃料タンク容量:62リットル●使用燃料:無鉛プレミアムガソリン  JC08モード燃費:16.2km/リットル ●ステアリング形式:パワーアシスト付きラック&ピニオン ●サスペンション形式(前):マクファーソンストラット式 ●サスペンション形式(後):マルチ・リンク式 ●ブレーキ形式(前):ベンチレーテッドディスク ブレーキ形式(後):ディスク ●タイヤサイズ(前):225/45R17 タイヤサイズ(後):225/45R17(自分のは215/55R16) ●最小回転半径:5.6m 駆動方式:FF トランスミッション:6AT LSD 等々凄いと思いません?法廷規制があるからあまりスピードの事は言えませんが、とにかくキビキビストレートに速い。最高にデザイン・性能、共に気に入っている。スポーツカーセダンと言えばいいのですかね?メーターもボルボ初のデジタルで3パタ−ンを選べるから面白い。●日産カレスト幕張店によせられていたクチコミ情報を記載してみると●ピカピカにしてもらった記憶があります! 隣にあるカー用品店も利用しました。 良い場所にあります。●とにかく、広すぎてどのくらい車があるか分からないくらい。お店の方も気さくに対応していただいた上、店内の広大な敷地の中で試乗できる所は他店では、なかなか無いと思います。 また、正規ディーラー系店だったので、アフターサービスも充分満足いくものでした。分からない点も明確にお応えしていたけて、安心して取引ができました。●さすが日産直営のお店で、日産車の事なら営業マンがビシビシ教えてくれます。 ここの営業マンと話していて、日産車が好きになりました。 友達や親にも紹介して、合計三台同じ営業マンから買いました。●試乗700m×二周のコースで車の状態を見れるというのがかなり良かったです。店員さんも他の中古車店のようにとにかく「車買って!」を押しつける事もなく、車や諸経費の内訳説明が丁寧でした。=ニッサンのセールストークが多く聞かされた。カレストは多分採算割れしたんでしょうね。今やニッサンも他の数社もリコールが起きており、大変な事になっている。そして潮流は電気自動車・自動運転。自分はもう少し化石燃料車に乗ろうと思ってます。助手席に左手を乗せバックする姿はもう見られませんが?                              コウジロウの独り言

北海道・駒ヶ岳と大沼公園キャンプ場

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大沼を挟んで北海道・駒ヶ岳を写真は撮らえている。僕らスカGの4人は駒ヶ岳の麓のキャンプ場に泊まった。キャンプのテントは借りたのか覚えてないが、カレーを作って食べた事は覚えている。現在の大沼公園には大沼の東側に2ヶ所のキャンプ場が整備されてるそうです。これらのキャンプ場の特長はまったく正反対で、東大沼キャンプ場は本州から北海道へ渡るバイクのツーリング旅を楽しむ方用となっているらしい。僕らが利用したときも多数のツーリング客がキャンプを楽しんでいたのを記憶している。45年前の当時はハチの子族と言われてたのを覚えてますか?かたやもう一方のキャンプ場である流山温泉キャンプ場は敷地全体が流山温泉のテーマパークのようになっており、家族連れが多く利用するキャンプ場となっているとのこと。昔は上記の一カ所のみだった気がします。北海道・駒ヶ岳は、北海道森町、鹿部町七飯町にまたがる標高1,131 mの活火山(成層火山)。蝦夷駒ヶ岳(えぞこまがたけ)、渡島駒ヶ岳(おしまこまがたけ)とも呼ばれてるらしい。「北海道」を冠するのは全国に多数存在する同名の山と区別するためであり、地元の北海道の人たちでは単に駒ヶ岳と呼ばれているらしい。本当に大沼と挟んで素晴らしい風景であった記憶がある。何せ、北海道に来たのはまだ4回程度。ハワイ・ホノルルの15回に比べると殆ど来てないに等しい。キャンプ場を出るときクルマのナンバープレートにガムテープが貼られており、お巡りさんに怒られた覚えがある。「お前らみたいな本土から来た奴らが北海道の歩道橋を造ってくれるんだから、交通違反は罰金がつきもの。この行為も故意だったら罰金ものだ!』とやたら犯人扱いされ怒られた記憶もある。この写真は初めての北海道訪問の駒ヶ岳でした。駒ヶ岳の山頂部には直径約2 kmの火口原があり、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形になっているとのこと。登っていないので解らないのである。山頂直下から侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上らしい。山麓には、堰止湖である大沼、小沼などの湖沼や湿地など豊かな自然環境が生まれ、一帯は1958年(昭和33年)7月1日に大沼国定公園に指定されている。渡島半島南部に位置し、函館市の北約16kmの距離にある。活火山の北海道駒ヶ岳とその火山活動によってできた大沼、小沼、蓴菜じゅんさい)沼の湖沼からなる。大沼には大小100数種の小島が浮かび、春から秋にかけてサイクリングなどのアウトドアスポーツを楽しむことができるそうだ。大沼から駒ヶ岳を回る鉄道の線路が海岸との間に函館本線の「藤城線』が延びている。「藤城線」とは通称で、正式名称はあくまで「函館本線」です。藤城線は、七飯駅大沼駅間の東側の路線。途中に駅がひとつもない、さらに不思議な区間です。ただ景色としてみるとその線路は模型のジオラマを見ているようだった。 コウジロウの独り言

礼文島の昆布と利尻富士。

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礼文島(れぶんとう)は、北海道の北部、稚内の西方60キロメートルの日本海上に位置する礼文郡礼文町に属する島。写真はモハメッド・アリの運転手のバイト代が入り、リッチになったところでその夏、北海道へのドライブ旅行となった。T美大の男4人だけのドライブ旅行になった。もちろん、宿泊代等うかす為に野宿やキャンプ場での自炊旅行になった。松島でテントで一泊した後、大間から函館へ。函館からサロマ湖経由で網走、そして宗谷岬稚内でスカGを路上駐車をしてフェリーで礼文島へむかった。1973年頃のお話。何年か後ドーバー海峡も渡る事になるのだが、今思えばドーバー海峡のフェリーに比べると少し質素なフェリーだったような気がした。短パンにTシャツの友人達は寒くてオーバーオールを着たが、クルマは稚内に置いて来たため、軽装で来た為寒さを防ぐものはなかった。礼文島の地名の語源はアイヌ語のレプン・シリ=repun-sir(沖の・島)で、礼文水道を挟んで利尻島の北西に位置するとのこと。冷涼な気候により海抜0メートル地帯から200種類以上の高山植物が咲き乱れ、そのため別名花の浮島と呼ばれているという。人口は2017年4月1日現在、2,604人。写真の干されている礼文昆布は明治に入ってから採取が始まったそうです。黒褐色で、真昆布よりやや黒く、ダシ汁とした場合、透明で風味が良く高級料理のダシとして使われているそうです。甘みがあり、味が濃く、香りも高い透明な澄んだダシがとれるとのこと。幅が狭く、葉の基部は細いくさび形をしているそうです。写真は遠くに利尻富士をあおぎVS利尻コンブと言ってるかの様に礼文の昆布が干されていた。礼文昆布の色は黒褐色、葉は固くなっています。日本最北端の有人島(北海道本土や北方領土を除く)。東西約7.9km、南北約25.8km、周囲約72km。スコトン岬と金田ノ岬の間に直径5kmの半円形の船泊湾がある。最高地点は礼文岳(標高490m)。礼文島を縦断する車道は東海岸にあり北部 - 東部 - 南部に通じているが、西海岸を縦断する道は車両の通行が不可能な林道のみとなっているそうだ。島のほぼ中央部分を礼文林道という未舗装の道が通っている。島の北部には久種湖(くしゅこ)という淡水湖があるんだそうだ。利尻島と違い、白亜紀 - 新第三紀中新世に海底で堆積した砂岩や泥岩、火山岩の地層が見られること。また地蔵岩の周辺から1億1150万年前のアンモナイトの化石が見つかっており、新第三紀中新世の地層は、主に海底火山の残骸からで、スコトン岬や知床に露出が見られているそうだ。白亜紀の地層は、礼文岳を中心とした島のほぼ中心に露出し、また桃岩は、約1300万年前のマグマが海底下で個結したものであるのだそうだ。したがって、礼文島の形成場所は海底と考えられている。 礼文島が南北に伸びているのは島の骨格をなす白亜紀の地層が南北に褶曲したためである。至る所に安山岩玄武岩の柱状節理が岩脈として現れているのだそうだ。また化石やケイ岩、火打石(レブンメノウ)を数多く産出している事実もある。こんな島だったら、化石探検をしに行きたい気持である。何十年も経った今、また、礼文島からの利尻富士を眺めたいものである。         コウジロウの独り言

スカイライン2000GTと4人で立ち寄った下北半島の恐山

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1972年夏。今から45年前の事。よく覚えてるねって云えばその通りなのだから仕方のない事。箱スカ2000GT4ドアL型シングルキャブエンジン120馬力で出かけた時の事。前のブログの写真にも乗っていたスカGである。T美大の4人が北海道・函館行フェリー乗り場の大間港に向かう途中、チョット不気味な風景が木々の合間から見えて来た。「恐山」である。「恐山」という名称の山はないそうだ。古くは宇曽利山「うそりやま」と呼ばれいたそうだが、下北の訛りにより変化し、恐山「おそれやま/おそれざん」と呼ばれるようになったそうだ。「うそり」とはアイヌ語の「ウショロ(くぼみ)」に由来、これは恐山山系のカルデラを意味しているとのこと。恐山(おそれざん、おそれやま)は、下北半島の中央部に位置する活火山(正直、活火山とは知らなかった)。硫黄の臭いや所々に白煙が立ちこめる不気味さはあったが。だからなのか恐山には、鳥や小動物がほとんどみない。記載された内容を見るとその他に草木も生えず、賽銭がひどく腐食している。とされている。心霊現象からなのか?ある人たちは語ってるが、答えは直ぐ浮かんでくる。すべて火山ガスの影響だそうだ。そして川や湖の水が異常に透明であるのも、水に火山ガスが溶け込んでるからだそうで、酸性値が高いため、生物の生育に適していないからと言われている。このあたりとは違う奥の霊場内には多数の積み石が見られる。不思議な景観である。温泉の沈殿物として金の異常濃集体が発見されており、2007年、日本の地質百選に選定されたそうだ。それが凄い含有量の金鉱山なのである。地質調査によると、その金の含有量は鉱石1トン当たり平均約400グラム、場所によっては6500グラムにも達し、世界でも最高の品質を誇る金の鉱脈とされた。ただし、恐山一帯を国定公園に指定した後に金鉱脈を発見したので、新規の開発は法律で禁止されている。それと土壌には高濃度の砒素と硫化水素が含まれており、ここの地面を掘れば作業者の生命に危険が及んでしまうとされている。恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、古くから崇敬を集めてきた。カルデラ湖である宇曽利山湖の湖畔には、日本三大霊場の一つである恐山菩提寺が存在する。その入口の木々の美しい廃木の姿。この廃木に自分は何とも云えない美しさを感じるのである。写真の様にまるでエメラルドホワイトのごとく,異質な粘度の彫刻の様でもあり、優しい造形作家がオブジェとして制作したモチーフとも思える。この写真はT美大の暗室でフィルム現像し、コダックキットで紙焼きまでも焼いたものである。フィルタ−で補色を引いて、真っ暗な中に光るグリーンライトの中で、何度だったか21度位だっただろうか?忘れたがサーモスタットで現像液の温度を保ち、夜遅くまで処理をしていたのを思い出す。47年も前の印画紙が未だに変色せずいたのが不思議。それほど工程管理がよかったのか?いまだに変色せずあるのが素晴らしいと思っている。但し皆さんにお見せしている写真はデジタル処理をしているので残念です。                                          コウジロウの独り言

アムステルダムの路面電車は観光客を楽しめるだけでなく、生活者の足となっていた。

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ベルギーからバスでアムステルダムへ。途中検閲がバスの中であり、通過。オランダの路面電車は美しく輝いていた。アムステルダム市営交通会社はオランダのアムステルダムで運営する、アムステルダム市100%出資の交通機関企業なんですって。前身であるアムステルダム公営交通が1900年に設立され、既存の民営トラムを買収して事業を開始したそうだ。先日NHK BSでアムステルダムのメトロの紹介をしていた。狭い国土に排気ガス無しの交通手段の必要性や、200m置きにストップがあり、街中に買い物や美術館と好きな場所で乗り降りが出来る。庶民には最前の乗り物。1943年には現在の市営交通会社(GVB)に経営形態を変更したとされている。1977年にメトロ路線を開業。「メトロと言っても路面電車のこと。首都や大都市の高速大量輸送都市鉄道のこととされている」自分が1974年 アムステルダム市立美術館/アムステルダムの美術館を訪れたのが2月。ちょうど横尾忠則の展覧会を開催していた。プレイボーイかに連載していた眠り狂四郎等のイラストが展示されてた。隣の美術館がメインだったが名前を 調べるまでもなく、ゴッホ美術館だったと思う。ゴッホの向日葵と麦畑が印象的だった。そんなタイトルはないって?おっしゃる方がいらっしゃる と思いますが、印象を大切にしてる自分からは言いたくない。今回はなぜか?アムステルダムのメトロはオランダ最大の、そしてヨーロッパでも有数のトラム(路面電車、ライトレール)網なのだ。写真は1974年2月のもの。観光客の我々は所定の場所まではバス、その他は歩きだった。シンヘル運河より内側の旧市街地では道路幅が狭く自家用車の使用は困難であり、バスもほとんど運行されていないことから、トラムが主要な交通手段のひとつとなっているとのこと。路線網は主にアムステルダム中央駅およびダム広場を中心とした放射状路線と、それらに直交する環状路線からなり、今現在16の系統が運行されている。中心部では併用軌道であり、郊外に出るとセンターリザベーション方式などによる専用軌道となる。中心部の特に道幅の狭い道路では、道路幅が軌道の幅ぎりぎりしかないため、一般車両の通行を規制し許可を受けた車のみが軌道内を走行するようにしたところもあるのだそうだ。レンブラントの家にもよった事が記憶にあり、レンブラント通りなど一部の通りはトランジットモール化されているのだそうだ。軌間標準軌(1435mm)で、直流600Vで電化されている。5系統以外の系統では編成の前方のみに運転席があり、終点ではループ線によって方向を変えるようになっている。中央駅の停留所も東西2つに分かれたループ線状になっている。乗降用のドアも進行方向右側のみにある。5系統のみは編成の両端に運転席があり、ドアは左右両側にある。1957年、ライツェ通りを経由する1、2系統用に連接車の新型車両が25編成投入された。これが好評であったため、トラムの近代化にやっと関心が高まったとされている。1950年代後半以降市の西部で大規模な住宅地開発が進められ、これらの地区へトラムが延伸した。1960年代から70年代には、路線の延伸や旧式車両の置換えに対応するため新型車両が次々に投入された。1990年にはアムステルダムの南に隣接する住宅都市アムステルフェーンまで、メトロ(快速トラム)と軌道を共有する形で乗り入れた。21世紀に入ってからも路線の延伸は続いている。

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猫岳のブルトーザースキーとリバティベル!

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また、スキースノボーシーズンの到来ですね。今から40年位前の菅平。当然独身時代。元在籍していた化粧品会社のスキーバスツアーに参加した自分は、オプショナル・ツアーとして当時『ブルートーザーで頂上から滑降しよう!』とネーミングされていたかは定かでないのだが、猫岳の頂上から下のゲレンデまで滑降するプランがあり、社長自ら行かれるということもあり秘書でもないのに同行をした。現在ではこういう紹介になっている。『スノーキャットというブルトーザーみたいな乗り物で、奥ダボスの一番奥のリフト乗り場から、根子岳頂上の手前2170mまで登ります』猫岳ではなく、根子岳なのか?『雪上車に乗って広大な根子岳に出かけよう!根子岳山頂からの景色は、まさに絶景! 最高の雪質でのダウンヒルを!』『奥ダボス第1トリプルリフト山頂からスノーキャットに乗って約25分。 地元ガイドが根子岳や見える山々などをご案内。 雄大な景色を楽しみながらの約4kmのダウンヒルはまさに爽快! また、スノーキャットでお帰りいただくこともできますので、 山岳・自然風景を撮影される写真愛好家の方や、滑りに自信のない方、 お子様も楽しんでいただくことができます。 運行期間は1月初旬から3月末の予定です』となっている。今でも続いているのである。『根子岳の名前は、四阿山と並んで見ると猫の耳のように見えるので「 猫岳」と呼ばれたことに由来しています』との事で、別に猫岳がある訳ではなかった。30数年前ここを滑った限りでは、そんなに簡単なコースではなかった。山岳登山家達を横目に、彼らは登山しながらスキーで降りるタイプで特にスキーが上手い人たちではないはずである。我々スキーヤーのように一気降りをしようとするとゲレンデではない為に足腰がショックアブソーバーのごとく上下動に悩まされ、スピードも制御しないと曲がりにくくなったりもした。新雪と思いきや、アイスバーンもあったりするからだ。写真上は当時のブルトーザー。下は全身ブランド品で固められた、自分の滑降姿。自分はスキーもヨットもファッションと考えていた一面もあり、流行の最先端をいってないと心が落ち着かないタイプだった。だがダウンのリバティベルを除くとすべて2番手のブランドだった。板はアメリカのバレースキーでよく使われていたPRE SKI板。靴はラングと言いたかったがカベール。ビンディングはチロリヤロケット。ただしゴーグルがSCOTT。と何故かピンと来ないでしょ!兄弟はロシニオルやフィッシャーの板で靴はラング・バンシーだったのを記憶している。何十万円も道具に払っていたのである。自分なんかは板も貰い物。ちょっと合理主義者だったかもしれません。祖母の田舎が信州湯田中だったため兄弟はスキーが上手だった。自分が一番ダメな部類。恰好つけマンは、国体体験者と社長と一気に降りる事が出来た。何故か蔵王樹氷よりも寒くはなかったのを記憶している。もう2度と出来ない想い出の1シーンである。       コウジロウの独り言