ジェームズ・ディーン事故死と「ポルシェ・スパイダー550の呪い」

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Photo by Kojiro

このクルマを有名にしたのはジェームス・ディーン。「ポルシェ・スパイダー550」でだった。550スパイダーは1954年、ポルシェ初の市販レーシングカーとして誕生した。エルンスト・フールマン博士の手によって生み出された”フールマン・エンジン”、 乾燥重量550kgのライトウェイト、ミッドシップ。重量の550kgから550スパイダーと名付けられたのだが。jポルシェ550スパイダーの公式デビューも1954年となる。その戦歴は輝かしかったらしい。同年、ミッレ・ミリアに初登場し、6位入賞。さらに、ル・マンで総合4位(クラス優勝)。この時のドライバーは、ボレンスキー/フランケンベルグであった。ほかにも、ブエノス・アイレス1,000km、ミッレ・ミリアなどでクラス優勝している。その魅力に憑かれた若者は数多かったようだ。別名、”フールマン・エンジン”と呼ばれた。1,498ccという小排気量ながらも各所に施された高度な機能によって110PS/6,200r.p.mを発生し、乾燥重量550kgという極めて軽い車両と相まり、最高速220km/h、0-100km/hは10秒以内と、驚くべき高性能を持っていたのだそうだ。1954年末より市販を開始。生産台数は約100台。その中で現存が確認されているのは世界中でわずか30台に過ぎない。永遠の英雄、ジェームス・ディーンもその1人であった。彼がこの世を去ったのは1955年の9月30日。自分が4歳の頃。カーレースが大好きだった彼はロサンジェルスからサリナス(カリフォルニア州エデンの東の主人公が住んでいた町と設定されていた)のレースに出場するため、愛車のポルシェ・スパイダー550で41号線を走らせた。そして、1955年9月30日の夕方、Y字路前方から走ってきたフォードと正面衝突して首の骨を折り、即死したそうだ。まだ24歳だった。事故後、彼が乗っていた「リトル・バスタード」と名付けられたポルシェ・スパイダー550(写真と同型)は呪われた車と噂された。何と八回も事故を起こすのだった。ジョージ・バリスがその残骸を買い取った。運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させたのが1回目。翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い、自分たちのレースカーに搭載したのだそうだ。2人が挑んだロスアンゼルスのポモナ・レースでは、その1人、スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中にタイヤが外れ、居合わせた警官に怪我を負わせたのが2回目。もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡したのが3回目。ジョージ・バリスが所有していたボディは、カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示され、各地にツアー参加。1959年、スパイダーボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり、崩れ落ちのが4回目。サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負ったのが5回目。数週間後にスパイダーはサリナスに送られ、途中運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡したのが6回目。そしてまたオークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させたのが7回目。なんと8回目になるのだが、オレゴンで運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させたこともあったそうだ。1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしたのだそうだ。此の輸送中、スパイダーの残骸は、忽然と消えてしまったのだそうだ。バリスは私立探偵まで雇って行方を探したが、未だに消息は掴めていないと言われている。文面をNETから一部引用させて頂いているのだが、つまりこのクルマには何か魔物が取り憑かれていて自分自身の意思があるがごとくでどこかに自分で消えていってしまっているのかもしれません。霊感等持ってない人たちに不吉な予感がするから中止する様に言われていたんも関わらず何故向かって行ってしまったのかいまだに謎となっているディーンの死?彼の事故にまつわる怪奇話はさておき、そのクルマが2003年のヒストリックカーフェスに来ていたのだった。写真がそれである。ただボンネットにあるべくところにマークのエンブレムそしてロゴが見えないのは何故なんでしょう?これもまた我々民衆にその顔を見せたくなかったのかも知れませんね?オーナーが?いやいやクルマ自身がですよ!                                         コウジロウの独り言

ポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトの回答はホノルルの駐車場にあった。

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写真は1980年代のハワイ・オアフ島のホノルル・モアナパークの駐車場。今はアラモアナ・市立公園と言うのかもしれない。大好きなアラモアナ・ショッピングセンタ−やアラモアナ・ホテルがある海岸だからなのか?モアナ・パークとは言わないのかも知れません。ワーゲンビートルの1960年代の物とそのころのバギータイプの写真である。塗装をするのか?わざと完成させていないのか全く解らない状態である。とにかくいづれ紹介する事もあろうかと思っていた写真。この当時ニッサン・サニーを1970年代のホノルルや西海岸ではセントラ(SENTRA)と呼んでいたのを思い出していた。現在ではシルフィーがその車種となっているらしいのだが。今や遠い友人になってしまった、当時アシスタントコーディネーターをしていたジミーに彼個人のクルマでちょっとしたドライブに連れて行ってもらった時が滑稽な想い出深い話になっている。彼のセントラ・セダンは助手席側のドアが落ちるのである。乗った時も両手で抑え、しばらく走るとガタガタ言ってくる。ましては、止まって、ドアを開けようとするとそのままドアが落ちてしまうのである。日本の車検では絶対通らないクルマを1970年代のハワイでは平気で乗ってたのである。撮影隊のクルマはダッチ・バン。そして撮影用として大型セダンのリンカーン等借りたりしてたので、いわばきれいなクルマ達だった。現地の人達が個人的に持つクルマは経済的にもガスの食わない日本車やワーゲンが好まれていたのは事実。トヨタカローラやホンダ・シビックは当然走り回っていた。ただ1970年頃は、やたらグレーのパテをしたままのクルマがハワイでは多く走っていたのは事実。下の写真は今でも残って売られているワーゲン・バギー。上の自分の写真のバギーに比べたら、遥かに完成されている素晴らしいクルマ達である。今、何を言いたいのか?自分で考えるのであるが、やはりワーゲン・ビートルは素晴らしいデザインのクルマなのだと言う事。自動車設計者フェルディナント・ポルシェによって1920年代以来長年にわたり希求されていた高性能小型大衆車のプランが、1933年にドイツ首相に就任したナチ党党首アドルフ・ヒトラーの大衆政策と相まってで開発が実現した。ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社のフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」(現ポルシェ)を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこなっていた。イタリアで言うカロッツェリアなのかも知れません。その過程で、ナチスの支援していたアウトウニオン・レーシングカーの設計にも携わった。イギリスやアメリカ合衆国の自動車メーカーも概して、フォルクスワーゲンの先進性を理解しなかったのだそうだ。このため1949年までには、フォルクスワーゲン工場が連合国側の接収対象から免れられた。アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。残っていたドイツ人労働者らの力で「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。フォルクスワーゲン車の本格的な量産はこの時から始まったらしい。1945年中に早くも1,785台を生産しているとのこと。こんな事実があるのだ。1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。最大の市場となったアメリカへの進出は1949年である。大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を可能に100km/h以上で高速道路を連続巡航できる大衆車、ポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進諸国におけるハイウェイ時代到来に適応したのである。アウトバーン整備推進とフォルクスワーゲン開発はあのヒトラーの施策で、戦後これを実効的に継承できたこと。後年まで成功となる数少ない事績の代表例となった。そしてこんな写真でハワイで紹介されるんですから、歴史を語る上でも何か滑稽でなりません。ビートルのビルトインした多様性のあるデザインが実証している。            コウジロウの独り言

ポルシェ906=カエラ・6いやカレラ6

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またまたキディランドでスロットルカー&マグナカーで遊んでいたモデルカーではなく、本物のポルシエ・カレラ6−ポルシェ906である。前のブログ同様2003年のヒストリックカーフェスの一コマ。今や無惨にもボディとモーターが外れている状態のAFXモデルカーが家にあるのだが。何を隠そう、ブッチ開け言わせていただくとこの写真から自分は907かなって思っていたのである。モデルカー収集家の友人のK氏に聞いてようやく本当の車種が解った。Porsche-906だった。ポルシェ906とは、FIAのグループ4に合わせて作られ、1966年に デビューしたレーシングカーなんだそうだ。別称カレラ6(Carrera 6 )。 自分達が社会人になった頃のおもちゃレベルではステータスカーだった。1966年にグループ4スポーツカー(年間生産50台)を対象とした国際スポーツカー選手権が新設し生産されたクルマ。クラス-S2- つまり2リッター以下のタイトルを獲得するため、フェルディナント・ピエヒ率いる技術陣がポルシェ初の純レーシングカーとして906を開発されたらしい。1966年のスポーツカー世界選手権開幕戦デイトナ24時間レースで実戦デビューを果たしたクルマ。第4戦からグループ4公認を得たとされている。ワークスは以降燃料噴射式のグループ6仕様を主力とし、2.2リッター8気筒は信頼性が不充分なため、出場機会は少なかったそうだ。タルガ・フローリオでは総合優勝し、ポルシェが得意とするレースで6度目の勝利を得た。最終戦ル・マン24時間レースでは、総合1~3位を独占した7リッターのフォード・マークIIに続き、2リッターの906が総合4~7位を占めたのだそうだ。グループ6マニュファクチャラーズでも、ライバルのフェラーリ・ディーノ206Sを抑えてP2クラスのタイトルを獲得した。ポルシェとして大好きなこの形の生産台数はなんと65台しか造られていなかった。量産型52台はワークスのほかプライベートチームにも供給されたそうだ。この写真の2003年のこのクルマはその中野一台なのか?エンジン仕様の異なる13台は、生産義務のないグループ6スポーツプロトタイプ用とし、国際マニュファクチャラーズ選手権2リッター以下クラス (P2)にエントリーしていたのだそうだ。先代904の6気筒バージョンが906と呼ばれていたために、このクルマは「カレラ6」の名で市販されていたんだとか?後で904の6気筒バージョンをを904/6、カレラ6を906とする形が一般化したのだそうだ。すべてFRP製のボディは、904同様実際には関与していなかったフェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ。ただフロント部分はボンネットの高さを抑えてフェンダー・アーチを押し出したデザインとなっている。ルーフは寸法規定の緩和により幅の狭い丸みを帯びた形状となり、大型ウィンドシールドと跳ね上げ式のカッコいいガルウィングドアを採用していた。ル・マン24時間レース出場車はユノディエールの直線で最高速を伸ばすためにノーズを延長してたそうだ。リアオーバーハングを500mm以上延長したロングテールを採用した。高速サーキット用のロングテールは後継モデルでも定番となっている。当たり前のようなフロントガラスもガルウィングも流面型の典型的な完成形に近い、素晴らしいデザインだったと思う。素材とデザインが見事にマッチングしたビルト・イン・デザインの先駆車と言えるクルマだと思う。         コウジロウの独り言    

ジャガー・XJ220が2003年のイベントにいた。

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2003年のヒストリックカーショウにいたジャガー・XJ220とは、イギリスのジャガーが発売していたミッドエンジンスポーツカーである。名前の由来は、最高速約354km/hを目標とし、マイルだと220マイル/hになるところから来てるそうだ。元々はジャガー社の熱狂的技術者たちによる、クルマ好きサークルが凄い物を造ったのだ。ボディはアルミニウム製で、プラットフォームはアルミハニカムをアルミ板で挟んだパネルによるモノコック構造。フロントには可変式のスポイラーも装備。サスペンションは、ダブルウィッシュボーンで、まるでレーシングカーのセッティングのようだったそうだ。ボディデザインは、幻のレーシングプロトタイプ「XJ13」をモチーフ。インテリアはコノリーレザー製高級レザーのトリムを被い、レーシングカー的な性能とは裏腹に豪華なものだった。デビュー当初は市販車ではなかったのだが、すぐに1,500台に及ぶ注文が殺到したのだそうだ。TWRとの連携が市販を決定させてくれた。6.0リットルV型12気筒DOHCミッドシップレイアウトで搭載したフルタイム四輪駆動になる予定だったらしいのだが、生産化が決定した後、重量が重すぎるという理由でやむなくグループCカーのXJR-10に使用されていた3.5リットルV6DOHCツインターボエンジンをMRレイアウトで搭載することとなった。最高速度は目標の220マイル/hには届かなかった。カタログで「200マイル/h以上」を謳い、実際にも347km/h(216マイル/h)であり、当時としては世界最速だったそうだ。0-100km/h加速は3.9秒と、凄いポテンシャルだった。市販モデルは1991年の東京モーターショーで発表。価格は29万ポンドで、当初は名前から限定220台の予定だったが、世界的な好景気により注文が殺到したのだそうだ。急遽生産台数が350台になった。前述のエンジンの問題を解決するため、実際のデリバリーは1992年まで遅れてしまったが、うってかわって時は世界的不況。さらにはV型12気筒エンジンが搭載されないことへの不満や、同時期にTWRが発表したXJR-15と市場が競合してしまったことなどからその高いポテンシャルにも関わらず最終的には281台ほどしか売れず、日本への正規輸入もなかった。写真はそんな中での一台。本当に希少性が高い一枚の写真である。エンジンはドライサンプで水冷式ターボチャージャーと空冷式インタークーラーを備えていた。3,498cc。最大出力は500hp(373kW)/6,500rpm、。とされていた。自分がイタリアで買ったミニカーに紺色のジャガー・XJ220があった。メイドインチャイナであったのはすこしがっかりさせられた。でも残念なのはカメラがキャノンF-1で24mmレンズ絞り5.6〜。とPKRのフィルム。フィルタ−も何か使っていた気がするが、撮影した被写体をバチバチとる習慣がなくこの一枚しか探せていない。残念な事である。しかも、この手の写真をカメラマンの佐藤氏にスキャンをして頂いているのには感謝に堪えない。  コウジロウの独り言 

2003年。憧れのフェラーリ365GTB/4を撮影していた。

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「365GTB/4」は、イタリアのスポーツカーメーカー、「フェラーリ」が1968年から1973年まで製造されたグランツーリスモ。あの1966年に発表されたデザインは「カロッツェリア・ギア時代のジョルジェット・ジウジアーロ」による「マセラッティギブリ」ともよく比較された。「ギブリ」は鋼管フレームにスチールボディを被せたスタイリング。当時の高級スポーツカーに共通して見られる地を這うような背の低いプロポーション、ロングノーズ、ショートデッキ、ファストバックスタイル(リアハッチはリアガラス下のパネルが開くのみ)をとり、「マセラティ」としては初のリトラクタブル・ヘッドライトを採用していた。「ギブリ」が一番好きだったのも事実。以前のブログにも書いた事があったのだが運転をして江ノ島まで行った事、遠乗り体験があるのは「ギブリ」のみ。フェラーリは355しかハンドルを握った事がない。次に写真を見て下さい。珍しい後期型「フェラーリデイトナ」。自分は「フェラーリデイトナ」と呼んでいるのだが。あの「ギブリ」の次に大好きな365GTB/4は1968年のパリ自動車ショーでデビユー。なんと50年も前の二分の一世紀の時を超えて来たデザインなのだ。今でもこの形は素晴らしいく思えるのは自分だけなのでしょうか?「デイトナ」の愛称は1967年の「デイトナ24時間レース」で「フェラーリのスポーツプロトタイプ・330P4と412P」が圧倒的な強さを誇り1-2-3フィニッシュを果たしてから自然発生的にそう呼ばれるようになったと言われている。 「365GTB/4」の365は当時のフェラーリの例に洩れず12気筒エンジンの単室容量、GTはグランツーリスモ、Bはベルリネッタ(クーペ)、4は4カムシャフト(DOHC)を意味してるとのこと。前身の「275GTB/4」の美しさとは対照的な、1970年代的なダイナミックな新しさを持ちながら「ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティ」によるスタイリングなのだそうだ。V12・6ウェーバーキャブレターエンジンがもたらす最高速度 280km/h・0-60mph加速 5.4秒という世界最速水準の動力性能(当時としては)、1996年に550マラネロが登場するまでフェラーリスーパースポーツとしては途絶えてしまうフロントエンジン・リアドライブレイアウト。当時としても古典的で豪快な操縦性、1972年から1974年までル・マン24時間レースGTクラス3年連続クラス優勝、生産中止から6年後である1979年のデイトナ24時間レース2位入賞などの輝かしいレーシングヒストリーなど数々の魅力があった。2004年には'Top sports car of the 1970s'に自動車雑誌'Sports Car International'によって選ばれ、'Motor Trend Classic'誌は 'Greatest Ferraris of all time'の第二位に選ばれている。このため今日でも中古車は非常な高値で取引されているのだそうだ。当然相当程度がいい物だと思うのだが最近の面白いニュースとして2017年9月9日、日本の納屋に眠っていた走行可能なアルミニウム製車両がサザビーズの競売に掛けられ、約2億3,000万円(1,807,000ユーロ)で落札されたのは話題になった。「ギブリ」同様「ランボルギーニのミウラ」シリーズと生産期間が重なり、スペックが(少なくとも公称値では)拮抗していることから、後の「カウンタックと365GT4」の関係のようにミウラシリーズとライバル関係とされることもあったそうだ。初期型は透明なプレクシグラス(アクリル樹脂、商品名)内に4灯式ヘッドライトを備えていたが、米国の安全基準に合致させるため1970年リトラクタブル式に変更された。1,406台のGTB/4が生産されたが、158台が右ハンドル、122台がスパイダー(365GTS/4右ハンドルは7台)であったが、後年になってクーペからスパイダーに改造された例も少なくないとされている。とにもかくにもスロットルカーレースを原宿キディランドでやってた頃から今現在まで模型でも大好きな「フェラーリ」。買える余裕があるなら本当に欲しい一台である。                          コウジロウの独り言 

Pioneer Inn-Historic hotel in the heart of Lahaina.

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2018年を迎えて第一歩のブログを見て下さりありがとうございます。Pioneer Inn=1901年築の建物のホテルには歴史的な魅力が溢れていた。今でも敷地内に専用バルコニー、屋外スイミングプール、朝食とランチを提供するPioneer Innバー&グリルもあるそうだ。 ラハイナ港に建つ最古のホテルパイオニア・インは、1901年創業の100年以上の歴史を誇る、港町ラハイナは勿論、マウイ島最古のホテル。パイオニア・インは、ラハイナのランドマークとして知られ、創業時の外観を残したまま現在もホテルとして営業している。捕鯨船時代、プランテーション時代の面影が残る、パイオニア・インのノスタルジックな建物は、絶好のフォト・スポットとしても有名。建物は、国定の歴史的建造物として指定され、厳重に保護されている。写真は1988年頃かそれ以降の物。ハワイ・ロケにマウイ島にまで渡って撮影していたオフの一日。クルマは1985年に86年モデルとしてアメリカで発売開始されたトーラス・セダン。ライバルと目されたドイツ車や日本車を徹底的に調べ上げた上で開発されたクルマとされている。1983年に発売が開始されたサンダーバードをさらに洗練したようなエアロダイナミックなエクステリア(cd値はセダン0.33、ワゴン0.35)が特長で、日本のオーナーの間では親しまれてた。先進的なデザインと充実した装備で日本車やドイツ車には無いベンチシートやホワイトリボンタイヤが選択できることなどを理由に、アメリカやカナダでは記録的なセールスとなり、1989年には全米販売ナンバー1に輝いた。エンジンは基本グレードがV型6気筒OHVで当初は3Lモデル (140 PS・22.1 kgf·m) のみだった。駆動方式はFFでトランスミッションはV6モデルが4速AT、直4モデルが3速ATである。乗車定員は車体形状及びシフトポジションによって異なり、セダンは5/6人、ワゴンは8人である。このクルマのセダンでなんと一人で0メートルの海抜から標高3055メートルのハレアカラ火山という活火山に登ってしまった。本来ならばドライブ・インで休み休み登って行かねばならないのに、一気に頂上に短パン半袖アロハで山頂に行ってしまったのである。体中がしびれ、気持悪くなりそうだったので、直ぐに降りて来た。高山病になる一歩手前で降りて来たのだ。近くには三日月型の珊瑚礁の島、モロキニ島もある。ハワイ第二の大きさの島といっても、観光スポットは、西側のウェスト・マウイに集中しているので、レンタカーでのドライブは簡単。信号もその当時は殆どなかった。空港でピックアップすると、あっというまにカアナパリ・リゾートに到着するのだが。夕方、浜辺で寛いでいる地元の人々を見ながら、ここで夕日をのんびり見るのもいいとされている。パイオニア・インでは、宿泊しなくても、「パイオニア・イン・グリル&バー」としても営業しており、ハワイの古きよき時代の面影を残し、ラハイナを訪れた際には、是非ここでランチやディナーを取ってほしいとの事。パイオニア・インは、ラハイナ・ハーバーの直ぐ前に立地し、入り口にはキャプテン・クックの像がある。とにかくマウイ島はハワイの原点である。                                            コウジロウの独り言

「ツインリンクもてぎ」で開かれた2003 HISTORIC AUTOMOBILE FESTIVAL。

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今から15年近くも前になるお話になってしまうんですね。時のい経つのも速い物。秋の風吹く10月25.26日、ツインリンク茂木で開かれた「2003ヒストリック・オートモービル・フェスティバル」。クライアントがその年このイベントでは初めてブースを出展するという事で、社員数名で前日宿泊して参加しました。宿泊先がりんどう湖の近くのちょっともてぎからはらは離れていたので少し大変でした。自分はボルボ850をBOSSはBMW330をクライアントはオペルプリメーラだったか?数台のクルマはレーシーな走りで公道を往復走り、これだけでも楽しい想い出だった。「クルマを単に道具としてだけでなく、その歴史を振り返りつつ、文化として認知していくこと」をこのイベントはテーマとしているそうで、ヒストリックカーのイベントとしては国内最大級でした。その参加台数はもちろん、集まった車は、「最高のクルマ達」で名車ばかりだった。フェラーリありポルシェあり国産車ではあのトヨタ2000GTも出走していた。あの在りし日のカーグラの小林正太郎氏まで古いBMW 1941 Berlin rom328を運転して登場してきた会場で見かけた。それがこの写真である。実際はこのクルマが何だったか解らずじまい。お恥ずかしい限りである。本当に名車が揃ってびっくりもした。この次の年はカウンタックがたくさん集まっていたツインリンクもてぎに子供と二人で来た事もあった。ヒストリックカーファンだけでなくツインリンク茂木で開催されるイベントは面白かった。当時はネコパブリッシングも元気がよく、楽しい想い出だけが残っている。ただ、イベントで「コーヒーいれてください」とクライアントが催促されるのが面倒くさかった事を覚えている。若干名が怒りからか柵をけっていた物もいたのを覚えている。ピットや第一パドックには、出場を今か、今かと待っている名車たちがずらり並んでいて壮観でした。その「名車」を整備するピットクルーやドライバー。またはクルマ談義に花が咲き笑いの絶えない出番を待つオーナーたちが大勢いた。写真やビデオをまわす忙しい一日だった。またこういう日がやってくるのだろうか?今年のブログはここまでとします。                     f:id:kohyusya:20171227195649j:plain

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