北海道・駒ヶ岳と大沼公園キャンプ場

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Photo by Kojiro

大沼を挟んで北海道・駒ヶ岳を写真は撮らえている。僕らスカGの4人は駒ヶ岳の麓のキャンプ場に泊まった。キャンプのテントは借りたのか覚えてないが、カレーを作って食べた事は覚えている。現在の大沼公園には大沼の東側に2ヶ所のキャンプ場が整備されてるそうです。これらのキャンプ場の特長はまったく正反対で、東大沼キャンプ場は本州から北海道へ渡るバイクのツーリング旅を楽しむ方用となっているらしい。僕らが利用したときも多数のツーリング客がキャンプを楽しんでいたのを記憶している。45年前の当時はハチの子族と言われてたのを覚えてますか?かたやもう一方のキャンプ場である流山温泉キャンプ場は敷地全体が流山温泉のテーマパークのようになっており、家族連れが多く利用するキャンプ場となっているとのこと。昔は上記の一カ所のみだった気がします。北海道・駒ヶ岳は、北海道森町、鹿部町七飯町にまたがる標高1,131 mの活火山(成層火山)。蝦夷駒ヶ岳(えぞこまがたけ)、渡島駒ヶ岳(おしまこまがたけ)とも呼ばれてるらしい。「北海道」を冠するのは全国に多数存在する同名の山と区別するためであり、地元の北海道の人たちでは単に駒ヶ岳と呼ばれているらしい。本当に大沼と挟んで素晴らしい風景であった記憶がある。何せ、北海道に来たのはまだ4回程度。ハワイ・ホノルルの15回に比べると殆ど来てないに等しい。キャンプ場を出るときクルマのナンバープレートにガムテープが貼られており、お巡りさんに怒られた覚えがある。「お前らみたいな本土から来た奴らが北海道の歩道橋を造ってくれるんだから、交通違反は罰金がつきもの。この行為も故意だったら罰金ものだ!』とやたら犯人扱いされ怒られた記憶もある。この写真は初めての北海道訪問の駒ヶ岳でした。駒ヶ岳の山頂部には直径約2 kmの火口原があり、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形になっているとのこと。登っていないので解らないのである。山頂直下から侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上らしい。山麓には、堰止湖である大沼、小沼などの湖沼や湿地など豊かな自然環境が生まれ、一帯は1958年(昭和33年)7月1日に大沼国定公園に指定されている。渡島半島南部に位置し、函館市の北約16kmの距離にある。活火山の北海道駒ヶ岳とその火山活動によってできた大沼、小沼、蓴菜じゅんさい)沼の湖沼からなる。大沼には大小100数種の小島が浮かび、春から秋にかけてサイクリングなどのアウトドアスポーツを楽しむことができるそうだ。大沼から駒ヶ岳を回る鉄道の線路が海岸との間に函館本線の「藤城線』が延びている。「藤城線」とは通称で、正式名称はあくまで「函館本線」です。藤城線は、七飯駅大沼駅間の東側の路線。途中に駅がひとつもない、さらに不思議な区間です。ただ景色としてみるとその線路は模型のジオラマを見ているようだった。 コウジロウの独り言

礼文島の昆布と利尻富士。

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Photo by Kojiro

礼文島(れぶんとう)は、北海道の北部、稚内の西方60キロメートルの日本海上に位置する礼文郡礼文町に属する島。写真はモハメッド・アリの運転手のバイト代が入り、リッチになったところでその夏、北海道へのドライブ旅行となった。T美大の男4人だけのドライブ旅行になった。もちろん、宿泊代等うかす為に野宿やキャンプ場での自炊旅行になった。松島でテントで一泊した後、大間から函館へ。函館からサロマ湖経由で網走、そして宗谷岬稚内でスカGを路上駐車をしてフェリーで礼文島へむかった。1973年頃のお話。何年か後ドーバー海峡も渡る事になるのだが、今思えばドーバー海峡のフェリーに比べると少し質素なフェリーだったような気がした。短パンにTシャツの友人達は寒くてオーバーオールを着たが、クルマは稚内に置いて来たため、軽装で来た為寒さを防ぐものはなかった。礼文島の地名の語源はアイヌ語のレプン・シリ=repun-sir(沖の・島)で、礼文水道を挟んで利尻島の北西に位置するとのこと。冷涼な気候により海抜0メートル地帯から200種類以上の高山植物が咲き乱れ、そのため別名花の浮島と呼ばれているという。人口は2017年4月1日現在、2,604人。写真の干されている礼文昆布は明治に入ってから採取が始まったそうです。黒褐色で、真昆布よりやや黒く、ダシ汁とした場合、透明で風味が良く高級料理のダシとして使われているそうです。甘みがあり、味が濃く、香りも高い透明な澄んだダシがとれるとのこと。幅が狭く、葉の基部は細いくさび形をしているそうです。写真は遠くに利尻富士をあおぎVS利尻コンブと言ってるかの様に礼文の昆布が干されていた。礼文昆布の色は黒褐色、葉は固くなっています。日本最北端の有人島(北海道本土や北方領土を除く)。東西約7.9km、南北約25.8km、周囲約72km。スコトン岬と金田ノ岬の間に直径5kmの半円形の船泊湾がある。最高地点は礼文岳(標高490m)。礼文島を縦断する車道は東海岸にあり北部 - 東部 - 南部に通じているが、西海岸を縦断する道は車両の通行が不可能な林道のみとなっているそうだ。島のほぼ中央部分を礼文林道という未舗装の道が通っている。島の北部には久種湖(くしゅこ)という淡水湖があるんだそうだ。利尻島と違い、白亜紀 - 新第三紀中新世に海底で堆積した砂岩や泥岩、火山岩の地層が見られること。また地蔵岩の周辺から1億1150万年前のアンモナイトの化石が見つかっており、新第三紀中新世の地層は、主に海底火山の残骸からで、スコトン岬や知床に露出が見られているそうだ。白亜紀の地層は、礼文岳を中心とした島のほぼ中心に露出し、また桃岩は、約1300万年前のマグマが海底下で個結したものであるのだそうだ。したがって、礼文島の形成場所は海底と考えられている。 礼文島が南北に伸びているのは島の骨格をなす白亜紀の地層が南北に褶曲したためである。至る所に安山岩玄武岩の柱状節理が岩脈として現れているのだそうだ。また化石やケイ岩、火打石(レブンメノウ)を数多く産出している事実もある。こんな島だったら、化石探検をしに行きたい気持である。何十年も経った今、また、礼文島からの利尻富士を眺めたいものである。         コウジロウの独り言

スカイライン2000GTと4人で立ち寄った下北半島の恐山

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1972年夏。今から45年前の事。よく覚えてるねって云えばその通りなのだから仕方のない事。箱スカ2000GT4ドアL型シングルキャブエンジン120馬力で出かけた時の事。前のブログの写真にも乗っていたスカGである。T美大の4人が北海道・函館行フェリー乗り場の大間港に向かう途中、チョット不気味な風景が木々の合間から見えて来た。「恐山」である。「恐山」という名称の山はないそうだ。古くは宇曽利山「うそりやま」と呼ばれいたそうだが、下北の訛りにより変化し、恐山「おそれやま/おそれざん」と呼ばれるようになったそうだ。「うそり」とはアイヌ語の「ウショロ(くぼみ)」に由来、これは恐山山系のカルデラを意味しているとのこと。恐山(おそれざん、おそれやま)は、下北半島の中央部に位置する活火山(正直、活火山とは知らなかった)。硫黄の臭いや所々に白煙が立ちこめる不気味さはあったが。だからなのか恐山には、鳥や小動物がほとんどみない。記載された内容を見るとその他に草木も生えず、賽銭がひどく腐食している。とされている。心霊現象からなのか?ある人たちは語ってるが、答えは直ぐ浮かんでくる。すべて火山ガスの影響だそうだ。そして川や湖の水が異常に透明であるのも、水に火山ガスが溶け込んでるからだそうで、酸性値が高いため、生物の生育に適していないからと言われている。このあたりとは違う奥の霊場内には多数の積み石が見られる。不思議な景観である。温泉の沈殿物として金の異常濃集体が発見されており、2007年、日本の地質百選に選定されたそうだ。それが凄い含有量の金鉱山なのである。地質調査によると、その金の含有量は鉱石1トン当たり平均約400グラム、場所によっては6500グラムにも達し、世界でも最高の品質を誇る金の鉱脈とされた。ただし、恐山一帯を国定公園に指定した後に金鉱脈を発見したので、新規の開発は法律で禁止されている。それと土壌には高濃度の砒素と硫化水素が含まれており、ここの地面を掘れば作業者の生命に危険が及んでしまうとされている。恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、古くから崇敬を集めてきた。カルデラ湖である宇曽利山湖の湖畔には、日本三大霊場の一つである恐山菩提寺が存在する。その入口の木々の美しい廃木の姿。この廃木に自分は何とも云えない美しさを感じるのである。写真の様にまるでエメラルドホワイトのごとく,異質な粘度の彫刻の様でもあり、優しい造形作家がオブジェとして制作したモチーフとも思える。この写真はT美大の暗室でフィルム現像し、コダックキットで紙焼きまでも焼いたものである。フィルタ−で補色を引いて、真っ暗な中に光るグリーンライトの中で、何度だったか21度位だっただろうか?忘れたがサーモスタットで現像液の温度を保ち、夜遅くまで処理をしていたのを思い出す。47年も前の印画紙が未だに変色せずいたのが不思議。それほど工程管理がよかったのか?いまだに変色せずあるのが素晴らしいと思っている。但し皆さんにお見せしている写真はデジタル処理をしているので残念です。                                          コウジロウの独り言

アムステルダムの路面電車は観光客を楽しめるだけでなく、生活者の足となっていた。

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ベルギーからバスでアムステルダムへ。途中検閲がバスの中であり、通過。オランダの路面電車は美しく輝いていた。アムステルダム市営交通会社はオランダのアムステルダムで運営する、アムステルダム市100%出資の交通機関企業なんですって。前身であるアムステルダム公営交通が1900年に設立され、既存の民営トラムを買収して事業を開始したそうだ。先日NHK BSでアムステルダムのメトロの紹介をしていた。狭い国土に排気ガス無しの交通手段の必要性や、200m置きにストップがあり、街中に買い物や美術館と好きな場所で乗り降りが出来る。庶民には最前の乗り物。1943年には現在の市営交通会社(GVB)に経営形態を変更したとされている。1977年にメトロ路線を開業。「メトロと言っても路面電車のこと。首都や大都市の高速大量輸送都市鉄道のこととされている」自分が1974年 アムステルダム市立美術館/アムステルダムの美術館を訪れたのが2月。ちょうど横尾忠則の展覧会を開催していた。プレイボーイかに連載していた眠り狂四郎等のイラストが展示されてた。隣の美術館がメインだったが名前を 調べるまでもなく、ゴッホ美術館だったと思う。ゴッホの向日葵と麦畑が印象的だった。そんなタイトルはないって?おっしゃる方がいらっしゃる と思いますが、印象を大切にしてる自分からは言いたくない。今回はなぜか?アムステルダムのメトロはオランダ最大の、そしてヨーロッパでも有数のトラム(路面電車、ライトレール)網なのだ。写真は1974年2月のもの。観光客の我々は所定の場所まではバス、その他は歩きだった。シンヘル運河より内側の旧市街地では道路幅が狭く自家用車の使用は困難であり、バスもほとんど運行されていないことから、トラムが主要な交通手段のひとつとなっているとのこと。路線網は主にアムステルダム中央駅およびダム広場を中心とした放射状路線と、それらに直交する環状路線からなり、今現在16の系統が運行されている。中心部では併用軌道であり、郊外に出るとセンターリザベーション方式などによる専用軌道となる。中心部の特に道幅の狭い道路では、道路幅が軌道の幅ぎりぎりしかないため、一般車両の通行を規制し許可を受けた車のみが軌道内を走行するようにしたところもあるのだそうだ。レンブラントの家にもよった事が記憶にあり、レンブラント通りなど一部の通りはトランジットモール化されているのだそうだ。軌間標準軌(1435mm)で、直流600Vで電化されている。5系統以外の系統では編成の前方のみに運転席があり、終点ではループ線によって方向を変えるようになっている。中央駅の停留所も東西2つに分かれたループ線状になっている。乗降用のドアも進行方向右側のみにある。5系統のみは編成の両端に運転席があり、ドアは左右両側にある。1957年、ライツェ通りを経由する1、2系統用に連接車の新型車両が25編成投入された。これが好評であったため、トラムの近代化にやっと関心が高まったとされている。1950年代後半以降市の西部で大規模な住宅地開発が進められ、これらの地区へトラムが延伸した。1960年代から70年代には、路線の延伸や旧式車両の置換えに対応するため新型車両が次々に投入された。1990年にはアムステルダムの南に隣接する住宅都市アムステルフェーンまで、メトロ(快速トラム)と軌道を共有する形で乗り入れた。21世紀に入ってからも路線の延伸は続いている。

                                コウジロウの独り言 

猫岳のブルトーザースキーとリバティベル!

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また、スキースノボーシーズンの到来ですね。今から40年位前の菅平。当然独身時代。元在籍していた化粧品会社のスキーバスツアーに参加した自分は、オプショナル・ツアーとして当時『ブルートーザーで頂上から滑降しよう!』とネーミングされていたかは定かでないのだが、猫岳の頂上から下のゲレンデまで滑降するプランがあり、社長自ら行かれるということもあり秘書でもないのに同行をした。現在ではこういう紹介になっている。『スノーキャットというブルトーザーみたいな乗り物で、奥ダボスの一番奥のリフト乗り場から、根子岳頂上の手前2170mまで登ります』猫岳ではなく、根子岳なのか?『雪上車に乗って広大な根子岳に出かけよう!根子岳山頂からの景色は、まさに絶景! 最高の雪質でのダウンヒルを!』『奥ダボス第1トリプルリフト山頂からスノーキャットに乗って約25分。 地元ガイドが根子岳や見える山々などをご案内。 雄大な景色を楽しみながらの約4kmのダウンヒルはまさに爽快! また、スノーキャットでお帰りいただくこともできますので、 山岳・自然風景を撮影される写真愛好家の方や、滑りに自信のない方、 お子様も楽しんでいただくことができます。 運行期間は1月初旬から3月末の予定です』となっている。今でも続いているのである。『根子岳の名前は、四阿山と並んで見ると猫の耳のように見えるので「 猫岳」と呼ばれたことに由来しています』との事で、別に猫岳がある訳ではなかった。30数年前ここを滑った限りでは、そんなに簡単なコースではなかった。山岳登山家達を横目に、彼らは登山しながらスキーで降りるタイプで特にスキーが上手い人たちではないはずである。我々スキーヤーのように一気降りをしようとするとゲレンデではない為に足腰がショックアブソーバーのごとく上下動に悩まされ、スピードも制御しないと曲がりにくくなったりもした。新雪と思いきや、アイスバーンもあったりするからだ。写真上は当時のブルトーザー。下は全身ブランド品で固められた、自分の滑降姿。自分はスキーもヨットもファッションと考えていた一面もあり、流行の最先端をいってないと心が落ち着かないタイプだった。だがダウンのリバティベルを除くとすべて2番手のブランドだった。板はアメリカのバレースキーでよく使われていたPRE SKI板。靴はラングと言いたかったがカベール。ビンディングはチロリヤロケット。ただしゴーグルがSCOTT。と何故かピンと来ないでしょ!兄弟はロシニオルやフィッシャーの板で靴はラング・バンシーだったのを記憶している。何十万円も道具に払っていたのである。自分なんかは板も貰い物。ちょっと合理主義者だったかもしれません。祖母の田舎が信州湯田中だったため兄弟はスキーが上手だった。自分が一番ダメな部類。恰好つけマンは、国体体験者と社長と一気に降りる事が出来た。何故か蔵王樹氷よりも寒くはなかったのを記憶している。もう2度と出来ない想い出の1シーンである。       コウジロウの独り言

Stream:「流れ」「時流」の意味していたのに STREAMをマーチャンダイジングから消していたHONDA。

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新しい7人乗り車両の潮流を創り出すという意思を含んでいたらしいネーミィング。また、本田技研工業はかつて同名の三輪スクーターも製造していた。プラモデルで「Streamがあった」と喜んでいると、箱に描かれたイラストがスクータ−だったりしてがっかりした事もあった。2006年7月13日にフルモデルチェンジを行なわれ2代目が誕生。ロゴが「Stream」からすべて大文字の「STREAM」に変更されたそうだ。5ナンバー枠いっぱいの車高を低床低重心設計にし機械式駐車場に入れるられるよう低く、スタイリッシュなデザインだった。また、低重心効果により走行性能が向上しているとのこと。エンジンは、R20A型とR18A型の2.0L/1.8L 直4 SOHC i-VTECがあり、それぞれ150PSと140PSの出力を発生した。10馬力しか差がないのがよく解らなかった。それしか差がないのかと思い、ローンを組んだのがこのクルマ。1.8L直4 SOHC i-VTEC.。池袋の営業だった方が田無の支店長になったのもきっかけでホンダ車に決めていた。支店長はこちらの要望で中古をと言われていたので中古車センタ−当然ホンダのU-CAR専門店に足を運んでくれ、探してくれた。ただ、中古車と新車のローン支払いがあまり変わらないこともあり、このクルマに決めたのである。南船橋から田無の北多摩営業所に整備に行くのもちょっとかったるかったが1時間待たされても、かつて住んでいた事もあり、田無の駅界隈を歩くのも苦ではなかった。トランスミッションには1.8Lおよび2.0L 4WDには5速ATが、2.0L FFにはトルクコンバータCVTが採用されている。さらに「RSZ」はステアリングにパドルシフトを備えており、マニュアル感覚の操作を行うことができたとされている。ネーミングもトヨタやスバルより先を云っていた様に思われてしょうがない。スバルのBRZトヨタC-HRにしてもHONDAのRSZCR-Xそっくりである。絶対トヨタのネーミング担当者はアンテナとして頭に入っていたはず。新車乗用車販売台数は、2007年1月~12月の販売台数は57,351台。対前年比では139.4%であった[5]。なお、目標月間販売台数は5,000台と発表されている。フルモデルチェンジにより基本性能が大幅に進化した2代目ストリームは、ウィッシュから人気をホンダに取り戻したといわれている。2009年6月18日、 マイナーチェンジを実施。新たに、優れた加速性能とスポーティなエクステリアを採用した2列シート仕様の「RST」(1.8L・2.0L共に設定)を追加したそうだ。2010年4月5日 既存の「X」をベースに、メッシュタイプのフロントグリル、大型テールゲートスポイラー(ハイマウントストップランプ内蔵)、15インチアルミホイール、ディスチャージヘッドランプなどを装備した2列シート仕様の新グレード「TS」(1.8L・2.0L共に設定)を追加した(4月8日販売開始)。写真は3列シートの7人乗り。2010年9月にエアウェイブが生産を終了し、2011年6月にフィットシャトルが発売するまでの間、当車種の「RST」と「TS」がホンダでは唯一の5ナンバーステーションワゴンであったらしい。2011年8月、「ZS」をベースに、メッシュタイプのフロントグリル、LEDハイマウント・ストップランプを内蔵した大型テールゲートスポイラー、エアロリアバンパー&アンダーカバー、レッドステッチ付の本革巻3本スポークステアリングホイール、応急パンク修理キット(本装備に伴い、スペアタイヤレスとなる)を装備した特別仕様車「スポーティエディション」を発売した。そうこの写真がそのクルマなのである。ホンダが生産するミニバンとしては唯一車高低いモデルであった。2014年6月5日に、本田技研より同月中に生産中止することを明らかにした。これにより、2015年2月にジェイドが発売するまでの間、ホンダが生産するミニバンで車高低いモデルが一旦消滅した。自分はジェイドに期待したのだがガラス面積が大きいのとそれほど新しさを感じず、VOLVO V40の方にユーザー目線が流れて行ったのも事実である。ホンダの無限デザインはいいのだが純正デザインはグリルが特にダメ。比較してください。V40はグリルデザインはもとより、自動縦列駐車やアイサイト的なオートブレーキ追従システムなどHYBRIDより斬新なスタイリッシュなクルマに心動かされたのである。自分より妻と息子が心動かされたのは事実である。  コウジロウの独り言

「クジラ」の愛称を持った4代目トヨタ・クラウンと モハメッド・アリ。

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1972年に初来日。この年の4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めたモハメッド・アリ。その数週間前。神宮外苑でトレーニングを終えて送迎のクラウンに乗ろうとしているアリ。自分は普段は3代目クラウンのハードトップに乗りマネージャーを乗せていた。この日だけは何故か神宮までのせて行った。一緒に写ったいるのは当時ICUに所属していたO氏。やがてJALパイロットになるのであるが、世の中狭いもので自分の息子の友達のお父様もJALパイロットであり、同僚である事を知らされ数十年前に驚かされた。この時のアリの相手はマック・フォスタ−で、試合のチケットのナンバーリングやPRESS CARDのデザイン等は自分がやった記憶がある。今覚えているのは、アリと共にしていた自分のネクタイにサインを貰ったこと。ただし残念なのはそれが何処へ行ったかまるで解らなくなってしまった事である。実家の洋服ダンスに架けておいたのに不明になった。アリが恋人の『ズーリー。ズーリー』とエレベータ−から呼んでいた事が耳から離れない。今だから言えるお話かも知れませんが。英会話での電話での応対でこの頃覚えたのが「Now Calling Mr.Who?Miss. Who?」でした。もう一人の通訳がよく事務机の前で言ってるのを聞かされました。クルマのお話にしましょう。そう、このクラウンのボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアハードトップ、カスタム(ワゴン)、バンの3種でした(車両型式はハードトップがS7#系、それ以外がS6#系)。このモデルからは「トヨタ・クラウン」となったそうだ。「スピンドル・シェイプ(紡錘形)」と呼ばれる、丸みを帯びたスタイルから「クジラ」の愛称を得たようだ。高速性能や安全性を意識して曲面を多用した車体や、組み込み式のカラードバンパーを特徴とする斬新なスタイリングは、先代のS5#型以上に個人ユーザーへアピールするものとなった。時代を先取りしたスタイリングは当時の保守的なユーザーに敬遠された。ウィンカーをグリルの最上段にするなど、先頭のボディを絞り込んだデザインによってなのかエンジンルームへの通風が不足、夏季にオーバーヒートが続発したことが多くあり、ボディーの先端形状の見切りの悪さから、取り回しに支障が出たことによる不評が相次いだそうだ。この同時期にモデルチェンジしたセドリック/グロリアに販売台数で逆転されたことも有名なお話で「クラウン史上唯一にして最大の失敗作」と言われた。ただ、自分達はアリ同様マックフォスターの送迎の時のマークII GSSやロータリー・サバンナ等を運転出来ている事に鼻が高かった。午前3時頃、一人家に帰ろうとしたロータリーサバンナで井の頭通りの交差点で5〜6台一挙抜きしようと突っ込んで歩道に乗り上げて事故りそうになった事も記憶に新しい。これも今だからお話出来るんですよね。ロータスヨーロッパ/ロータリー・コスモ/エンジンが壊れていたセンチュリー等も運転出来たのはまるで夢。但しロータスヨーロッパはプロモータ−の社長のものだったと思うが、ニュージャパンからホテル・オークラまで運転するも、うるさいのと背中が暑かったのを覚えている。           コウジロウの独り言