豊洲からの「ゆりかもめ」は旅立ちの時だった!

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                                                                                                                                    Photo by Kojiro

2017年6月7日16時37分に豊洲を出て有明の癌研に向かった。豊洲市場地を右に見ながらゆりかもめは進む.有明の癌研前。その病院に義理の妹が入院していた。小林麻央ちゃんが2017年6月22日に亡くなる。ブログに英語のコピーが書かれていた。「Tarking time but I walk  Feeling Breathless....  but I walk      Walk,walk, walk    The key to the cure is the sum of small efforts.    My husband is very good at making steady efforts.   I am totally not the one for that!     But, I just have to give it try!!!それぞれが感じて下さい。その下のスペースに履き慣れたスニーカーが写ってます。義理の妹が亡くなったのは6月24日の夜。麻央ちゃんが亡くなってから2日が経つか経たないかの夜。入院する数日前には一回癌研から退院し、実家の神楽坂に帰って弟夫婦に看病してもらっており、自分もお邪魔し「やだあ!おにいさんたら!」なんて騒いでいたのに!麻央ちゃんに呼ばれたのだろうか?後を追う様に亡くなってしまった。ベットの直ぐ傍にテレビが吊られており見るなって言うのが難しい位の位置だった。亡くなった実感がなかなかわかない。2年前には実の母と兄弟夫婦で軽井沢へ旅行へ行くはずだったのだが何故か彼女だけ行かなかった。とてつもない淋しさがやがて来るのだろうか?結婚当初はマンションの隣に住んでいたこともあり、甥の面倒もよく見ていた記憶がある。最もテレビゲームだが。このブログで言いたいのは、「本当に癌の特効薬であるのであろうか抗癌剤は?」と言うこと。30年前乳がんを患っており、手術で撤去。今回再発し最終的に抗癌剤のお世話になった。苦しんで亡くなって行った妹には間に合わなかったが、ネットで書かれている様にアメリカやヨーロッパでは抗癌剤が使われるケースが非常に少ないと言われている。だから欧米では癌で死ぬ率が下がっているとも言われている。本当にそうであれば抗癌剤を打たなくて良いはずだ。放射線抗癌剤を体験した自分が思うに、副作用が多すぎること。髪の毛が抜けたり皮膚がただれたり、骨が弱くなったり。感覚的かもしれないが、アメリカの廃棄処分にされる抗癌剤を日本に売りつけDNAの免疫療法とか本当に今の科学を生かされた医療を諸外国は実行し、20年遅れた日本が医療において取り戻す日は何時やってくるのだろうか?強制的に売られた原発のような被害を被るのはもうやめてほしい。もっと政府は勉強するべき。選挙のことや寄付金の事ばかり考えていても時は超えて過ぎて行くのです。

                                                                                                                               コウジロウの独り言

 


スカイライン2000GT-TURBOはキーンとよく鳴りキューンとよく走った。

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Photo by Kojiro

大好きだった「鬼押出し展望台」(現町営-火山博物館上)に向かう「スカイラインターボ2000GT」!このクルマは「まさしく2000ccターボ」。インジェクションの「L20型エンジンにターボ」搭載。エクステリアはクサビ型で迫力があった。サーフィンラインは消えたものの、特にこのテールランプはマル型4灯の印象的だった。当時ではこの程度でも目を見張る程、格好よかったのだ。2000GT-TARBOのステッカーを貼るだけでも、クルマの性格を変えた。写真のこの頃は13万キロ走ったケンメリからの買い替えで新車。恥ずかしいのとボディに傷をつけるような気がしてバンパーより上には何も貼りたくなかった。この車で四国の嫁の親戚へ新婚旅行を兼ねてハイウェイを飛ばして行ったりもした。1981年8月 R30型発売。アメリカの俳優ポール・ニューマンが広告キャラクターであったため、「ニューマン・スカイライン」と呼ばれたらしい。C210型同様の直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TIシリーズ」の2系列だが、ホイールベースは1種類となった。ボディバリエーションは、4ドアセダン・2ドアハードトップ・5ドアハッチバック・後に追加されるライトバンエステート)の4種。ハッチバックスカイライン史上初である。現在は常識となっているテンパータイヤは、このR30ハッチバックが日本初採用。スペアタイヤに空気圧減圧警告灯なども装備されていた。これは記憶に新しい。なぜならば空気圧をいつも気にして乗ってたのがこの頃で空気圧ゲージを持参してた。搭載エンジンは、TIを除いて、L20E型/L20ET型/LD28型(GT)の3機種。。1981年10月には直列4気筒4バルブDOHC FJ20E型エンジ(150ps/6000rpm/18.5kgm/4800rpm)を搭載する「2000RS」(DR30型)を追加発売。GT-Rの再来と期待されたが、FJ20E型が直列4気筒であるがためにGT-Rを名乗らなかったともいわれている。1983年2月 FJ20E型にターボチャージャーを追加FJ20ET型(190ps/6400rpm)を搭載した「2000ターボRS」(DR30JFT型)を追加。歴代スカイラインのどれよりも高出力であったことから「史上最強のスカイライン」というキャッチコピーが用いられる。また、日産は、このモデルにてハコスカ以来となるワークスとしてレースに復帰。シルエットフォーミュラーTOMICAの一号車が由良拓也の手によって誕生。1983年8月・マイナーチェンジにより後期型へ。前後の意匠変更、大型バンパーの採用等を行う。RSの後期型は薄型ヘッドランプ、ラジエーターグリルレスのデザインにより「鉄仮面」と呼ばれた。パワーランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様「2000ターボRS-X」(DR30XFT型)を追加。レースではシルエットフォーミュラー後期型も誕生している。 鉄仮面は大嫌いだったが小のシルエットフォーミュラーは格好よかった。1983年10月・日本初のAT専用グレードであるNAの豪華仕様「2000RS-X(DR30XFE型)」、および15インチアルミホイール、ブロンズガラス、専用ステッカーを装備する「2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン」(HR30JFT型)を追加。1983年11月・日産50周年記念限定車「50アニバーサリー バージョン」を発売。そして次の7thスカイラインへと繋ぐのだがこの辺から32になるまでは興味をそそる物はなかった。7thもマークII化して大きくなり、自分は俊敏な動きの外車へと手を広げて行くのだが、コストパフォーマンス的にはベーシックな国産車スカイラインがよかった気がする。だからこの写真の様にあちこちドライブに行けてたのかもしれない。                                                      

                                                                                                                                       コウジロウの独り言


1974年のフィアットディーノ・クーペ Dino 2400 Coupe in Italia

 

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Photo by Kojiro

1967年にジュネーブショウに登場した「フィアット・ディーノ・クーペ」スパイダーはピニンファリーナカロッツェリアが制作。1974年のイタリアのミラノの街角。クーペのスタイリングはベルトーネカロッツェリアが担当している。この当時の写真を書籍等で見てもこの写真のようにアウトサイドのドアミラーがない。日本での当時はフェンダーミラーがしっかりと着けていたのに比べるとスタイリングの概念が違う。安全性はどうだったのでしょう。それは疑問?この写真のクルマの向かってフロント右側のエッジにキズがある。直ぐうしろのフィアットも隙間のない位に接近して駐車している。スパイダーより高い値段のクーペがバンパーをぶつけあって駐車していることを想像すると滑稽である。今のボルボV40や国産車の上級車等は自動で縦列駐車は当たり前になっているのに当時の日本はもとよりイタリアにも無かった。そんな駐車時のキズなんでしょうけどモッタイナイ。ディーノの誕生のきっかけとなったのがV6ユニット。86×57mmというショートストロークは極端に短いらしいのだがF1ユニットから来ているという。だから8500rpmまで高回転域に達していたらしい。この頃の日本車の4気筒といえば1800ccクラス。スカイラインやローレルだった。ホンダやトヨタにも多くあったがその振動たるや6気筒とは格段の差があった。この車はそんな回転数もあげられるのだから心地よい振動だったに違いない。クーペの室内はフル4シータ−と言える程十分な居住空間を持っていた。誕生が1967年。2年を経過するとそれまで固定式だったリヤサスペションも独立式と進化して行くのである。フェラーリ・ディーノも246GTと進化して行ったのだがこのクーペは脚光を浴びることはなかったようだ。ジュージアローの117クーペ等に見られるこのクラスの4座席のクーペが自分は大好きだった。でも選ぶときは国産五人乗りになってしまっていた。フェンダーにもデザインだけのエアーダクトがある。スタイリッシュだと思いませんか?BMWやレクサスの数車種が最近ビルトインデザインとして演出してるみたいですが、こんなバランスのよいデザインはあまり見たことがない。前述のボルボと大きく違うのは、Aピラーの細さであるのだが。安全性よりもデザイン優先のこの時代の車。もっと派手でも良かったって言う人が多かったのか?8,000台しか売れなかったそうだ!

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美しさと機能性がビルトインした SCANDINAVIAN DESIGN NEW VOLVO V90

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Photo by Kojiro

ボルボカーズの大型サルーンである「S90」とそのステーションワゴン版の「V90」が日本導入を果たし、発売された。写真はV90である。V40オーナ−の自分は6ヶ月点検とウィンタースタットレスタイヤ交換の為に市川塩浜ボルボカーズ市川東邦オートにいた。そして新型V90に遭遇するのである。ボルボのフラッグシップを意味する「90」を名乗るにふさわしい先進性と快適性、と威厳がここにあった。S90/V90は、2016年に日本導入された「XC90」で初めて採用された新世代プラットフォーム「SPA(スケーラブル・プロダクト・アーキテクチャー)」を用いて開発。今はやりのモジュラー式で、決まっているのは前車軸の後ろ数十センチの部分のみだという。現物は長い印象である。ホイールベースオーバーハング、全高などは自由に伸縮することができるらしい。まるでラジコンカーやプラモデルのようである。自由度の高いSPAのおかげで、S90/V90ともに伸びやかなプロポーションを実現した。S90は以外に独創的なテールランプだったのだが、V90のリアビューは何かもの足りない。かつての三菱レグナム的な印象だった。V40やV60のリヤデザインだったらよかったのにと思った。クロい締まりがないからなのか?ボディは短いフロントオーバーハングに対し、前車軸からドア前端までが長い。これはエンジンを縦置きするRWD車の特長。メルセデス・ベンツE/Sクラス、BMW5/7シリーズといった伝統的プレミアムカーはたいていそうなっているそうだ。S90/V90はエンジン横置きにもかかわらずこの比率を採用した。なぜか。そのほうがカッコいいからだ。実際に見てみると今回写真のコックピットを見てほしい。まずはV90の「T6」に乗る。全長4935mm、全幅1890mm、全高1475mm、ホイールベース2940mmと大柄なクルマなりに室内が広い。リアシートの足元や頭上のスペースもしっかり確保されている。ボルボステーションワゴンと言えば、スペースを重視してリアハッチは垂直に切り立っているというイメージが強いが、新型V90ではスタイリッシュになっている。内装の白ベージュのレザーシートとステアリングの絶妙なデザインカラーリングは「素晴らしい」の他に言葉が見つからない。尚かつトランク容量は560〜1526リッターと十分確保されている。荷室の左右も多少膨らんでおり、キャディバッグやエアーバッグを複数積載しても楽なはず。インテリアデザインは全体としてはXC90によく似ていて、ステアリングホイールやシフトレバー、それに9インチのタッチスクリーンなど共有するパーツも多い。そのタッチスクリーンでほとんどの操作を行うため、インパネの物理的なスイッチは8個のみと少ない。スクリーンが静電容量方式ではなく赤外線方式で、手袋をしていても操作が可能なのは、かつてのボルボが手袋をしていても操作ができるよう、スイッチ一つひとつが大きく、間隔も離れて配置されていたことへのオマージュかもしれない。それにしても、ボルボはウッドパネルの使い方が上手。ケチケチせずふんだんに使うので見栄えがした。シートはサイズが大ぶりで、インスクリプションにはナッパレザーが用いられるので、柔らかく手触りがよい。ただV40と比較すると車両価格がほぼ倍。どうします?この差は?コンフォータブルな両者の目的の差によってはV90も必要不可欠だと思われるのだが自分のレベルはまだ達してない気がする。ただここで言えるのは、何故BMWなんですか?何故品のないベンツなんですか? SCANDINAVIAN DESIGN の洗練されたクルマ達を手にしてみませんか?心がさわやかになりますよ!

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2L直4ターボ×SCのT6はトルク十分!XC90を見ればわかるように、ボルボは大きいクルマでも2リッターの4気筒エンジンを搭載してます。製造者達はそれ以上大きなエンジンはつくらないと決めているそうです。足りないパワーはターボで補い(それがT5エンジン)、それでも足りなければスーパーチャージャーも加え(T6エンジン)、「もっと!」という声には電気モーターを追加してPHV(T8エンジン)に仕立てて対応する。とにもかくにも出会いがないと始まりません。一度、市川塩浜ボルボカーズ市川東邦オートへ脚を一歩入れてみませんか?自分もV40のカタログを貰いに行ってオーナーになってしまったからなんですが! 

f:id:kohyusya:20170611193842j:plain                  コウジロウの独り言2017.6.4  


世界で初めての乗用車タイプの四駆だった=スバル・レオーネ。

 

 

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                                                                                                                                                                               Photo by Kojiro

1970年代前半から1980年代後半にかけてスバル1000以来の伝統である水平対向エンジンを採用し、スペアタイヤがエンジンルーム内に収納。サッシュレスドアとステーションワゴンスタイル、そして4WDの技術は後のレガシィインプレッサの基礎となったクルマなのだ。写真は自分が結婚して初めて購入したクルマ。確か5〜6年落ちで6万円を出したと思う。友人から購入。査定は確か三万円。写真の場所は逗子マリーナのレストラン。今ではエントランスにRIVIERAGRAND BLUEなんて書かれリストランテAO逗子マリーナとか言っちゃっている。今よりか庶民派だった逗子マリーナ。クルマの話に戻って、スバルの基幹車種であったのはレオーネであることは間違いない。写真はスバル・レオーネ・2ドアハードトップ。初代は1971年10月7日に発売。当時のトレンドおよび提携先の日産自動車の影響が感じられるロングノーズ・ショートデッキのデザインだった。一方、レオーネの進歩的な部分としては、窓枠のないサッシュレスドアをバンを含む全車に採用したことが挙げられた。なぜエンジンのスバルがここまで考えていたのかは不明なのだが、サッシュレスドアは富士重工業にとっては1960年の試作車「A-5」以来追求されてきたテーマで、近年まで採用を続けていたが、インプレッサフォレスターでは2007年のフルモデルチェンジとともに一般的なサッシュドアに移行し、最後までサッシュレスドアを採用していたレガシィも2009年の5代目へのモデルチェンジによりラインナップから姿を消した。1972年8月1日、エステートバンに4WDを設定。前年に東北電力の要請に応じて数台が注文生産された「1300Gバン4輪駆動車」から得た経験をつぎ込んだ「ジープタイプではない量産4WD」が世界で初めて世に送り出された。それまで四輪駆動といえば、ジープに代表されるクロスカントリータイプの車を意味し、乗用車タイプの四輪駆動車は存在しなかったが、これ以降、他社の乗用車にも四輪駆動車が設定されるようになった。さらに同年12月1日には、専用ハードサスペンション、専用クロスレシオ5速MTを装備したホットモデル・「RX」が追加された。基本的な構成は「1400GSR」と共通だが、量産車では日本初となる4輪ディスクブレーキを装備していたことが特筆される。1973年6月には、ピラーレスの2ドアハードトップが追加された。後席ヘッドクリアランス確保のためにリヤウィンドウ傾斜角がクーペから若干立てられ、15mm全高が高められている。写真のクルマがそれである。1975年1月20日にはエステートバン4WDに続いて世界初の量産4WD乗用車「4ドアセダン4WD」が、同じく日本の前輪駆動車では初のフルオートマチック車(セダン・カスタムとハードトップGFに設定)と同時に発売された。あのGT-RのR32からすべて市販車は4駆となっており多大な影響も与えているのは事実。1977年4月には、日本初の全車53年度排気ガス規制適合を達成、スポーツカーが軒並み淘汰された他社を尻目にツインキャブのスポーツモデルも引き続き生き残り、スバルファンのみならず当時の車好きたちに喝采された。同時に大幅なマイナーチェンジが実施され、ボディサイズを拡幅、リヤトレッドも50mmのサイズアップとなった。同年11月にはセダン・2ドアハードトップポンティアックの車名から拝借した「グランダム」(GrandAm)なる車種を追加した。同車は北米仕様と共通の大型衝撃吸収バンパーや派手な色調の内外装を特徴とした。同年10月、北米の1978年モデルに合わせるタイミングで、輸出専用ピックアップトラックのブラットが発売された。北米ではこの車種が大ヒットとなのである。

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1985年FUJI。柳田春人選手とコンビを組んでいたのは鈴木亜久里選手だった

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photo by Kojiro

柳田 春人(やなぎだ はるひと、1950年10月21日 - )は、埼玉県出身のレーシングドライバー。自分と年がこんなに近いとは思ってもみなかった。今や自動車チューニングショップセントラル20代表取締役社長だそうな。自分では昔は「やなぎだはると」と言ってた気がする。実子は同じくレーシングドライバー柳田真孝フェアレディZで活躍していたことから「Zの柳田」と呼ばれている。また、かつてF-1で言われていた中島氏同様、国内戦に限るがどしゃ降りの中でも勝利をもぎ取る姿から「雨の柳田」とも呼ばれたらしい。自分の中の記憶にはないのだが言われているのだから本当なのであろう。1980年、1983年富士スーパーシルエットレースのシリーズチャンピオンに輝いている。写真は1985年の富士1,000kmに出場したCanonフェアレディZC。なんととられてた写真はKODAKのPKR。プロ級のカメラマンなら殆んどが記憶にあるはず。FUJIFILMからベルビアが出てからもある程度シェアは確保していた。写真の内容に戻ろう。当然ドライバーは柳田春人。コンビを組んでたのは なんとあの鈴木亜久里選手だった。当時は新鋭で現在のようにとてつもなく有名なドライバーでも無かった。富士1000km(ふじせんきろ)は、1967年から1992年まで毎年富士スピードウェイで開催されていた耐久レース。鈴鹿1000kmオイルショックで中断した時期もあったのに対し、富士1000kmはその間も中断せず開催され続けたが、1993年に全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)の崩壊、および景気後退で中止。以降は開催されなくなった。1999年に富士スピードウェイ35周年企画として、ル・マン24時間レース規定による「ル・マン富士1000km」として一度だけ復活した。 2007年、全日本スポーツカー耐久選手権の1戦として組み込まれ、8年ぶりに復活した。尚、1983年から1988年は「WEC-JAPAN」(WSPCの一戦)として、1989年から1991年は「インターチャレンジ富士1000km」(JSPCの一戦)として、1992年はMSCC(マツダスポーツカークラブ)主催で、富士の1000kmレースは年2回ずつ開催された。とされている。クルマはとにかく格好良かった。                                         コウジロウの独り言


中嶋悟元F-1パイロットの思い出のクルマはフェアレディZ。

                                                                                                                                

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                                                                                                                              photo by Kojiro

1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦していた。写真は1985年の富士500マイルレースでの1カット。本当に懐かしい写真である。元の化粧品会社に勤めていた同僚の義理の姉がチーム・ルマンの監督の奥様だった関係で¥5,000の保険を払ってサーキットパスを貰いレース前の中嶋悟氏を撮影出来た。その後F-1パイロットになるなんて考えても見なかったが、とにかく怖い方だった。「俺を撮ってどうすんの?」なんて言ってた気がする。対抗チームの星野一義さんも怖かったがリーボックシューズに短パンでサーッと直ぐに消えて行くスマートな印象だった。中嶋氏は1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス・86C/トヨタで予選トップタイムを出すも、Tカーだったために無効とされ、ポールポジションは獲得できなかった。決勝は9位だった。1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にも参戦した。、最高位4位(1回)を含む数回の入賞という結果。ホンダとの結びつきが強いイメージの中嶋氏だが、ワークス契約はなかったらしい。そうホンダ一辺倒だったわけではないのだ。デビュー当初は、信じられないがマツダ系ディーラーの碧南マツダの支援を受け、ファミリアやサバンナRX-3などで多くのレースに参戦していたらしいのだ。全日本F2でホンダのワークスエンジン供給を受け参戦するのと並行して、ロータスから技術供給、および資本提携していたトヨタがF1参戦の可能性があったこともあり、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC-JAPANなどでは、トヨタ系のマシンを数多くドライブしていたのだった。日産との関係は薄かったらしい、1979年のFPで星野一義氏の代役として数戦に出場した程度。この参戦時に長谷見昌弘氏とチームオーダーの件でもめたことが中嶋氏が日産から遠くなった一因と言われている。面白いコメントで中嶋氏本人は雑誌上でフェアレディZが思い出に残る車にあげていたこと。引退した翌年にさんまのまんまにゲスト出演した時でもフェアレディZが愛車であったと語ってたそうだ。

 

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