オランダ・アムステルダムを快走していたケン&メリー。

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photo by Kojiro

 1972年9月。箱スカからモデルチェンジしたスカイラインの愛称がケン&メリー。1973年に東名高速道路でワンキャブの箱スカGT4ドアと御殿場からの厚木の下りでアクセルを目一杯踏み込み、どの位差が出るかVS我がケン・メリGTXスカイラインと競走をしたことがある。多分1973年のことだと思うが?T美大の山中湖研修センターでの研修を受けた帰りの道中。40年も前のことだったので時効だと思って言ってしまうのだが、自分のツインキャブのケン・メリGTXのメータ−は180kmで目一杯、友人の箱スカが徐々に下がって行く。同乗者4名づつ。アホなことをしていると今思うが、若気の至り。とにかく当時はGTRを除いた最高峰のクルマに乗って気分は絶頂期であった。そんな自分でも乗っている誇り高きL20型国内仕様のスカイラインが240KGTとなってオランダアムステルダムを快走してたのだ。1974年2月のこと。前のブログで「なぜか写真にはないが、当日あのケンメリ・スカイラインハードトップも見たのだ」と記載。その時の写真が出て来たのです。街中風景の写真を見て呆然。スカイライン240KGTハードトップがいるではないか!あのケン・メリの目立つCピラーが走っているではないか!興奮覚めやらずシャッタ−をきった。遠くにケン・メリがいるその一枚である。C110型にモデルチェンジしたスカイラインはボディバリエーションが豊富だった。4ドアセダン、2ドアハードトップ、およびワゴン/バンもあり、後に5ドア車まで登場したのだった。先代同様、セダン/ハードトップにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載したGT系があった。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通。海外輸出用は2400CCだと聞いていた。サーフィンラインのプレスラインは、ごく浅く、プレーンな面構成となった。2ドアハードトップは太いCピラーを特徴としていた。それをオランダ・アムステルダムで見るなんて、思ってもいなかった。スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーデカール式のピンストライプが設定されていた。これは当時の日産自動車の社長命令だったそうだ。日本ではこの代から警察庁へパトロールカー(警らパトカー)として導入。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は血液汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されたそうだ。C110型から右ハンドル圏の日本国外へも輸出されるようになった。とされている。車名は「ダットサン・240K」。その名の通りエンジンは2400ccに拡大されていたのは事実のようだ。240KGTなのか写真のケンメリスカイラインは解らないのだが。記憶にないし記録にもない。リアフェンダースカイラインマークも赤だったのかブルーだったのか覚えていない。とにもかくにもここはオランダ・アムステルダムだった。自分でも関心するのは当時の印画紙現像の際の水洗の素晴らしさ。40年前の紙焼きが変色してない事。印画紙の管理の素晴らしさも絶賛したいものだ。分かる人には分かる隠れた賞賛材料もあるのをわかってほしい。

 

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フェアレディZは世界に送った最高のイメージリーダーカー。

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 photo by Kojiro

日本における通称は「Z」。「フェアレディ」と言う名前はミュージカル映画マイ・フェア・レディ」から名付けられたと聞いている。「フェアレディ」を冠すのは日本国内のみで、輸出向けは「DATSUN」また「NISSAN」と呼称されていた。USAでの愛称は「Z-car」だと言われている。自分が撮影した写真はおそらく日産・フェアレディZ(初代)S30型Z-L 1970年モデル。これは、オランダ・アムステルダムの運河のほとりで見た1974年2月の風景である。うしろのウィングフィンにDUTSUNの文字が書かれてた。右側通行のオランダで右ハンドルのZ。ということは日本製かイギリス輸入車かはたまたオーストラリア輸入車か?当然オランダ側からしてみれば外車である。なぜか写真にはないが当日あのケンメリ・スカイラインハードトップも見たのだ。オランダは江戸時代の貿易国。その関係なのかは定かでないのだが親日家が多いと聞いてはいた。・全長4,115 - 4,425mm・全幅1,630 - 1,690mm・全高1,280 - 1,290mm・ホイールベース2,305/2,605mm・車両重量975 - 1,145kg・最高速度は180 - 210km/h。ヨーロッパ製の高級GTに匹敵するスペックだった為、魅力あるスタイルをも兼ね備え、北米市場を中心に大ヒットした。北米だけでなかったのだ。日産のイメージリーダーカーとして、足掛け10年もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立。「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を世界に知らしめた日産の記念碑的車両であると言われている。この写真のクルマを見て頂こう。当時、日本ではまだアルミホイールが高価であった為あまり普及されておらず、隣のフォード・カブリ同様スチールホイールが全盛でした。それに引き換えこのZはどうでしょう?アルミを履いていたのです。これを見た瞬間「Zはカッコいい」と思ったのです。ホイールのインチはそんなに大きくはありませんでしたが、オランダで見たZは日本に置けるジャガーロータスヨーロッパに負けない迫力があった。コクピットからでて来た人もカッコいいし、100点満点でした。日本車も海外に行けば外車。東京のBMWやベンツになる訳で、それを海外で国産車として誇り高き存在として、出会ったZ。この前後モンテカルロラリーやサファリラリーで活躍する姿を見て、Zが日本の輸出車の牽引になったことは間違いない事実です。1974年2月。自分にとっても心の牽引 力になった年でした。この写真たちを大切に。健やかに生きて行きたいものだ。

 

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ローマ・ボルゲーゼ美術館横を走るフェラーリディーノ246タルガトップ。

f:id:kohyusya:20170328191405j:plain写真は1974年2月に訪れたローマでのワンカット。ローマ市内、広大なボルゲーゼ公園 の一画にあるこの美術館。ボルゲーゼ家 の美術コレクションが展示されている。ボルゲーゼなんてパスタ・スパゲッティの名前にもあり、イタリアでは通称呼ばれる多くの名前にあたるのか?確かボルゲーゼを頼むとライク aミートソースだったと思います。本当はトマトの種類らしいのですガー   アメリカで言うポール&ジョンとかピーターみたいな名前か?ボルゲーゼ家はシエナ出身の貴族で、名門らしい。美術館は、シピオーネ・ボルゲーゼという方がが夏の別荘として建てたものだそうだ。シピオーネ・ボルゲーゼは芸術家に多くの作品を注文したパトロンだったそうだ。19世紀初頭、あのナポレオン・ボナパルトが、ボルゲーゼ家の多くの美術品をフランス・ルーヴル美術館に移してしまった。当時のボルゲーゼ家当主カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼの妻はナポレオン・ボナパルトの妹ポーリーヌであった。なんか数十年前までやっていたエスティーローダーのモデルの名前と同じポーランド人なのか?イタリアの国立美術館として公開されるようになるのは1903年のことである。1階には彫刻、2階には絵画を展示する。その入口に自分がさしかかったところにこのフェラーリ・ディーノ・206/246がグアキーンとした音で通り過ぎて行った。今までローマ・フィレンツェミラノと何回かは来たのだが、スーパーカーフェラーリを見たのは最初で最後である。写真はタルガトップの「246GTS」。後部のガラスがない天井を開けることの出来るタイプ。希少価値のあるクルマだったのだ。そのタイプでないにしろフェラーリが製造した初のミッドシップ2座席スポーツカーである。今日ではしばしば「フェラーリ・ディーノ」と呼ばれ、フェラーリのエンブレムを付けている車も多いが、本来別ブランドらしい。フェラーリ唯一のV型6気筒エンジン搭載市販車であり、現代V型8気筒エンジンを搭載するフェラーリの始祖的存在である。フェラーリ の創業者エンツォ・フェラーリの長男で1956年に夭折したアルフレードフェラーリが病床でアイデアを出したとされる65度V型6気筒DOHCエンジンを持ち、V型12気筒エンジン搭載の既存車種とも区別するため、新しく長男の名前で「ディーノ」ブランドが与えられ誕生したのだった。エンジン、シャシとも変更を行い、乗り手を選ぶ206から、運転技術の未熟な者でも普通に乗れる車になったそうだ。1971年ティーポEの途中からタルガトップの「246GTS」が追加された(アメリカ仕様車は排気ガス対策により175馬力)。2,487台のGTと1,274台のGTS、合計3,761台が作られたそうだ。本当に希少価値のクルマを見たものだ。東京でももしかして見てないかも知れません。

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1974年ローマにて、フィアットジャンニーニ128

f:id:kohyusya:20170328141610j:plainこの写真は1974年2月のローマの街の1カット。フィアット・ジャンニーニ128とフィアットのもう一台。多分フィアットパンダかな?テールランプから車種を割り出そうとしたが実際は解っていない。フィアット・ジャンニーニ128はイタリアフィアットが1969年から1985年まで生産した前輪駆動方式の小型乗用車である。そんなのが街中にゴロゴロいた記憶がある。イタリアの当時のお巡りさんもいる。イタリアにおける法執行機関・警察機構は、所属の異なる複数の機関が、場合によっては重複する分野を管轄するなど複雑である。国家レベルの警察組織のみでも5つ設置されているそうだ。当時の組織と今が代わってなければその通りなのだがミラノのお巡りさんとは制服が異なっていたようだ。制服や車両の配色はそれぞれ違うため、所属部署は一目で確認できるそうだ。クルマにもどろう。エンジンと変速機を直列配置し、これらを車軸と並列にして車体前方に横置き搭載するという省スペースな前輪駆動方式を実用化した先進的自動車であった。技術・販売の両面で多大な成功を収めた素晴らしいクルマなんだそうだ。フィアットの主任設計者ダンテ・ジアコーサと言われる方が考案したこのレイアウトは「ジアコーサ式前輪駆動」と呼ばれた。スペース効率と生産性の高さから、この後に世界各国の前輪駆動車の大部分に採用されることになったそうだ。 フィアットが120番台のナンバーを用い始めたのは、社長がビットリオ・バレッタからジャンニ・アニエッリに交代した1966年に発表した後輪駆動セダン「124」からだそうだ。それまでの開発コード「ティーポ124」という呼び名をそのまま車種名に用いた。言うならばフィアットの戦後第2世代シリーズにあたる系統であり、128もそのグループに属するクルマだったのだ。それ以前のフィアットにおける戦後第1世代シリーズとしては、戦前型を代替するものとして、モノコックボディを導入した一連のモデルが存在した。とにかくクルマの中での先駆者だったのは事実である。見てほしいのはクルマだけではない。写真に写っている道路の舗装のオイル漏れ等による汚さである。写真は正直である。フランスの石畳とは異なりシミだらけである。イタリアは掘れば掘ったで直ぐに遺跡が発掘されるからかあまり舗装の為に深くほれないとは聞いている。だからなのか舗装をあまり行っていない。横断歩道の塗装の仕方、POLIZIAの表示。道路と歩道との間に立つ看板。どれも面白い。人に移ろう。モーニングカットされたパンツを履くサラリーマン風の男性。コートも2ボタンでサイドボタンの立ち襟コート。ハーフサイズ。日本では何回か繰り返しであろうが今の流行の物。カバンも取手までもが革製のビジネスルック。何気ない日常のスナップでもこんなに異国では異なるのである。お巡りさんのコートだって40年前からオシャレだったんだとつくづく考えさせられる。唯一、ださいと言えばクルマのホイール位かもしれませんね?これもマニアには怒られる産物なのでしょうけど!ね。

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桜並木とホンダエアーウェーブ

 

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                                                                                                                                                                                   photo by Kojiro

7年前の2010年頃の写真。もうすぐ4月。東京も桜の季節がやって来た。写真はかつての材木運搬のために張り巡らされた用水路に咲く桜である。清澄公園近くの運河にこぼれんばかり一列に咲くので有名である。今でも江東区深川エリアは水と調和した美しい佇まいを見せています。この辺は木場公園近くの運河とも言うらしいのだが通勤路としては美しかった。エアーウエイブはホンダ・オルティアの発売終了後、 該当する車種がなかった5ナンバーサイズのコンパクトステーションワゴンとして、2005年4月に登場した。名前は空気の流れ(風)が感じられる、洗練されたスタイルで、明るく、広く、開放感あふれる室内空間を持ち、自然との一体感を創造する爽快感あふれるクルマ。という意味からきてるらしい。自分は社用車としてハンドルを握っていた。タイヤは小さいのでホイールも小さく後輪はドラムブレーキでホイールから見えるドラムがちょい気恥ずかしかった。燃料タンクを車体中央にレイアウト。センタータンクレイアウトを採用した初代フィットのプラットファームをベースに、ホイールベースを100mm延長。後席および荷室に余裕のある空間が確保された。荷物の積み下ろしが容易にするためか低床だった。後席を倒す際は座面ごと下に沈んで荷室床をほぼ水平にでき、観葉植物等立てに入れて運ぶことも可能であった。ステーションワゴンとしての使い勝手はよかった。特長は、流麗な?フォルムと前席頭上から後席まで広がる「スカイルーフ」。今ではプジョー308やボルボV40の一部が継承してる。のか前からあったのかちょっと不明である。いつでも青空や星空が見え、開放感が味わえるようになっていた。スカイルーフは、プライバシーガラスと熱線吸収UVカットガラスの合わせガラスを採用。スカイルーフはガラス部分の面積が非常に大きいが、開口部を囲むフレームなどは閉断面化された。剛性および衝突安全性を確保している。但し春から夏の炎天下ではかなり暑かった印象がある。ちなみにメーカーの衝突実験においては50km/h以上で側面衝突を受けてもスカイルーフのガラスは1度も割れなかったそうだ。ドアミラーはデザイン上の理由から、S2000用のものが流用されていたとは驚きである。今思えばだから大きめだったのか?と思う。

搭載エンジン=ホンダ・L15A型 エンジン種類:水冷直列4気筒横置き 弁機構:SOHC チェーン駆動 吸気2 排気2 VTEC 最高出力:110PS/5,800rpm 最大トルク:14.6kgf·m/4,800rpm

総排気量:1,496cc 燃料供給装置形式:電子制御燃料噴射式(ホンダPGM-FI)

使用燃料種類:無鉛レギュラーガソリン 燃料タンク容量:42L この写真のクルマは5年で18万キロ走った。自分が乗ったクルマで最長である。全車にイモビライザーとアレルフリー脱臭フィルターを標準装備とした。2010年8月末・生産終了した。同時に、エアウェイブがベースとなっているライトバンのパートナーも生産終了となる。これにより、2011年6月にフィットシャトルが発売されるまでは、ホンダの5ナンバーステーションワゴンはストリームのみとなった。が、今ではそのストリームも消え、ジェイドとなっている。大幅に大きくなり価格も低価格の外車並みになった。に                                                                                                                                  コウジロウの独り言

 

ミラノ・ガラスアーケードと東京ディズニーランド。

写真は1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。一台しかこの当時はカメラを持っていないため、カメラは当然キャノン・ペリックスと24mmワイドレンズ。紳士・淑女達が当時としてはモダンで現代のファッションに近い。f:id:kohyusya:20170327143353j:plainヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア(イタリア語: Galleria Vittorio Emanuele II)は、イタリアの都市ミラノにあるアーケードの名称。ここには40年前と30年前に2回訪れている。2つのアーケード(8角形の建物に2つのアーケードが交差する)に覆われ、ドゥオーモ広場の北に位置し、ミラノスカラ広場へ通じているのである。これは知らなかったことなのだが、十字路の交わる付近に青いタイルで囲まれた牡牛のモザイクがあり、その股間部分がやや窪んでいる。この窪みに踵を合わせてクルリと一回転すると幸せが訪れると言われてるらしい、旅行者は再びミラノに戻れる等の言い伝えがある。一人しか出来ない為、行列ができるらしい。観光客よりも地元市民によって積極的に行われているようである。朝夕の通勤時にはスーツを着た当時の写真に見られるようなビジネスマンや、日中には主婦などが踏み付け回転する有様が頻繁に見受けられる。イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にちなんで名づけられたのこと。最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設されたとされている。通りはガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われ、19世紀のショッピングモール及びイギリス、ロンドンにあるバーリントン・アーケードのようなデザインである。天井の壁画は5大陸を現しており見事なものである。歩道のモザイク模様もイタリア発祥のデザインが描かれ面白い。ガッレリアはベルギーのブリュッセルにあるギャラリー・サン・チュベール(1847年)やロシア・サンクトペテルブルクにあるパッサージュ(1848年)、ナポリウンベルト1世のガッレリア(1890年)等から始まった、巨大なガラス張りのショッピング・アーケードの原型であったとされている。中央の十字路部分はガラス製のドームで覆われている。この八角形のガラスドーム広場の床面には、中央にイタリア王国の紋章やミラノトリノフィレンツェ、ローマの紋章が描かれている。自分ではじっくり美術を見るような目で見てた訳ではなく、ガイドもこの場所では付けてなかったので、素敵なアーケードだったな程度の印象だった。後に何年もしてからこのアーケードがただ物ではないと解るのである。自分が撮影し、紙焼きを見てからのこと。このミラノのガッレリアはそれまであったものよりも大きく釣り合いが取れており、近代的なショッピングモールの発展において重要な建造物だった。ガッレリアはミラノのドゥオーモとスカラ座という、ミラノにおける2つの著名な観光地へと繋がっている。最初の落成から130年以上を経た現在、アーケードにはオートクチュール店から書店に至るまでの上品な各種店舗、グッチ、プラダルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店の他、レストラン、カフェ、バーが入居している。残念ながら自分達家族で入ったのはバルだけだったのだが。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアへ直接つながっているのは、ミラノでも最高級のパーク・ハイアット・ホテルで、街の中でも最も豪華な部屋と設備を有しているらしい。自分達が宿泊していたのは傍だったがこの名前のホテルではなかった。何と大好きな東京ディズニーランドワールドバザールはこのガッレリアをモデルに作られているらしい。だから東京ディズニーランドに行った時どこかで見た風景と感じるのかもしれない。

 

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510ダットサン・ブルーバード(3代目)と檜原湖

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                                                                                                                photo by Kojiro

全長=4,095mm全幅=1,560mm全高=1,420mm ホイールベース=2,420mm 車両重量=945kgブレーキ=前:ディスクブレーキディスク後:=ドラム ドラムブレーキなんて堂々とよく書けたもんですね? 写真モデルは4ドアセダン 1300-4速コラムシフト まるで1600SSSである。

ブルーバードの歴代シリーズの中で後の910型と共に、最も大きな成功を収めたモデルである。1966年にはダットサンの1.0Lクラスの大衆車、ダットサン・サニーが発売されていたことから、ブルーバードは1.3L以上の中級モデルとして上位移行。ボディは大型化された。当初のボディタイプは2ドア / 4ドアセダン、4ドアワゴン / 4ドアバンの4種類。社内デザイナーにより「スーパーソニックライン」と称した。直線的で彫りの深いシャープなデザインとなった。従来装備されていたフロントドアガラスの三角窓は、換気装置の強化により省略された。デザイン面で大きく変わったのである。陰ながらローレル1800も登場し、自分はこれを操っていた。オースチンの影響が強いメカニズムは、410系までに比べて一新された。量販モデルである1.3LのL13型と、上級モデルとして1.6LのL16型を積んだ「SSS(スーパー・スポーツ・セダン)」のラインアップだった。日本国内では他社に先駆けた先進的設計と斬新なスタイリングをアピールし、オーソドックスな後輪車軸懸架構造ながらデラックスな装備を売りにするトヨペット・コロナとの「BC戦争」を競り合った。写真はT美大に入学して半年は経った夏休みに友人3人で東北ドライブの最中。檜原湖にさしかかったところ。日本国外では、廉価でありながら欧州車並みに高度なスペックを備えた魅力的なセダンとして「プアマンズ・BMW」との評を得、ラリーフィールドでのタフネスな活躍ぶりとも相まって人気を高め、史上初めて北米市場でヒットした日本車となった。自分たちもその気になり、特に現在はフェアレディを逆輸入販売している会社経営をしている友人のクルマにステッカーを貼り回らせ非公認のT美大ラリーカーもどきで緑を楽しんでいるところ。当時の米国では高校生が初めて乗るクルマとして人気を博し、その世代の米国人にとっては思い出深いクルマだという。続いて開発された初代フェアレディZと共に、北米輸出市場における日産(ダットサン)の躍進を実現した存在といえる。震災前の40年も前の風景である。写真もT美大の写真研究室で調色現像したものである。グリル周りは樹脂パーツを多用して610型系と類似したいかついデザインに変更された。テールランプとウインカーが独立したタイプを選ぶことができるようになった。最終期にはスモールランプも独立した。SSSは出力強化(100馬力 → 105馬力)、フェンダーミラーのブラック化、革巻き風ステアリングの採用なども実施。この時期に至っても市場からの人気は高かった。1972年12月 - 510型系生産終了。はかなきクルマの人生である。自分たちはこのクルマ同様大きな夢へ向かって羽ばたいて行くのである。                                                                                                                                                                                                       コウジロウの独り言