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完璧なインテリアを持つランボルギーニ・エスパーダは華麗なGT

 

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                                                                                                   PHOTO by KOjIRO  / February 1974 

イタリアのローマなのか?1974年2月。街中で見つけたランボルギーニエスパーダ。エスパーダの3ドアハッチバックのクーペボディのデザインは、ミウラ同様、ベルトーネに在籍していたマルチェロ・ガンディーニによるもので1967年ジュネーヴ・ショーに出品されたランボルギーニ・マルツァルと同年のロンドンショーにデビューしたジャガー・ピラーナという2つのプロトタイプのモチーフが生産モデルとして現実化されたものだったそうだ。ベルトーネの商品化計画はデザインの流行化計画ともとれるベルトーネとしての貫ぬく姿 勢を感じる。今ではだが当時のライバルであるフェラーリにもない完全な4シータ−。フェルッチオ・ランボルギーニ自身が「私にとってのロールスロイス」と言わしめた様に2+2をベースに4人が普通に座れる様に超高速4シータ−・スポーツセダンとして世の中にも受け入れられた。エスパーダは完全4シーターのスーパーグランドツーリスモとして400GTミウラと同じV12エンジンをフロントに積み、全4輪ディスクブレーキを備えていた。エスパーダEspada )とは、イタリアの自動車メーカー、ランボルギーニ社製。1968年から1978年まで生産したグランツーリスモである。この写真のランボルギーニエスパーダは日本で紹介されている写真のフロントライトとは違っていた。希少価値のある珍しい写真になるかもしれません。エスパーダとはスペイン語で「剣」を意味する。僕の大好きなクルマの一台である。

                                                                                                                コウジロウの独り言

ギラギラテスラはキラキラテスラ。

 

 

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                                                                                                               photo by Kojiro  

ギンピカのテスラを京橋で見た。昨年の暮。まるであの消えるアストンマーティンの007をみてるようだ。街の光にとけ込んでいた。この手のクルマはオートサロンでよく見受けられていたが、まさか公道で見るとは思わなかった。さらッとおかれていたテスラ。正直テスラの車種等知る由もない。路上で最も安全なクルマとなるようゼロからデザインされた素晴らしい自動車テスラModel S。そのコンセプトは自分の乗っているボルボの神話に繋がるのか?テスラのユニークな電動パワートレインの凄いパフォーマンスで、Model Sはわずか2.7秒で時速100キロまで加速するそうだ。Model Sには、高速道路での運転をより安全でストレスフリーにするようデザインされたオートパイロット運転支援システムが搭載もされてるとなっている。オートパイロトデュアルモーターのModel Sは従来の全輪駆動(AWD)システムとはちょっとちがい、フロントとリアの各車軸に1つずつ割り当てられた2つのモーターで、フロントとリアのホイールにかかるトルクを独立的にデジタル制御。だからトラクション コントロール システムは、いかなる状況下でも圧倒的な性能を発揮するとされている。それぞれが反応するということなのか?一般的な全輪駆動車では、1つのエンジンから出力を各ホイールに配分するために複雑な機械的結合を採用しています。 これでは全天候に対応できるトラクションを得るために効率を犠牲にします。一方、デュアルモーターのModel Sの各モーターは、後輪駆動のModel Sのモーターと比べ小さく、軽く、効率良く作られているため、航続距離と加速力が向上します。とか言っても、サイズがヤバい!横幅1,964mmもある。長さも約5メートル。デザインがおとなしく綺麗だからなのかもしれませんが、2m近い幅には見えない。値段も凄い。900万〜1,700万円。テスラのエンジニアはまず、社名の由来となった発明家のニコラ テスラが1888年に特許を取得した交流誘導電動機を中心としたスポーツカーのパワートレインを設計。2008年に発売されたテスラ ロードスターは、リチウムイオン バッテリーを搭載し、1回の充電で最長394 kmの航続距離と3.9秒で時速100 kmまで加速する加速性能で、EVの新基準を確立しました。テスラは2,400台以上のロードスターを30カ国以上の国々で販売したらしい。テスラは2012年に、世界初のプレミアムEVセダンであるModel Sを発売。100%電気自動車となるようゼロから開発されたModel Sは、4ドア自動車のすべてのコンセプトを覆しました。7人が乗れるスペース、1,800リッターを超える荷室容量、最大航続距離がなんと500km以上、ファミリーセダンの快適さと利便性、そして約5秒で時速100 kmまで加速するというスーパーカー並の加速力を併せてデビューしたのでした。完全にフラットなバッテリーパックは、シャシーと一体化し、乗車スペースの下に位置するため、車の重心が下がり、卓越したロードホールディングとハンドリングを可能にします。そして、Model Sは米モータートレンド誌の2013年カーオブザイヤーに選ばれ、米国家道路交通安全局による安全性試験で5つ星評価を獲得しています。そんな凄いクルマを東京のド真ん中で見れるのだから!日本という国は凄い国なのだ。                                              コウジロウの独り言                                                                                                 

 

 

雪降るパリのノートルダム。

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                                                                                                           mphoto  by kojiro

1974年2月。アンカレッジで10時間過ごした関係でローマが一日無くnなり、ロンドン経由で最終目的地のパリ。初めての渡欧だった。そんな貴重なパリの自由時間。大雪の中、オプショナルツアーを頼まず二人で歩いて出かけた。今や知る人ぞ知るファッションデザイナーのM氏との二人だった。ルーブルに行く途中、ノートルダム寺院セーヌ川を挟んで撮影したややななめうしろの風景。こんな体験を出来るなんて今思えば幸せこの上ない。今でも夢にでてくるワン・シーン。でも現実も忘れてはいなかった。当時喫茶店にパネル化して飾って貰ったりもしたワン・カット。そんなワン・カットでも苦労はしていたのだった。TVやMOVIEでは雪降る街の人々の足下まではなかなか映さない。ストーリーとしては関係ないからなのか?自分達は大変な犠牲を払っていた。革靴がグチョグチョなのだ。上半身も2月の雪だからなのかビショビショでパリの雪はとても重たくひどく苦痛だった記憶がある。二人ともコートは着ていたので最悪な姿は免れた。ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神(古代ローマ最高神)域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。とある。関係あるかは定かではないがミラノのドーモにも似たところがある。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成したそうだ。ファサードは1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられたとされている。最終的に竣工されたのは1345年。全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成したのだった。1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されているとのこと。戦争で他宗教だからといって弾圧の意味で破壊することは許せないのだが。装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。下方から、大アーケード、トリビューン(階上廊)、高窓の3層構造となっている。水平的分割線が見られず、分断されることなく上昇する小円柱群が目立ち、垂直線が強調されている。 初期ゴシック建築では、4層式(大アーケード、トリビューン、トリフォリウム、高窓)が一般的であった。そのため、ノートルダム大聖堂も創建当初は4層構成にされており、トリビューンと高窓の間にもう一つの層があった。しかし、ノートルダム大聖堂の場合、左右の側廊が二重で五廊式バシリカ形式であるため、中央身廊部に十分な光が入ってこなかった。そのため13世紀初め、外光をより取り入れるために、高窓部分を拡張し、3層構成に改造されたのだそうだ。とにもかくにも横に延びた恐竜の骨のような骨格が何とも言えない美しい姿なのだから、現在までの施行が素晴らしかったのだと言えましょう。実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっているようだ。1804年5月28日に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルト戴冠式は1804年12月2日にノートルダム大聖堂で行われたのは有名。1885年に心理学者ジークムント・フロイトが留学に来た際に観光で立ち寄り、美しさに感動してここの塔に2度上り、後の妻となる女性に聖堂の写真を土産にしたとも言われた。最近では2015年11月15日にパリ同時多発テロ事件の追悼ミサが開かれ、大聖堂前の広場にも大勢のパリ市民が集まったことも記憶に新しい事実である。パリからの距離を表すときの 起点はノートルダム大聖堂の前が起点となっているそうだ。防寒着を身に纏い、最新のSUV車でまたノ−トルダムを訪ねたい。                                                                                                                                           コウジロウの独り言

 

日本アルペンラリーと 篠塚健次郎氏とCOLT SPEED。

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                                                                                                                photo by Kojiro

みんな驚くのですが。これらのブログの写真はすべて自分が撮影した物であること。そして版権も自分にあること。をお伝えしたい。さて本題に入るとする。1971年の9月16日〜19日行われた国内ラリーの最高峰第13回日本アルペンラリーのスタ−トだった。神宮絵画館前に115台と最高の参加台数。ますますスポーツ化する競技内容と交通事情の悪化のため、1/3以上が脱落し、完走は74台にとどまっていたらしい。驚いたことに自分はこのクルマが有名な選手のクルマらしいとシャッタ−をきっていたのが篠塚健次郎氏のギャランだった。本人をこのときは見ていない。自分の撮影した印画紙プリントを解析すると、カリーナGT・ギャランGTO・ブルーバード510・マークIIスバル1000スポーツそしてギャランGS。確かスカイライン2000GTの4ドアもあった。ラリーの状況は次のとおりであった。・第1ステージ 上野村を過ぎた塩沢峠の第2CPで先行の14台を除く101台がコースの土砂崩れなどで通行不能となり1時間半も遅れたため、再スタートと14台に時間調整のレスコンを与えるという不慮の事態発生したのだった。予定より1時間50分遅れて最初の車がゴールの濁河温泉に入ったとのこと。・第2ステージ 乗鞍山項では突如としてクルマの修理の為のサービス村が出現するなど、サービス競争が激しくなったと伝えられている。優勝侯補の筆頭だった篠塚/宮地チームは第1ステージを減点0で折り返しながらも、第2ステージでふるわず、代わって最大の難コース乗鞍を減点0におさえた片川/片川/伊藤チームのギャランが総減点2点という驚異の新記録で総合優勝したと記録に残っていた。●コースは 東京(神宮外苑)〜秩父〜田口峠〜大河原峠〜武石峠〜上田〜菅平〜渋峠中野市白馬村大町市野麦峠濁河温泉(第1ステージゴール)〜坂本峠〜天生峠〜小鳥峠〜乗鞍〜上諏訪〜韮崎〜大磯ロングビーチ●走行距離距離 約1900kmのロングコースだったのだ。自分でもこれらの峠でラリーチャレンジと題してその当時ケンメリでドライビングを楽しんだものだ。ラリーの話に戻るとそのスタ−トを待つクルマ達の中にいた篠塚健次郎氏のギャラン。何故か、スカイライン党だった自分でもラリーのときのギャランはとてつもなく格好いいと感じていた。スタ−トしてすぐに白バイに捕まるクルマもあったり、滑稽な風景でもあった。篠塚選手のクルマのステッカーに「MARCIAL」の文字。今やヤフオク扱いでしか買えないのか?「CIBIE」と同じで今やなかなか耳に入ってこないし見ることもない。このステッカーがスポーツラリー等のステータスだったことを忘れてはならない。この「日本アルペンラリー」も盛んなのか?あるのかも解ってない。第19回スパイク・インターナショナル 日本アルペンラリー(19th Spike International Japanese Alpine Rally)は、2001年5月19日〜20日に群馬県で日本初のインターナショナル格式として開催されたラリー。が最近の盛り上がりのあった催しなのか?ちょっと淋しい日本国内ラリーの世界かもしれませんね?

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オランダ・アムステルダムを快走していたケン&メリー。

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photo by Kojiro

 1972年9月。箱スカからモデルチェンジしたスカイラインの愛称がケン&メリー。1973年に東名高速道路でワンキャブの箱スカGT4ドアと御殿場からの厚木の下りでアクセルを目一杯踏み込み、どの位差が出るかVS我がケン・メリGTXスカイラインと競走をしたことがある。多分1973年のことだと思うが?T美大の山中湖研修センターでの研修を受けた帰りの道中。40年も前のことだったので時効だと思って言ってしまうのだが、自分のツインキャブのケン・メリGTXのメータ−は180kmで目一杯、友人の箱スカが徐々に下がって行く。同乗者4名づつ。アホなことをしていると今思うが、若気の至り。とにかく当時はGTRを除いた最高峰のクルマに乗って気分は絶頂期であった。そんな自分でも乗っている誇り高きL20型国内仕様のスカイラインが240KGTとなってオランダアムステルダムを快走してたのだ。1974年2月のこと。前のブログで「なぜか写真にはないが、当日あのケンメリ・スカイラインハードトップも見たのだ」と記載。その時の写真が出て来たのです。街中風景の写真を見て呆然。スカイライン240KGTハードトップがいるではないか!あのケン・メリの目立つCピラーが走っているではないか!興奮覚めやらずシャッタ−をきった。遠くにケン・メリがいるその一枚である。C110型にモデルチェンジしたスカイラインはボディバリエーションが豊富だった。4ドアセダン、2ドアハードトップ、およびワゴン/バンもあり、後に5ドア車まで登場したのだった。先代同様、セダン/ハードトップにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載したGT系があった。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通。海外輸出用は2400CCだと聞いていた。サーフィンラインのプレスラインは、ごく浅く、プレーンな面構成となった。2ドアハードトップは太いCピラーを特徴としていた。それをオランダ・アムステルダムで見るなんて、思ってもいなかった。スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーデカール式のピンストライプが設定されていた。これは当時の日産自動車の社長命令だったそうだ。日本ではこの代から警察庁へパトロールカー(警らパトカー)として導入。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は血液汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されたそうだ。C110型から右ハンドル圏の日本国外へも輸出されるようになった。とされている。車名は「ダットサン・240K」。その名の通りエンジンは2400ccに拡大されていたのは事実のようだ。240KGTなのか写真のケンメリスカイラインは解らないのだが。記憶にないし記録にもない。リアフェンダースカイラインマークも赤だったのかブルーだったのか覚えていない。とにもかくにもここはオランダ・アムステルダムだった。自分でも関心するのは当時の印画紙現像の際の水洗の素晴らしさ。40年前の紙焼きが変色してない事。印画紙の管理の素晴らしさも絶賛したいものだ。分かる人には分かる隠れた賞賛材料もあるのをわかってほしい。

 

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フェアレディZは世界に送った最高のイメージリーダーカー。

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 photo by Kojiro

日本における通称は「Z」。「フェアレディ」と言う名前はミュージカル映画マイ・フェア・レディ」から名付けられたと聞いている。「フェアレディ」を冠すのは日本国内のみで、輸出向けは「DATSUN」また「NISSAN」と呼称されていた。USAでの愛称は「Z-car」だと言われている。自分が撮影した写真はおそらく日産・フェアレディZ(初代)S30型Z-L 1970年モデル。これは、オランダ・アムステルダムの運河のほとりで見た1974年2月の風景である。うしろのウィングフィンにDUTSUNの文字が書かれてた。右側通行のオランダで右ハンドルのZ。ということは日本製かイギリス輸入車かはたまたオーストラリア輸入車か?当然オランダ側からしてみれば外車である。なぜか写真にはないが当日あのケンメリ・スカイラインハードトップも見たのだ。オランダは江戸時代の貿易国。その関係なのかは定かでないのだが親日家が多いと聞いてはいた。・全長4,115 - 4,425mm・全幅1,630 - 1,690mm・全高1,280 - 1,290mm・ホイールベース2,305/2,605mm・車両重量975 - 1,145kg・最高速度は180 - 210km/h。ヨーロッパ製の高級GTに匹敵するスペックだった為、魅力あるスタイルをも兼ね備え、北米市場を中心に大ヒットした。北米だけでなかったのだ。日産のイメージリーダーカーとして、足掛け10年もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立。「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を世界に知らしめた日産の記念碑的車両であると言われている。この写真のクルマを見て頂こう。当時、日本ではまだアルミホイールが高価であった為あまり普及されておらず、隣のフォード・カブリ同様スチールホイールが全盛でした。それに引き換えこのZはどうでしょう?アルミを履いていたのです。これを見た瞬間「Zはカッコいい」と思ったのです。ホイールのインチはそんなに大きくはありませんでしたが、オランダで見たZは日本に置けるジャガーロータスヨーロッパに負けない迫力があった。コクピットからでて来た人もカッコいいし、100点満点でした。日本車も海外に行けば外車。東京のBMWやベンツになる訳で、それを海外で国産車として誇り高き存在として、出会ったZ。この前後モンテカルロラリーやサファリラリーで活躍する姿を見て、Zが日本の輸出車の牽引になったことは間違いない事実です。1974年2月。自分にとっても心の牽引 力になった年でした。この写真たちを大切に。健やかに生きて行きたいものだ。

 

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ローマ・ボルゲーゼ美術館横を走るフェラーリディーノ246タルガトップ。

f:id:kohyusya:20170328191405j:plain写真は1974年2月に訪れたローマでのワンカット。ローマ市内、広大なボルゲーゼ公園 の一画にあるこの美術館。ボルゲーゼ家 の美術コレクションが展示されている。ボルゲーゼなんてパスタ・スパゲッティの名前にもあり、イタリアでは通称呼ばれる多くの名前にあたるのか?確かボルゲーゼを頼むとライク aミートソースだったと思います。本当はトマトの種類らしいのですガー   アメリカで言うポール&ジョンとかピーターみたいな名前か?ボルゲーゼ家はシエナ出身の貴族で、名門らしい。美術館は、シピオーネ・ボルゲーゼという方がが夏の別荘として建てたものだそうだ。シピオーネ・ボルゲーゼは芸術家に多くの作品を注文したパトロンだったそうだ。19世紀初頭、あのナポレオン・ボナパルトが、ボルゲーゼ家の多くの美術品をフランス・ルーヴル美術館に移してしまった。当時のボルゲーゼ家当主カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼの妻はナポレオン・ボナパルトの妹ポーリーヌであった。なんか数十年前までやっていたエスティーローダーのモデルの名前と同じポーランド人なのか?イタリアの国立美術館として公開されるようになるのは1903年のことである。1階には彫刻、2階には絵画を展示する。その入口に自分がさしかかったところにこのフェラーリ・ディーノ・206/246がグアキーンとした音で通り過ぎて行った。今までローマ・フィレンツェミラノと何回かは来たのだが、スーパーカーフェラーリを見たのは最初で最後である。写真はタルガトップの「246GTS」。後部のガラスがない天井を開けることの出来るタイプ。希少価値のあるクルマだったのだ。そのタイプでないにしろフェラーリが製造した初のミッドシップ2座席スポーツカーである。今日ではしばしば「フェラーリ・ディーノ」と呼ばれ、フェラーリのエンブレムを付けている車も多いが、本来別ブランドらしい。フェラーリ唯一のV型6気筒エンジン搭載市販車であり、現代V型8気筒エンジンを搭載するフェラーリの始祖的存在である。フェラーリ の創業者エンツォ・フェラーリの長男で1956年に夭折したアルフレードフェラーリが病床でアイデアを出したとされる65度V型6気筒DOHCエンジンを持ち、V型12気筒エンジン搭載の既存車種とも区別するため、新しく長男の名前で「ディーノ」ブランドが与えられ誕生したのだった。エンジン、シャシとも変更を行い、乗り手を選ぶ206から、運転技術の未熟な者でも普通に乗れる車になったそうだ。1971年ティーポEの途中からタルガトップの「246GTS」が追加された(アメリカ仕様車は排気ガス対策により175馬力)。2,487台のGTと1,274台のGTS、合計3,761台が作られたそうだ。本当に希少価値のクルマを見たものだ。東京でももしかして見てないかも知れません。

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