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雪降るパリのノートルダム。

f:id:kohyusya:20170417141401j:plain1974年2月。アンカレッジで10時間過ごした関係でローマが一日無くなり、ロンドン経由で最終目的地のパリ。初めての渡欧だった。そんな貴重なパリの自由時間。大雪の中、オプショナルツアーを頼まず二人で歩いて出かけた。今や知る人ぞ知るファッションデザイナーのM氏との二人だった。ルーブルに行く途中、ノートルダム寺院セーヌ川を挟んで撮影したややななめうしろの風景。こんな体験を出来るなんて今思えば幸せこの上ない。今でも夢にでてくるワン・シーン。でも現実も忘れてはいなかった。当時喫茶店にパネル化して飾って貰ったりもしたワン・カット。そんなワン・カットでも苦労はしていたのだった。TVやMOVIEでは雪降る街の人々の足下まではなかなか映さない。ストーリーとしては関係ないからなのか?自分達は大変な犠牲を払っていた。革靴がグチョグチョなのだ。上半身も2月の雪だからなのかビショビショでパリの雪はとても重たくひどく苦痛だった記憶がある。二人ともコートは着ていたので最悪な姿は免れた。ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神(古代ローマ最高神)域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。とある。関係あるかは定かではないがミラノのドーモにも似たところがある。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成したそうだ。ファサードは1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられたとされている。最終的に竣工されたのは1345年。全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成したのだった。1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されているとのこと。戦争で他宗教だからといって弾圧の意味で破壊することは許せないのだが。装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。下方から、大アーケード、トリビューン(階上廊)、高窓の3層構造となっている。水平的分割線が見られず、分断されることなく上昇する小円柱群が目立ち、垂直線が強調されている。 初期ゴシック建築では、4層式(大アーケード、トリビューン、トリフォリウム、高窓)が一般的であった。そのため、ノートルダム大聖堂も創建当初は4層構成にされており、トリビューンと高窓の間にもう一つの層があった。しかし、ノートルダム大聖堂の場合、左右の側廊が二重で五廊式バシリカ形式であるため、中央身廊部に十分な光が入ってこなかった。そのため13世紀初め、外光をより取り入れるために、高窓部分を拡張し、3層構成に改造されたのだそうだ。とにもかくにも横に延びた恐竜の骨のような骨格が何とも言えない美しい姿なのだから、現在までの施行が素晴らしかったのだと言えましょう。実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっているようだ。1804年5月28日に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルト戴冠式は1804年12月2日にノートルダム大聖堂で行われたのは有名。1885年に心理学者ジークムント・フロイトが留学に来た際に観光で立ち寄り、美しさに感動してここの塔に2度上り、後の妻となる女性に聖堂の写真を土産にしたとも言われた。最近では2015年11月15日にパリ同時多発テロ事件の追悼ミサが開かれ、大聖堂前の広場にも大勢のパリ市民が集まったことも記憶に新しい事実である。パリからの距離を表すときの 起点はノートルダム大聖堂の前が起点となっているそうだ。防寒着を身に纏い、最新のSUV車でまたノ−トルダムを訪ねたい。                                                                                                                                           コウジロウの独り言

 

日本アルペンラリーと 篠塚健次郎氏とCOLT SPEED。

f:id:kohyusya:20170414224829j:plainみんな驚くのですが。これらのブログの写真はすべて自分が撮影した物であること。そして版権も自分にあること。をお伝えしたい。さて本題に入るとする。1971年の9月16日〜19日行われた国内ラリーの最高峰第13回日本アルペンラリーのスタ−トだった。神宮絵画館前に115台と最高の参加台数。ますますスポーツ化する競技内容と交通事情の悪化のため、1/3以上が脱落し、完走は74台にとどまっていたらしい。驚いたことに自分はこのクルマが有名な選手のクルマらしいとシャッタ−をきっていたのが篠塚健次郎氏のギャランだった。本人をこのときは見ていない。自分の撮影した印画紙プリントを解析すると、カリーナGT・ギャランGTO・ブルーバード510・マークIIスバル1000スポーツそしてギャランGS。確かスカイライン2000GTの4ドアもあった。ラリーの状況は次のとおりであった。・第1ステージ 上野村を過ぎた塩沢峠の第2CPで先行の14台を除く101台がコースの土砂崩れなどで通行不能となり1時間半も遅れたため、再スタートと14台に時間調整のレスコンを与えるという不慮の事態発生したのだった。予定より1時間50分遅れて最初の車がゴールの濁河温泉に入ったとのこと。・第2ステージ 乗鞍山項では突如としてクルマの修理の為のサービス村が出現するなど、サービス競争が激しくなったと伝えられている。優勝侯補の筆頭だった篠塚/宮地チームは第1ステージを減点0で折り返しながらも、第2ステージでふるわず、代わって最大の難コース乗鞍を減点0におさえた片川/片川/伊藤チームのギャランが総減点2点という驚異の新記録で総合優勝したと記録に残っていた。●コースは 東京(神宮外苑)〜秩父〜田口峠〜大河原峠〜武石峠〜上田〜菅平〜渋峠中野市白馬村大町市野麦峠濁河温泉(第1ステージゴール)〜坂本峠〜天生峠〜小鳥峠〜乗鞍〜上諏訪〜韮崎〜大磯ロングビーチ●走行距離距離 約1900kmのロングコースだったのだ。自分でもこれらの峠でラリーチャレンジと題してその当時ケンメリでドライビングを楽しんだものだ。ラリーの話に戻るとそのスタ−トを待つクルマ達の中にいた篠塚健次郎氏のギャラン。何故か、スカイライン党だった自分でもラリーのときのギャランはとてつもなく格好いいと感じていた。スタ−トしてすぐに白バイに捕まるクルマもあったり、滑稽な風景でもあった。篠塚選手のクルマのステッカーに「MARCIAL」の文字。今やヤフオク扱いでしか買えないのか?「CIBIE」と同じで今やなかなか耳に入ってこないし見ることもない。このステッカーがスポーツラリー等のステータスだったことを忘れてはならない。この「日本アルペンラリー」も盛んなのか?あるのかも解ってない。第19回スパイク・インターナショナル 日本アルペンラリー(19th Spike International Japanese Alpine Rally)は、2001年5月19日〜20日に群馬県で日本初のインターナショナル格式として開催されたラリー。が最近の盛り上がりのあった催しなのか?ちょっと淋しい日本国内ラリーの世界かもしれませんね?

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オランダ・アムステルダムを快走していたケン&メリー。

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1972年9月。箱スカからモデルチェンジしたスカイラインの愛称がケン&メリー。1973年に東名高速道路でワンキャブの箱スカGT4ドアと御殿場からの厚木の下りでアクセルを目一杯踏み込み、どの位差が出るかVS我がケン・メリGTXスカイラインと競走をしたことがある。多分1973年のことだと思うが?T美大の山中湖研修センターでの研修を受けた帰りの道中。40年も前のことだったので時効だと思って言ってしまうのだが、自分のツインキャブのケン・メリGTXのメータ−は180kmで目一杯、友人の箱スカが徐々に下がって行く。同乗者4名づつ。アホなことをしていると今思うが、若気の至り。とにかく当時はGTRを除いた最高峰のクルマに乗って気分は絶頂期であった。そんな自分でも乗っている誇り高きL20型国内仕様のスカイラインが240KGTとなってオランダアムステルダムを快走してたのだ。1974年2月のこと。前のブログで「なぜか写真にはないが、当日あのケンメリ・スカイラインハードトップも見たのだ」と記載。その時の写真が出て来たのです。街中風景の写真を見て呆然。スカイライン240KGTハードトップがいるではないか!あのケン・メリの目立つCピラーが走っているではないか!興奮覚めやらずシャッタ−をきった。遠くにケン・メリがいるその一枚である。C110型にモデルチェンジしたスカイラインはボディバリエーションが豊富だった。4ドアセダン、2ドアハードトップ、およびワゴン/バンもあり、後に5ドア車まで登場したのだった。先代同様、セダン/ハードトップにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載したGT系があった。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通。海外輸出用は2400CCだと聞いていた。サーフィンラインのプレスラインは、ごく浅く、プレーンな面構成となった。2ドアハードトップは太いCピラーを特徴としていた。それをオランダ・アムステルダムで見るなんて、思ってもいなかった。スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの2ドアハードトップにのみ、リアフェンダーデカール式のピンストライプが設定されていた。これは当時の日産自動車の社長命令だったそうだ。日本ではこの代から警察庁へパトロールカー(警らパトカー)として導入。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は血液汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されたそうだ。C110型から右ハンドル圏の日本国外へも輸出されるようになった。とされている。車名は「ダットサン・240K」。その名の通りエンジンは2400ccに拡大されていたのは事実のようだ。240KGTなのか写真のケンメリスカイラインは解らないのだが。記憶にないし記録にもない。リアフェンダースカイラインマークも赤だったのかブルーだったのか覚えていない。とにもかくにもここはオランダ・アムステルダムだった。自分でも関心するのは当時の印画紙現像の際の水洗の素晴らしさ。40年前の紙焼きが変色してない事。印画紙の管理の素晴らしさも絶賛したいものだ。分かる人には分かる隠れた賞賛材料もあるのをわかってほしい。

 

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フェアレディZは世界に送った最高のイメージリーダーカー。

f:id:kohyusya:20170329220134j:plain日本における通称は「Z」。「フェアレディ」と言う名前はミュージカル映画マイ・フェア・レディ」から名付けられたと聞いている。「フェアレディ」を冠すのは日本国内のみで、輸出向けは「DATSUN」また「NISSAN」と呼称されていた。USAでの愛称は「Z-car」だと言われている。自分が撮影した写真はおそらく日産・フェアレディZ(初代)S30型Z-L 1970年モデル。これは、オランダ・アムステルダムの運河のほとりで見た1974年2月の風景である。うしろのウィングフィンにDUTSUNの文字が書かれてた。右側通行のオランダで右ハンドルのZ。ということは日本製かイギリス輸入車かはたまたオーストラリア輸入車か?当然オランダ側からしてみれば外車である。なぜか写真にはないが当日あのケンメリ・スカイラインハードトップも見たのだ。オランダは江戸時代の貿易国。その関係なのかは定かでないのだが親日家が多いと聞いてはいた。・全長4,115 - 4,425mm・全幅1,630 - 1,690mm・全高1,280 - 1,290mm・ホイールベース2,305/2,605mm・車両重量975 - 1,145kg・最高速度は180 - 210km/h。ヨーロッパ製の高級GTに匹敵するスペックだった為、魅力あるスタイルをも兼ね備え、北米市場を中心に大ヒットした。北米だけでなかったのだ。日産のイメージリーダーカーとして、足掛け10年もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立。「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を世界に知らしめた日産の記念碑的車両であると言われている。この写真のクルマを見て頂こう。当時、日本ではまだアルミホイールが高価であった為あまり普及されておらず、隣のフォード・カブリ同様スチールホイールが全盛でした。それに引き換えこのZはどうでしょう?アルミを履いていたのです。これを見た瞬間「Zはカッコいい」と思ったのです。ホイールのインチはそんなに大きくはありませんでしたが、オランダで見たZは日本に置けるジャガーロータスヨーロッパに負けない迫力があった。コクピットからでて来た人もカッコいいし、100点満点でした。日本車も海外に行けば外車。東京のBMWやベンツになる訳で、それを海外で国産車として誇り高き存在として、出会ったZ。この前後モンテカルロラリーやサファリラリーで活躍する姿を見て、Zが日本の輸出車の牽引になったことは間違いない事実です。1974年2月。自分にとっても心の牽引力になった年でした。この写真たちを大切に。健やかに生きたいものだ。

 

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ローマ・ボルゲーゼ美術館横を走るフェラーリディーノ246タルガトップ。

f:id:kohyusya:20170328191405j:plain写真は1974年2月に訪れたローマでのワンカット。ローマ市内、広大なボルゲーゼ公園 の一画にあるこの美術館。ボルゲーゼ家 の美術コレクションが展示されている。ボルゲーゼなんてパスタ・スパゲッティの名前にもあり、イタリアでは通称呼ばれる多くの名前にあたるのか?確かボルゲーゼを頼むとライク aミートソースだったと思います。本当はトマトの種類らしいのですガー   アメリカで言うポール&ジョンとかピーターみたいな名前か?ボルゲーゼ家はシエナ出身の貴族で、名門らしい。美術館は、シピオーネ・ボルゲーゼという方がが夏の別荘として建てたものだそうだ。シピオーネ・ボルゲーゼは芸術家に多くの作品を注文したパトロンだったそうだ。19世紀初頭、あのナポレオン・ボナパルトが、ボルゲーゼ家の多くの美術品をフランス・ルーヴル美術館に移してしまった。当時のボルゲーゼ家当主カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼの妻はナポレオン・ボナパルトの妹ポーリーヌであった。なんか数十年前までやっていたエスティーローダーのモデルの名前と同じポーランド人なのか?イタリアの国立美術館として公開されるようになるのは1903年のことである。1階には彫刻、2階には絵画を展示する。その入口に自分がさしかかったところにこのフェラーリ・ディーノ・206/246がグアキーンとした音で通り過ぎて行った。今までローマ・フィレンツェミラノと何回かは来たのだが、スーパーカーフェラーリを見たのは最初で最後である。写真はタルガトップの「246GTS」。後部のガラスがない天井を開けることの出来るタイプ。希少価値のあるクルマだったのだ。そのタイプでないにしろフェラーリが製造した初のミッドシップ2座席スポーツカーである。今日ではしばしば「フェラーリ・ディーノ」と呼ばれ、フェラーリのエンブレムを付けている車も多いが、本来別ブランドらしい。フェラーリ唯一のV型6気筒エンジン搭載市販車であり、現代V型8気筒エンジンを搭載するフェラーリの始祖的存在である。フェラーリ の創業者エンツォ・フェラーリの長男で1956年に夭折したアルフレードフェラーリが病床でアイデアを出したとされる65度V型6気筒DOHCエンジンを持ち、V型12気筒エンジン搭載の既存車種とも区別するため、新しく長男の名前で「ディーノ」ブランドが与えられ誕生したのだった。エンジン、シャシとも変更を行い、乗り手を選ぶ206から、運転技術の未熟な者でも普通に乗れる車になったそうだ。1971年ティーポEの途中からタルガトップの「246GTS」が追加された(アメリカ仕様車は排気ガス対策により175馬力)。2,487台のGTと1,274台のGTS、合計3,761台が作られたそうだ。本当に希少価値のクルマを見たものだ。東京でももしかして見てないかも知れません。

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1974年ローマにて、フィアットジャンニーニ128

f:id:kohyusya:20170328141610j:plainこの写真は1974年2月のローマの街の1カット。フィアット・ジャンニーニ128とフィアットのもう一台。多分フィアットパンダかな?テールランプから車種を割り出そうとしたが実際は解っていない。フィアット・ジャンニーニ128はイタリアフィアットが1969年から1985年まで生産した前輪駆動方式の小型乗用車である。そんなのが街中にゴロゴロいた記憶がある。イタリアの当時のお巡りさんもいる。イタリアにおける法執行機関・警察機構は、所属の異なる複数の機関が、場合によっては重複する分野を管轄するなど複雑である。国家レベルの警察組織のみでも5つ設置されているそうだ。当時の組織と今が代わってなければその通りなのだがミラノのお巡りさんとは制服が異なっていたようだ。制服や車両の配色はそれぞれ違うため、所属部署は一目で確認できるそうだ。クルマにもどろう。エンジンと変速機を直列配置し、これらを車軸と並列にして車体前方に横置き搭載するという省スペースな前輪駆動方式を実用化した先進的自動車であった。技術・販売の両面で多大な成功を収めた素晴らしいクルマなんだそうだ。フィアットの主任設計者ダンテ・ジアコーサと言われる方が考案したこのレイアウトは「ジアコーサ式前輪駆動」と呼ばれた。スペース効率と生産性の高さから、この後に世界各国の前輪駆動車の大部分に採用されることになったそうだ。 フィアットが120番台のナンバーを用い始めたのは、社長がビットリオ・バレッタからジャンニ・アニエッリに交代した1966年に発表した後輪駆動セダン「124」からだそうだ。それまでの開発コード「ティーポ124」という呼び名をそのまま車種名に用いた。言うならばフィアットの戦後第2世代シリーズにあたる系統であり、128もそのグループに属するクルマだったのだ。それ以前のフィアットにおける戦後第1世代シリーズとしては、戦前型を代替するものとして、モノコックボディを導入した一連のモデルが存在した。とにかくクルマの中での先駆者だったのは事実である。見てほしいのはクルマだけではない。写真に写っている道路の舗装のオイル漏れ等による汚さである。写真は正直である。フランスの石畳とは異なりシミだらけである。イタリアは掘れば掘ったで直ぐに遺跡が発掘されるからかあまり舗装の為に深くほれないとは聞いている。だからなのか舗装をあまり行っていない。横断歩道の塗装の仕方、POLIZIAの表示。道路と歩道との間に立つ看板。どれも面白い。人に移ろう。モーニングカットされたパンツを履くサラリーマン風の男性。コートも2ボタンでサイドボタンの立ち襟コート。ハーフサイズ。日本では何回か繰り返しであろうが今の流行の物。カバンも取手までもが革製のビジネスルック。何気ない日常のスナップでもこんなに異国では異なるのである。お巡りさんのコートだって40年前からオシャレだったんだとつくづく考えさせられる。唯一、ださいと言えばクルマのホイール位かもしれませんね?これもマニアには怒られる産物なのでしょうけど!ね。

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桜並木とホンダエアーウェーブ

 

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7年前の2010年頃の写真。もうすぐ4月。東京も桜の季節がやって来た。写真はかつての材木運搬のために張り巡らされた用水路に咲く桜である。清澄公園近くの運河にこぼれんばかり一列に咲くので有名である。今でも江東区深川エリアは水と調和した美しい佇まいを見せています。この辺は木場公園近くの運河とも言うらしいのだが通勤路としては美しかった。エアーウエイブはホンダ・オルティアの発売終了後、 該当する車種がなかった5ナンバーサイズのコンパクトステーションワゴンとして、2005年4月に登場した。名前は空気の流れ(風)が感じられる、洗練されたスタイルで、明るく、広く、開放感あふれる室内空間を持ち、自然との一体感を創造する爽快感あふれるクルマ。という意味からきてるらしい。自分は社用車としてハンドルを握っていた。タイヤは小さいのでホイールも小さく後輪はドラムブレーキでホイールから見えるドラムがちょい気恥ずかしかった。燃料タンクを車体中央にレイアウト。センタータンクレイアウトを採用した初代フィットのプラットファームをベースに、ホイールベースを100mm延長。後席および荷室に余裕のある空間が確保された。荷物の積み下ろしが容易にするためか低床だった。後席を倒す際は座面ごと下に沈んで荷室床をほぼ水平にでき、観葉植物等立てに入れて運ぶことも可能であった。ステーションワゴンとしての使い勝手はよかった。特長は、流麗な?フォルムと前席頭上から後席まで広がる「スカイルーフ」。今ではプジョー308やボルボV40の一部が継承してる。のか前からあったのかちょっと不明である。いつでも青空や星空が見え、開放感が味わえるようになっていた。スカイルーフは、プライバシーガラスと熱線吸収UVカットガラスの合わせガラスを採用。スカイルーフはガラス部分の面積が非常に大きいが、開口部を囲むフレームなどは閉断面化された。剛性および衝突安全性を確保している。但し春から夏の炎天下ではかなり暑かった印象がある。ちなみにメーカーの衝突実験においては50km/h以上で側面衝突を受けてもスカイルーフのガラスは1度も割れなかったそうだ。ドアミラーはデザイン上の理由から、S2000用のものが流用されていたとは驚きである。今思えばだから大きめだったのか?と思う。

搭載エンジン=ホンダ・L15A型 エンジン種類:水冷直列4気筒横置き 弁機構:SOHC チェーン駆動 吸気2 排気2 VTEC 最高出力:110PS/5,800rpm 最大トルク:14.6kgf·m/4,800rpm

総排気量:1,496cc 燃料供給装置形式:電子制御燃料噴射式(ホンダPGM-FI)

使用燃料種類:無鉛レギュラーガソリン 燃料タンク容量:42L この写真のクルマは5年で18万キロ走った。自分が乗ったクルマで最長である。全車にイモビライザーとアレルフリー脱臭フィルターを標準装備とした。2010年8月末・生産終了した。同時に、エアウェイブがベースとなっているライトバンのパートナーも生産終了となる。これにより、2011年6月にフィットシャトルが発売されるまでは、ホンダの5ナンバーステーションワゴンはストリームのみとなった。が、今ではそのストリームも消え、ジェイドとなっている。大幅に大きくなり価格も低価格の外車並みになった。に                                                                                                                                  コウジロウの独り言