1990年代のニッサン・サンタナとサンルーフの我が子の思い出!

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Photo by Kojiro

写真のサンタナは、ドイツのフォルクスワーゲンが生産する乗用車だった。自分が乗っていたボルボ850かベンツW124の代車として以前住んでいたマンションの駐車場に置かれていた。以前には自分は200台以上のクルマのハンドルを握ったことがあり、それでも代車で外車が来るととても楽しくてしょうがなかった。当時はスーパーカーでも数台しかないのですがコクピットに座るとすぐ運転ができる得意技を持っていた。度胸だけがあるのだ。左ハンドルの右マニュアルシフトの時だけ手こずるのだが、ほとんど平気でしたね。サンルーフから頭をだしていた我が子とともにクルマが被写体になっている。我が子も5〜6歳の頃だと思われます。このサンタナは1980年から1988年まで生産されていたフォルクスワーゲンの乗用車・パサートの姉妹車であり、同モデルのセダンに冠された名称である。「サンタナ」の名称はアメリカ南西部やメキシコで秋に強く吹く季節風サンタナの風」に由来。南アメリカや日本、中国市場において用いられたこの名前を使用したとある。パサートからの派生車種は様々な名称で販売されたのだそうだ。中国では現在まで製造・販売される「国民車」的存在となっており、ブラジルでも2006年まで製造・販売されていたのだそうだ。1980年に移行したパサートの第2世代ではワゴンとハッチバックだけとなった。その際に、セダン型の後継モデルとして新たに独立したモデルがこの「サンタナ」だったのだ。第2世代のパサートサンタナとは姉妹車の関係であり、いずれもアウディ・80(第2世代)とプラットフォームを共用していたのだった。縦置きエンジンを採用し、駆動方式は前輪駆動のみの中型4ドアセダンであった。日本では1984年から、日産自動車によって神奈川県座間市にあった日産自動車座間工場でノックダウン生産・販売されたのだった。1980年、当時積極的な国外展開戦略をとっていた日産自動車の社長石原俊氏は、フォルクスワーゲンとの全面提携を望んでいたそうで、その足掛かりとしてサンタナの製造・販売を提案したのだそうだ。翌1981年、証券会社の仲介によって同車のノックダウン生産に関する提携は成立したが、フォルクスワーゲンはそれ以上の業務提携拡大には関心を示さなかった。その後、日本におけるサンタナの販売は、当初合意された月産4,000-5,000台の計画に対して、生産を終了した1991年までの7年間の合計でも約5万台という不調に終わってしまい、両社の関係も後退してしまったのだそうだ。1990年に発売されたパサート(第3世代)は、当初日産によって取扱販売されたのだが、1991年、フォルクスワーゲンは、日本での販売に関してはトヨタ自動車と提携し日産との提携は解消されたのだそうだ。何かワーゲンもフラフラする拙僧ない企業のようにしか見えない。1990年 - 日産でのライセンス生産を終了。その後継車として3代目パサートを輸入し、サニー店系列とプリンス店系列で取り扱っていたが、1992年にはトヨタ系のDUOでのフォルクスワーゲンの販売が開始され、日産ディーラーでの販売は中止となった。思い出せば色々なディーラーが本八幡周辺にはできていた記憶がある。見た目3ナンバーのこのサンタナが5ナンバーだったとは忘れていた事実でもある。                    コウジロウの独り言