永平寺は、福井県の曹洞宗の寺院。

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Photo by Kojiro                              

永平寺とは、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山です。道元が開山とある。永平寺に着いたのは10月26日の午後。ややひんやりとした感が漂う。でも決して寒くはなかった。出家参禅の道場として名高く、敷地には山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司など修行の中心となる七堂伽藍の他にも、大小70余りの殿堂楼閣があると言われてます。室町時代天皇から「曹洞宗第1道場」の勅額を贈られたことから、その歴史は始まったとなってます。樹齢600年といわれる老杉など深い森に囲まれ、現在でも200名前後の雲水たちが、厳しい禅の修行を営んでいます。その木々達の写真は次回乞うご期待。樹齢600年の木々がどれとどれなのかは定かではありませんが、とにかくその木々に圧倒されました。管理をどうなさっているのだろう。この風景を見るだけでも来た価値はあったと思います。静かに建たずむこの空気感はなんといっていいのかわかりません。自分が高校時代に描いた油絵に出てくる木々にそっくりでした。歴史的には結構厳しい立場に置かれていた永平寺道元没後は、道元を福井へ招き入れた外護者の波多野氏の援助も弱まり、一時は廃寺寸前まで衰えたものの、5世義雲が復興させたのだそうです。1749年に再建された三門は、修行の際の入門口にあたり、四天王像が安置されています。とにもかくにも色々な方々がその関係性を作ってきたのでしょう。幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元はとても丈夫だったに違いない。

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道元はそして天童山景徳寺の如浄に入門し、修行にはげんだとある。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国したのだそうだ。日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。このパワーもどうやっても膣続けていたのか不思議なのである。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。それでもこんなに深い山に建てたのだから凄い。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」とある。長い歴史の産物「永平寺」は決して安易な発想で建てられた寺院ではないことは確かである。かつて入り口近くに大工村と言われる大工が常に常駐する村があった。火事で焼失した建造物や増築する際に70人くらいおり、すぐに建築できるようにシステム的に対処していたようである。だから素晴らしい建築ができているようである。人数確保は勿論、そのレベルの高い大工さんだったに違いないと確信している。帰る際に言われた「瓦の修理にご寄付を!一口千円です」とよっぽど参加しようと思ったのですが、靴を履くのに手こずりその場を去ってきた。ここを後に金沢駅に向かった。 (ウィキペデイアを参考に書かせていただきました)                    コウジロウの独り言