ドイツハイデルベルグは霧に包まれていた。

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Photo by Kojiro

写真はドイツにあるハイデルベルグ城。当時は西ドイツ。1974年に撮影したものです。1800年以前に画家やデザイナーらはすでに、この街の城址と山あいの川が織りなすアンサンブルを知っていたのだそうだ。その頂点をなすのが、好きな画家の一人イギリスの画家ウィリアム・ターナーである。彼は1817年から1844年の間に何度もハイデルベルクに滞在し、ハイデルベルクとその城を描いた作品を何点か制作した。イタリアのベニスは印象にあるのだが、彼とかその他のロマン派の画家達の作品は、細部に忠実な建築描写を行ったものではない。そのタ−ナーの描く空気感のような写真の中にクルマ達はいた。ビートルを除く両サイドについて簡単に説明してみましょう。違うと思われても仕方がないのですが、左は1966 Ford Taunus 20M P5。ボディスタイルはやや保守的となり、より一般受けするものとなったそうだ。エンジンは12M系のV型4気筒をベースに新開発された 1498cc・1699cc に加え、20M にはタウヌス初となるV型6気筒が用意され 1998cc から85 - 90馬力を発揮した。当初、このV6 20M には、オペル・レコルトの6気筒モデルに比べて1400マルクも安い7999マルクの戦略的な価格が設定され、西ドイツ国内で最も廉価な6気筒乗用車となった。ボディーバリエーションに2ドアハードトップカブリオレも登場し、二代目同様好調なセールスを維持した。四代目・P7系 (1967-1968年)機構的には三代目を踏襲したが、ボディスタイルをアメリカ車風に一新した。2台ともこれのようだ!トップモデルとして「20M 2.3(2293cc 108馬力 最高速170km/h)が追加された。このモデルチェンジは大失敗で、翌年にはフェーズ2としてビッグマイナーチェンジを行なわざるを得なくなった。改良版はP7.2と呼ばれ、フロントエンドが一新された。また、「タウヌス」の名称が外され、単に「フォード・20M」などと呼ばれた。左のクルマがこれかも知れません。エンジンバリエーションは17Mの1498cc60馬力(最高速度)から新登場の26M(4灯式ヘッドライトが特徴)のV6・2550cc 125馬力(180km/h)まで多岐にわたった。1972年にはモデルチェンジされ、コンサル・グラナダとして、英国フォードのゼファー・ゾディアックと統合された新型車に生まれ変わったので、P7.2は最後のドイツ・フォードの独自製品となった。タウヌスTC (1970–1976)[編集]1970年に再登場したタウヌスは前述の通り12M・15Mの後継車種として登場した2・4ドアセダン、2ドアクーペ、4ドアワゴンであったが、設計は英国式であった。これは1968年のエスコート、1969年のカプリに次ぐ英独一元化政策の産物で、フォード・コーティナ Mk III とはセダンのリアフェンダーとルーフラインが異なる(タウヌスはノッチバック、コーティナはセミファストバック)ことと、クーペがタウヌスにのみ設定されていたこと以外はほぼ同じ設計であった。ドイツのタウヌス愛好家たちにとっては後輪駆動、直列シリンダーエンジン、リジッドアクスルリアサスペンションのTCシリーズは1950年代への逆戻りに他ならず、彼らはTCシリーズを"Barock-Taunus"と呼んだそうだ。また、中央部が突出したノーズデザインは1960年代末にGM副社長からフォード社長にヘッドハントされながら一年余りで解任されたサイモン・ナッドセンの命令でデザインされたと言われ、"The Knudsen Nose"と呼ばれたのも正しいじじつである。とにもかくにもこの三台のうち残っているのはVWビートルしかない事はこれまた事実である。  コウジロウの独り言