ジェームズ・ディーン事故死と「ポルシェ・スパイダー550の呪い」

f:id:kohyusya:20180125164751j:plain

Photo by Kojiro

このクルマを有名にしたのはジェームス・ディーン。「ポルシェ・スパイダー550」でだった。550スパイダーは1954年、ポルシェ初の市販レーシングカーとして誕生した。エルンスト・フールマン博士の手によって生み出された”フールマン・エンジン”、 乾燥重量550kgのライトウェイト、ミッドシップ。重量の550kgから550スパイダーと名付けられたのだが。jポルシェ550スパイダーの公式デビューも1954年となる。その戦歴は輝かしかったらしい。同年、ミッレ・ミリアに初登場し、6位入賞。さらに、ル・マンで総合4位(クラス優勝)。この時のドライバーは、ボレンスキー/フランケンベルグであった。ほかにも、ブエノス・アイレス1,000km、ミッレ・ミリアなどでクラス優勝している。その魅力に憑かれた若者は数多かったようだ。別名、”フールマン・エンジン”と呼ばれた。1,498ccという小排気量ながらも各所に施された高度な機能によって110PS/6,200r.p.mを発生し、乾燥重量550kgという極めて軽い車両と相まり、最高速220km/h、0-100km/hは10秒以内と、驚くべき高性能を持っていたのだそうだ。1954年末より市販を開始。生産台数は約100台。その中で現存が確認されているのは世界中でわずか30台に過ぎない。永遠の英雄、ジェームス・ディーンもその1人であった。彼がこの世を去ったのは1955年の9月30日。自分が4歳の頃。カーレースが大好きだった彼はロサンジェルスからサリナス(カリフォルニア州エデンの東の主人公が住んでいた町と設定されていた)のレースに出場するため、愛車のポルシェ・スパイダー550で41号線を走らせた。そして、1955年9月30日の夕方、Y字路前方から走ってきたフォードと正面衝突して首の骨を折り、即死したそうだ。まだ24歳だった。事故後、彼が乗っていた「リトル・バスタード」と名付けられたポルシェ・スパイダー550(写真と同型)は呪われた車と噂された。何と八回も事故を起こすのだった。ジョージ・バリスがその残骸を買い取った。運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させたのが1回目。翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い、自分たちのレースカーに搭載したのだそうだ。2人が挑んだロスアンゼルスのポモナ・レースでは、その1人、スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中にタイヤが外れ、居合わせた警官に怪我を負わせたのが2回目。もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡したのが3回目。ジョージ・バリスが所有していたボディは、カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示され、各地にツアー参加。1959年、スパイダーボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり、崩れ落ちのが4回目。サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負ったのが5回目。数週間後にスパイダーはサリナスに送られ、途中運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡したのが6回目。そしてまたオークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させたのが7回目。なんと8回目になるのだが、オレゴンで運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させたこともあったそうだ。1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしたのだそうだ。此の輸送中、スパイダーの残骸は、忽然と消えてしまったのだそうだ。バリスは私立探偵まで雇って行方を探したが、未だに消息は掴めていないと言われている。文面をNETから一部引用させて頂いているのだが、つまりこのクルマには何か魔物が取り憑かれていて自分自身の意思があるがごとくでどこかに自分で消えていってしまっているのかもしれません。霊感等持ってない人たちに不吉な予感がするから中止する様に言われていたんも関わらず何故向かって行ってしまったのかいまだに謎となっているディーンの死?彼の事故にまつわる怪奇話はさておき、そのクルマが2003年のヒストリックカーフェスに来ていたのだった。写真がそれである。ただボンネットにあるべくところにマークのエンブレムそしてロゴが見えないのは何故なんでしょう?これもまた我々民衆にその顔を見せたくなかったのかも知れませんね?オーナーが?いやいやクルマ自身がですよ!                                         コウジロウの独り言