ポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトの回答はホノルルの駐車場にあった。

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写真は1980年代のハワイ・オアフ島のホノルル・モアナパークの駐車場。今はアラモアナ・市立公園と言うのかもしれない。大好きなアラモアナ・ショッピングセンタ−やアラモアナ・ホテルがある海岸だからなのか?モアナ・パークとは言わないのかも知れません。ワーゲンビートルの1960年代の物とそのころのバギータイプの写真である。塗装をするのか?わざと完成させていないのか全く解らない状態である。とにかくいづれ紹介する事もあろうかと思っていた写真。この当時ニッサン・サニーを1970年代のホノルルや西海岸ではセントラ(SENTRA)と呼んでいたのを思い出していた。現在ではシルフィーがその車種となっているらしいのだが。今や遠い友人になってしまった、当時アシスタントコーディネーターをしていたジミーに彼個人のクルマでちょっとしたドライブに連れて行ってもらった時が滑稽な想い出深い話になっている。彼のセントラ・セダンは助手席側のドアが落ちるのである。乗った時も両手で抑え、しばらく走るとガタガタ言ってくる。ましては、止まって、ドアを開けようとするとそのままドアが落ちてしまうのである。日本の車検では絶対通らないクルマを1970年代のハワイでは平気で乗ってたのである。撮影隊のクルマはダッチ・バン。そして撮影用として大型セダンのリンカーン等借りたりしてたので、いわばきれいなクルマ達だった。現地の人達が個人的に持つクルマは経済的にもガスの食わない日本車やワーゲンが好まれていたのは事実。トヨタカローラやホンダ・シビックは当然走り回っていた。ただ1970年頃は、やたらグレーのパテをしたままのクルマがハワイでは多く走っていたのは事実。下の写真は今でも残って売られているワーゲン・バギー。上の自分の写真のバギーに比べたら、遥かに完成されている素晴らしいクルマ達である。今、何を言いたいのか?自分で考えるのであるが、やはりワーゲン・ビートルは素晴らしいデザインのクルマなのだと言う事。自動車設計者フェルディナント・ポルシェによって1920年代以来長年にわたり希求されていた高性能小型大衆車のプランが、1933年にドイツ首相に就任したナチ党党首アドルフ・ヒトラーの大衆政策と相まってで開発が実現した。ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社のフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」(現ポルシェ)を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこなっていた。イタリアで言うカロッツェリアなのかも知れません。その過程で、ナチスの支援していたアウトウニオン・レーシングカーの設計にも携わった。イギリスやアメリカ合衆国の自動車メーカーも概して、フォルクスワーゲンの先進性を理解しなかったのだそうだ。このため1949年までには、フォルクスワーゲン工場が連合国側の接収対象から免れられた。アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。残っていたドイツ人労働者らの力で「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。フォルクスワーゲン車の本格的な量産はこの時から始まったらしい。1945年中に早くも1,785台を生産しているとのこと。こんな事実があるのだ。1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。最大の市場となったアメリカへの進出は1949年である。大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を可能に100km/h以上で高速道路を連続巡航できる大衆車、ポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進諸国におけるハイウェイ時代到来に適応したのである。アウトバーン整備推進とフォルクスワーゲン開発はあのヒトラーの施策で、戦後これを実効的に継承できたこと。後年まで成功となる数少ない事績の代表例となった。そしてこんな写真でハワイで紹介されるんですから、歴史を語る上でも何か滑稽でなりません。ビートルのビルトインした多様性のあるデザインが実証している。            コウジロウの独り言