初めは時計がなかった。札幌市時計台。

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Photo by Kojiro

礼文島富良野旭川を経由しやっと4人が共通の友人のいる札幌に着いた。思い起こせば、T美大の同級生の家にやっと到着し、一泊。次の日に時計台に到着した。この頃の「夜のすすき野」はリーゼントの男達が多かったのを覚えている。キャロルがデビューした頃である。やたら暑かった1972年の札幌の夏。ジンギスカン料理がおいしかったのを覚えている。この時計台、明治35年頃までは「農学校の大時計」と言われていたらしい。何時のころから時計台とよばれるようになったかはっきりしないそうです。当初完成したこの建物、演武場には時計塔はなく、授業の開始や終了を告げる小さな鐘楼が屋根の上にあっただけらしい。演武場の完成式に出席した黒田清隆開拓長官の指示で、塔時計の設置が決まったと言われています。1878年10月25日、ホイーラー教頭がアメリカ合衆国ニューヨーク市ハワード時計商会に塔時計を発注。1879年6月頃札幌に到着した時計機械が予想以上に大きかったため、鐘楼に設置できなかった。時計塔の設置には大がかりな改修と費用が必要なため、当時建築中の豊平館や他の建物に設置することも検討されたのだそうだ。ホイーラー教頭はそこで演武場に塔時計を置いて札幌の標準時刻とすることの大切さを力説。黒田長官を説得しましたのだそうだ。完成間もない演武場に時計塔を造り直して時計機械が据えつけられたのです。校地内の天文台(観象台)で天体観測を行い時刻調整を行ったのち、1881年8月12日、塔時計は澄んだ鐘の音とともに正しい時刻を札幌の住民に知らせ始めたのだそうだ。1878年10月16日 - 演武場(武芸練習場・屋内体育館)として建設され、札幌農学校敷地内で、1906年に移設されるまでは、現在の位置よりおよそ130m北東に位置していたのだそうだ。有島武郎の「星座」では「演武場の片隅にある時計台」とある。この作家は「カインの末裔」でも北海道の酷烈な自然とたたかいたくましく生き,隷従的な生き方の他の小作人たちとなじめない,農場主の権力にも打ち勝てずもせず,悲運も重なって,あてもなく農場を去る悲劇を描いたりもしている。開拓農場の隷従的な労働の実態もリアルに描き出している作家でもある。その中に札幌時計台を描いているのがなんと大切な建造物なのではないでしょうか?また高階哲夫は「時計台の鐘」を作詞作曲。前述の様に明治時代は「農学校の大時計」、又は「演武場の時計台」と言われたり、大正時代に「時計台」と呼ばれ、そして一般化されたそうです。かつては札幌市の図書館として使われていたこともあり、北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)と並んで、札幌市中心部の今や欠かせない観光スポットである。札幌市の象徴的建物でもある。また道外では札幌ラーメンの店の看板や北海道観光のポスターに多用されている。なんと北海道日本ハムファイターズの応援歌の歌詞にも使われているとも言うのだからその認知度は相当高い事がわかる。白い壁面が象徴色になってるが、1995年から実施された保存修理時の調査で、創建当初は壁が灰色、柱や窓枠が茶色に塗られていたことが判明したのだそうだ。緑色に壁が塗られていた時もあったそうなのだが、白の塗装となったのは1953年からである。今や壁の色は創建時の灰色に戻すことはせず、長年親しまれた白色としているのだそうだ。建設当初は大時計を設置せず、鐘楼に工部省東京工場製の鐘が吊るされていたと文献にあるのが信じられないくらいマッチした建造物は我々を幸せの道へ案内してくれそうである。                                                    コウジロウの独り言