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フィレンツェの大聖堂は時が設計者となった建造物。

この写真を撮影したのが今から43年前。この大聖堂の天辺まで上ったのが20年前。初めてこの大聖堂を見たときは中に入ることもせず、観光でフィレンツェを歩いただけだった。まさかその20年後にまた来るとは思っていなかった。現地では2回とも自由行動をとっていたのだが正式には3回目となる。20年前の訪問は家族全員で来たのだった。子供が5歳のとき時。フィレンツェでは2泊3日、イタリアだけの旅だった。ルネッサンスの発祥の地、フィレンツェ。花の都と呼ばれるのは、古代ローマ時代の地名・フロンティアが、”花が咲いた”という意味であることに由来するそうだ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。フェレンツェのシンボルとしてゴシック様式の教会のなかでは、世界第3位の規模を誇るらしい。今思えば、当時の映像は皆ビデオで押さえているのが多く、スチールは少なかった。したがって、記憶に薄いのである。フィレンツェと言えば自分はヴェッキオ橋が一番印象的だったヨーロッパもイタリアあ3回しか来ておらず、ドウモに上った記憶はあるのだが、どこのドオモだったか浅い記憶しか残ってない。600年もの歳月をかけて造り上げられたとされているこのフィレンツェの大聖堂は、まさにメディチ家が贅を尽くし栄華を極めた結晶そのもの。前のドゥオモ広場から見ると、その姿は圧巻。ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成されている。

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メディチは受験の為のデッサンのモチーフ。目けんにシワを寄せて神経質そうな顔をしてたのを思い浮かべた。この 大聖堂の天辺に登った。外を見るとフィレンツェの建造物の屋根はレンガ色。本当に美しかった。宗教色の濃い建造物は何故こんなにも美しいのか?街全体をも染めてしまう。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、石積み建築のドームとしては現在でも世界最大なのだそうだ。二重構造のドームで互いを押し合う設計になっており、木枠を使わずに煉瓦を積み上げて製作しているのは予算削減と耐久性を考慮してたからだそうだ。鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されているそうだ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、イタリア・ゴシック様式に仕上がっている。現在のドームは3代目。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っているそうだ。ピサやシエナの大聖堂建立に触発されて建設を開始。1294年、羊毛業組合は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼したのだった。多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があり不明瞭な部分があるらしい。その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実だそうだ。1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更したらしい。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。メディチ家トスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去したり、フィレンツェの都市計画の一環としてすすめていたりしたが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかったとのこと。石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。そんなことは言われなければ解らない。一人のアイデアですべて設計され、建設されていたかの用に美しい建造物。議会制民主主義であるはずのない当時から時がデザインして来た物と言えよう。

 

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コウジロウの独り言