鮒子田 寛氏を覚えていらっしいますか?数々の記録の持主であるということを

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この写真は、あのサバンナが72日本グランプリTS-bレースにRX3で出場し、1 - 3位まで表彰台を独占した後の風景。ワークスGTRを撃破した時皆が騒いでいた。次のメインレースのフォーミュラに乗ろうと対照的に静かにセットアップしている鮒子田氏。パドックからピットに向かう途中のスペース。当時の富士サーキットはこんなに閑散としていた。ご存じないかもしれませんが、あのチャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田氏なのである。F-1にフル参戦したドライバーは中嶋悟氏ではあるが。ホンダの契約ドライバーに1965年に抜擢され、F-1とは異なるがS600でレースに参加している。20歳の若さでトヨタ『チームトヨタ』のドライバーに1966年、故・福沢幸雄氏らとともにトヨタ2000GTにて72時間スピードトライアルに挑戦もしている。世界速度・国際速度記録を16も樹立。トヨタ1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍した。1968年以降はトヨタ7で日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。日本人で初めてF1やル・マン24時間レースに参戦、伝説の生沢徹氏や(サーキットのオオカミは池沢悟さんだったっけ?)サーキットの貴公子だった故・風戸裕氏(実家の近くの吉祥寺の水道道路に面した豪邸に住んでいた)などと並び、海外レースの挑戦ドライバーと評されている。同志社大学在学中の秋ごろから、同志社中学校からの友人・林みのる氏や横山靖史氏らとともにホンダ・S600を駆って鈴鹿サーキットでスポーツ走行を開始する。この頃、鈴鹿サーキットで浮谷東次郎氏と出会う。浮谷氏は、後に今自分が住んでいるザウススキ−場になる以前の船橋サーキットで活躍した。カラスとよばれる「ホンダS600」で活躍。この世を去ってしまうのは林氏個人所有の「ホンダS600」でこの世を去るのだが。鮒子田氏と浮谷氏の間にいたのが林氏である。鮒子田氏は翌1965年にホンダの契約ドライバーに抜擢され、S600でレースに参加。1966年に20歳の若さでトヨタの一軍チームである『チームトヨタ』のドライバーになり、福沢幸雄氏らとともにトヨタ2000GTで72時間スピードトライアルに挑戦、計16の世界速度・国際速度記録を樹立。その後、1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍。1968年以降は3リッター、5リッターのトヨタ7で日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。1970年にトヨタワークスを離脱、アメリカに渡りフォーミュラAレース(F5000に相当)に参戦。翌1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦するが、車両トラブルによる事故で重傷を負い帰国。1972年から富士グランチャンピオンレース(富士GC)に参戦し、同年の年間チャンピオンになる。以後は富士GCなどの国内レースを中心に活動するが、海外レースにも参戦した。「その昔、誰よりも速く、そして誰よりも早く世界を駆け抜けた日本人ドライバーたちがいたことをご存知だろうか」その中の一人、「彼の名は “鮒子田 寛”」という。 鮒子田 寛氏は、誰よりも速く、さらに「耐久レースにめっぽう強く、」夢は、アメリカン・レースの最高峰である「インディ500マイルレース」に出場することであった。というフレーズまで飛び出していた。その位レースに集中してたのである。1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでそれでF1の決勝出場の記録は残していない。1974年、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのも鮒子田氏であったらしい。また1973年には生沢徹氏とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダRX-7)と計3回チャレンジしたが、いずれもマシントラブルで完走は残念ながらしていない。 1981年いっぱいで現役を引退している。2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。日本の自動車工業界に大きく活躍してる。一枚の写真から当時から現在を生きる人々へのノスタルジーを自分の記憶とともに歩む、コウジロウの独り言。間違った記述があったら教えてください    SeeYou!

 

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