1969年。D51515が東西線乗り入れの前の線路を固めていた。

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Photo by Kojiro

まさかあの時のD51が今でも水戸にいるとは思わなかった。調べてみると、この車両の製造年から入ることができた。東西線は1969年(昭和44年3月29日 東陽町 - 西船橋間 (15.0km) 開業(全線開業)、快速運転開始。追って4月8日 中央本線への乗り入れ区間三鷹駅まで延長、国鉄総武本線津田沼駅までへも乗り入れ開始をしたのでした。なお、1972年7月の総武快速線開業までは夏期臨時ダイヤ(いわゆる「房総夏ダイヤ」)期間中は乗り入れを中止していたのが事実でした。その前の1969年1月から3月くらいだったのであろうか?このD51515が走ってきたのである。当然、柵もちゃんと出来ていなかったと思い出してるとこだが、このD51515にイージーにさわることが出来たのです。今回写真にしてお見せできないのですが操舵席にも入れてくれたのです。驚くことに、東西線の1979年(昭和54年)10月1日に 西葛西駅開業。そして1981年(昭和56年)3月27日 に南行徳駅開業。だったなんて信じられませんね?今や当たり前にある駅のように感じていますね?このD51515は大宮工場(10両):D51 506 - 515(製造番号19 - 28)で作られた物。まるで蒸気でピストンを動かしているので生きたようにも見えるのだが?だから愛着が湧くのであるが!昭和16年に埼玉県大宮市(現さいたま市)大宮工場で製造されたD51515は,昭和23年7月に水戸機関区の所属となり,昭和33年2月に大宮機関区へ転出するまで,常磐線の貨物列車として活躍をしていたそうだ。大宮機関区に転出した後も,D51515は大宮操車場と水戸間に充てられ,水戸でもその元気な姿を見ることができました。しかし,昭和34年に入ると国鉄本社内に近代化委員会が発足し,電化・気動車化が進められ,蒸気機関車(SL)廃止に向けての具体的な動きがありました。年々減っていく蒸気機関車でしたが,昭和45年3月25日の時刻改正に伴い,水戸機関区のSLは全廃となってしまいました。消え行くSLを憂い,全国で保存に向けての気運が高まり,昭和45年には平塚市が貸付SL第1号の承認を得たそうです。そして水戸市においても当時の国鉄に要望し,貸付が実現する運びとなり,昭和46年8月18日に現在の場所に展示され,SLファンのみならず多くの方々に愛され続け、現在に至るそうです。千波公園にあるD51515-デゴイチは「デゴイチを守る会」という会員数約65名のメンバーによって守られ続けているそうだ。そこへ運ばれる直前の訪問だっただろうか?線路横にあった我が家の庭のような場所に突然現れたD51515。その機関士が素晴らしかったのか?公の国鉄に許可も得てなかったと思われるのだが?僕らを運転席まで乗せてくれていた。夢を見ているみたいだった。「D51515の向こう側には出ないでくださいね!」と言われ続けていたのが印象に脳裏にのこっている。 f:id:kohyusya:20190716182615j:plain

千波公園のデゴイチデゴイチを守る会の写真を使わせていただいております。 コウジロウの独り言

エトワール凱旋門はシトエンDSとのマッチングが絵になる!

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Photo by Kojiro

エトワール凱旋門」は、「アウステルリッツの戦い」に勝利した記念に1806年、「ナポレオン・ボナパルト」の命によって建設が始まった。「ルイ・フィリップ」の7月王政時代の1836年に完成したのだそうだ。建設中には様々な権力闘争の影響を受けた。そしてナポレオンは凱旋門が完成する前に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時だったとある。ナポレオンは哀れである。その後1885年のヴィクトル・ユーゴー国葬における遺体安置、あるいは1919年7月14日の第一次世界大戦の同盟国の勝利のパレードなど、国家の歴史的な出来事を執り行う場所として活用されたそうだ。エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓や、多くの祈念のプレートが埋め込まれ、フランスの為に亡くなった兵士たちを祈念しているのだそうだ。そんなこととは全くこの写真の1974年頃は知らなかった。雪降るサンジェルマン通りからの風景。クルマに目をやってください。シトロエンDSです。「異次元の自動車」とうわさのたったクルマ。当時としては極めて先進的・前衛的な空力デザインと、油圧動力による一種のエア・サスペンション機構を中心に統括制御する「ハイドロニューマチック・システム」Hydropneumatic System を搭載した特異なメカニズム構成で知られる。自分が乗っていたBX16バルブも同じで、車検まで持たせない窒素ガスの玉やLHMオイルの管理が大変だった気がする。DSは1955年10月5日、フランス最大のモーター・ショーであるパリ・サロンで発表された。ライバルのプジョーが小型車ばっかリだったのもあってド・ゴール大統領以下政府首脳の公用車にも広く用いられたのも記憶に新しい。このクルマは1955年、そして1957年まで生産されるロングセラーとなる。主任設計者は、ヴォワザン社出身の元航空技術者アンドレ・ルフェーブルAndré Lefèbvre(1894年-1964年)である。前輪駆動のほか、モノコック構造やトーションバーによる独立懸架機構などの先進的なメカニズムを多数導入したのだった。ボディデザインを手がけたのは、シトロエンの社内デザイナーで、トラクシオン・アヴァンや2CVのデザインも手がけたイタリア人のフラミニオ・ベルトーニである。やはりイタリア人っかと思われます。フロントガラスとAピラーの関係は本当に未来カーを連想させます。古き良き建造物と未来の乗り物。だから写真が絵になるのですね!ちょっと疑問なのは何故こんな場所に自分が立っていたのでしょうかね? f:id:kohyusya:20190705192102j:plain 写真は1974年当時の筆者、何故か自分です。 Photo by Masatomo

コウジロウの独り言

若さとパワーの象徴だった。ケンとメリーのスカイライン2000GTXと浅間高原の別荘。

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Photo by Kojiro

ここで前にも述べていた「ケンメリスカイラインGTX」の登場。1972年登場の4代目スカイライン・C110系は、ボディサイズを拡大、直線的なボンネットと丸みを帯びた流麗なスタイリングになるのですがリアフェンダーに走るブレスライン「サーフィンライン」が素晴らしい洗練された形で登場しスカイラインアイデンティティとして確立したのだった。写真は1974年の夏。生みの親の桜井慎一郎氏が嫌ったとしても僕自身はとてつもなく洗練されたスタイリングだと今でも思っている。トランクスルーのビルトインされたスキー板がトランクから飛び出てくる肘掛やリヤシートのヘッドクリアランスはセリカXXと比較しても素晴らしいものがあった。それでこのデザインなのだから。「愛のスカイライン]の2ドアも後席はかなり狭かった記憶がある。広告では前作の「愛のスカイライン」の延長として展開された「ケンとメリーのスカイライン」が楽曲も爆発的ヒットを記録し、「ケンメリ」の愛称で呼ばれるようになった。Buzzが歌う「ケンとメリー~愛と風のように」がシングルヒット、「ケンとメリー」のロゴ入りTシャツが何十万着も飛ぶように売れたそうだ。CMに登場した北海道のポプラの木が観光スポット化され、一種の社会現象に至ったことで記憶されている。この熱狂の中、通称「ケンメリ」は77年夏までの約5年間で、スカイライン過去最高の累計66万台の販売を記録したそうだ。この写真のシチュエーションの説明をしよう。浅間高原の貸別荘である。多分当時のジャパンタイムズのサムとT女史。AL時代のコピーライター夫妻と自分の5人と黒猫の5+1乗りで鬼押出しの入り口の別荘を借りてくれていたのだ。この当時は軽井沢が大好きで毎年夏休みになるときていた。日帰りも多かったのだがこの次の年も浅間の麓の別荘に泊まっていたのだ。いうならば別荘乞食なのだ。軽井沢プリンスにも何回かは利用させていただいてはいたものの、転々と人の別荘におじゃまし、布団代も払わず失敬する、極まりない人間だったようである。この写真はそこから旧軽のJ美大の寮からその女性たちをピックアップしに行くところ。彼女たちはなぜか軽井沢の別荘たるやどんなところが見たいと思ってなのか積極的に訪問してきたのだ。当然ナンパしたわけではなく、AL化粧品の宣伝の同期のデザイナーがいたからで、真面目にエンジョイしたのだった。ただ迎えに行く道中が面白いドライビングスポットだった。マニュアルシフトのセカンド・サードとヒル&ツーで白糸の滝コースをドリフトで駆け下り、また登ってくるの繰り返しで楽しめた。j美大のOB逹は5〜6名いたのか一回では運べず、何往復かした。ノーマルタイヤとスチールホイールでターボではなかったのだが当時は未舗装のなぜか木漏れ日がある日はカラッとし、ちょっとウェットな日は土が閉まる最高な道で、楽しいドライビングだった。今や白糸の滝周辺でクルマの駐車スペースができスピードだして通過すらできなくなっている。全舗装の道の有料道路に化しているのだが当時は夕方になると料金所がしまってた気がする。あの素晴らしい夏休みを今一度僕にください。なんちゃって失礼します。                                  コウジロウの独り言

『界KAI 加賀 星野リゾートの獅子舞』

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Photo by Kojiro                              

昨年の10月に訪れこのブログにも載せさせていただいた、『界KAI 加賀 星野リゾート』。我々・家族3人は兼六園・21世紀美術館・西茶屋を後にすると『界KAI 加賀 星野リゾート』石川県にある加賀伝統の温泉宿に到着。石川県加賀市山代温泉野中に『界KAI 加賀 星野リゾート』である。最近ではこの星野リゾート系の宿泊施設を何回か利用せていただいていると書かせていただいていたのだが。ここのところもう半年にもたつのに次がない。そんな時、ふと一枚の写真が出てきた。獅子舞の獅子のかぶりものである。(かぶりものなんていっていいんですかね?)『界KAI 加賀 星野リゾート』での和洋折衷のフルコースの夕食が終わった頃、ロビーで催される加賀百万石の勇壮華麗な武家文化を象徴する加賀獅子舞があったのです。界 加賀のご当地楽では、加賀獅子舞を独自にアレンジした「白銀の舞」を披露してくれていたのです。ご当地楽とは全国に展開している温泉旅館ブランド「星野リゾート 界」がそれぞれの地域の特長的な文化を楽しんでいただけるよう、界オリジナルの特別なおもてなし「ご当地楽」を用意しているのだそうです。加賀百万石の世界にふれるご当地楽 加賀地方では、初代加賀藩主の前田利家金沢城に入城した際、祝いの獅子舞が盛大に行われたことから、民俗芸能として発展してきたのだそうだ。加賀獅子の特徴は、迫力ある獅子頭と大きな蚊帳(かや)。大きな両眼が鋭く左右に広がった「八方睨(はっぽうにらみ)」と呼ばれる独特の風貌なのだそうだ。一度見たら忘れられないほどのインパクトであることは確かなことだった。「ガパっ」て音が暗闇から聞こえてきて、後ろの方に座っていた我々の横から勇壮華麗な「白銀の舞」の獅子の登場である。まるでわからなかった自分たちは「ハっと」びっくりするだけで恐怖さえ感じたほど。その二人の舞さばきはとても素晴らしかった。勇壮な武家文化の伝統はそのままに、新しくて独創的な加賀獅子舞「白銀の舞」を毎晩披露してるようです。「白銀」の名は、界 加賀の前身である老舗旅館「白銀屋」に由来してるそうです。創業寛永元年、加賀藩にも縁の深い白銀屋の伝統も大切にしながら、スタッフは、心を込めて演じているようでした。紅殻格子(べんがらごうし)の風情ある伝統建築をエクステリアを持つ一階のロビーで伝統芸を演出する様は、何かとても新鮮でした。紅殻格子(べんがらごうし)は、京都や⾦沢の町屋の外観をしつらえる重要な要素なのだそうです。細かな⽊を縦と横に組み合わせ、中からはよく⾒えますが外からは容易に⾒えないようにする、防犯上の機能も有しているそうです。そんな中で演じていた獅子たちの中から最後に顔を表してくれあのは、とても可愛い美人たちだったことを追記しておきます。そんなシチュエーションだからなのかこの写真の獅子は何か崇高なイメージを持たされるのは私だけなのでしょうか?さりげなく翌日置かれていた場所にライトが自然に差し込んでいたのは心に共鳴さえも感じた。 コウジロウの独り言    

ノートルダムではなく写真のピエタ像はサン・ピエトロ寺院のミケランジェロのものだった。

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Photo by Kojiro

イタリアの芸術家・ミケランジェロ(1475年 - 1564年)が「ピエタ」(Pietà、慈悲などの意)を制作したのは4体の彫刻作品だったとあります。ピエタは聖母子像であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡き骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフにした宗教画や彫刻などのこととされている。ミケランジェロが制作した4作品もあったのですが、完成したのは『サン・ピエトロのピエタ』のみだそうだ。『フィレンツェピエタ』(1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)は未完成。『パレストリーナピエタ』(1555年? - フィレンツェ、アカデミア美術館)も未完成。『ロンダニーニのピエタ』(1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館)も未完成とされている。この3体は見たことはない。『サン・ピエトロ大聖堂ピエタ』は、他の芸術家によっても同じ題材で数多く作られたピエタと比較しても肩を並べる傑作であり、これによってミケランジェロの名声は確立されたそうだ。ノートルダムピエタ像は自分のファイルにはなくサン・ピエトロ寺院ミケランジェロのものだった。自分がパリには2回。イタリアには3回旅行に来ているのだが、最終のイタリア旅行でさえ20数年前。ましてや最初の2回のヨーロッパツアーはパリにもローマにも立ち寄っているのである。だからなのか大聖堂の中の情景はごっちゃになってる記憶しかない。

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ノートルダムピエタ像 :Photo by RAKUTEN Blog

ノートルダム大聖堂ピエタは、1715年クストゥーという彫刻家が制作。クストゥー:Coustou, Nicolas。生まれは1658.1.9. リヨン。亡くなったのは1733.5.1. パリでとある。当然フランスブ人。タニカ国際大百科辞典によると、「フランスの彫刻家。著名な彫刻家の家系に属し,C.フランソアの子,A.コアズボーの甥,ギヨーム・クストゥーの兄。父と叔父に学んだあとパリに出て,1682年ローマ賞を獲得し翌年ローマに留学。帰国後ベルサイユ,トリアノン宮の王立工房,およびマルリで制作。弟のギヨームとの共作が多く,もつぱら大理石を用いて記念碑的彫刻を制作。主要作品はマルリの『矢筒を持つニンフ』,および『鳩とビーナス』 (チュイルリー宮殿) ,『狩りに憩うアドニス』 (ルーブル美術館)」ノートルダムのその表現は?というと、聖母マリアが天に向かって大きく両腕を大きく広げ、派手に嘆き悲しむ動の表現をしてるとある。表情は苦痛にゆがみ?“(神の子としての)キリスト”と“(聖母としての)マリア”というよりは、自分の子供の理不尽な死を嘆く母の悲しみという印象が強いかもしれないと記されている。ノートルダム寺院が燃えたのは、前のブログでもご紹介したのですが、正直ノートルダムピエタ像を見たのか否か、あまり記憶がない。ステンドグラスはよく覚えているのだが、ビデオで押さえた記憶はあるのですが、スチールでの証拠が残っていない。ピエタというのは、「哀れみ」や「信仰」を表すラテン語から生まれた。イタリア語宗教芸術でピエタといえば、十字架にかけられ、人の罪を贖い現世での死を迎えたイエス・キリストの身体を、母である聖母マリアが膝に抱き嘆く場面のことを指すらしい。最も有名な彫刻は、やはりミケランジェロピエタだと思います。サン・ピエトロ寺院に入って右手前に通称「ピエタ礼拝堂」がある。正式にはクロチフィッソ(磔刑像)礼拝堂というらしいのですが、ミケランジェロの『ピエタ像』が安置されたことからこう呼ばれているそうです。ご覧のように当時からガラスバリで近くに寄ることすらできない。1972年にはトルコ人精神病者がハンマーを打ち付ける事件が起き、それ以来防弾ガラスが据えられているのだそうだ。初めて見たときは1974年なのでもうガラスが囲ってたのでしょう。この写真が初めてのときのもの。ミケジャンジェロが同じ題材で作った3つのうち、最も有名なのが一つ目に作られたもの。聖母が悲しげにうつむきキリストを見つめている、静の表現がとても綺麗なのである。ミケランジェロとクストゥー、どちらのピエタが好き?と言われれば自分はミケランジェロの方が好きであると言えるのですが、最近まで両方ともミケランジェロと思っていた。けれど、クストゥーのピエタは人間味があって強く印象に残る彫刻とも言われている。神の子を産んで聖母だと崇め奉られているマリアも、聖母である前に一人の母であることはじじつだとおもわれますが。母が子をなくす喪失感を表せば、こう表現されてもしょうがない。フランスとイタリア両方の大聖堂にあったピエタ。ほとんど同時期に制作され現に残っている。イタリアのサン・ピエトロ大聖堂こそ石だけでできていると思います。大聖堂のてっぺんまで我が5歳の子供と妻の3人で20年前に登ったのですから。石だらけの階段だったので燃えることはないと思われますが、絶対に永久に保存しつづけて欲しいものです。                  コウジロウの独り言

THE ミニ4駆。実物大の「エアロ アバンテ」

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Photo by Kojiro

これは昨年5月に地元船橋ビビット・スクエアに登場した実物大ミニ4駆。「エアロ・アバンテ」である。最高速度は実写データで180km/h! 動力源は、あえてガソリンエンジンがチョイスされているそうで、電池で動く「ミニ四駆」なのだから、EV(電気自動車)が良いのでは?」という意見もあったらしいのですが、「ミニ四駆」そのものが本物のレーシングカーを模型化したものなので、ガソリンエンジンにこだわったとある。また、疾走時におけるサウンドの迫力も考慮したといわれてます。このホイールといい前のリングといい、本物が実現したのでした。この夢が2015年10月18日(日)のことだったそうです。それから3年経って自分は見ることができたという訳です。ミニ4駆は手頃な価格とラインナップの多さ、そして競技性の高さから、1980年代後半と1990年代後半には社会現象的なブームにまでなり、乾電池で動くプラスチックモデルで素晴らしい人気ぶりでした。我が子も小学校・低学年までレールまで家に買い揃えやっていた。チューンナップをし、甥っ子たちと競い合っていたのがついこのあいだの出来事のよう。メカニックボックスも持っていて数々の歯車やタイヤがあったのを覚えている。現在では「最小モータースポーツ」とまで呼ばれているほか、20~30代や親子層を中心に人気が再燃してるそうです。同じビビットスクエアではブックオフで常にサーキツトが用意されて親子連れで楽しまれている。異なる場所になるのだが、大人も楽める「ミニ四駆バー」なるものまで誕生してるそうです。レーシングカーのプロが製作、最高速度は180km/h!に達するそうです。今や世の中のクルマの性能が良くなりすぎてるせいか、あまり驚きもしないのですが、忠実におもちゃを再現したのですから、面白いのです。ボディデザインは、130車種以上ある「ミニ四駆」シリーズのなかでも高い人気を誇る「エアロ アバンテ」仕様だそうで、その複雑な形状をFRPとカーボンファイバーで忠実に再現し、ウレタン塗装で仕上げているとのこと。(風防)は、バキュームのポリカーボネート製です。製作期間は6ヶ月。 完成度は高かった。                                            コウジロウの独り言

HIGH ON OURS!は永遠に。

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写真の「HIGH ON OURS!」は今から30年ぐらい前に、「AL-COSMETICS」に在籍してた頃のAD-セクショングループ展のタイトルイメージポスターの一部。最近出てきた写真。この文面の最後にエンパイヤーステートビルの夜景の写真紙焼きを用いたポスターを紹介するのだが。なぜ今このイメージを紹介したかというと、今一度、自分たちのやっている仕事や遊びが通り一遍の一枚のタブローになってないかということなのです。ちょうどニューヨークロケに行かしていただいたこの頃、ニューヨークの「BOOKSTORE」で一冊の本を見つけた。「HIGH ON NEWYORK!」というニューヨークの高層ビルを全て上から見た写真で構成されたものである。自分がニューヨークに滞在してたとき、上を見上げることはあっても上から見たことはなかったのです。当時はスモッグなのか霧なのかケネディ空港について一人でペンステーション駅ののホテルに着くまでそれこそ摩天楼たちが霧と雲に囲まれていたのだ。「ブルックリンブリッジ」からのその光景はかなり幻想的だった。今でもその風景は頭から離れない。「視点を変えること」それをテーマに展覧会を開きカメラマン、彫刻家、外部スタッフをも集めて客観視をテーマに開催した。ジャズバンドを入れ音の流れる中、自分達の作品を見てもらうそんな集いだった。会社も後に公認してくれた。ケータリングの費用は持ってくれたが会場費用や制作印刷物のお礼とか所場代が掛かったのは事実です。この時にも感じていたのですが、関係性はあまり重要ではなく個人が大切な心情であることを感じた。 現代人たちはあまりも自分よがりだと思っているのです。自分がよければ全ていい。携帯電話がスマフォと呼ばれるようになって、皆が下を向いてラインを見たりWeb をみている。ニュ−スを見てる方々はまだマシなのでしょうが、「主観で自分の好きなものを見ている」「客観視してない」のです。そう、ほとんどの人たちが自分は絶対的に正しい。と決めて生きている。前の集団も同じだったのです。それぞれが身勝手で、表現をし規定に対して逆らおうとしていたのです。自分がリーダーシップをとってやったこと。それは自分たちを「客観視すること」だったのです。作品を作りたいと言ってる人たちに出資しT印刷の方々にも協力を頂き、横浜のアートスクールの展示場を借り実行した。自分は数十万円の出資をした事実が残っているのだが。一つの波にできなかったのは自分の実力のなさなのであるのだが。兎にも角にももっと「客観視していられる世の中に」して行こうではありませんか?座席に座った人たちが皆スマフォを見てる社会は何かおかしいですよ!ポスターの文面は人とのやりとりを感情込めて書き上げたものです。 If it weren't for your beautiful letters.each day would seen like an hour.But just when I cannot live another minute without you,a letter comes. Immediately it seems that you're in the room with me. I hear the Rhapsody of yourbeloved voice saying you love me. and Ifeel I am the luckiest man in the world.とこの文面とこのタイトルでRhapsody in Newyork.と言うポスターを5種類も印刷して制作させてもらってます。ただ自分の部屋の片隅に埋まってるのが少し残念ですけどね!

コウジロウの独り言

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Art Direction & Photo by Kojiro