A HAPPY NEW YEAR.WAKE UP YOUR EYES. MASERATI GHIBLI.

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Photo by Kojiro

あけましてとばかりリトラクタブル・ヘッドライトの4ツ目を開いているのはマセラテイ・ギブリ。デザインはジョルジェット・ジウジアローによるスーパーカー。当然カロッツェリア・ギア時代の作品。1966年に発表された。スタイリングは、鋼管フレームにスチールボディを被せた当時の高級スポーツカーに共通して見られる地を這うような背の低いプロポーションだった。写真は金町の当時のオーナーの方の庭での一コマ。当然ロングノーズ、ショートデッキ、ファストバックスタイル(リアハッチはリアガラス下のパネルが開くのみ)で、マセラティとしては初のリトラクタブル・ヘッドライトを採用していた。後、何台かはこのスタイルをとっていたのだが、性能と当時のスーパーカーがそうであったようにミッドシップになっていった。時のライバル車、フェラーリデイトナだけがフロントエンジンのロングノーズとバランスはこのクルマと近かった。当時人気のあったランボルギーニミウラと比較して直線的、平面的に見えるが、エッジと曲面とが使い分けられているのがとっても美しかった。当時のジウジアローデザインはウェッジシェイプ志向がよく現れていたとされており、このギブリはジウジアローの代表作ともなっている。乗車定員は2名であり、とあるのだが本当のエマージェンシー用だと思うのですが横向きにプラスチックファイバーの椅子が後ろにあり、写真のクルマはちょっとそこまでであれば、首を曲げなけばならないが3名乗車が可能であった。インテリアにはレザーが多用されていた。車高の低さから見ると車内が狭く感じられるのですが、最低地上高が低いからなのか、ヘッドクリアランスは今のボルボV40よりも広かった気がします。 f:id:kohyusya:20190109134033j:plain

Photo by Kojiro

トランスミッションは5速MT、オプションで3速ATが選べた。と書かれていたのだが、このクルマは3速AT。当時マニュアル派だった自分が左ハンドルの外車を運転できたのはこのノークラだったからなのである。幅2メートル近くあったと思うのだがボディサイズは全長4,690mm×全幅1,800mm×全高1,160mmと今のボルボV40と長さのみでそんなに変わらない。ちなみにボルボV40は全長4,370mm×全幅1,800mm×全高1,440mmとなっており、ボルボV40も低いと思っていたのだが、このギブリが30cmもボルボV40より低いのには驚いた。写真のケン・メリGT-X・2ドアクーペと比較するとよくお解りかもしれません。コクピットはお借りした写真ですが、各メーターが小さいせいか室内が広く見えるのはお解りできるでしょ。出力330PSの4.7L V型8気筒エンジンを前方に積むFRレイアウトで、0-60mph加速は6.8秒、最高速度は265km/hであった。当時は世界最速、人気ともにフェラーリデイトナランボルギーニミウラP400と争った、リッターあたり4kmぐらいしか走らな買った記憶があり、当時のアメ車と同じ位だった。マセラティのヒット作である。総計1,274台が生産された。とあるのだがそのうちノークラがなん台だったのだろう?1200分の1の確率の車に乗って前に述べたように江ノ島に行けたのは夢だったのでしょうか?年をとってからの初夢としたいものだ?

コウジロウの独り言

1990年代のニッサン・サンタナとサンルーフの我が子の思い出!

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Photo by Kojiro

写真のサンタナは、ドイツのフォルクスワーゲンが生産する乗用車だった。自分が乗っていたボルボ850かベンツW124の代車として以前住んでいたマンションの駐車場に置かれていた。以前には自分は200台以上のクルマのハンドルを握ったことがあり、それでも代車で外車が来るととても楽しくてしょうがなかった。当時はスーパーカーでも数台しかないのですがコクピットに座るとすぐ運転ができる得意技を持っていた。度胸だけがあるのだ。左ハンドルの右マニュアルシフトの時だけ手こずるのだが、ほとんど平気でしたね。サンルーフから頭をだしていた我が子とともにクルマが被写体になっている。我が子も5〜6歳の頃だと思われます。このサンタナは1980年から1988年まで生産されていたフォルクスワーゲンの乗用車・パサートの姉妹車であり、同モデルのセダンに冠された名称である。「サンタナ」の名称はアメリカ南西部やメキシコで秋に強く吹く季節風サンタナの風」に由来。南アメリカや日本、中国市場において用いられたこの名前を使用したとある。パサートからの派生車種は様々な名称で販売されたのだそうだ。中国では現在まで製造・販売される「国民車」的存在となっており、ブラジルでも2006年まで製造・販売されていたのだそうだ。1980年に移行したパサートの第2世代ではワゴンとハッチバックだけとなった。その際に、セダン型の後継モデルとして新たに独立したモデルがこの「サンタナ」だったのだ。第2世代のパサートサンタナとは姉妹車の関係であり、いずれもアウディ・80(第2世代)とプラットフォームを共用していたのだった。縦置きエンジンを採用し、駆動方式は前輪駆動のみの中型4ドアセダンであった。日本では1984年から、日産自動車によって神奈川県座間市にあった日産自動車座間工場でノックダウン生産・販売されたのだった。1980年、当時積極的な国外展開戦略をとっていた日産自動車の社長石原俊氏は、フォルクスワーゲンとの全面提携を望んでいたそうで、その足掛かりとしてサンタナの製造・販売を提案したのだそうだ。翌1981年、証券会社の仲介によって同車のノックダウン生産に関する提携は成立したが、フォルクスワーゲンはそれ以上の業務提携拡大には関心を示さなかった。その後、日本におけるサンタナの販売は、当初合意された月産4,000-5,000台の計画に対して、生産を終了した1991年までの7年間の合計でも約5万台という不調に終わってしまい、両社の関係も後退してしまったのだそうだ。1990年に発売されたパサート(第3世代)は、当初日産によって取扱販売されたのだが、1991年、フォルクスワーゲンは、日本での販売に関してはトヨタ自動車と提携し日産との提携は解消されたのだそうだ。何かワーゲンもフラフラする拙僧ない企業のようにしか見えない。1990年 - 日産でのライセンス生産を終了。その後継車として3代目パサートを輸入し、サニー店系列とプリンス店系列で取り扱っていたが、1992年にはトヨタ系のDUOでのフォルクスワーゲンの販売が開始され、日産ディーラーでの販売は中止となった。思い出せば色々なディーラーが本八幡周辺にはできていた記憶がある。見た目3ナンバーのこのサンタナが5ナンバーだったとは忘れていた事実でもある。                    コウジロウの独り言

Modulo style Honda SENSINGとは程遠いフィット13Gだが以外と走りは良かった。

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金沢と福井を観光するために。駅レンタカーを借りた。今まで自分はちょっとした旅行でも旅行代理店に依頼してパックとオプショナルツアーの組み合わせなどで自分流でアレンジしてくことが多かったのですが、今回は「JRのびゅうパック」で申し込みをし、ホテルと新幹線代とレンタカー代のセットの見積もりをJRの窓口で見積もってもらい実行した。そのレンタカーで来たクルマがこの「フィット」だった。細かいキズはあるものの外観は2013年製そのものだった。動力性能を挙げてみると次の通りになる 新車当時時価格(税込み)130.1万円 型式・駆動方式FF・DBA-GK3’・ボディタイプ=ハッチバック・ハンドル位置=右ハンドル・FF・5人乗・燃費26.00とカタログ記載・総排気量1317・サイズ=3955×1695×1525・トランスミッションCVTJC・08モード燃費24.6km/L燃費は両方書かれてるが、実際には測っていない。そうとう走ったと思う。ヨーロッパは3回行っているんですが、3回ともハスで回っていた。当然飛行機とバスになるのであるが、家族では一回だけイタリアにバスで回った。JALバスでそのソファとか乗りご心地はよかつたのですが、それにくらべると乗り心地は良かったとは言えませんね。特に自分は運転もせず、助手席どころか運転も一回もせず、後ろの席でふんずり返っていたからであるのだが。最近仕事では乗ってないせいか、毎日仕事で運転をしている息子に任せていた。なぜ後席のリクライニングがないのか?自分の乗っている廉価版のボルボV40-T4もないのですが、アルファード等ラグジャリーなワンボックスワゴンや会社の何種かは付いていた。一番必要なのがこのコンパクトシリーズではないでしょうか?どうせ後ろはトランクスペース。シートそのものは動かせなくても背もたれだけでも動かせたらいいのに!と思う。ただこのサイズ感は最高である。この高級グレードは最高なのではないのか?MODULOスタイルは?ただ230万円と思うとこの車より100万も高いの?ちょっと考えてしまいますよね?それにまた150万円足せばボルボが買えてしまうのですから!考えてしまいますね?                コウジロウの独り言

金沢甘味どころ「かわむら茶房」

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2018年10月25日(木曜日)午後には金沢の「甘納豆かわむら」にいた。「甘納豆かわむら」は花街の「にし茶屋街」にあった。当初はエリアの周囲に塀が張り巡らされ、一般社会と遮断された「廓(くるわ)」が形成されてたそうだ。「かわむら」に行きたかった訳ではなく、昼終わって兼六園の後にデザートでもという感覚でクルマで向かった。「ひがし茶屋」でも良かったのであるのだが、『星野リゾート 「界 加賀」』に向かうにはには「にし茶屋街」が都合が良かった。かつては、「ひがし茶屋街」も同じ年に公許され、金沢城からの方角によって「東の廓」「西の廓」と呼ばれていたそうだ。「にし茶屋街」は、「ひがし茶屋街」と比べると規模は小さいらしいのですが、通りの両側には木造の茶屋建築が並び往時の賑わいを偲ばせているのだそうです。来てみてその思惑以上な場所であった。最初は「妻が行きたい」と言っても聞き入れなかった自分…息子のUターンで決まった。思っていた以上に素晴らしい一角であった。ただし、1820年の公許以来、金沢で最高の格式を誇ってきた茶屋街は「ひがし」だったそうです。どこもそうですが旅行で行くと必ず「あそこも見ておけば良かった」となることたくさんありますね。そのことから「にし」には「ひがし」に対抗するかのように、尖がった試みをするという気質が育まれてきたそうです。「ひがし茶屋街」への対抗心という視点で街並みを眺めていると、「にしの街並み」の方にはキラリと光る斬新さが見られるそうです。何か自分ゆがんだの気持ちみたいですね?

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その中でも「ひがし」への対抗心が垣間見える建物が、1922年(大正11年)に竣工した「西検番事務所」です。現在は、「にし茶屋街」のお茶屋に在籍する芸妓さんの稽古場となっている建物ですが、「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街の事務所」が和風のデザインなのに対して、「にし茶屋街の事務所」には洋風のデザインが施されています。この「かわむら」は2001年に此処、「西茶屋街」で開業し現在に至ってるそうです。当初は芸妓さんから常連様へ「茶屋街のおもたせ」として始まり、そして茶屋の常連様から愛される方への金沢の贈り物として御利用して頂き今日があるとのこと。茶屋街にこれからも存在し、「かわむら」が独自に考え出した製法で、金沢にしかない甘納豆店として洗練させていかなければと思っておるそうです。この「かわむら」の精神が素晴らしいじゃあないでしょうか?今日まで振り返ってみると、菓子を只一つの商品として作るのではなく、『心を創り御縁を頂いた方へお届けするという事、それが「甘納豆かわむら」の存在価値だと感じております』とのこと。「甘納豆かわむら」は甘納豆の専門店です。店舗は、金沢市野町の「にし茶屋街」にある本店のみとなってるそうです。とてもなく美味しかった、いただいた甘味スィーツ名前を覚えていなかったのが残念でならないです。しゃしんだけでガマンしてください。   コウジロウの独り言    

ブラタモリ[総合]2018年12月8日(土) 午後7:30~午後8:15(45分)で東尋坊・恐竜博物館を放映されました。

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今回の番組内容は福井県。大迫力の断崖絶壁・東尋坊と日本有数の恐竜化石の産地をブラタモリ。二大名物はなぜ生まれた?そこに情緒豊かな港町・三国の存在も?タモリさんが福井の魅力に迫るとのこと。遠いと思って行けなかった東尋坊も放映しました。高さ25m、東尋坊の断崖絶壁へ!目もくらむ眺めにタモリさんが絶句!極太の岩の束、気になるその正体は?堆積と風化の繰り返しから創造された。これはよくわからなかったのだが。

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東尋坊のすごさは意外なところにも。重要文化財突堤に隠された秘密とは?精巧すぎるタンスや、ゴージャスすぎる銀行も登場!するそうな。私たちが先日旅行した金沢からすぐの福井県の「恐竜王国」勝山市、化石がザクザク採れるそのわけは、1億2千万年前の地球!?ダイナミックすぎる理由とは?タモリさんも発掘に挑戦、世紀の大発見なるか!?当然我々は手の汚れることはしませんでしたけど!

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福井名物を生み出した大地の営みに大感動!とある。先日のブログでも紹介してた通り、恐竜博物館が面白かった訳が放映されそうである。予告で見てただけなのでなんとも言えないのですが、実際の発掘の場所の紹介や今まで発見された化石の量もおしえてくれた。自分たちはそこまで余裕はなかったのですが、それをしないでも面白いとこだとわかるはずです。

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まあ東尋坊に行かなかった後悔は必至ですが。出演者ほか【出演】タモリ,林田理沙,【語り】草彅剛。この林田理沙アナウンサーが異色。私立湘南白百合学園高校から東京芸術大学音楽学部楽理科を卒業と言われている。キョトンとして動じていない様はなんとも不思議チャンを感じる。だからこの静寂な教養番組が務まるのかもしれませんね!まぁ、それはそれとして、今回のブラタモリは必見ですゾ!    

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コウジロウの独り言    

ボルボXC40に遭遇してきた。

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こんなフレーズから始まる。「都市を駆け巡る本物のSUVとして生まれたXC40。正統派のSUVらしく、力強さにあふれた佇まい。その一方で大胆な造形のフロントグリルからテールライトにいたるまで、外観の造形はボルボそのものです。スカンジナビアの独創性と都会的な雰囲気を身にまとった、都市で生活するあなたのために作られた一台です」何がボルボそのものなんでしょうか?今までのデザインから逸脱したそのフォルム。「好きではない」と言い切った自分がそこにいた。正規代理店・「ボルボカーズ市川」にV40の定期点検に来た自分を待ち構えていたのはそう、この「XC40」だったのです。試乗させて車はT4 AWD Inscription 水冷4気筒DOHC16バルブ インタークーラーターボチャージャー(ガソリン)1,998cc8速AT。XC60や90のようにインテリアのハンドルがコンビネーションカラーをしていないので、そんなに目新しさは感じなかった初見。見事に自分の感覚を崩されていたのである。周りの道路が混んでいたのと自分にそんなに時間がなかったので、敷地内を動かすだけにした。なんだこのシフトは?ノブが短いのは解っていたのだが本当にスムースなスイッチに化してたのだ。音も立てず人差し指と親指だけでコントロールできる。この時はAWDつまり4輪駆動とは思わなかった。後日確かめてわかったのである。ただ自分の4駆の感覚は32のGT-R以来ないかもしれないですが、トヨタランクルプラドの記憶と比べても、2輪駆動にしか感じない軽さだった。「パイロット・アシスト」もついており、「アダプティブクルーズコントロール付きのパイロット・アシスト」では、車線を維持するためにステアリングを穏やかに自動修正するステアリング・アシストが働き、わずかなステアリング操作で車線の中央を保持できるよう支援するとの事。行動に出るとわかるのだろうがこの日は体感できなかった。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」で都市部の運転をよりリラックスしたものにしたようである。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」は、自動的に設定速度や前方車両との距離を維持。また、ステアリングアシストを行い車線内を走行するように維持してくれるそうだ。これはV40にも近いものがありその発展系なのだと思われるのですが。ボルボXC40は、「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」で都市部の運転をよりリラックスしたものに。「パイロット・アシスト(車線維持支援機能)」は、自動的に設定速度や前方車両との距離を維持。また、ステアリングアシストを行い車線内を走行するように維持します。上空からの視点についてもニッサンには負けてなかった。360°ビューカメラは、複数のカメラからの画像を使用し、上からみたクルマの様子を作成するのだそうだ。クルマの周囲の障害物に対して自分のクルマがどこにあるのか一目でわかる。敷地内を走っただけでこれは体感できた。とにかく凄い。あとクルマのデザインに着いてもグッドデザイン賞を獲得するなどクリエイターにはすこぶる評判が良い。ヨーロッパ・カー・オブ・ジ・イヤーをも獲得するなどとんでもないクルマのようである。すこしハンドルが小さい気がしたがハンドリングも最高でした。市内の駐車場の問題やそれこそコストパフォーマンスを考えて今度やってくるハイブリッドが出てくるときには考えなくてはならないクルマには間違いない。最後に残念だったのは「おぎやはぎの愛車遍歴」でもXC60と90が紹介されていたのだが、室内の音響システムが最高なサウンドを奏でてくれるとのこと。オギヤハギが双方共にXC90と60の所有者だから若干贔屓目かもしれませんが。このXC40も一番安い車種はスピーカーの数が少ないのですが、他のスピーカーは8つもついてるそうな?当たり前って言えば当たり前なのかもしれませんが、コンサートフォールの中にいるみたいなんて聞こえてくると、自分のものにしてしまいたくなる一台になることまちがいない。なんとこのInscriptionにはプレミアムサウンドオーディオシステムとして13スピーカーとなっていたのにはいささか驚いた。         コウジロウの独り言

永平寺は、木々で囲まれたとても美しい寺院だった。

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Photo by Kojiro                                永平寺とは、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山道元が開山とある。前述のブログのように文面は続くのだが、永平寺に着いたのは10月26日の午後。ややひんやりとした空気感が漂う。でも決して寒くはなかった。出家参禅の道場として名高く、敷地には山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司など修行の中心となる七堂伽藍の他にも、大小70余りの殿堂楼閣があると言われてます。曹洞宗大本山として知られる永平寺は、寛元2(1244)年、道元禅師によって創建された出家参禅の道場。今も多くの修行僧が修行を行い、独特の雰囲気が漂う。紅葉の美しさも名高く、木々が色づく見ごろには紅葉目当ての観光客が大勢訪れる。特に境内の入口付近や最奥の法堂周辺が紅葉の見どころだそうだ。我々家族がついた午後。空は曇天。爽やかな空気が漂う北陸の地で木々の深さを感じていた。自然だけではない人工の林。建物との関係は美しいという言葉以外出てこなかった。

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Photo by Kojiro

まだ紅葉には早い時期のようである。それでも各所の所々染まりかけている木々もあった。樹齢何百年の木々の中からフィトンチットの風が吹いていたのだが、急勾配の階段や床が滑るのでやや疲れ気味になってきた自分。室内履きをあらかじめ用意していればよかったのかもしれませんが、樹齢700年の木がどれかは、帰ってきてからわかった次第である。とにもかくにもこの木々たちが自分の空気となって疲れを飛ばしてくれていた。今回のこのブログは画像で木々を見てもらうことにする。建物がとても素晴らしく、あの東照宮のように色とりどりに塗られていない。この風景がまさしく永平寺だと思う。当時は華飾な建築までかもしれませんが、今が一番いい感じである。    

コウジロウの独り言