初夏の風はうねりとともにやってきた!

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Photo by Kojiro

シーボニア小網代湾から長者ヶ崎までの水上での時間はそんなにかからなかった。元の会社のオーナーに誘われ、ディンギーをやっていた自分がなぜか?よくわからないのだが、ヨット部の部長になっていたらしい。30年経った今解ったことでもある。独身時代の土日ほとんどが油壺・シーボニア・小網代湾周辺で過ごしてた。写真のクルーやスキッパーは、訳ありで全員ヘルメットを装着させていただいている。当然実際にはかぶっていない。各々のオーケーも取っていないことと、この中にどうしても顔を出してはならない方がいらっしゃるのでこのような形の紹介になってしまった。オーナーとスキッパーが免許を持っていた。当然、自分は船舶免許を持っていない。ディンギーはエンジンが着いていないためにいらないのである。写真のヨットはエンジンが付いており、小網代湾を出るまではエンジンをかけて出航することが多い。船台に乗っていたヨットを海に入れ船台を戻す。これだけでもお金がかかる。到底小生では払える訳はない。シーボニアヨットハーバーまでのクルマのドライブも楽しみの一つであるのだが、京急三崎口で降りて歩いてオーナーの建物まで行くのも結構いい運動になった。シーボニアの向かいになるのだが。今は年をとりすぎたこともあり、体の冷える ヨットまで手を伸ばそうとはなかなか思わなくなった。それと東北の津波を画面で見てしまったことも重なり、海がますます怖くなった。この写真の頃は高中正義が「憧れのシェイシェル諸島」なんてサウンドを飛び跳ねさせてくれていたり、どうしても加山雄三の「海その愛」を口づさみながら進んでいくシーンが思い浮かばせて、イメージしていた。それでも何か今は、写真を見ているとドラクロワの油絵を思い出してくるのである。「難破船」です。彼はたまたま当時のフェカンと言われる海岸で見た難破船を見て「ドン・ジュアンの難船」を制作したといわれているのだそうだ。この写真の海は本当は荒 れていて、白波が立ち、うねりも大きくなってきており、ドス黒い雲が遠くの方から風に乗ってこちらに向かってくるようなシーンが思い出深く残っている。決して上手くはない操船でハルをバシャンバシャンと打ちながら、必死に操船してるスキッパーと、怖さを知らない何人かの人々の模様が描かれているのが滑稽でたまらなかった。写真の水平線が斜めになっているのを水平にして頂くとお分かりになるはず、相当ヨットが傾いていることが。だからブログに載せてしまったのです。行動派だと自負してる自分はこの後日、ヨット乞食となり葉山マリーナに出かけて行った。ラ・マーレ茶屋の美味しいスィーツが目当てだったのかもしれませんが。1979年初夏の絵日記より。               コウジロウの独り言

碓氷峠の眼鏡橋と斬新なミラージュ。

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Photo by Kojiro

写真のクルマは三菱初のFF車として発売された1978年生初代ミラージュ。エンジンは、横置きのSOHC・直列4気筒ガソリンエンジンのみで、排気量は1,200ccで、後に1,600ccが追加された。このクルマは1200cc。また、初代のみチルトボンネットを採用。マニュアルトランスミッションは、スーパーシフトと呼ばれる2速の副変速機を持つ特長があり、主変速機と合わせ、4×2速の8速として使用できた。これはとてつもなく面白かった。ミラージュは、エンジンとトランスアクスルの配置の関係から、トランスアクスルへの入力をエンジン本来の回転方向と逆転させる必要があり、副変速機は、そのために設けられたギアを利用していたとのこと。サスペンションは、フロントはマクファーソンストラット、リアはミラージュ独自のトレーリング式U字型サスペンションの4輪独立懸架を採用した。発売に合わせてカープラザ店が展開され、映画『未知との遭遇』とのタイアップや、日本テレビとも組んでのアメリカンフットボールの試合である「ミラージュボウル」の開催によるプレキャンペーンなど、話題方な登場の仕方だった。直線を基調としたシンプルでクリーンでスタイリッシュなボディスタイルも特長。このデザインは「青いリンゴ」のイメージから発想されたものと言われ、その黄緑色は黄色などとともにイメージカラーの一つでもあった。このクルマがそれである。元の会社の今は亡き同僚と二人での独身時代のドライブ。面白い運転感覚だったため,旧道の碓氷峠まで来てしまった。ヒゲでカモフラージュしているのは筆者。今とは比べ物にならないくらい、とてつもなくスマートである。ヒ−ルもさりげなく履いていたんですね!後ろの赤レンガの碓氷峠眼鏡橋も今も残っているものの本当に思い出深い一枚の写真である。その向こうに見えるのが新幹線ではなく通常の信越線の鉄橋である。眼鏡橋明治25年、1892年に完成。芸術と技術が融合した美しいレンガのアーチ橋と言われてます。この形にしたのは日本では眼鏡橋が最初で、高さ31m 長さ91m と我が国最大のものです。使用されたレンガは200万個を超えます。この4連の雄大なアーチ橋は通称「めがね橋」として、多くの人に親しまれています。橋梁は、第2橋梁から第6橋梁までの5基が残っており、すべてが煉瓦造りで、国重要文化財に指定されているのだそうだ。 コウジロウの独り言

ニューヨークのとうもろこしとカタツムリ。

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Photo by Kojiro

写真は1980年代にニューヨークにカレンダーの撮影に行った最終日のオフの日。実際のロケはお隣りのペンシルベニアニア州で実行されたのだが、ニューヨークのマジソンスクウェア近くの歩道に巨大な「とうもろこしとカタツムリのオブジェ」があったのだ。カメラマンのアシスタントとともに、ニューヨークの歩道を歩いていた時の出来事。当時は日本で、ディレクションさせてもらって、自分がディスプレイもやってたこともあり、興味津々であった。にもかかわらず、知らず間に何十年も時が経ち、調べよう調べようと思いながら今になってしまった。ネットで引用させてもらったり参考にさせてもらおうと「ニューヨークの巨大とうもろこしとカタツムリ」なんてタイトルでいろいろ調べてもこの画像は出てこなかった。誰の何という作品なのか全くわからない。ジャックと豆の木の巨人の国へ行った時の自分のようである。「LOVE」やオブジェの「ハート」やこの頃のニューヨークにはスタチュウがいっぱい置かれていた。日本では「Jウォーク」なんて言葉も流行り、赤信号ブッチギツテ渡れば怖くない的な、そんな言葉もよく聞こえてきた。そう言えば「Jウォーク」というグループもいましたね?どうしてるんですかね?薬とかマリファナやドラッグはダメですよね!今回のブログはこの程度にしておくので4分の一世紀も前のオブジェをとくとご覧あれ!ちなみにLOVE の作者はロバート・インディアナ(Robert Indiana, 本名:ロバート・クラーク (Robert Clark)。アメリカ合衆国現代美術家・舞台美術家・コスチュームデザイナーとしても活躍していた方。世界各地の街角にパブリックアートとして設置されているのだそうだ。スペイン語ヘブライ語などに訳された「LOVE」の彫刻も制作している。また彼の絵画作品には、ウォルト・ホイットマンアメリカの代表的な詩人の作品を取り上げるなど、アメリカらしさのテーマも頻出する。       コウジロウの独り言    

1972年頃の大間・函館フェリーの絵葉書

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スキャニング by Kojiro

絵葉書である。学生時代の実家に出したハガキが自分の紙焼きボックスから出てきた。日付を見るのを忘れたが、1972年の7月だろう。当時は青函連絡船が頻繁に運行しており、学生だった我々のバイト代で旅行する者たちには高額のフェリー代だった為、下北半島の大間港から函館のフェリーを利用した。層雲峡の写真にあったスカGで乗船。帰りは福島港から出るフェリーだった記憶がある。こちらのフェリーはかなり小さかった記憶がある。福島漁港は渡島半島の最南端に位置しており、津軽海峡に面している。白符地区は北海道におけるニシン漁発祥の地であり、福島町は水産業を中心に栄えてきたと紹介されている。この漁港近くの漁師夫婦にたらふくイクラとスジコの間のご飯をご馳走になった記憶があり、住所をもらわなかったことや調べてこなかった実情で、40年以上経った今でもお礼が言えていない。記憶だけが残っている。そのうち紹介できるかもしれませんが?モノクロのキャビネの紙焼きだけは残っていた気がします。そうその当時の自分達とその御夫婦の記念写真を!まあ40何年も経っている。自分の親父も亡くなっているし、北海道に新幹線も通ってる時代。世の中も変わりました。ただし、大間港から函館間のフェリーの所要時間は今も変わってないようである。90分、それしかかからないのである。海峡を渡るのがその時間しかかからない。当時としては交通網の発展してない時代だったのですが、青函連絡船よりはるかに安く、しかも所用時間のかからない、とてつもなくリーズナブルな交通手段だった。下北半島北端で津軽海峡に面する位置にあり、北緯41度33分・東経140度54分。対岸に位置する北海道の汐首岬との間は僅々18km足らずに過ぎないとのこと。本州・北海道間の最短地点なのである。下北半島で行く途中には恐山もあり、かなり面白い旅だった記憶と数々の写真が残っている。岬南方には大間町の市街地及び大間漁港が展開する。潮流の速い地域であり、周辺は良好な漁場で、マグロの一本釣りの名所として知られる。トラックなどの物流の利用も多く、相変わらずまた夏場の北海道ツーリングなど北海道観光のレジャー用としても利用されている。情報によると函館便を運航している東日本フェリーの撤退報道がなされ、航路休止の危機となったが、2008年12月から1年間の暫定として道南自動車フェリーに運営譲渡の上、運賃が増額となったらしいのですが運航は続けられることとなったらしい。その後、津軽海峡フェリーが同航路を運航していると記述されている。思い出すに自分には一人息子が、よく朝帰りをしたり家の帰りが遅いことが多い。「どこいってたの?」なんて気にしたたりする自分が今ここにいるのだが、その当時の自分は「ちょっとドライブに行って来る」と言って1ヶ月も帰ってこなかったことを考えると自由人だったことは否めないようですね!            コウジロウの独り言   

カモメはカモメ。本当は海猫。南船橋・ウォーターフロントの3分間。

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Photo by Kojiro

ヨガのレッスンをゴールド・ジムで受けた帰り道。その日は家のクルマは無く、なぜかチャリンコで出かけていた。ララポート裏に海老川の下流にカモメが一羽飛来してきた。ipad miniを近づけても飛び立とうとしない。よく見ると海猫と判別がつけ難かった。ただし嘴の先の色味が違うのは確か海猫だった気がしていたのだが。帰宅後、調べたらやはり海猫のようだ。海猫は、チドリ目カモメ科カモメ属に分類される鳥類。だからカモメといっても大きな意味では変わりはないと思われる 。近寄るとなぜか目線を合わせてくれなかった。感覚的に言うとカモメのジョナサン側にいるというよりもニーチェが浮かび上がって第三者的発想になってしまう自分がそこにいた。なぜなのだろう?近寄る自分に対しての海猫と自分に対しての葛藤がうごめいてきた。「逃げていく!彼のほうが逃げていく、私の唯ひとりの伴侶・私の大いなる敵、未知なる方、わが神,虐待者でもあるわが神が!」「いいえ!逃げてはならぬ、帰って来てください!あなたのせいでわたしが蒙る責苦ももろともに!私の涙の河はみんなあなたを目指して流れていく!しかも私の心の最後の炎は!あなたへともえあがる!ああ......帰ってきてください、まだ見知らぬ私の神よ!わが苦悩?わが竟の幸福?」(朝日出版社ジル・ドゥルーズニーチェ」より)思い込むとなぜか自分の中に「神」まで出てきてしまう。信じてはもらえないだろうが、究極の野生動物-鳥類との関係。優しい愛らしい顔立ちのその海猫は僕の方に目を投じるとサァッっと海の上に飛んで行った。ウィキペディアによると=冬季になると中華人民共和国東部などへ南下し越冬するか、ロシア南東部や朝鮮半島では周年生息すると書かれている。最も 日本では周年生息(留鳥)するらしいのだが、冬季は北海道や本州北部で繁殖する。個体群は南下する個体が多いとも言われている。全長44-48センチメートルもある。翼開張120-128センチメートル。羽を広げるとかなり大きい。体重は0.5-0.6キログラムとされる。頭部や体下面の羽衣は白、体上面の羽衣は黒灰色。尾羽も白いが内側尾羽10枚の先端付近が黒く、英名はblack-tailed=黒い尾をした=まさしくである。翼上面は黒灰色。初列風切先端は黒く、先端に白い斑紋が入る個体もいるのだそうだ。嘴は太く頑丈。種小名crassirostrisは「太い嘴の」の意。嘴の色彩は黄色で、先端が赤くその内側に黒い斑紋が入る。後肢の色彩はお黄色。夏季は後頭が白(夏羽)、冬季は後頭に灰褐色の斑紋が入る(冬羽)。説明されたとおりなのだが、とにかく大きかった。こんな鳥たちがヒッチコックの映画『鳥』のように襲ってきたらどんなに怖いことか?でも絶対とは言えないが我々人間、少なくとも自分には襲うどころか、飼い猫のような優しい顔立ちと「目」をしていたのは事実である。             コウジロウの独り言

層雲峡とスカイラインそしてスーパーオスカー。

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Photo by Kojiro

1972年7月。箱スカで来ていた北海道。そして品川ナンバーと真上のグリルに嵌め込まれたスーパーオスカー。1968年10月。直列6気筒エンジン搭載のGT(GC10型)は誕生した。S5型同様、フロントノーズを延長しているが、S54型と違い、開発当初から6気筒化を配慮した設計構造とデザインを備えていたためか、6気筒モデルの方がバランスの整った外見となっていたのは事実。4気筒のスカイラインはわざとボンネットを短くしたのでは?と疑問である。S54型に搭載されていたプリンス製G7型エンジンに代わり、日産製直列6気筒OHC2,000ccのL20型(シングルキャブ)を搭載する。ローレルと反対で、エンジンを日産、ボディをプリンスが担当した逸材品。発売当初はかまぼこ型シリンダーヘッドと呼ばる後年主流となるL系エンジンとは形状が異なる物が搭載されていたのだそうだ。最高出力は105馬力。1969年以降L20型エンジンを搭載する全車種で新設計のエンジンに順次切り替わり、115PS(レギュラーガソリン仕様)となった。新旧を区別するため、新型をL20Aと呼称(車検証上の原動機の型式に変更はない)したがって、旧エンジン追いやられ、後年は新型もL20と呼称するようになった。このL20は世界的にも有名な量産品であった。サスペンションは、4輪独立懸架となる。だからこの時の北海道探索一周ツアーで4人乗車となると後ろのタイヤはハの字を書いて横に広がってちょっと滑稽だった。のちの暴走族のステータスシンボルにもなるのだが。第15回東京モーターショーに、「スカイラインGTレーシング仕様」が出品された。翌年発売されるGT-Rのコンセプトカーであった。このスカGは暴走族ではなく、オートバイの蜂の子族に対してモグラ族とでも言われそうだった。そんな人気のある時代のクルマに乗り層雲峡まで来たのだった。層雲峡は、北海道上川町にある峡谷。大雪山国立公園に中にあり、石狩川を挟みなんと約24kmの断崖絶壁が続いている処。1921年(大正10年)に訪れた大町桂月氏が命名。大雪山黒岳山麓にある層雲峡温泉は現在では大型ホテルなどが立ち並ぶ北海道有数の規模を誇る温泉街を担ってるが1972年当時はそれほどでもなかった気がする。層雲峡および大雪山観光の中心地となっている。この写真あたりが当時道路から撮影する場所としては雲峡の峡谷美が最も素晴らしい場所だと思ってた。約3万年前の大雪山の噴火により堆積した溶結凝灰岩が石狩川によって浸食されたことにより生まれたとされている。今現在では国道39号層雲峡温泉から石北峠方面に向かうと長さ3,388 mの銀河トンネルがあるそうだ。もともと国道39号は層雲峡の渓谷に沿った断崖絶壁の直下を通過しており、石狩川をはさんでそびえ立つ柱状節理の巨大な岩盤「天城岩」や「流星の滝」「銀河の滝」、さらに巨大な岩壁が目と鼻の先に迫る「神削壁」などのダイナミックな光景を見ながら通過することができていたのだ。がしかし安全を確保するため、特に落石の危険性が高いとされた「神削壁」の区間をトンネルで迂回するようになっているとの事。この写真を撮ってから8年後の1979年(昭和54年)に小函トンネル(延長1,134 m)が建設された。その後も落石は頻発し、1987年(昭和62年)6月9日早朝、天城岩の一部が11,000 m3に及ぶ大規模な崩落を起こしたとある。石狩川を上から被さるように埋め尽くし、対岸の国道39号を走っていたトラック等の車両5台とサイクリングの集団を直撃し、約100 mに渡って国道をも埋め尽くした。人的被害は岩盤の直撃を受けた数名が亡くなった大惨事だったとあります。この災害以後、復旧までの間、国道39号は当該区間が通行止めとなり、利用者は遠軽周りの大きな迂回を強いられた。その後も落石が頻発したことから、後に流星・銀河の滝から先は完全に閉鎖。自転車・歩行者を含め一切の通行が禁止されたのだった。この場所は今でもこうやって顕在するんでしょうかね?ここが見れなかったら本当につまらない街道と壁が名ばかりのものになってしまいますね。           コウジロウの独り言   

Lonesome Car-boy。でちょっと一息。

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This illust was drawn by kojiro

ロンサムカーボーイとは、ウィキペデアから1977年から登場したブランドで1986年にパイオニアカロッツェリアにブランド変更するまでラインナップされたカーコンポのブランド名なのである。その広告のワン・シーンのビジュアルを模写したのがこの絵なのだと思うのですが、ネットで調べたら、画像は見つかりませんでした。このデッサンは今は描けない。その当時の観察力と豊富なデッサン力の問題なんでしょうか?いや、忍耐力も?今ならスマ・ホで撮って画像処理したほうが早い。って思ってしまうからなのでしょう。この画像はもしかしたら、キャノンかホンダの広告のワン・シーンだったのかもしれませんが?これが流行っていた頃は、リアスピーカーのボックスタイプが多かった。音にこだわるユーザーは音を良くする為に、トランク埋め込め式を選んでいたと思われます。このタイプは取り付けが簡単で、後付け感があってクルマ同様チューンしてるぞという存在感があった。まあクルマをそんなに触れない人向けの音のチューンナップ=カーステレオ時代の主流だった。当然カセットでした。カースピーカーといえばKENWOODも最高のイメージリーダーだったですよね?メーカー各社はこぞってデザインしたがってロゴデザインに拘っていたた時代ですよね。そうCIです。そんなこんなで時代も変わり、その当時は当然、今みたいにリヤ・ガラスがスモーク化されてませんでしたから! コウジロウの独り言