1974年。ボーイング747がヒースロー空港に降ります。

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Photo by Kojiro

写真は1974年2月にアンカレッジ〜ヒースロー空港に向かう主翼から写したもの。右はヒースロー空港に降りようと主翼の内側フラップが思い切り広がったところでハイウェイのインターチェンジを撮ったもの。今や本当はデジタル機器を用いた撮影は禁じられている筈。空港に近づいた時点で禁止となっていた筈。1969年2月に初飛行してから、その後多くの改良を重ねながら現在(2016年7月時点)も生産が続けられているロングセラーの航空機=ボーイング747エアバスA380が初飛行するまでは最大の民間航空機であった。「ジャンボジェット(Jumbo Jet)」の愛称で呼ばれていた。この愛称は、19世紀後半にロンドン動物園やバーナム・アンド・ベイリー・サーカスで活躍した有名なアフリカ象、ジャンボの名前に由来するらしい。当初ボーイング社では「鈍重なイメージがあるこの愛称は最新鋭機にふさわしくない」としてこの愛称を認めず、「スーパーエアバス」としていたらしい。しかし「ジャンボジェット」が一般に受け入れられていることや、1970年代に「エアバス・インダストリー」社がヨーロッパにおいて航空機製造を開始したこともあり、当初愛称に対して否定的だったボーイング社も公式の場で用いることが多くなったそうだ。この大型機は、旅客機として設計されながら、当時の物流の主流であったコンテナを横2列で積めるような胴体直径とし、それらを前方から積み下ろしすることを考慮して、あえて機首部分を2層構造とし、操縦席および乗員収用部をアッパーデッキにおくという特異な形状の機体となったとされている。これは超音速旅客機の就役の際には貨物機に改修することを見越し、米空軍の次期戦略輸送機計画時の原設計をあえてそのまま残したものだったそうだ。ただ、当時の航空需要から考えるとこの機体サイズはあまりにも大きく、ボーイング社内にも懐疑的な雰囲気はあった。パンアメリカン航空が20機を発注したことが発表されると、同社との競争上の脅威にさらされることになる同国のノースウエスト航空、トランス・ワールド航空や、日本航空、英国海外航空など各国の航空会社からの発注が相次いだ。そして此の写真で見られる主翼の端の部分を見て下さい。最新の747は垂直近く主翼の先が曲がっているのです。当時の此の写真に見られる747は水平のままの主翼となっているのも今や貴重である。面白い話としては、クルマでよくある数字の事。当初はエンジンがカタログスペック上の性能を出せておらず、最高速度や航続距離に不足が生じてたらしい。これは運用上深刻な問題だったそうで、機体の重量を軽減してエンジン出力の不足をカバーする措置がとられ、設計の再検討を余儀なくされたのだそうだ。その後、水噴射システムを装備することにより離陸重量の引き上げを行うなどエンジンは強化されたものの、軽量化で生じた脆弱性は、ノーズギア付近の補強をはじめ、様々な改修という形で改良がなされた。アメリカや日本、アラブ首長国連邦など世界各国の政府首脳専用機に採用され、NASAスペースシャトル輸送機(よく007の映画等で見られる)等にも転用されている。なお、2014年1月までの航空会社1社による合計発注機数は、日本航空の113機が最多だそうだ。2014年6月28日に製造機数通算1,500機目の747がルフトハンザドイツ航空へ引き渡された(ボーイング747-8、機体番号:D-ABYP)。また747シリーズの引き渡し数通算1,500機目が日本貨物航空に引き渡された(ボーイング747-8F、機体番号:JA17KZ)。4発のエンジンを持った此のボーイング747が消えて行くのだと思うと時代の流れを感じてしまう。       コウジロウの独り言    

寒緋桜の無量寺でカムリを観察。暑くなる予感が!

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冬まっただ中の1月、2月にかけて、沖縄では桜のシーズンを迎える。沖縄の桜は、カンヒザクラ(寒緋桜)という種類。花びらは濃いピンク色でそのかわいらしい佇まいに本州に咲く桜を見慣れている人には少し驚くかもしれないと言われている。寒緋桜は沖縄本島北部から徐々に開花が進み、それに合わせて各地では桜まつりが開催され、桜を楽しもうと多くの人たちがまつり会場を訪れる。此の写真は3月初めのお彼岸の頃。北区無量寺の境内駐車場。妻の両親と祖父が眠っているお墓のある無量寺の風景。いつも早くから咲く此の寒緋桜。ご紹介するのがこんなにも遅くなってしまい、少し申し訳ないと思っている。此の2週間後、本土東京の桜も満開に!もう体調が優れないなんて言っていられなくなってしまったからです。緩解してしまったからです。嬉しい事に仕事もかなり忙しくなって来てブログに手を添える事ができなかったのが原因です。季節も暖かくなりと思いきや熱波のごとく暑い毎日が続くこの頃ですが、お体を大切にして下さい。此の写真からその予感がしていたみたいですね。今は5月になってしまいちょっと時間が経ちすぎたのかも知れません。桜を忘れかけているシーズン。クルマに目を向けましょう。トヨタ・カムリです。カムリ」は、ご存知の方もいると思うが、日本語の「冠」がもとになっているそうです。 冠といえば、英語では「クラウン」。 つまりトヨタには冠を意味するモデルが2車種もあるということ、が面白い。アメリカロサンゼルスのフリーウェイなんかでは本当によく見るハイソカーカムリ。エクステリアですが?どちらかと言えばより精悍で押し出し感の強いデザイン。少し、グリルのフロントライトの先端のシマシマ感が強すぎてクジラか、なんて思ったりもします。そこんとこがどうなんですかね?他は全体としては良い出来だと思います。つづいてリアサイドですが、この車はおそらくリアからの角度がかっこよさそうです。水平的なリアライトが幅広感を出していますし、ルーフラインが少しクーペっぽいです。北米仕様を今度見て下さい。カッコいいですよ。ボルボXC40に見られるようなルーフから自然にとけ込むラインはCピラーをデザインしているからです。日本のラインナップについてはどうでしょうか。此のカラーリングしたモデルも当然ないですが、日本で販売の新型カムリは、2.5リッターエンジンをベースにしたハイブリッドのみ。以前トヨタの友人も言ってましたが、すべてハイブリット化するとのこと。カムリもノーマルエンジン車は導入されないようです。グレードは3種類。エントリーのX、売れ筋?のG、最上級のGレザーパッケージ。日本はハイブリッド専用モデルの展開ですが、なんとこれはすごいJC08モード燃費で、Xは33.4km/Lとのこと。これまでのこのクラスの燃費大将はホンダ アコードハイブリッドでの31.6km/l。カタログ値競争は相変わらず本当か否かですがほんとうだったらこれはすごいですね。グリルを除けば申し分ないクルマカムリ。なんでこんなグリルにしてしまったのでしょうか?    コウジロウの独り言

アウディの新型はなんとテールランプからQ8を語っていた!

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初めて自分がこのテールランプを見て、特長からかこのアウディはほんとにQ8のモデルなのでしょうか?新型アウディ Q5でも2017年10月2日から日本国内で発売しているとのいこと。この覆面は一体どちらなんでしょう?見たのは2018.3.16金曜日の築地。前からの写真は自分に勇気がなく撮れませんでした。テールランプを見ていると!これはなんとQ8なのだ!新型 アウディQ8の市販型プロトタイプとみられる車両をスクープしたのだった。新型アウディQ8は、同社のフラッグシップSUV「Q7」よりも車幅は広く、全高は低くなると予想されており、自分がスクープした開発車両もそのように見受けられます。新型Q8は機能面でも最新技術を採用し、半自動運転技術の搭載や、内装には有機ELディスプレイの採用がなされると予想されています。「Q8コンセプト」に似たヘッドライトやLEDストリップライトなどが見て取れます。撮影されたカモフラージュした渦巻き柄のボディは市販モデルの外観に限りなく近いと思われるフルヌード。新型Q8の発表は目前なのかもしれません?これぞとばかりQ8なのかテールランプだけが語っていた。今回のプロトタイプは、以前Spyder7が公開したレンダリングCGと酷似している。ディティールこそ異なるが、『Q8コンセプト』から意匠を得たヘッドライト、牙のような6本のクローム・ストレークを備えるワイドな八角形グリルが確認出来る。またテールライトは、コンセプトモデルより厚みを持っているが、LEDストリップライトはそのまま採用されるはずだ。何を隠そう、このテールボディサイズは弟分の『Q7』より大型だが、リアウィンドウが傾斜しており、かなりスポーティな印象だ。室内には、フラッグシップ・サルーンの新型『A8』と同様のデュアル・デジタルタッチスクリーンディスプレイを装備するハイテクコックピットとなるそうだ。パワートレインは、Q7から流用される3リットルV型6気筒ディーゼルエンジン+電気モーターの「e-Tronプラグインハイブリッドで、最高出力は400ps程度が予想されているとの事。また4リットルV型8気筒エンジンを搭載する高性能『SQ8』の投入も期待出来そうだ。ワールドプレミアは、2018年1月15日に開幕するデトロイトモーターショーが有力だが、3月のジュネーブモーターショーになる可能性もあるようだ。十数年前に東京タワ−の下でメルセデスを見て以来、久々興奮した此の出会いは東京ならではの事。こんな出会いをもっとしたいものだ。そして思いっきり自信をもって投稿したいものである。             コウジロウの独り言

タワーブリッジとテムズ川。

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写真は英国ロンドンのタワーブリッジである。タワーブリッジ(英語名: Tower Bridge)は、イギリスのロンドン市内を流れるテムズ川に架かる跳開橋。1886年に着工し1894年に完成したそうです。可動部分は初期の頃は蒸気機関で水をパイプに通して跳開部の端に水圧を掛け、シーソーの原理を利用して開閉していたが現在は電力を利用しているのだそうだ。イギリス指定建造物の第一級指定建築物に指定されているとのこと。東京の勝どき橋とよく比較され、勝どき橋は開閉機構を駆動する電動機は速度制御の容易な直流式を採用したのだそうだ。当時は大電力の整流手段が未発達であったため、電力網から供給される3300Vの交流で電動機を回転させて直流発電機を駆動し、任意の電圧の直流を得るワード・レオナード方式が用いられたとのこと。モーターは、出力が125馬力で2台あり、使用状況は通常は1台ずつ、強風や降雪など天候・環境の悪化した時は2台ずつで行った。モーターボートの性能のいいエンジンぐらいの出力しか無い。開閉機構の機械は中央部の橋梁内部に収められており、前述の交流電動機と直流発電機は専用の変電設備(現:勝どき橋の資料館)に設置されているそうだ。同様にタワ−ブリッジも電力仕様に変わってしまっている。当たり前と行ったら当たり前の事であるのだが、ちょっと淋しい。自分がこの橋を渡ったのはバスで1974年の卒業旅行の時と前に在籍していた化粧品会社の研修旅行の2回。2回目は30歳後半の頃。それでも25年以上前になる。妙に逆光がバスの窓から入って来たのを覚えている。当然安い中華料理やに行く途中 の事。2回とも同じ路線だった記憶がある。タワーブリッジの長さは244m、左右にあるゴシック様式のタワーの高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。タワー間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。塔のデザインは鉄塔を腐食から守る目的と、名前の由来ともなっている付近のロンドン塔の景観への配慮から、コーンウォール花崗岩ポートランド石(英語版)で覆われている。19世紀後半、イーストエンド・オブ・ロンドンの商業発展のためロンドン橋の下流に新たな橋が求められた。しかし、ロンドン橋とロンドン塔の間にプール・オブ・ロンドンが存在し、入港の障害となることを避けるため固定された橋の建設はできなかったと言われている。この問題を解決するため1876年に設立された委員会は、デザインの公募を行い、テムズ川を横断する方法を模索した。橋タワー上部には跳開用の水を流すパイプを通すために、跳開時用の歩道橋が設けられた。タワーの階段を上って通行できた上部橋は利用者が少なかったことから1910年に閉鎖されたが、エレベーターが設置されて1982年に展示室として公開された。1974年のこの写真と外観は違っているはず。テムズ川に最初に架けられた橋はこのタワーブリッジのひとつ上流にあるロンドン橋(London Bridge)なぜか東京のゲイトブリッジに似ている のだが?。その後、いくつもの橋がテムズ川に架けられましたが、それはみなこのロンドン橋より上流でした。19世紀になり、ロンドンの水運がさかんになるにつれ、ロンドンの東側のエリア「イーストエンド」が発展し、ロンドン橋の下流テムズ川の水上交通を妨げないような橋を架けることが国として早急な課題となりました。そこで、ホーレス・ジョーンズとジョン・ウルフ・バリーが設計したこの跳開式というアイデアが採用されました。上の通路は、ガラス張りのウォーク・ウェイズという形に生まれ変わっておりタワーブリッジの観光の目玉となっているとのこと。このようなタワーブリッジの歴史や経緯は、タワーのてっぺんにある博物館で詳しく知ることができるらしい。塔の高さは50mくらいあるでしょう。2つの塔を繋ぐ2本の通路、ウォーク・ウェイズの高さが42mということですから、それよりは高いようです。塔と塔の間は270m、ここの真ん中から持ち上がります。真ん中の継ぎ目が3cmくらい開いていて下のテムズの水が覗くと見えるそうです 。現在、車道が片側1車線づつと、歩道が両側にあるのですが、歩行者が通れるのは橋の片側(上流側)だけとなっています。塔から岸までは吊り橋になっています。タワーブリッジが鉄骨でできていることがこれを見ると納得できます。また、塔の外壁は石材で化粧張りされています。鉄骨で出来たこの橋は1894年に完成した跳開式の可動橋。大きな船が通る時に橋の真ん中が持ち上がる跳ね橋です。このタワーブリッジはまだまだ現役、1カ月に数回は開きます。かつて橋を持ち上げる動力として、蓄圧器に蓄えられた蒸気が使われていましたが、今は油圧と電気モーターで動かしています。以前、橋の開閉に使われていた水圧式エンジンは橋のシティ・ホール側にあるエンジンルームで見ることができます。橋の長さは244m、左右にあるゴシック様式のタワーの高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。タワー間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。塔のデザインは鉄塔を腐食から守る目的と、名前の由来ともなっている付近のロンドン塔の景観への配慮から、コーンウォール花崗岩ポートランド石(英語版)で覆われている。タワー上部には跳開用の水を流すパイプを通すために、跳開時用の歩道橋が設けられた。タワーの階段を上って通行できた上部橋は利用者が少なかったことから1910年に閉鎖されたが、エレベーターが設置されて1982年に展示室として公開された。19世紀後半、イーストエンド・オブ・ロンドンの商業発展のためロンドン橋の下流に新たな橋が求められたのだそうだ。だけれどもロンドン橋とロンドン塔の間にプール・オブ・ロンドンが存在し、入港の障害となることを避けるため固定された橋の建設はできなかった。この問題を解決するため1876年に設立された委員会は、デザインの公募を行い、テムズ川を横断する方法を模索した。50以上集まった提案に対する評価の議論は長引き、1884年に都市建築家であるホーレス・ジョーンズの設計が承諾された。とにもかくにも勝鬨橋は交通の妨げになる事も含め、大渋滞を起こす事も恐れ2度と開かないそうで何か英国の古き良き物を残す慣習と日本の差が出ているとおもいます。写真は今までのモノクロ同様キャノンペリックス+FD24mmレンズの組み合わせによる撮影をしたもの。ピントが若干あまいのは、紙焼きの時のピン合わせがうまくいってなかったと思われます。あ、そう。体調がまた戻って来たのでブログをまた書き始めます。色々見て頂いてありがとうございます。この場で感謝します。ただ、当時の記録の多さと記憶がキチンと頭に入ってることには自分でも驚きます。 コウジロウの独り言

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ケン&メリーはその人の記憶と創造を生んでくれた。

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白馬から高山までクルマで一般道で向かった。1980年代の頃。何処をどう走ったか断定できる訳ではありませんが不確かな記憶しか残ってません?ナビやモバイル・フォンのない時代。東京近郊では一家に一台のスペシャリティ・マイカー時代でもありました。1974年にはT美大の試験監督をしてる際に構内を受験生横を通り抜けていたのだから笑ってしまう。かなりキザな野郎に写っていただろうにちがいない。我が家のクルマの占有を殆どしてた自分。写真は当時乗っていた今でも形が大好きなケン&メリーのGTXである。なぜかケン・メリGTXの白ボディに限ってはGTも同様、桜井氏がどう思っていたかわからないが、ニッサンの社長の一声がかかりCピラーの下・後ろのフェンダーの上にグレーのデカールのラインを貼ることになった位、ニッサン内外でも話題性に事欠くとこがありませんでした。写真のケン・メリでGTXがGTRだったりしてそれを今持っていたら3,000万円は下らないそうである。スカイラインGTX、昔は当時のクラウンの低価格帯のランクとほぼ同額の100万円(120万円?)だった。5速なら105万円(125万円)、ちょっと不確定ですが4速だからそうだったと思います。しかもレギュラー仕様一号車だった。GTXは殆どハイオク仕様(今言うとプレミアムガソリン)で村山工場に親の知人がいた事もあり可能となったのである。自分は一般道をドライブするのが好きでした。最高なのは写真にあるような林道を走るのが好きでした。長野県の白馬村から高山を目指す途中。当時は一般道しかなかった記憶でしかないのですが、平湯峠をも越えてました。(ラリーとかでよくコースに入っていた)。平湯峠にはかつてクルマ三台で上高地と石川県の輪島まで行った時以来2度目となりました。その時は初代ローレル・マニュアル仕様でした。松本まで行って安房峠道を通る。松本~高山は断然距離が短いですし、峠越えといっても今ではトンネルですから走行性はそれほど悪くはないはず。白馬から高山を松本経由ですと、糸魚川の今ある高速と違い、当時は景色の綺麗な梓川沿いに進む事が出来、ダムや森林の蒼々と輝く光を浴びて快走をした思い出が残ってます。信濃大町市までは峠道でかなりのスピードで抜けて行った記憶もあります。その先は国道を選ぶと走行性がイマイチなので、山沿いの農道か、川沿いの道路(五輪道路)を通ったと思います。シフトダウンやヒール&ツゥでグイグイ引っ張って行く走りでした。(本人はやってるつもり)同乗者は結婚前の今の嫁さん。無口になっていたのを覚えています。白馬~松本が1時間程度、松本~高山が3時間程度ですから4時間を経過したと思われます。平湯峠(ひらゆとうげ)は、岐阜県高山市にある飛騨山脈の輝山と大崩山との鞍部の峠。標高は1,684 m。 神通川水系宮川の支流である 久手川と同水系高原川の支流であるトヤ谷との分水嶺である。今では峠付近の下部を国道 158号の平湯トンネルが貫通している。1978年(昭和53年)に平湯トンネルが開通する まではこの峠を国道158号が横切っていたのですが、同トンネルの開通に伴い峠道は岐阜 県道に変更されているみたいです。ただし輪島にドライブした時も同じコースをたどってトンネルを使わなかった気がします。最後にご紹介したいのが、このケン&メリーのメーター。時計を入れると7連メータ−でした。これと比較出来るのはトヨタ2000GT位しかなく、実家のどこかに此のメータ−パネルが隠れていると思うとどこかそわそわする自分が其所にいるのでした。           コウジロウの独り言

ライン川のネコ城(Burg Katz)

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ライン川の船上でドイツの白ワイン飲み競争を1974年2月にJ美大の方とやっていたら何と上空に城が聳え立っていた。写真のネコ城(Burg Katz)である。ネコ城はドイツ連邦ラインラント=プファルツ州ザンクト・ゴアールスハウゼンのライン川上流沿いにあるお城。自分のキャノン・ペリックスの200mmのFDレンズに収まってその迫力がせまっていた。当然、その当時の紙焼きは月光3号で8×10。自分のアパートで焼いたか?T美大の暗室にお世話になっていたかもしれない。このお城を最近、西ドイツ政府から日本人男性がホテルにする目的で購入し修復したらしいのだが、世界遺産ライン渓谷中流上部に含まれたことで頓挫したのだそうだ。一般公開はされていなかったが、2016年7月28日放送のNHK総合『所さん!大変ですよ』で所有者が取材を受け内部を公開。その番組を見て自分は驚いたのだった。このお城の写真がある。と思ったからである。例の自分で焼いていた紙焼きをマックでスキャンすると同時にこのお城について調べた。ネコ城はその名のとおり“猫”という意味があるそうで、その理由には二つのことが挙げられている。この城を建てた人物が猫のような顔をしていたという事が一つ目の理由。二つ目は、城の一部が猫に似ていたという事になるそうだ。また、城を建てたカッツェンエルンボーゲンのヴィルヘルム2世(カッツェンエルンボーゲンはドイツ語で『猫の肘』の意)の名前にちなんでいるという説も浮かび上げられる。すべて滑稽だと思いませんか?カッツェンエルンボーゲン伯爵ヴィルヘルム2世により、1360年から1371年ごろに建設されたのがこのお城だそうだ。 1356年に建設していたトリーア大司教のマウス城(正式な名称はトゥルンブルク城だが、猫に睨まれている事から)に対抗する為に建設されたとも言われている。反対側にはラインフェルス城があり、共に川の通行料を取っていたとも言われている。1479年にカッツェンエルンボーゲン家が断絶。この周辺の城と共にヘッセン=カッセル方伯領とヘッセンダルムシュタット方伯領との間で争奪戦が行われたのだった。1626年と1647年には包囲され、一部破壊されたのだった。破壊されたところは補強もされた。その繰り返しが行われたようだ。1692年にルイ14世の征服によってラインフェルス城の包囲中に城が破壊された。何回繰り返せばいいのだろうか?七年戦争では、1758年にフランス人に征服され、1763年にまた戻った。1806年にナポレオン・ボナパルトに主塔が破壊された。破壊されても破壊されても修復され美しい風貌を保っている。この美しいお城がそびえているライン川沿いは本当に素晴らしい風景を演出している。人工の物と自然が融和した歴史がそんなに深いとは今更ながら覚えた。そのライン下りで飲んだくれ,第九を『フロイド・シェーネル・ゲッテルフンケン』なんて大声で騒いでいた自分達が何故か恥ずかしい!1896年までそのままだったらしいのだが購入者が修復を開始し、1998年に完了した。とされている。また此のライン下りに行きたいものだ!    コウジロウの独り言

ジェームズ・ディーン事故死と「ポルシェ・スパイダー550の呪い」

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このクルマを有名にしたのはジェームス・ディーン。「ポルシェ・スパイダー550」でだった。550スパイダーは1954年、ポルシェ初の市販レーシングカーとして誕生した。エルンスト・フールマン博士の手によって生み出された”フールマン・エンジン”、 乾燥重量550kgのライトウェイト、ミッドシップ。重量の550kgから550スパイダーと名付けられたのだが。jポルシェ550スパイダーの公式デビューも1954年となる。その戦歴は輝かしかったらしい。同年、ミッレ・ミリアに初登場し、6位入賞。さらに、ル・マンで総合4位(クラス優勝)。この時のドライバーは、ボレンスキー/フランケンベルグであった。ほかにも、ブエノス・アイレス1,000km、ミッレ・ミリアなどでクラス優勝している。その魅力に憑かれた若者は数多かったようだ。別名、”フールマン・エンジン”と呼ばれた。1,498ccという小排気量ながらも各所に施された高度な機能によって110PS/6,200r.p.mを発生し、乾燥重量550kgという極めて軽い車両と相まり、最高速220km/h、0-100km/hは10秒以内と、驚くべき高性能を持っていたのだそうだ。1954年末より市販を開始。生産台数は約100台。その中で現存が確認されているのは世界中でわずか30台に過ぎない。永遠の英雄、ジェームス・ディーンもその1人であった。彼がこの世を去ったのは1955年の9月30日。自分が4歳の頃。カーレースが大好きだった彼はロサンジェルスからサリナス(カリフォルニア州エデンの東の主人公が住んでいた町と設定されていた)のレースに出場するため、愛車のポルシェ・スパイダー550で41号線を走らせた。そして、1955年9月30日の夕方、Y字路前方から走ってきたフォードと正面衝突して首の骨を折り、即死したそうだ。まだ24歳だった。事故後、彼が乗っていた「リトル・バスタード」と名付けられたポルシェ・スパイダー550(写真と同型)は呪われた車と噂された。何と八回も事故を起こすのだった。ジョージ・バリスがその残骸を買い取った。運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させたのが1回目。翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い、自分たちのレースカーに搭載したのだそうだ。2人が挑んだロスアンゼルスのポモナ・レースでは、その1人、スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中にタイヤが外れ、居合わせた警官に怪我を負わせたのが2回目。もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡したのが3回目。ジョージ・バリスが所有していたボディは、カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示され、各地にツアー参加。1959年、スパイダーボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり、崩れ落ちのが4回目。サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負ったのが5回目。数週間後にスパイダーはサリナスに送られ、途中運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡したのが6回目。そしてまたオークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させたのが7回目。なんと8回目になるのだが、オレゴンで運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させたこともあったそうだ。1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしたのだそうだ。此の輸送中、スパイダーの残骸は、忽然と消えてしまったのだそうだ。バリスは私立探偵まで雇って行方を探したが、未だに消息は掴めていないと言われている。文面をNETから一部引用させて頂いているのだが、つまりこのクルマには何か魔物が取り憑かれていて自分自身の意思があるがごとくでどこかに自分で消えていってしまっているのかもしれません。霊感等持ってない人たちに不吉な予感がするから中止する様に言われていたんも関わらず何故向かって行ってしまったのかいまだに謎となっているディーンの死?彼の事故にまつわる怪奇話はさておき、そのクルマが2003年のヒストリックカーフェスに来ていたのだった。写真がそれである。ただボンネットにあるべくところにマークのエンブレムそしてロゴが見えないのは何故なんでしょう?これもまた我々民衆にその顔を見せたくなかったのかも知れませんね?オーナーが?いやいやクルマ自身がですよ!                                         コウジロウの独り言