アウディの新型はなんとテールランプからQ8を語っていた!

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Photo by Kojiro

初めて自分がこのテールランプを見て、特長からかこのアウディはほんとにQ8のモデルなのでしょうか?新型アウディ Q5でも2017年10月2日から日本国内で発売しているとのいこと。この覆面は一体どちらなんでしょう?見たのは2018.3.16金曜日の築地。前からの写真は自分に勇気がなく撮れませんでした。テールランプを見ていると!これはなんとQ8なのだ!新型 アウディQ8の市販型プロトタイプとみられる車両をスクープしたのだった。新型アウディQ8は、同社のフラッグシップSUV「Q7」よりも車幅は広く、全高は低くなると予想されており、自分がスクープした開発車両もそのように見受けられます。新型Q8は機能面でも最新技術を採用し、半自動運転技術の搭載や、内装には有機ELディスプレイの採用がなされると予想されています。「Q8コンセプト」に似たヘッドライトやLEDストリップライトなどが見て取れます。撮影されたカモフラージュした渦巻き柄のボディは市販モデルの外観に限りなく近いと思われるフルヌード。新型Q8の発表は目前なのかもしれません?これぞとばかりQ8なのかテールランプだけが語っていた。今回のプロトタイプは、以前Spyder7が公開したレンダリングCGと酷似している。ディティールこそ異なるが、『Q8コンセプト』から意匠を得たヘッドライト、牙のような6本のクローム・ストレークを備えるワイドな八角形グリルが確認出来る。またテールライトは、コンセプトモデルより厚みを持っているが、LEDストリップライトはそのまま採用されるはずだ。何を隠そう、このテールボディサイズは弟分の『Q7』より大型だが、リアウィンドウが傾斜しており、かなりスポーティな印象だ。室内には、フラッグシップ・サルーンの新型『A8』と同様のデュアル・デジタルタッチスクリーンディスプレイを装備するハイテクコックピットとなるそうだ。パワートレインは、Q7から流用される3リットルV型6気筒ディーゼルエンジン+電気モーターの「e-Tronプラグインハイブリッドで、最高出力は400ps程度が予想されているとの事。また4リットルV型8気筒エンジンを搭載する高性能『SQ8』の投入も期待出来そうだ。ワールドプレミアは、2018年1月15日に開幕するデトロイトモーターショーが有力だが、3月のジュネーブモーターショーになる可能性もあるようだ。十数年前に東京タワ−の下でメルセデスを見て以来、久々興奮した此の出会いは東京ならではの事。こんな出会いをもっとしたいものだ。そして思いっきり自信をもって投稿したいものである。             コウジロウの独り言

タワーブリッジとテムズ川。

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Photo by Kojiro

写真は英国ロンドンのタワーブリッジである。タワーブリッジ(英語名: Tower Bridge)は、イギリスのロンドン市内を流れるテムズ川に架かる跳開橋。1886年に着工し1894年に完成したそうです。可動部分は初期の頃は蒸気機関で水をパイプに通して跳開部の端に水圧を掛け、シーソーの原理を利用して開閉していたが現在は電力を利用しているのだそうだ。イギリス指定建造物の第一級指定建築物に指定されているとのこと。東京の勝どき橋とよく比較され、勝どき橋は開閉機構を駆動する電動機は速度制御の容易な直流式を採用したのだそうだ。当時は大電力の整流手段が未発達であったため、電力網から供給される3300Vの交流で電動機を回転させて直流発電機を駆動し、任意の電圧の直流を得るワード・レオナード方式が用いられたとのこと。モーターは、出力が125馬力で2台あり、使用状況は通常は1台ずつ、強風や降雪など天候・環境の悪化した時は2台ずつで行った。モーターボートの性能のいいエンジンぐらいの出力しか無い。開閉機構の機械は中央部の橋梁内部に収められており、前述の交流電動機と直流発電機は専用の変電設備(現:勝どき橋の資料館)に設置されているそうだ。同様にタワ−ブリッジも電力仕様に変わってしまっている。当たり前と行ったら当たり前の事であるのだが、ちょっと淋しい。自分がこの橋を渡ったのはバスで1974年の卒業旅行の時と前に在籍していた化粧品会社の研修旅行の2回。2回目は30歳後半の頃。それでも25年以上前になる。妙に逆光がバスの窓から入って来たのを覚えている。当然安い中華料理やに行く途中 の事。2回とも同じ路線だった記憶がある。タワーブリッジの長さは244m、左右にあるゴシック様式のタワーの高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。タワー間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。塔のデザインは鉄塔を腐食から守る目的と、名前の由来ともなっている付近のロンドン塔の景観への配慮から、コーンウォール花崗岩ポートランド石(英語版)で覆われている。19世紀後半、イーストエンド・オブ・ロンドンの商業発展のためロンドン橋の下流に新たな橋が求められた。しかし、ロンドン橋とロンドン塔の間にプール・オブ・ロンドンが存在し、入港の障害となることを避けるため固定された橋の建設はできなかったと言われている。この問題を解決するため1876年に設立された委員会は、デザインの公募を行い、テムズ川を横断する方法を模索した。橋タワー上部には跳開用の水を流すパイプを通すために、跳開時用の歩道橋が設けられた。タワーの階段を上って通行できた上部橋は利用者が少なかったことから1910年に閉鎖されたが、エレベーターが設置されて1982年に展示室として公開された。1974年のこの写真と外観は違っているはず。テムズ川に最初に架けられた橋はこのタワーブリッジのひとつ上流にあるロンドン橋(London Bridge)なぜか東京のゲイトブリッジに似ている のだが?。その後、いくつもの橋がテムズ川に架けられましたが、それはみなこのロンドン橋より上流でした。19世紀になり、ロンドンの水運がさかんになるにつれ、ロンドンの東側のエリア「イーストエンド」が発展し、ロンドン橋の下流テムズ川の水上交通を妨げないような橋を架けることが国として早急な課題となりました。そこで、ホーレス・ジョーンズとジョン・ウルフ・バリーが設計したこの跳開式というアイデアが採用されました。上の通路は、ガラス張りのウォーク・ウェイズという形に生まれ変わっておりタワーブリッジの観光の目玉となっているとのこと。このようなタワーブリッジの歴史や経緯は、タワーのてっぺんにある博物館で詳しく知ることができるらしい。塔の高さは50mくらいあるでしょう。2つの塔を繋ぐ2本の通路、ウォーク・ウェイズの高さが42mということですから、それよりは高いようです。塔と塔の間は270m、ここの真ん中から持ち上がります。真ん中の継ぎ目が3cmくらい開いていて下のテムズの水が覗くと見えるそうです 。現在、車道が片側1車線づつと、歩道が両側にあるのですが、歩行者が通れるのは橋の片側(上流側)だけとなっています。塔から岸までは吊り橋になっています。タワーブリッジが鉄骨でできていることがこれを見ると納得できます。また、塔の外壁は石材で化粧張りされています。鉄骨で出来たこの橋は1894年に完成した跳開式の可動橋。大きな船が通る時に橋の真ん中が持ち上がる跳ね橋です。このタワーブリッジはまだまだ現役、1カ月に数回は開きます。かつて橋を持ち上げる動力として、蓄圧器に蓄えられた蒸気が使われていましたが、今は油圧と電気モーターで動かしています。以前、橋の開閉に使われていた水圧式エンジンは橋のシティ・ホール側にあるエンジンルームで見ることができます。橋の長さは244m、左右にあるゴシック様式のタワーの高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。タワー間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。塔のデザインは鉄塔を腐食から守る目的と、名前の由来ともなっている付近のロンドン塔の景観への配慮から、コーンウォール花崗岩ポートランド石(英語版)で覆われている。タワー上部には跳開用の水を流すパイプを通すために、跳開時用の歩道橋が設けられた。タワーの階段を上って通行できた上部橋は利用者が少なかったことから1910年に閉鎖されたが、エレベーターが設置されて1982年に展示室として公開された。19世紀後半、イーストエンド・オブ・ロンドンの商業発展のためロンドン橋の下流に新たな橋が求められたのだそうだ。だけれどもロンドン橋とロンドン塔の間にプール・オブ・ロンドンが存在し、入港の障害となることを避けるため固定された橋の建設はできなかった。この問題を解決するため1876年に設立された委員会は、デザインの公募を行い、テムズ川を横断する方法を模索した。50以上集まった提案に対する評価の議論は長引き、1884年に都市建築家であるホーレス・ジョーンズの設計が承諾された。とにもかくにも勝鬨橋は交通の妨げになる事も含め、大渋滞を起こす事も恐れ2度と開かないそうで何か英国の古き良き物を残す慣習と日本の差が出ているとおもいます。写真は今までのモノクロ同様キャノンペリックス+FD24mmレンズの組み合わせによる撮影をしたもの。ピントが若干あまいのは、紙焼きの時のピン合わせがうまくいってなかったと思われます。あ、そう。体調がまた戻って来たのでブログをまた書き始めます。色々見て頂いてありがとうございます。この場で感謝します。ただ、当時の記録の多さと記憶がキチンと頭に入ってることには自分でも驚きます。 コウジロウの独り言

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ケン&メリーはその人の記憶と創造を生んでくれた。

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白馬から高山までクルマで一般道で向かった。1980年代の頃。何処をどう走ったか断定できる訳ではありませんが不確かな記憶しか残ってません?ナビやモバイル・フォンのない時代。東京近郊では一家に一台のスペシャリティ・マイカー時代でもありました。1974年にはT美大の試験監督をしてる際に構内を受験生横を通り抜けていたのだから笑ってしまう。かなりキザな野郎に写っていただろうにちがいない。我が家のクルマの占有を殆どしてた自分。写真は当時乗っていた今でも形が大好きなケン&メリーのGTXである。なぜかケン・メリGTXの白ボディに限ってはGTも同様、桜井氏がどう思っていたかわからないが、ニッサンの社長の一声がかかりCピラーの下・後ろのフェンダーの上にグレーのデカールのラインを貼ることになった位、ニッサン内外でも話題性に事欠くとこがありませんでした。写真のケン・メリでGTXがGTRだったりしてそれを今持っていたら3,000万円は下らないそうである。スカイラインGTX、昔は当時のクラウンの低価格帯のランクとほぼ同額の100万円(120万円?)だった。5速なら105万円(125万円)、ちょっと不確定ですが4速だからそうだったと思います。しかもレギュラー仕様一号車だった。GTXは殆どハイオク仕様(今言うとプレミアムガソリン)で村山工場に親の知人がいた事もあり可能となったのである。自分は一般道をドライブするのが好きでした。最高なのは写真にあるような林道を走るのが好きでした。長野県の白馬村から高山を目指す途中。当時は一般道しかなかった記憶でしかないのですが、平湯峠をも越えてました。(ラリーとかでよくコースに入っていた)。平湯峠にはかつてクルマ三台で上高地と石川県の輪島まで行った時以来2度目となりました。その時は初代ローレル・マニュアル仕様でした。松本まで行って安房峠道を通る。松本~高山は断然距離が短いですし、峠越えといっても今ではトンネルですから走行性はそれほど悪くはないはず。白馬から高山を松本経由ですと、糸魚川の今ある高速と違い、当時は景色の綺麗な梓川沿いに進む事が出来、ダムや森林の蒼々と輝く光を浴びて快走をした思い出が残ってます。信濃大町市までは峠道でかなりのスピードで抜けて行った記憶もあります。その先は国道を選ぶと走行性がイマイチなので、山沿いの農道か、川沿いの道路(五輪道路)を通ったと思います。シフトダウンやヒール&ツゥでグイグイ引っ張って行く走りでした。(本人はやってるつもり)同乗者は結婚前の今の嫁さん。無口になっていたのを覚えています。白馬~松本が1時間程度、松本~高山が3時間程度ですから4時間を経過したと思われます。平湯峠(ひらゆとうげ)は、岐阜県高山市にある飛騨山脈の輝山と大崩山との鞍部の峠。標高は1,684 m。 神通川水系宮川の支流である 久手川と同水系高原川の支流であるトヤ谷との分水嶺である。今では峠付近の下部を国道 158号の平湯トンネルが貫通している。1978年(昭和53年)に平湯トンネルが開通する まではこの峠を国道158号が横切っていたのですが、同トンネルの開通に伴い峠道は岐阜 県道に変更されているみたいです。ただし輪島にドライブした時も同じコースをたどってトンネルを使わなかった気がします。最後にご紹介したいのが、このケン&メリーのメーター。時計を入れると7連メータ−でした。これと比較出来るのはトヨタ2000GT位しかなく、実家のどこかに此のメータ−パネルが隠れていると思うとどこかそわそわする自分が其所にいるのでした。           コウジロウの独り言

ライン川のネコ城(Burg Katz)

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ライン川の船上でドイツの白ワイン飲み競争を1974年2月にJ美大の方とやっていたら何と上空に城が聳え立っていた。写真のネコ城(Burg Katz)である。ネコ城はドイツ連邦ラインラント=プファルツ州ザンクト・ゴアールスハウゼンのライン川上流沿いにあるお城。自分のキャノン・ペリックスの200mmのFDレンズに収まってその迫力がせまっていた。当然、その当時の紙焼きは月光3号で8×10。自分のアパートで焼いたか?T美大の暗室にお世話になっていたかもしれない。このお城を最近、西ドイツ政府から日本人男性がホテルにする目的で購入し修復したらしいのだが、世界遺産ライン渓谷中流上部に含まれたことで頓挫したのだそうだ。一般公開はされていなかったが、2016年7月28日放送のNHK総合『所さん!大変ですよ』で所有者が取材を受け内部を公開。その番組を見て自分は驚いたのだった。このお城の写真がある。と思ったからである。例の自分で焼いていた紙焼きをマックでスキャンすると同時にこのお城について調べた。ネコ城はその名のとおり“猫”という意味があるそうで、その理由には二つのことが挙げられている。この城を建てた人物が猫のような顔をしていたという事が一つ目の理由。二つ目は、城の一部が猫に似ていたという事になるそうだ。また、城を建てたカッツェンエルンボーゲンのヴィルヘルム2世(カッツェンエルンボーゲンはドイツ語で『猫の肘』の意)の名前にちなんでいるという説も浮かび上げられる。すべて滑稽だと思いませんか?カッツェンエルンボーゲン伯爵ヴィルヘルム2世により、1360年から1371年ごろに建設されたのがこのお城だそうだ。 1356年に建設していたトリーア大司教のマウス城(正式な名称はトゥルンブルク城だが、猫に睨まれている事から)に対抗する為に建設されたとも言われている。反対側にはラインフェルス城があり、共に川の通行料を取っていたとも言われている。1479年にカッツェンエルンボーゲン家が断絶。この周辺の城と共にヘッセン=カッセル方伯領とヘッセンダルムシュタット方伯領との間で争奪戦が行われたのだった。1626年と1647年には包囲され、一部破壊されたのだった。破壊されたところは補強もされた。その繰り返しが行われたようだ。1692年にルイ14世の征服によってラインフェルス城の包囲中に城が破壊された。何回繰り返せばいいのだろうか?七年戦争では、1758年にフランス人に征服され、1763年にまた戻った。1806年にナポレオン・ボナパルトに主塔が破壊された。破壊されても破壊されても修復され美しい風貌を保っている。この美しいお城がそびえているライン川沿いは本当に素晴らしい風景を演出している。人工の物と自然が融和した歴史がそんなに深いとは今更ながら覚えた。そのライン下りで飲んだくれ,第九を『フロイド・シェーネル・ゲッテルフンケン』なんて大声で騒いでいた自分達が何故か恥ずかしい!1896年までそのままだったらしいのだが購入者が修復を開始し、1998年に完了した。とされている。また此のライン下りに行きたいものだ!    コウジロウの独り言

ジェームズ・ディーン事故死と「ポルシェ・スパイダー550の呪い」

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このクルマを有名にしたのはジェームス・ディーン。「ポルシェ・スパイダー550」でだった。550スパイダーは1954年、ポルシェ初の市販レーシングカーとして誕生した。エルンスト・フールマン博士の手によって生み出された”フールマン・エンジン”、 乾燥重量550kgのライトウェイト、ミッドシップ。重量の550kgから550スパイダーと名付けられたのだが。jポルシェ550スパイダーの公式デビューも1954年となる。その戦歴は輝かしかったらしい。同年、ミッレ・ミリアに初登場し、6位入賞。さらに、ル・マンで総合4位(クラス優勝)。この時のドライバーは、ボレンスキー/フランケンベルグであった。ほかにも、ブエノス・アイレス1,000km、ミッレ・ミリアなどでクラス優勝している。その魅力に憑かれた若者は数多かったようだ。別名、”フールマン・エンジン”と呼ばれた。1,498ccという小排気量ながらも各所に施された高度な機能によって110PS/6,200r.p.mを発生し、乾燥重量550kgという極めて軽い車両と相まり、最高速220km/h、0-100km/hは10秒以内と、驚くべき高性能を持っていたのだそうだ。1954年末より市販を開始。生産台数は約100台。その中で現存が確認されているのは世界中でわずか30台に過ぎない。永遠の英雄、ジェームス・ディーンもその1人であった。彼がこの世を去ったのは1955年の9月30日。自分が4歳の頃。カーレースが大好きだった彼はロサンジェルスからサリナス(カリフォルニア州エデンの東の主人公が住んでいた町と設定されていた)のレースに出場するため、愛車のポルシェ・スパイダー550で41号線を走らせた。そして、1955年9月30日の夕方、Y字路前方から走ってきたフォードと正面衝突して首の骨を折り、即死したそうだ。まだ24歳だった。事故後、彼が乗っていた「リトル・バスタード」と名付けられたポルシェ・スパイダー550(写真と同型)は呪われた車と噂された。何と八回も事故を起こすのだった。ジョージ・バリスがその残骸を買い取った。運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させたのが1回目。翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い、自分たちのレースカーに搭載したのだそうだ。2人が挑んだロスアンゼルスのポモナ・レースでは、その1人、スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中にタイヤが外れ、居合わせた警官に怪我を負わせたのが2回目。もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡したのが3回目。ジョージ・バリスが所有していたボディは、カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示され、各地にツアー参加。1959年、スパイダーボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり、崩れ落ちのが4回目。サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負ったのが5回目。数週間後にスパイダーはサリナスに送られ、途中運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡したのが6回目。そしてまたオークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させたのが7回目。なんと8回目になるのだが、オレゴンで運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させたこともあったそうだ。1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしたのだそうだ。此の輸送中、スパイダーの残骸は、忽然と消えてしまったのだそうだ。バリスは私立探偵まで雇って行方を探したが、未だに消息は掴めていないと言われている。文面をNETから一部引用させて頂いているのだが、つまりこのクルマには何か魔物が取り憑かれていて自分自身の意思があるがごとくでどこかに自分で消えていってしまっているのかもしれません。霊感等持ってない人たちに不吉な予感がするから中止する様に言われていたんも関わらず何故向かって行ってしまったのかいまだに謎となっているディーンの死?彼の事故にまつわる怪奇話はさておき、そのクルマが2003年のヒストリックカーフェスに来ていたのだった。写真がそれである。ただボンネットにあるべくところにマークのエンブレムそしてロゴが見えないのは何故なんでしょう?これもまた我々民衆にその顔を見せたくなかったのかも知れませんね?オーナーが?いやいやクルマ自身がですよ!                                         コウジロウの独り言

ポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトの回答はホノルルの駐車場にあった。

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写真は1980年代のハワイ・オアフ島のホノルル・モアナパークの駐車場。今はアラモアナ・市立公園と言うのかもしれない。大好きなアラモアナ・ショッピングセンタ−やアラモアナ・ホテルがある海岸だからなのか?モアナ・パークとは言わないのかも知れません。ワーゲンビートルの1960年代の物とそのころのバギータイプの写真である。塗装をするのか?わざと完成させていないのか全く解らない状態である。とにかくいづれ紹介する事もあろうかと思っていた写真。この当時ニッサン・サニーを1970年代のホノルルや西海岸ではセントラ(SENTRA)と呼んでいたのを思い出していた。現在ではシルフィーがその車種となっているらしいのだが。今や遠い友人になってしまった、当時アシスタントコーディネーターをしていたジミーに彼個人のクルマでちょっとしたドライブに連れて行ってもらった時が滑稽な想い出深い話になっている。彼のセントラ・セダンは助手席側のドアが落ちるのである。乗った時も両手で抑え、しばらく走るとガタガタ言ってくる。ましては、止まって、ドアを開けようとするとそのままドアが落ちてしまうのである。日本の車検では絶対通らないクルマを1970年代のハワイでは平気で乗ってたのである。撮影隊のクルマはダッチ・バン。そして撮影用として大型セダンのリンカーン等借りたりしてたので、いわばきれいなクルマ達だった。現地の人達が個人的に持つクルマは経済的にもガスの食わない日本車やワーゲンが好まれていたのは事実。トヨタカローラやホンダ・シビックは当然走り回っていた。ただ1970年頃は、やたらグレーのパテをしたままのクルマがハワイでは多く走っていたのは事実。下の写真は今でも残って売られているワーゲン・バギー。上の自分の写真のバギーに比べたら、遥かに完成されている素晴らしいクルマ達である。今、何を言いたいのか?自分で考えるのであるが、やはりワーゲン・ビートルは素晴らしいデザインのクルマなのだと言う事。自動車設計者フェルディナント・ポルシェによって1920年代以来長年にわたり希求されていた高性能小型大衆車のプランが、1933年にドイツ首相に就任したナチ党党首アドルフ・ヒトラーの大衆政策と相まってで開発が実現した。ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社のフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」(現ポルシェ)を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこなっていた。イタリアで言うカロッツェリアなのかも知れません。その過程で、ナチスの支援していたアウトウニオン・レーシングカーの設計にも携わった。イギリスやアメリカ合衆国の自動車メーカーも概して、フォルクスワーゲンの先進性を理解しなかったのだそうだ。このため1949年までには、フォルクスワーゲン工場が連合国側の接収対象から免れられた。アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。残っていたドイツ人労働者らの力で「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。フォルクスワーゲン車の本格的な量産はこの時から始まったらしい。1945年中に早くも1,785台を生産しているとのこと。こんな事実があるのだ。1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。最大の市場となったアメリカへの進出は1949年である。大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を可能に100km/h以上で高速道路を連続巡航できる大衆車、ポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進諸国におけるハイウェイ時代到来に適応したのである。アウトバーン整備推進とフォルクスワーゲン開発はあのヒトラーの施策で、戦後これを実効的に継承できたこと。後年まで成功となる数少ない事績の代表例となった。そしてこんな写真でハワイで紹介されるんですから、歴史を語る上でも何か滑稽でなりません。ビートルのビルトインした多様性のあるデザインが実証している。            コウジロウの独り言

ポルシェ906=カエラ・6いやカレラ6

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またまたキディランドでスロットルカー&マグナカーで遊んでいたモデルカーではなく、本物のポルシエ・カレラ6−ポルシェ906である。前のブログ同様2003年のヒストリックカーフェスの一コマ。今や無惨にもボディとモーターが外れている状態のAFXモデルカーが家にあるのだが。何を隠そう、ブッチ開け言わせていただくとこの写真から自分は907かなって思っていたのである。モデルカー収集家の友人のK氏に聞いてようやく本当の車種が解った。Porsche-906だった。ポルシェ906とは、FIAのグループ4に合わせて作られ、1966年に デビューしたレーシングカーなんだそうだ。別称カレラ6(Carrera 6 )。 自分達が社会人になった頃のおもちゃレベルではステータスカーだった。1966年にグループ4スポーツカー(年間生産50台)を対象とした国際スポーツカー選手権が新設し生産されたクルマ。クラス-S2- つまり2リッター以下のタイトルを獲得するため、フェルディナント・ピエヒ率いる技術陣がポルシェ初の純レーシングカーとして906を開発されたらしい。1966年のスポーツカー世界選手権開幕戦デイトナ24時間レースで実戦デビューを果たしたクルマ。第4戦からグループ4公認を得たとされている。ワークスは以降燃料噴射式のグループ6仕様を主力とし、2.2リッター8気筒は信頼性が不充分なため、出場機会は少なかったそうだ。タルガ・フローリオでは総合優勝し、ポルシェが得意とするレースで6度目の勝利を得た。最終戦ル・マン24時間レースでは、総合1~3位を独占した7リッターのフォード・マークIIに続き、2リッターの906が総合4~7位を占めたのだそうだ。グループ6マニュファクチャラーズでも、ライバルのフェラーリ・ディーノ206Sを抑えてP2クラスのタイトルを獲得した。ポルシェとして大好きなこの形の生産台数はなんと65台しか造られていなかった。量産型52台はワークスのほかプライベートチームにも供給されたそうだ。この写真の2003年のこのクルマはその中野一台なのか?エンジン仕様の異なる13台は、生産義務のないグループ6スポーツプロトタイプ用とし、国際マニュファクチャラーズ選手権2リッター以下クラス (P2)にエントリーしていたのだそうだ。先代904の6気筒バージョンが906と呼ばれていたために、このクルマは「カレラ6」の名で市販されていたんだとか?後で904の6気筒バージョンをを904/6、カレラ6を906とする形が一般化したのだそうだ。すべてFRP製のボディは、904同様実際には関与していなかったフェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ。ただフロント部分はボンネットの高さを抑えてフェンダー・アーチを押し出したデザインとなっている。ルーフは寸法規定の緩和により幅の狭い丸みを帯びた形状となり、大型ウィンドシールドと跳ね上げ式のカッコいいガルウィングドアを採用していた。ル・マン24時間レース出場車はユノディエールの直線で最高速を伸ばすためにノーズを延長してたそうだ。リアオーバーハングを500mm以上延長したロングテールを採用した。高速サーキット用のロングテールは後継モデルでも定番となっている。当たり前のようなフロントガラスもガルウィングも流面型の典型的な完成形に近い、素晴らしいデザインだったと思う。素材とデザインが見事にマッチングしたビルト・イン・デザインの先駆車と言えるクルマだと思う。         コウジロウの独り言