2003年。憧れのフェラーリ365GTB/4を撮影していた。

f:id:kohyusya:20180116174725j:plain Photo by Kojiro

「365GTB/4」は、イタリアのスポーツカーメーカー、「フェラーリ」が1968年から1973年まで製造されたグランツーリスモ。あの1966年に発表されたデザインは「カロッツェリア・ギア時代のジョルジェット・ジウジアーロ」による「マセラッティギブリ」ともよく比較された。「ギブリ」は鋼管フレームにスチールボディを被せたスタイリング。当時の高級スポーツカーに共通して見られる地を這うような背の低いプロポーション、ロングノーズ、ショートデッキ、ファストバックスタイル(リアハッチはリアガラス下のパネルが開くのみ)をとり、「マセラティ」としては初のリトラクタブル・ヘッドライトを採用していた。「ギブリ」が一番好きだったのも事実。以前のブログにも書いた事があったのだが運転をして江ノ島まで行った事、遠乗り体験があるのは「ギブリ」のみ。フェラーリは355しかハンドルを握った事がない。次に写真を見て下さい。珍しい後期型「フェラーリデイトナ」。自分は「フェラーリデイトナ」と呼んでいるのだが。あの「ギブリ」の次に大好きな365GTB/4は1968年のパリ自動車ショーでデビユー。なんと50年も前の二分の一世紀の時を超えて来たデザインなのだ。今でもこの形は素晴らしいく思えるのは自分だけなのでしょうか?「デイトナ」の愛称は1967年の「デイトナ24時間レース」で「フェラーリのスポーツプロトタイプ・330P4と412P」が圧倒的な強さを誇り1-2-3フィニッシュを果たしてから自然発生的にそう呼ばれるようになったと言われている。 「365GTB/4」の365は当時のフェラーリの例に洩れず12気筒エンジンの単室容量、GTはグランツーリスモ、Bはベルリネッタ(クーペ)、4は4カムシャフト(DOHC)を意味してるとのこと。前身の「275GTB/4」の美しさとは対照的な、1970年代的なダイナミックな新しさを持ちながら「ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティ」によるスタイリングなのだそうだ。V12・6ウェーバーキャブレターエンジンがもたらす最高速度 280km/h・0-60mph加速 5.4秒という世界最速水準の動力性能(当時としては)、1996年に550マラネロが登場するまでフェラーリスーパースポーツとしては途絶えてしまうフロントエンジン・リアドライブレイアウト。当時としても古典的で豪快な操縦性、1972年から1974年までル・マン24時間レースGTクラス3年連続クラス優勝、生産中止から6年後である1979年のデイトナ24時間レース2位入賞などの輝かしいレーシングヒストリーなど数々の魅力があった。2004年には'Top sports car of the 1970s'に自動車雑誌'Sports Car International'によって選ばれ、'Motor Trend Classic'誌は 'Greatest Ferraris of all time'の第二位に選ばれている。このため今日でも中古車は非常な高値で取引されているのだそうだ。当然相当程度がいい物だと思うのだが最近の面白いニュースとして2017年9月9日、日本の納屋に眠っていた走行可能なアルミニウム製車両がサザビーズの競売に掛けられ、約2億3,000万円(1,807,000ユーロ)で落札されたのは話題になった。「ギブリ」同様「ランボルギーニのミウラ」シリーズと生産期間が重なり、スペックが(少なくとも公称値では)拮抗していることから、後の「カウンタックと365GT4」の関係のようにミウラシリーズとライバル関係とされることもあったそうだ。初期型は透明なプレクシグラス(アクリル樹脂、商品名)内に4灯式ヘッドライトを備えていたが、米国の安全基準に合致させるため1970年リトラクタブル式に変更された。1,406台のGTB/4が生産されたが、158台が右ハンドル、122台がスパイダー(365GTS/4右ハンドルは7台)であったが、後年になってクーペからスパイダーに改造された例も少なくないとされている。とにもかくにもスロットルカーレースを原宿キディランドでやってた頃から今現在まで模型でも大好きな「フェラーリ」。買える余裕があるなら本当に欲しい一台である。                          コウジロウの独り言 

Pioneer Inn-Historic hotel in the heart of Lahaina.

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2018年を迎えて第一歩のブログを見て下さりありがとうございます。Pioneer Inn=1901年築の建物のホテルには歴史的な魅力が溢れていた。今でも敷地内に専用バルコニー、屋外スイミングプール、朝食とランチを提供するPioneer Innバー&グリルもあるそうだ。 ラハイナ港に建つ最古のホテルパイオニア・インは、1901年創業の100年以上の歴史を誇る、港町ラハイナは勿論、マウイ島最古のホテル。パイオニア・インは、ラハイナのランドマークとして知られ、創業時の外観を残したまま現在もホテルとして営業している。捕鯨船時代、プランテーション時代の面影が残る、パイオニア・インのノスタルジックな建物は、絶好のフォト・スポットとしても有名。建物は、国定の歴史的建造物として指定され、厳重に保護されている。写真は1988年頃かそれ以降の物。ハワイ・ロケにマウイ島にまで渡って撮影していたオフの一日。クルマは1985年に86年モデルとしてアメリカで発売開始されたトーラス・セダン。ライバルと目されたドイツ車や日本車を徹底的に調べ上げた上で開発されたクルマとされている。1983年に発売が開始されたサンダーバードをさらに洗練したようなエアロダイナミックなエクステリア(cd値はセダン0.33、ワゴン0.35)が特長で、日本のオーナーの間では親しまれてた。先進的なデザインと充実した装備で日本車やドイツ車には無いベンチシートやホワイトリボンタイヤが選択できることなどを理由に、アメリカやカナダでは記録的なセールスとなり、1989年には全米販売ナンバー1に輝いた。エンジンは基本グレードがV型6気筒OHVで当初は3Lモデル (140 PS・22.1 kgf·m) のみだった。駆動方式はFFでトランスミッションはV6モデルが4速AT、直4モデルが3速ATである。乗車定員は車体形状及びシフトポジションによって異なり、セダンは5/6人、ワゴンは8人である。このクルマのセダンでなんと一人で0メートルの海抜から標高3055メートルのハレアカラ火山という活火山に登ってしまった。本来ならばドライブ・インで休み休み登って行かねばならないのに、一気に頂上に短パン半袖アロハで山頂に行ってしまったのである。体中がしびれ、気持悪くなりそうだったので、直ぐに降りて来た。高山病になる一歩手前で降りて来たのだ。近くには三日月型の珊瑚礁の島、モロキニ島もある。ハワイ第二の大きさの島といっても、観光スポットは、西側のウェスト・マウイに集中しているので、レンタカーでのドライブは簡単。信号もその当時は殆どなかった。空港でピックアップすると、あっというまにカアナパリ・リゾートに到着するのだが。夕方、浜辺で寛いでいる地元の人々を見ながら、ここで夕日をのんびり見るのもいいとされている。パイオニア・インでは、宿泊しなくても、「パイオニア・イン・グリル&バー」としても営業しており、ハワイの古きよき時代の面影を残し、ラハイナを訪れた際には、是非ここでランチやディナーを取ってほしいとの事。パイオニア・インは、ラハイナ・ハーバーの直ぐ前に立地し、入り口にはキャプテン・クックの像がある。とにかくマウイ島はハワイの原点である。                                            コウジロウの独り言

「ツインリンクもてぎ」で開かれた2003 HISTORIC AUTOMOBILE FESTIVAL。

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今から15年近くも前になるお話になってしまうんですね。時のい経つのも速い物。秋の風吹く10月25.26日、ツインリンク茂木で開かれた「2003ヒストリック・オートモービル・フェスティバル」。クライアントがその年このイベントでは初めてブースを出展するという事で、社員数名で前日宿泊して参加しました。宿泊先がりんどう湖の近くのちょっともてぎからはらは離れていたので少し大変でした。自分はボルボ850をBOSSはBMW330をクライアントはオペルプリメーラだったか?数台のクルマはレーシーな走りで公道を往復走り、これだけでも楽しい想い出だった。「クルマを単に道具としてだけでなく、その歴史を振り返りつつ、文化として認知していくこと」をこのイベントはテーマとしているそうで、ヒストリックカーのイベントとしては国内最大級でした。その参加台数はもちろん、集まった車は、「最高のクルマ達」で名車ばかりだった。フェラーリありポルシェあり国産車ではあのトヨタ2000GTも出走していた。あの在りし日のカーグラの小林正太郎氏まで古いBMW 1941 Berlin rom328を運転して登場してきた会場で見かけた。それがこの写真である。実際はこのクルマが何だったか解らずじまい。お恥ずかしい限りである。本当に名車が揃ってびっくりもした。この次の年はカウンタックがたくさん集まっていたツインリンクもてぎに子供と二人で来た事もあった。ヒストリックカーファンだけでなくツインリンク茂木で開催されるイベントは面白かった。当時はネコパブリッシングも元気がよく、楽しい想い出だけが残っている。ただ、イベントで「コーヒーいれてください」とクライアントが催促されるのが面倒くさかった事を覚えている。若干名が怒りからか柵をけっていた物もいたのを覚えている。ピットや第一パドックには、出場を今か、今かと待っている名車たちがずらり並んでいて壮観でした。その「名車」を整備するピットクルーやドライバー。またはクルマ談義に花が咲き笑いの絶えない出番を待つオーナーたちが大勢いた。写真やビデオをまわす忙しい一日だった。またこういう日がやってくるのだろうか?今年のブログはここまでとします。                     f:id:kohyusya:20171227195649j:plain

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コウジロウの独り言

ボルボの新型SUV「XC40」が出るのはいいんですが!

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2017年3月の上海モーターショーで公開された新型XC40。また、新たにスクープされた新型XC40コンセプトの画像についてもご紹介。(MOBYから引用させて頂いております)初を含めた最先端のシステムを採用してるみたいでスペックは期待値多大。当然、作動速度域を従来の30km/h以下から50km/h以下まで高めた自動ブレーキ「シティ・セーフティ」を標準装備。また、新型の「XC40」のプラットフォームに中国の「ジーリー ホールディンググループ」と開発した「CMA」が採用され、外観にはスポーティなリアウィングと立体感を強めたフロントになりました。本当に信頼出来るのか微妙であるのだが。TOYOTAなんかは同級生がベトナムのトップにいた事もあって、「アジアで造るならベトナム」なんて言ってたのを思い起こす。中国はご存知の様に人件費も高騰し、化粧品に限らず、現地生産をあきらめている企業も多々あるからです。(コーセーは2017年撤退・輸出のみに切り替えている)2017年9月1日、ボルボは新型XC40の発売を2017年秋と発表。搭載される先進安全装備についても明らかにしています。コンパクトクロスオーバーSUV「XC40」が2018年初旬 に海外で発売が開始されるらしいですよ。 XC40はボルボSUVラインナップの中でも最も小型のボディサイズになる筈です。 ボルボご自慢の安全性能はもちろん のこと、デザインも洗練されるようなので、期待ができますよ。(とWEBでの声) PHVやEVの発売の話もあるらしいので、ますます魅力的なコンパクトSUVになりそうです!! 落ち着いたおしゃれな車が欲しい方にはピッタリでしょうね! というコメントが入っていた。実は先日車検でV40のメンテナンス含めてディーラーに伺ったのだが、その時は何にもリアクションが無かった。日本で一番売上げをあげたトップセールスもチョコっとしか会わなかったが何も言われなかった。各WEB情報では褒めちぎった情報が満載である。このブログは本領発揮をするのだ。モーターファンイラストレーテッドではこのXC40のプラットファームには特殊性があり、車両寸法の自由な設定の出来るCMAを採用しているのである。と書かれていた。XC90からのてんかいからなるプラットフォームSPA(スケーラブル・プロダクト・アーキテクチャー)とは拡大縮小に対応した骨格である。その小型版がCMA。その中身は車両寸法の固定を全軸中心からアクセルペダルまでの距離からFlexible対応でノーズの寸法・ホィールベースと決め方自由自在なのである。プラットホーム=昔で言うシャーシの自由自在な寸法を決定出来る面白いエレメントである。ボルボの剛性確保も果たしその設計には目を見張る物がある。但し、今回のこのクルマ。実は自分は好きではない。いいのはフロントとインテリア。リアのCピラー周りはゴツイ!だからツートンカラーになってるのでしょう?XC60の方が良かったのではと思われます。自分は少し古風な人間なのかも知れません。V60やV40のデザインが好きだったノスタリジアックなユーザーの意見として言わせて頂ければあの薄いコンソールは何処へ行ってしまったのでしょう?確かにナビゲーションシステムは見やすくなったのでいいかも知れませんが?ボルボのアイディンティティは一体何処へ行ってしまったのでしょうか?                 コウジロウの独り言

頭が良かった、優しいヒマラヤン。

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ヒマラヤンは特徴的なポイントの毛色がヒマラヤウサギに似ていることから、その名が与えられたそうです。ヒマラヤンは、ペルシャとシャムを交配させる事によって誕生した猫で、人の手によって作出された種類となっているとのこと。写真はコウジロウの家に入居した当時のもの。生後3ヵ月だったと思う。化粧品会社の宣伝にいた頃の同僚から数万円で譲ってもらった子猫である。飼い始めてから2年後に待望の吉田家の長男が生まれた今から27〜8年前の頃。ベビーベットの部屋がリビングの横にあった。柵もゲージもないのに足をあげても入ろうとしても、そこでピタッと止まり入らなかったのを思い起こされます。「よし子」このヒマラヤンに付けられた名前。前の飼い主が名前を既につけていたのである。数ヶ月経つと生まれて数ヶ月の長男の横にそっと寄り添うだけで一切、手も足も出さなかったものです。この猫種は1955年にイギリスで、1957年にはアメリカで公認されるようになったそうです。原産国はアメリカとイギリスの両方らしいのですが、自分ではイギリスではないかと思ってます。なぜならば自分で飼ってた猫「よし子」は、やたら気品高く、ふさふさとした毛並みをなびかせながら歩く姿が小説の中の英国の貴婦人を思い浮かべてたからです。なにせ血統書付の親から生まれた猫。古くから存在する自然発生種のペルシャとシャムをかけあわせて、長毛とポイントというそれぞれの魅力を備えた猫を作り出したいという理想を描いたのは、スウェーデンの研究者であったと伝えられています。だから気品のある動きをしてたのですかね?ブリーダー達にとっても夢の猫と言えるヒマラヤンの性格は、ペルシャに似てとても温和で、飼い主に対して従順な性格の子が多くなってるそうです。一説によると人に対してあまり警戒する事が少ないため、飼い主の膝の上に乗ってきたり、撫でて欲しいとおねだりしてくる事もあるそうです。また、鳴く事が少ないためマンション等でも飼いやすい猫種ともいわれてます。その鳴き声も柔らかく快適に聞こえる事から「ミュージカルを聞いている様」と例えられる事もあるそうです。自分で飼っておきながら覚えていないんですがね。ただ、少し神経質な一面もあり、騒がしい環境をあまり好まない猫となっています。評判を伝え聞いた愛好家、繁殖家たちがそれぞれの国で育種を手掛けるようになったそうです。イギリスでは比較的早いうちからシャムとペルシャの交雑猫が存在し、「クメール」という名前で呼ばれていたこともあったそうです。ヒマラヤンの育種はよりペルシャに近い方向になり、70年代になってようやく理想に近いスタイルになったとされています。今現在の我が家では雑種「茶トラ」の和ネコ「カエラ」と「アメリカンショートヘア」の「達哉」の2匹を飼ってます。むしろ同居していると言った方がいい見たいです。長男が帰ってくる前は、自分のベットの上に喉を鳴らしながら居座っている「カエラ」は長男が帰ってくるととたんに自分のドアのところに座ってドアノブを見つめ、開けてくれって顔をしている。「達哉」はしばらくして遅れて泣き出し、長男の部屋のドアの前で座ってる。餌をねだる時だけ、自分の顔を見つめ「ニャーン」て泣いてるのです。自分になついてるのはこの時だけで、かつての「ヒマラヤン=よし子」が今いたらどんなにこのネコ達も変わってたのかと思うと13年生きたそのネコが恋しいと思う。そんなことを言っていたら、「カエラ」は今、コウジロウのベッドに入り浸りである。夜はほとんど早めに羽毛布団を掛けて寝ている自分の上に乗ってきてグッスリ眠るのである。なぜならばこの部屋には「達哉」は出禁で入ってこれないからなのだ。朝6時半に起こされるのだから、もうたまりません。喘息も持っている自分。猫の毛のアレルギーがあるのに可愛い❤️カエラには負けてしまいます。 コウジロウの独り言

Gorilla.彼女の名前「MOMOKO」?

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1995年6月に千葉動物公園で撮影したゴリラ。モモ子と思うんですが、本当にモモ子なのか?正確には解りません。千葉市動物公園には、今は三頭のニシローランドゴリラがいる。ゴリラには、マウンテンゴリラ、ニシローランドゴリラ、ヒガシローランドゴリラの三種類がいて、国内の動物園にいるのは、全て「ニシローランドゴリラになるそうだ。千葉市動物公園のゴリラ代表のモンタは、国内のゴリラの中でも一、ニを争う、整った顔立ちをした「イイ男」と書かれていた。最近民放テレビでゴリラを探すロケが放映されていた。「21歳のタレント・加藤ゆうみさん」が“志村どうぶつ園”大型新企画「マウンテンゴリラの保護活動をお手伝い!」で数センチまで接近するという凄いことをやってのけた。「基本的にゴリラは人間が友好的に優しく接すれば襲ってくる事はありません」と一般的に言われてもこんな見事な行動ができる人がいたのだろうかと思う位素晴らしい映像だった。しかも野生のゴリラと接していたのですから。それでも保護管理下にいるゴリラだからなのか?本当に優しそうだった。そのタレントの頭をそうっと撫でた気もした。彼女の役を自分では絶対出来る事ではない。彼らは臆病で出来れば争い事を起こしたくないと思っているので、危険を感じない限り大人しくしています」とは言われているものの野生のゴリラですからね。動物園でゴリラの檻に落ちてしまった人間を、心配して側に寄り添い守っている姿があったそうですが、他の肉食などの動物だったら大怪我している筈です。かといってストレスが溜っていたり興奮していると、子供に八つ当たりをして虐待に近い事をするものもいるみたいです。発見されてから、長年に渡って凶暴な動物であるとされてきたのですが、研究が進むにつれて、発情期を除けば実は温和で繊細な性質を持っていることが明らかになったのだそうです。海外の動物園で、ゴリラの檻に誤って子供が落ちた際、失神した子供をメスのゴリラが抱きかかえ、他のオスのゴリラを近づけないように飼育員に引き渡した姿がテレビで紹介されたこともあるのだそうだ。自から攻撃を仕掛けることはほとんど無いとされていて、人間の姿を見て興奮した群れのオスゴリラをシルバーバックが諌めるという行動も確認されているそうです。ゴリラは警戒心が強く、心臓の負担から死にいたるなど、ストレスに非常に弱いことも明らかになってきているそうです。マウンテンゴリラでは、息子が成長しても群れに残って複雄群となることもある。群れ同士は敵対的だが、縄張りを持たず、お互い避け合うことが知られている。外敵を威嚇する際には、二足で立ち上がって両手で胸を叩き、ポコポコポコと高く響く音を立てるドラミングと呼ばれる行動をとる。落ちている枝を折って見せるのも威嚇の一種だと考えられているそうです。生息地は保護区に指定されている地域もあるのですが、密猟されることも多くあると言われている。こんなに可愛らしいゴリラ。本当に自分も傍に行って頭を撫ぜたり出来るのであれば、ペットして飼いたいものだ。なんて言える筈がない。「加藤ゆうみ」さんみたいに勇気と本当に野生動物を愛せる気持がない限り「無理」に決まってますね。テレビで野生のゴリラの周りを飛ぶハエをみただけでもゾッとするんですから!            コウジロウの独り言

DOHC10バルブVOLVO 850とヘッドランプワイパー。

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ボルボ・850とは、日本で1992年モデルとして発売されたボルボの中型車。セダンとステーションワゴン(エステート)があった。写真は850セダンGL。240シリーズの後継機種として約5年の歳月をかけて開発された。1993年まで併売されたエンジン横置きのFWDレイアウトを採用し、直列5気筒エンジン(なんと基本的にはポルシェが開発に関与した960の直6から1シリンダー減らした設計なのだそうだ)を搭載。以後のボルボ各社の設計に大きな影響を与えたモデルである。8のボディに5気筒の5。2500CCの排気量だったのだが、BMWの850と比較され、5,000CCなのか?なんて聞かれもした。FFレイアウトを採用。FRモデルの長所であったサイズのわりに驚異的に小さい回転半径という特色は失われたのだそうだが。当初はボルボセダン伝統のアメリカ向けに見られる6ライトスタイルのセダン一種であったが、1993年にはワゴンモデルが追加され、特に日本ではセダンを凌ぐ人気だった。本国スエーデンという北欧でFRだったとは信じ難いのだが?トヨタスプリンターカリブが真似たのか微妙な時期なのだが、ルーフまで達する縦長のテールライトのデザインが印象深かった。自分はトヨタやホンダの縦型リアランプにしたモデルが多かったのは模倣されたのではなく気のせいでしょうか?エンジンバリエーションは全て直列5気筒。日本では最初にDOHC20バルブ搭載車「GLT/2.5 20V」が発売。続いてDOHC10バルブ「GL/GLE/S2.5/2.5」、ターボチャージャー付(チューンにより850ターボ、T-5、2.5T、T-5R、Rなど)と拡充された。時代によってバンパーのFRPのデザインガ異なり、自分のは初期型だったようである。シートからエアーバックが作動したり、画期的な事が多かった。リアシートの肘掛けを倒すと5歳までと提言はされていたのだがチィルドシートにもなり、セダンなのにトランクスルーなのも重宝した。タ−ボ車は自分は知らない。チューニングはポルシェが担当したそうだ。ミッションはアイシンワーナー(アイシン精機)。新設計された850は「従来のボルボとの共通点は事実上ゼロ」といえるほどのニューモデルだった。「何台重ねても』と言う、当時の安全第一だが鈍重な固いイメージが強かったボルボを180度変える「クラッシャルボディ』の構造のモデルだった。また、850の戦略的なBTCC(英国ツーリングカー選手権)の参戦によって「ボルボ=スポーティー」という現在まで受け継がれる確たるイメージを定着させ、ステーションで参加させ世界的に話題になった。特に市販車としては限定スペシャルモデルの850T-5R、850R(いずれもターボモデル)は即完売するなど、これまでにない大ヒットとなった。この写真を見てほしい。場所は福島県原村近くの水織音の里。恩師の山荘近く。何故か自分のドライブ写真は、ダートが多いのにお気づきだろうか?フロントライトワイパーである。この頃はメルセデスとこのボルボが付けていたのである。当然全車ではなく高額車両に多く見られた。後のモデルには着いていたのだが、自分が乗っていたメルセデスのW124には着いてなかった。泥や雪等付着した場合に落とす役割であったのだが、殆ど活躍する場はなかった。ウインドーにウォッシャー液を流す時に同時に動いてしまう為、ワイパーゴムの減りが早かったのを覚えている。そして850が日本市場で1990年代のステーションワゴンブームの火付け役となり、スバル・レガシィ日産・ステージアなどの日本の自動車メーカーのステーションワゴンに大きな影響を与えたのだった。1997年、それまでのボルボとしては異例にも6年という短命で850という名称はその生涯を終えた。マイナーチェンジを受けてS70/V70と改名されたのだがドア以外、すべてデザインが違うと言われても、同じ様にしか見えなかった。今のクルマには見られない、面白いヘッドランプワイパー。30年後!どう言われてるのでしょうか? コウジロウの独り言