Gorilla.彼女の名前「MOMOKO」?

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Photo by Kojiro

1995年6月に千葉動物公園で撮影したゴリラ。モモ子と思うんですが、本当にモモ子なのか?正確には解りません。千葉市動物公園には、今は三頭のニシローランドゴリラがいる。ゴリラには、マウンテンゴリラ、ニシローランドゴリラ、ヒガシローランドゴリラの三種類がいて、国内の動物園にいるのは、全て「ニシローランドゴリラになるそうだ。千葉市動物公園のゴリラ代表のモンタは、国内のゴリラの中でも一、ニを争う、整った顔立ちをした「イイ男」と書かれていた。最近民放テレビでゴリラを探すロケが放映されていた。「21歳のタレント・加藤ゆうみさん」が“志村どうぶつ園”大型新企画「マウンテンゴリラの保護活動をお手伝い!」で数センチまで接近するという凄いことをやってのけた。「基本的にゴリラは人間が友好的に優しく接すれば襲ってくる事はありません」と一般的に言われてもこんな見事な行動ができる人がいたのだろうかと思う位素晴らしい映像だった。しかも野生のゴリラと接していたのですから。それでも保護管理下にいるゴリラだからなのか?本当に優しそうだった。そのタレントの頭をそうっと撫でた気もした。彼女の役を自分では絶対出来る事ではない。彼らは臆病で出来れば争い事を起こしたくないと思っているので、危険を感じない限り大人しくしています」とは言われているものの野生のゴリラですからね。動物園でゴリラの檻に落ちてしまった人間を、心配して側に寄り添い守っている姿があったそうですが、他の肉食などの動物だったら大怪我している筈です。かといってストレスが溜っていたり興奮していると、子供に八つ当たりをして虐待に近い事をするものもいるみたいです。発見されてから、長年に渡って凶暴な動物であるとされてきたのですが、研究が進むにつれて、発情期を除けば実は温和で繊細な性質を持っていることが明らかになったのだそうです。海外の動物園で、ゴリラの檻に誤って子供が落ちた際、失神した子供をメスのゴリラが抱きかかえ、他のオスのゴリラを近づけないように飼育員に引き渡した姿がテレビで紹介されたこともあるのだそうだ。自から攻撃を仕掛けることはほとんど無いとされていて、人間の姿を見て興奮した群れのオスゴリラをシルバーバックが諌めるという行動も確認されているそうです。ゴリラは警戒心が強く、心臓の負担から死にいたるなど、ストレスに非常に弱いことも明らかになってきているそうです。マウンテンゴリラでは、息子が成長しても群れに残って複雄群となることもある。群れ同士は敵対的だが、縄張りを持たず、お互い避け合うことが知られている。外敵を威嚇する際には、二足で立ち上がって両手で胸を叩き、ポコポコポコと高く響く音を立てるドラミングと呼ばれる行動をとる。落ちている枝を折って見せるのも威嚇の一種だと考えられているそうです。生息地は保護区に指定されている地域もあるのですが、密猟されることも多くあると言われている。こんなに可愛らしいゴリラ。本当に自分も傍に行って頭を撫ぜたり出来るのであれば、ペットして飼いたいものだ。なんて言える筈がない。「加藤ゆうみ」さんみたいに勇気と本当に野生動物を愛せる気持がない限り「無理」に決まってますね。テレビで野生のゴリラの周りを飛ぶハエをみただけでもゾッとするんですから!            コウジロウの独り言

DOHC10バルブVOLVO 850とヘッドランプワイパー。

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ボルボ・850とは、日本で1992年モデルとして発売されたボルボの中型車。セダンとステーションワゴン(エステート)があった。写真は850セダンGL。240シリーズの後継機種として約5年の歳月をかけて開発された。1993年まで併売されたエンジン横置きのFWDレイアウトを採用し、直列5気筒エンジン(なんと基本的にはポルシェが開発に関与した960の直6から1シリンダー減らした設計なのだそうだ)を搭載。以後のボルボ各社の設計に大きな影響を与えたモデルである。8のボディに5気筒の5。2500CCの排気量だったのだが、BMWの850と比較され、5,000CCなのか?なんて聞かれもした。FFレイアウトを採用。FRモデルの長所であったサイズのわりに驚異的に小さい回転半径という特色は失われたのだそうだが。当初はボルボセダン伝統のアメリカ向けに見られる6ライトスタイルのセダン一種であったが、1993年にはワゴンモデルが追加され、特に日本ではセダンを凌ぐ人気だった。本国スエーデンという北欧でFRだったとは信じ難いのだが?トヨタスプリンターカリブが真似たのか微妙な時期なのだが、ルーフまで達する縦長のテールライトのデザインが印象深かった。自分はトヨタやホンダの縦型リアランプにしたモデルが多かったのは模倣されたのではなく気のせいでしょうか?エンジンバリエーションは全て直列5気筒。日本では最初にDOHC20バルブ搭載車「GLT/2.5 20V」が発売。続いてDOHC10バルブ「GL/GLE/S2.5/2.5」、ターボチャージャー付(チューンにより850ターボ、T-5、2.5T、T-5R、Rなど)と拡充された。時代によってバンパーのFRPのデザインガ異なり、自分のは初期型だったようである。シートからエアーバックが作動したり、画期的な事が多かった。リアシートの肘掛けを倒すと5歳までと提言はされていたのだがチィルドシートにもなり、セダンなのにトランクスルーなのも重宝した。タ−ボ車は自分は知らない。チューニングはポルシェが担当したそうだ。ミッションはアイシンワーナー(アイシン精機)。新設計された850は「従来のボルボとの共通点は事実上ゼロ」といえるほどのニューモデルだった。「何台重ねても』と言う、当時の安全第一だが鈍重な固いイメージが強かったボルボを180度変える「クラッシャルボディ』の構造のモデルだった。また、850の戦略的なBTCC(英国ツーリングカー選手権)の参戦によって「ボルボ=スポーティー」という現在まで受け継がれる確たるイメージを定着させ、ステーションで参加させ世界的に話題になった。特に市販車としては限定スペシャルモデルの850T-5R、850R(いずれもターボモデル)は即完売するなど、これまでにない大ヒットとなった。この写真を見てほしい。場所は福島県原村近くの水織音の里。恩師の山荘近く。何故か自分のドライブ写真は、ダートが多いのにお気づきだろうか?フロントライトワイパーである。この頃はメルセデスとこのボルボが付けていたのである。当然全車ではなく高額車両に多く見られた。後のモデルには着いていたのだが、自分が乗っていたメルセデスのW124には着いてなかった。泥や雪等付着した場合に落とす役割であったのだが、殆ど活躍する場はなかった。ウインドーにウォッシャー液を流す時に同時に動いてしまう為、ワイパーゴムの減りが早かったのを覚えている。そして850が日本市場で1990年代のステーションワゴンブームの火付け役となり、スバル・レガシィ日産・ステージアなどの日本の自動車メーカーのステーションワゴンに大きな影響を与えたのだった。1997年、それまでのボルボとしては異例にも6年という短命で850という名称はその生涯を終えた。マイナーチェンジを受けてS70/V70と改名されたのだがドア以外、すべてデザインが違うと言われても、同じ様にしか見えなかった。今のクルマには見られない、面白いヘッドランプワイパー。30年後!どう言われてるのでしょうか? コウジロウの独り言

GINZA ILLUMINATION 2017・銀座通りの「光の花かご」?

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自分はもう銀座の人間ではない。したがって銀座のディスプレイについてとやかく言えた義理ではない。ある日の夕方、クライアントが日本橋にあるのでITOYAに向かって、歩いて銀座一丁目まで行った時の事。見られないイルミネーションが中央通りから銀座通の入ったとこにあったのだ。調べて解ったのが2016年末から冬の銀座の風物詩となるように「ギンザ・イルミネーション2016(GINZA ILLUMINATION 2016)」としての企画イベントが12月3日にスタートしたのだったらしい。その残像を自分は見たのだった。"光のアーティスト"として国際的に活躍しているフランスのクリエーションスタジオ「ピタヤ(PITAYA)」を起用とある。ディスプレイから遠ざかっている自分だからか知らない人。「光の庭園」をテーマに街を彩った。通常無かったイルミネーションがあったのにはちょっとビックリ。何を意味してるのが解らなかったからである。東日本大震災の復興を祈願してスタートした「ギンザ・イルミネーション」は、「ブルガリ(BVLGARI)」や「カルティエCartier)」「シャネル(CHANEL)」といった銀座にブティックを構えるブランド企業が加盟している「ギンザ インターナショナル ラグジュアリー コミッティ」、銀座通連合会、全銀座会が主催するイルミネーションイベントで、昨年で6回目を迎えたらしい。「ブルガリ(BVLGARI)」は常陳であるが故にとてつもなく素晴らしい。銀座通りのは約13万個のLEDと48個の輝くオブジェで、中央通り1丁目から8丁目および晴海通りの数寄屋橋から銀座4丁目交差点付近を装飾している一部。「花と樹」をモチーフにしたオブジェは銀座通りに16個設置したほか、初めての試みとして32本の街路灯にバスケット状のイルミネーションを吊り下げ、頭上からもライトアップしていた。これがまた中途半端に見えるのだ。やるならやるでもっと数が欲しかった。晴海通りでは中央通りのイチイの花壇と合わせて13万個のスペシャル・シャンパンゴールドのLEDをガードレールと街路灯に巻きつけ、上質な世界観を演出してたらしいがそこまで自分はたどり着いていないのである。かつてショウウィンドウで仕事だったが銀座通連合会で賞を頂いた事もあったが今や誰がインシャチブをとってやっているのか誰かも解りかねるのだが? 今年もやられるであろうこれらのイルミネーション。今年の情報は以下の通りで、期待通り昨年の2倍の量になるそうだ!そのまま記載するのでよろしく!

7回目となる今年は、昨年に引き続きフランスのクリエーションスタジオPITAYA(ピタヤ)がデザインした“光の花かご”を街路灯に吊り下げるイルミネーションを展開。銀座の街並みをアート感覚あふれる世界観に包み込みます。設置する街路灯の本数は昨年の約2倍、銀座・中央通りに46本、晴海通りに14本、合計60本とエリアを拡大します。晴海通りの街路灯に吊り下げ型のイルミネーションを設置するのは今回初(昨年は銀座・中央通りのみ32本設置)。合わせて晴海通りでは、例年同様にガードレールへのLED装飾も行います。 点灯時間は15時から24時まで(初日のみ16:30~)。“光の花かご”が、夕暮れに向かう日差しや街のネオンに反射しながら暖色系の白色の光彩を放ち沿道を照らし続けます。 【開催日時】 2017年11月25日(土)~2018年1月8日(月・祝) 15:00~24:00 ※11月25日のみ16:30~ 【開催場所】 銀座・中央通り1丁目から8丁目および晴海通りの数寄屋橋から銀座4丁目交差点付近                 以上                                コウジロウの独り言

初めは時計がなかった。札幌市時計台。

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礼文島富良野旭川を経由しやっと4人が共通の友人のいる札幌に着いた。思い起こせば、T美大の同級生の家にやっと到着し、一泊。次の日に時計台に到着した。この頃の「夜のすすき野」はリーゼントの男達が多かったのを覚えている。キャロルがデビューした頃である。やたら暑かった1972年の札幌の夏。ジンギスカン料理がおいしかったのを覚えている。この時計台、明治35年頃までは「農学校の大時計」と言われていたらしい。何時のころから時計台とよばれるようになったかはっきりしないそうです。当初完成したこの建物、演武場には時計塔はなく、授業の開始や終了を告げる小さな鐘楼が屋根の上にあっただけらしい。演武場の完成式に出席した黒田清隆開拓長官の指示で、塔時計の設置が決まったと言われています。1878年10月25日、ホイーラー教頭がアメリカ合衆国ニューヨーク市ハワード時計商会に塔時計を発注。1879年6月頃札幌に到着した時計機械が予想以上に大きかったため、鐘楼に設置できなかった。時計塔の設置には大がかりな改修と費用が必要なため、当時建築中の豊平館や他の建物に設置することも検討されたのだそうだ。ホイーラー教頭はそこで演武場に塔時計を置いて札幌の標準時刻とすることの大切さを力説。黒田長官を説得しましたのだそうだ。完成間もない演武場に時計塔を造り直して時計機械が据えつけられたのです。校地内の天文台(観象台)で天体観測を行い時刻調整を行ったのち、1881年8月12日、塔時計は澄んだ鐘の音とともに正しい時刻を札幌の住民に知らせ始めたのだそうだ。1878年10月16日 - 演武場(武芸練習場・屋内体育館)として建設され、札幌農学校敷地内で、1906年に移設されるまでは、現在の位置よりおよそ130m北東に位置していたのだそうだ。有島武郎の「星座」では「演武場の片隅にある時計台」とある。この作家は「カインの末裔」でも北海道の酷烈な自然とたたかいたくましく生き,隷従的な生き方の他の小作人たちとなじめない,農場主の権力にも打ち勝てずもせず,悲運も重なって,あてもなく農場を去る悲劇を描いたりもしている。開拓農場の隷従的な労働の実態もリアルに描き出している作家でもある。その中に札幌時計台を描いているのがなんと大切な建造物なのではないでしょうか?また高階哲夫は「時計台の鐘」を作詞作曲。前述の様に明治時代は「農学校の大時計」、又は「演武場の時計台」と言われたり、大正時代に「時計台」と呼ばれ、そして一般化されたそうです。かつては札幌市の図書館として使われていたこともあり、北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)と並んで、札幌市中心部の今や欠かせない観光スポットである。札幌市の象徴的建物でもある。また道外では札幌ラーメンの店の看板や北海道観光のポスターに多用されている。なんと北海道日本ハムファイターズの応援歌の歌詞にも使われているとも言うのだからその認知度は相当高い事がわかる。白い壁面が象徴色になってるが、1995年から実施された保存修理時の調査で、創建当初は壁が灰色、柱や窓枠が茶色に塗られていたことが判明したのだそうだ。緑色に壁が塗られていた時もあったそうなのだが、白の塗装となったのは1953年からである。今や壁の色は創建時の灰色に戻すことはせず、長年親しまれた白色としているのだそうだ。建設当初は大時計を設置せず、鐘楼に工部省東京工場製の鐘が吊るされていたと文献にあるのが信じられないくらいマッチした建造物は我々を幸せの道へ案内してくれそうである。                                                    コウジロウの独り言

幕張・新都心の発展は遊び感覚の総合レジャー施設から?

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幕張新都心・ワールドビジネスガーデン マリブウエスト35FにあるGOLD'S GYM。本当に館内は東京湾を全体見渡せる圧倒的な眺望。「シリアスフィットネスとエグゼクティブ空間の融合を実現している」とはよく言ったものです。オフィス街とマッチしてるのか?なんか素晴らしく感じた。このエリアのGOLD'S GYMではANNEX店と両方、会員は利用出来る。ANNEX店はJR駅徒歩2分。ヨガで2週間のうち2回だけ体験でANNEX店へ行った事がある。どちらかと言うとANNEX店はマッチョが多かった。マシンをやりにやはり2回だけマリブウエスト35F店を体験。シチュエーションは抜群である。35Fは我がマンションでも22Fなんだから相当高い。最も低層階に自分は住んでいるのだから、何とも言えないが?高所恐怖症の自分なのだが階数の高いスポーツジムは特別で素晴らしかった。記憶ではちょっと前に体感したのであるが、とてもよかったと記憶している。エアロビクスの体験はこの場所ではなかったのだ。そもそもエアロ・ビクスやヨガのカリュキラムがGOLD'S GYMでは少ないのだ。南船橋ビビットスクウェアダイワハウス系列のNASスポーツクラブの閉鎖に伴って体験して覚えたスポーツジムGOLD'S GYM。やがて元のNASの場所も数ヶ月経ってGOLD'S GYMになったので、そこに行く事にしたのだった。したがって幕張新都心ゴールドジムには行く事がなくなった。ただ思い起こせばサンサンと入ってくる太陽の日差しの中で自転車漕ぎやルームランナーは格別だったのを覚えている。トレーニング・ジムのスタジオでビビットスクウェアでも太陽の日差しが入るとまぶしいのだから、35Fのジムに行ってたらさぞかし日焼けしてたのだろうか?ただ日差しの入る場所が、柔軟やスタ−トする前のストレッチするところだけだった気がします。ヨガとかエアロをするスタジオは34Fで天井高の鏡一面のさすがってところ!ちょい狭い感じがしたのは天井が高い所為なのかもしれません。このスポーツジムの会員にならなかったのは駐車場の無料券が2時間しか貰えなかったから。そして何よりも家から20分位かかってしまうからなのだ。今のビビットスクウェアのGOLD'S GYMだったら10分位で行けてしまうからなのだ。今は体調崩してるので、休会し妻のみ通ってますが、早く戻りたいものです。左の写真の様に幕張・新都心はイオン・モールが数年前に出来た事やプリンス・ホテルからアパ・ホテルへと経営が変わる等、ますます目を離せなくなってます。手前にはCOSTCOもり、アウトレット・モールもワールドビジネスガーデンの2ブロック向こう側に拡張され活気が出て来てます。写真にもある「東京ベイ先端医療・幕張クリニック」は、がんをより鮮明に映し出す「PET-CTによる画像診断と、放射線治療装置により”切らずに治す”からだにやさしいがん治療を目指す医療施設」もある。そして来年からはロッテ・オリオンズの監督も井口資仁内野手と決定し、ますますこのエリアを活性化してくれる筈。イオン・モールも市場調査として自分は足を運ぶのが大好きですし、御殿場や酒々井のアウトレットも遠いと感じた時、このエリヤのアウトレット・モールが最高の一時を創ってくれてます。さあ!どうですか、たまには幕張新都心に足を運んでみたら?ただ、自分はララポートにいる事が最近多いかも知れませんが?

コウジロウの独り言

フランスの画家ベルナール・ビュフェを富士の麓で!

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静岡県長泉町東野の「クレマチスの丘(スルガ平)」にあるベルナール・ビュフェ美術館。フランスの画家「ベルナール・ビュフェ」の作品を収蔵・展示するために、岡野喜一郎 (1917-1995)によって1973年11月25日に創設された美術館である。以前はリトグラフを我が家にも展示してたのだが、訳あり親戚の家にある。妻が静岡県出身という事もあり、妻のお父様のコレクションの一枚がビュッフェのものだった。我が家にはプリントだが何枚かのビュッフェの額が吊りされていて洗面所の3面鏡に写るピエロは圧巻である。独特のフォルムと描線。白と黒と灰 色を基調とした沈潜した色。「私はビュフェの虜となった」と岡野喜一郎著「ビュフェと私」1978年4月(ベルナール・ビュッフェ美術館HPより)が言ってる様に、我々夫婦まで虜になってしまっているにかもしれません。伊豆方面にドライブすると必ず寄る中堅地点でもある。当然、「クレマチスの丘」で軽食もとれる。この美術館の収蔵作品数は油彩画、水彩画、素描、版画、挿画本、ポスター等あわせて2000 点を超え、世界一のビュフェコレクションを誇っているとのこと。このビュッフェの戦後の虚無感や不安感を描き出した表現は、岡野氏の心に深く刻 まれたのこと。その後、各年代の代表作の蒐集を続けた岡野氏は、この稀有な画家を20世紀の時代の証人として残すため、「ひとりの天才の才能を通じ、この大地 に文化の花咲くことをのぞむ」という願いのもと、故郷に近いこの地に美術館の創設を決意したらしい。何を隠そう自分も影響を受けた一人かも知れません。そのうちこのブログでもご紹介したいのですが、直線の集合体をベラム紙に描きその描画をスキャンし、写真で撮ったRGBをCMYKに置き換え、プリントする作品を10数枚創作している。今はデジタルになってMacがあればその作業も出来るであろうが、数十年前の当時は板橋の凸版印刷のグラフフィックアーツの製版の方々ににお世話になって10枚づつ位、B2校正刷で制作して頂いていたのである。要はプリントメディアもリトグラフ同様表現の一部であると自負して創造に至ったのであり、その理解を求めようとした。ただ、ビュッフェの表現の線と面には到底追いつけるものではなく、ただ小綺麗なグラフィックイラストレーションに終わっているのかもしれないと考え、少しあきらめも生じていた。その表現した作品はまた後日ご紹介することにして、この美術館のお話に戻します。この建物の設計は「建築:菊竹清訓建築設計事務所」。何かファサードがカッコいい。設計者・菊竹清訓氏は独自のデザイン論である『代謝建築論 か・かた・かたち』を掲げ、黒川紀章氏らとともに建築と都市の新陳代謝、循環更新システムによる建築の創造を図ろうとする「メタボリズム」を提唱していた。2000年にユーゴスラヴィアビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれている。1970年の日本万国博覧会大阪万博)では『エキスポタワー』、1975年の沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)では『アクアポリス』を設計し、1985年の「国際科学技術博覧会(つくば科学万博)」ではマスタープラン作成委員としてBブロックの会場計画および外国館の設計を担当、2005年「日本国際博覧会愛知万博)」では総合プロデューサーとして会場計画を担当するなど、日本国内で開催されてきた国際博覧会にも深く関わってきた方である。デザインが格好いいのでご紹介したのだが、一つ皆さんにお伝えしたいのは、美術館側には失礼なお話なのだが、常陳がすべてご紹介されている時にこの美術館を訪れた方がいいという事である。何かイベントや特集が組まれていると「ベルナール・ビュッフェ」は堪能出来ないからである。見たい絵画が見れない時、「こんなに悲しい事なのか?」と何回も実感してるからなのです。特にビュッフェ美術館は多い気がします。間違いだったらゴメンナサイ。

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VOLVO V40と今はもう無い「NISSAN Carest」

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いつも洗車をしていた、カレスト幕張「Carest」。愛車V40はコーティングしているのでいつも水洗いのみ。でもカレストのシチュエーションとポジショニングは最高によかった。家から10分位で隣には「TOKYO INTERIOR」があり場所としては最高だった。パームツリーが何本も並び、背景にそれが写るだけで真夏の頃はハワイのようだった。それが今年無くなってしまったのだ。(2018年2月27日現在ではパームツリーも全て無くなり更地となっている)がっかりである。かつては「おぎやはぎの愛車遍歴」のロケ地でもあった。あのドン小西氏の時はスカイライン2000GT-Aでこの周遊をグルグル廻っていた。youtubeか「おぎやはぎの愛車遍歴』のDVDを見て頂ければ場所が「良かった」って事が解ってくれるはず。もうぼくなんかは洗車はおかげで自分でやる事なく、ガススタンでやる事になってしまった。その洗車場にはランボルギーニフェラーリはさすがに来なかったが、BMWメルセデス、そしてアウディ達もよく来ていた。何故かニッサンのサービスステーションなのに外車が多かったのが印象的である。久々クルマについて語ることにする。愛車はVOLVO V40 T4。2012年春のジュネーブモーターショーでデビューし、日本では2013年2月19日に発売された新型「V40」は、ボルボの最小5ドアモデル。車名は初代V40(1995~2004年)の復活という形になるが、実質的にはC30/S40/V50(2004~2013年)のクロスオーバー後継車と言われている。いわゆるコンパクトカーに属し、ライバルはVW ゴルフ、メルセデス・ベンツ Aクラス、BMW 1シリーズ、アルファロメオ ジュリエッタ、レクサス CT200hなどとなる。その開発コンセプトは、ボルボの上級モデルが備える機能をコンパクトカーに取り入れる、というものだった。中でも安全装備に関しては、世界初を含めた最先端のシステムを採用しており、作動速度域を従来の30km/h以下から50km/h以下まで高めた自動ブレーキ「シティ・セーフティ」を標準装備。そして歩行者を検知する「ヒューマン・セーフティ」や世界初の「歩行者エアバッグ」をオプションで用意するなど、クラスレスな内容となっている。なんと縦列駐車は自動運転してくれるのだ。ただ、まだ一度しか使ってないのだが。デザイナーはサイモン・ラマー氏でV40の 外観デザインを統括したケベック出身のカナダ人でスカンジナビアデザインとなっている。C30のクーペスタイルを5ドアで再現したという感じでもある。エンジン型式は B4164T。2013年バージョンで購入。本来なら2014年バージョンとなる時期なのに、直ぐにリーズナブルな価格帯で欲しいという事でこの時期となり、スタッドレスタイヤ4本(純正品)もホイール付で入手。 ●最高出力:180ps(132kW)/5700rpm 最大トルク:24.5kg・m(240Nm)/1600~5000rpm●種類 :水冷直列4気筒DOHC16バルブICターボ ●総排気量:1595cc 内径×行程:79.0mm×81.4mm 圧縮比:10.0過給機:IC付きターボ ●燃料供給装置:電子燃料噴射式 燃料タンク容量:62リットル●使用燃料:無鉛プレミアムガソリン  JC08モード燃費:16.2km/リットル ●ステアリング形式:パワーアシスト付きラック&ピニオン ●サスペンション形式(前):マクファーソンストラット式 ●サスペンション形式(後):マルチ・リンク式 ●ブレーキ形式(前):ベンチレーテッドディスク ブレーキ形式(後):ディスク ●タイヤサイズ(前):225/45R17 タイヤサイズ(後):225/45R17(自分のは215/55R16) ●最小回転半径:5.6m 駆動方式:FF トランスミッション:6AT LSD 等々凄いと思いません?法廷規制があるからあまりスピードの事は言えませんが、とにかくキビキビストレートに速い。最高にデザイン・性能、共に気に入っている。スポーツカーセダンと言えばいいのですかね?メーターもボルボ初のデジタルで3パタ−ンを選べるから面白い。●日産カレスト幕張店によせられていたクチコミ情報を記載してみると●ピカピカにしてもらった記憶があります! 隣にあるカー用品店も利用しました。 良い場所にあります。●とにかく、広すぎてどのくらい車があるか分からないくらい。お店の方も気さくに対応していただいた上、店内の広大な敷地の中で試乗できる所は他店では、なかなか無いと思います。 また、正規ディーラー系店だったので、アフターサービスも充分満足いくものでした。分からない点も明確にお応えしていたけて、安心して取引ができました。●さすが日産直営のお店で、日産車の事なら営業マンがビシビシ教えてくれます。 ここの営業マンと話していて、日産車が好きになりました。 友達や親にも紹介して、合計三台同じ営業マンから買いました。●試乗700m×二周のコースで車の状態を見れるというのがかなり良かったです。店員さんも他の中古車店のようにとにかく「車買って!」を押しつける事もなく、車や諸経費の内訳説明が丁寧でした。=ニッサンのセールストークが多く聞かされた。カレストは多分採算割れしたんでしょうね。今やニッサンも他の数社もリコールが起きており、大変な事になっている。そして潮流は電気自動車・自動運転。自分はもう少し化石燃料車に乗ろうと思ってます。助手席に左手を乗せバックする姿はもう見られませんが?                              コウジロウの独り言