1972年スカイライン2000GT・ローレル1800・セドリックハードトップ

f:id:kohyusya:20170804190316j:plain Photo by Kojiro

学生時代のT美大の構内。ドアミラーにグリルには当時ポピュラーだったシビエのバケツ=スーパーオスカーだ。知る人ぞ知る抜群の発光体だった。これは友人のクルマN氏のスカイライン箱型・シングルキャブレターの2000GT。このクルマと後ろのローレルの持ち主、つまり自分と東名で最高速競争をやったこともある。当然ローレルの持ち主だった自分はスカイライン・ケン・メリのGT-X・ツインキャブに乗り換えてからだった。ほんの頭だけ徐々に離していく感じだった。当然メーターは振り切るちょっと手前。メーター上で180kmはオーバーしていたが。ただこの箱型スカイライン2000GTには学生時代1ヵ月もお世話になるのである。北海道をこのクルマで一周するのである。東北の松島に一泊。恐山を通り大間から函館に抜けた。駒ヶ岳の下で警察に厄介になり小言を言われ、「歩道橋を造るのはお前らだ」なんて言われた。稚内にクルマを置き、礼文島にも渡った。4人で行った為2人づつに意見が解れ、野宿の際、テントとクルマと別々に寝たりもした。帰りは秋田経由妙高高原の彼の山荘で1週間ぐらいか体を休めてから東京に帰った。途中碓氷峠ぐらいからキャブにゴミが入りエンジンの制動がおかしくなったのを思い出した。豊島区の営業所で見てもらったから言えるのだが、本当は自分が壊したのかと思った。そうとう飛ばしてたからである。当時はネズミ捕り以外高速でも速度感知器は少なかったからである。自分の家のローレルは上高地や富士山スバルラインや伊豆にはよく行った。セドリックでは日帰り軽井沢や鎌倉に学校をさぼって行ったものだ。当然運転は自分。この三台。各自親のすねかじりでねだって買ってもらったものだと思った。車は自分達のものではないにしろ、よく三人とも学校に乗ってくていたのだから否定は出来ない。この構内でブーンブーンとエンジンをならしキィーなんてタイヤもならしていたら、レクサスのデザイナ−の卵「F氏」(当時プロダクトデザイン科)の先生に「コラー」としかられていたことも事実だし、記憶にもある。 何しに学校に行ってたのでしょう?そう、あの学園紛争を超えたT美大の自分たちの学年以下は皆八王子だったからこんな風景も生まれてたのでしょうね!

                                                                                                                     コウジロウの独り言

ケオラ・ビーマーのギタ−が奏でる、ハワイアン・ララバイ。

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カーペンターズなど多くのアーティストにカヴァーされ続ける名曲「ホノルルシティライツ」 、サーフィンを題材とした名作「Big Wednesday(ビッグ ウェンズデー)」のエンディングタイトルを手がけたKeola Beamer(ケオラ ビーマー)。好きなアーティストはたくさんいるけど、やっぱりダントツはこの人、ケオラ ビーマー氏。ハワイ特有のスラックキーギターの第一人者。ハワイ生まれのスラックキー・ギター奏者でヴォーカリスト。1973年に弟のカポノ・ビーマーとビーマー・ブラザーズとして活動開始。1978年に『Honolulu City Lights』がヒットする。90年代以降は、ダンシング・キャット・レコーズから続々と力作を発表し話題を呼んだ。そのビーマーファミリーのマヒ・ビーマーと彼の奏でるピアノのもとで一緒に唄ったことは以前のブログでご紹介させて頂いた。今回は珍しくそのギタ−のルーツになるDiscの紹介である。ハワイに何回か行った者だけがハワイを知ることになる、その第一歩が音楽である。コーディネータ−『ジミー』が一番熱心に教えてくれたのをもう何十年も前になるのにしっかりと覚えている。「ビーマーブラザーズ・ケオラビーマー」の弾くギタ−はなんと素晴らしいのだろうか?ハワイのレコード屋で初めて買った『Honolulu City Lights」。ちょうどレコードからCDに代わる頃、両方の音源を選べた。ホノルル郊外に行くと別の二人のライブのBGM的音楽が流れてくるレストランがあった。当然やや料金も高めだったかもしれないがビーマーブラザースには巡り合わせがなかったが、レストランのグループは『トマ&ナット』と言って、会い紹介してもらった。残念ながら自分がコマーシャルのスチル撮影のみだったこともあり、デモテープを貰ったりして紹介されても直ぐにマーケットに流すことはできなかった。1〜2年経ったか直ぐにそのグループの紹介が日本でも聞くことが出来た。ハワイでは『ビートルズ』をハモって奏でられて素晴らしかったのだがオリジナルはちょっといいんだが難しかった。そんな世界にはまっていた自分が40年以上経っても飽きずにいるのが大好きなケオラ・ビーマー&ビーマー・ブラザーズ。Keola Beamer Discography『愛しきハワイアン・ララバイーカ・レオ・オ・ロコ』を聞いてみて下さい。(写真のCD) 。何時の日か?サンセットの浜辺のビーチサイドでスパークリング・ワインシャンパンを片手に、グラスの向こうに貨物船ではなく「カタマラン・ヨット」がセイリングをしてる優美な世界に入って観たいものです。『ケオラ・ビーマー』のサウンドは本当に大人の超越した人だけの耳の入って行くやさしい音楽なんです。「ジョージ・ウィンストン」がプロデュースであるからなのか?最高に美しいギタ−の音色だけで永遠の楽曲を創れるなんてなんと素晴らしいことなんでしょう!残念なのはドライブには気をつけた方がいいことです!眠気が誘ってくるからです。フィンガータッチでいつものスチール弦からナイロン弦に置き換えて演奏してる曲がいくつもあり、歯切れの良いイメージだけではなく、「マロい」優しい音色だからです!2014年マスタ−使用のCDである。写真は鴨川のタワーから太平洋に沈む夕日をIpad miniで 撮影したものと紹介したCDジャケット(2015年日本発売)。20年以上前になる記憶をたどっても音楽は忘れられないし、時代を超越してくれさせてくれる。                                    コウジロウの独り言

007役のロジャームーアは 一回もアストンマーティンに乗っていない。

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写真は1974年、パリの一角に駐車していたアストンマーチンDBS。お話は今年亡くなった俳優ロジャー・ムーアのこと。人気映画「007」シリーズで主人公のジェームズ・ボンド役で人気のあったイギリスの俳優。ロジャー・ムーアも今年5月23日に死去した。ロジャー・ムーアは癌を患い、スイスで闘病中だったそうだ。89歳だった。3代目の公式ボンド役に抜擢され、1973年から85年まで出演した。1代目からは以下の通り。●渋い本物のスパイだった。ショーン・コネリー●1作のみのジョージ・レーゼンビー●ここに三代目の8作〜14作の-ロジャー・ムーアティモシー・ダルトン●スマートな007、ピアース・ブロスナン●タフな金髪のジェームズ・ボンドダニエル・クレイグと代々続く。ロジャー・ムーアが出演したのは「死ぬのは奴らだ」(73年)、「黄金銃を持つ男」(74年)、「私を愛したスパイ」(77年)、「ムーンレイカー」(79年)、「ユア・アイズ・オンリー」(81年)、「オクトパシー」(83年)、「美しき獲物たち」(85年)の7作。歴代のボンド役で最多となる。ほとんどの人は「ジェームズ・ボンド」を思い浮かべるのはロジャー・ムーア。映画『007』には確かに歴代のアストンマーティンが数多く登場してきたが、ムーアが出演した作品には実は1台も登場していないというのには驚かせられる。自分はこの記述に驚かされた。ロジャー・ムーアは『007/死ぬのは奴らだ』ではシボレー「インパラ」、『007/黄金銃を持つ男』ではメルセデス・ベンツ。『007/私を愛したスパイ』や『007/ユア・アイズ・オンリー』ではロータスエスプリ」を操り、『007/オクトパシー』では「レンジローバー」、また『007/美しき獲物たち』ではフォード「LTD」に乗った。ムーアは、『セイント/天国野郎』の出演後から007シリーズに出演するまでの間に、TVシリーズ『ダンディ2 華麗な冒険』に出演、アストンマーティンのステアリングを握っていたことがあったらしい。このドラマは、ムーア扮するロード・ブレット・シンクレアと、トニー・カーティス扮するダニー・ワイルドの2人が主役を演じ、英米両国で放映していたらしい。日本でも何故か見た記憶があるのだが、劇中で象徴的にカーティスはフェラーリ「ディーノ 246GT」、ムーアは黄色の1970年製「アストンマーティン「DBS」に乗り、颯爽とヨーロッパの街を駆け回っていたのだ。007では登場しなかったものの象徴としてのアストンマーティンだったと思う。だからなのか自分でもアストンマーティン=ロジャームーアというイメージが残っているのかもしれません。このDBSだったのかボンネット形状が少し近いピーコック・グリーンのアストン・マーティン青山通りで渋谷方向に笑みを浮かべて走っていた加藤和彦を十年近く前に見たのも記憶に新しい。彼も亡くなってしまった。とても淋しいことです。                                                コウジロウの独り言

モデル・タレント・イラストレータのMSさんとBMW2002と朝潮埠頭。

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BMW・02シリーズは、ドイツ(当時は西ドイツ)の自動車メーカーBMWが1966年から1977年にかけて製造、販売していた小型2ドア・セダン。日本では「マルニ」の通称で呼ばれた。最も生産台数の多かったのが2,000ccエンジンを搭載した2002だった。BMW2002A(1971年型)。1968年、BMWは、すでに4ドア・モデルBMW2000で採用されていた、、1,990ccの水冷直列4気筒、SOHCエンジンを載せたものをBMW2002として発表していた。今思えば、320とか1980年代に出ていた3シリーズのBMWは6気筒の320に対して4気筒の318では遥かに6気筒の方がなめらかなエンジンの印象であったのに、1970年代のBMWが4気筒がベースだったなんて凄い偏見を自分は持っていた。4気筒の318はギアノブがアイドリング時にブルブル震えが来てうるさかった印象だったからである。ノークラッチでも感じたのだからその差は歴然としていた。 ボディ・サイズは、BMW1600-2と同じく、全長4,230mm×全幅1,590mm×全高1,410mmで車両重量は990kgであったが、アメリカ向けモデルは全長4,470mmとなっており、同時に車両重量も1,088kgとなっている。また、A/T車はM/T車よりも20kg重い1,010kgとされていた。とにかく今のラグジャリーなBMWよりもスパルタンな印象だった2002。ツーリングカー選手権にてポルシェと激闘を繰り広げてきたBMWは、航空機エンジンで培ってきたターボチャージャーを採用し、ポルシェを退けた。1973年、BMWはついに市場にBMW2002ターボを発表した。 BMWとしては、出力アップと共に省燃費をも両立させる技術として発表したのだが、実際には電子制御もされていない機械式インジェクションシステムのうえ、インタークーラーも付いていなかったため、省燃費エンジンとは程遠く、第一次オイルショックの影響もあって1,672台で生産中止となったらしい。 ボディデザインとしては、フロントバンパーを排してエアスポイラーを装備し、そこには逆さ文字で「TURBO」と書かれたステッカーが貼られていた。これが前を走るクルマのルームミラーに映し出されることで、前走車のドライバーにプレッシャーを与えていたと言われる。覚えてますか?日本車にもこの類いのスタッカーが貼られ、自分のスカイラインタ−ボにも貼ってあったのが記憶に残っている。写真は1980年代もの。BMWはヘア・メイクアーティストのT氏の物。シートは運転席だけRECAROだったのを覚えている。T氏は自分が生まれた神田の浜田病院と同じ病院で生まれた同じ年の方だった。面白いことに生まれた月も同じだったと記憶している。次にやって頂いたメイクアップアーチストのO氏(他のオフィス)も同じ病院で生まれたのを知り、何か深い縁を感じた。そして「朝潮埠頭」。菓子折を持って行って撮影許可を当時は取れた。今も自分は何でも屋であるが、当時は定着し出したロケーションサービスがあった。ただ自分の化粧品メーカーではその使用実態がなく何でも自分で交渉していた。モデルに起用したMSも同じで、カメラマン、親会社、スタイリストにマネージャー。皆個人で交渉に当たってたのを覚えている。モデル兼タレントを目指すのかと思ったらインテリジェントを感じていた彼女は多分芸能界には入らなかったのだろう、と思う。それでも、外人ばかり使っていた化粧品会社に日本人をメイクのプロモーションに起用させたのだから、相当なパワーを自分は持っていたのだと思う。今や対岸のビル群の中で当時からステイタス的に建っていた東芝ビルと東京ガスのビル。それらが他の無名のビル達に囲まれその存在までも解りにくくなって来ている世の中。当時を振り返るとそれぞれのそれらのビルパワーを発散させる凄さまでもが消えて無くなろうとしている現在、淋しさや哀愁と言う形になって現れて来ているのだろか?それだけではなく時代の歴史が変わって来てるのですね。       コウジロウの独り言



Beamer Brothers' song Honolulu City Lights.

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Photo by Kojiro

"This is my favorite Beamers' song, from their album "Honolulu City Lights."写真はビーマーブラザーズの「マヒ・ビーマー」の従兄弟でコーディネーターだった「太郎さン」から紹介された「カパラ」?コーディネータ−のハワイ大手の事務所からの要請でハワイロケの際に、アルバイトとしてサブ・コーディネーター兼ドライバーとして雇われていた。お話は遡って自分がその3年前、その当時ハワイにはじめてロケをしたときの、これもまたアシスタントコーディネーターだった「ジミィ」に聞き、ハワイだけでヒットしていた「ホノルルシティライツ」のLPを買った。自分もまだサブディレクター気分で仕事してたもんで、アシスタント系とは仲が良かった。片言の英語と日本語だったためお互い気を使わなかったことも事実。その曲たちなんですけど、帰って来てからはカセットに編集して国内のドライブでいやって程聞きまくった。何度聞いても飽きない曲なのである。この写真の「カパラ」はそのビーマーブラザーズの従兄弟らしいのだ。その「カパラ」に連れられた休憩時間に、ビーマーブラザーズの作曲家「マヒ・ビーマー」に会わせてもらった。そのビーマーブラザーズの家なのか母屋はとてつもなく大きく、庭も400坪以上いや1,000坪以上なのかも知れない。その「マヒ・ビーマー」はジャケットの表紙には載っておらずもしかして髪の毛を短くしてるからなのか別人であったと思っていた。「マヒ・ビーマー」と二人でその家で「Honolulu City Lights」を唄った。『Bring me back Again』とアップライトのちゃんと調律もしてあるいい音色のピアノだったと記憶している。ビーマーブラザースのなかにファルセット歌手でピアニストのマヒ・ビーマーもその中にいると紹介もされている。ハワイを代表するギタリスト、「ケオラ・ビーマー」。1970年代の中頃には弟の「カポノとビーマー・ブラザーズ」を結成。とあります。ここで最近の一枚のアルバムの紹介をします。『ケオラ・ビーマー 「カ・レオ・オ・ロコ~優しきハワイアン・ララバイ~」スチールギター/スラッキーギター/ウクレレ 2015年4月22日発売 2,300円 +税。ケオラ・ビーマー 「カ・レオ・オ・ロコ~優しきハワイアン・ララバイ~」。ハワイを代表するギタリスト、「ケオラ・ビーマー」待望のニューリリース! 優しく、どこまでも美しいギターの調べに心癒される一枚。「ジョージ・ウィンストン」 プロデュース作品 アルバム・曲解説付き|全曲ギター・チューニングをブックレットに記載 オリジナルリリース2002年|2014年度最新マスター音源使用|日本初CD化「今作は完全にギターに焦点を当てたアルバムで、歌も他の楽器も入っていない。全てギタリストの視点から見たオリジナル作品なんだ」―ケオラ・ビーマーがコメントを入れている。アルバム内容は本人のコメントの通り、本作はギターのみで奏でられる全曲インストのアルバムらしい。と言ってる位だからj自分は聞いてはいない。アルバム全体は限りなく穏やかで優しい仕上がりになっているとのこと。収録曲は9曲のオリジナル曲と6曲のハワイアンのスタンダード曲で、どの曲も美しいメロディーラインを持った曲ばかりらしい。本作からはジェントルなケオラの人間性が伝わって来ると共に、ギタリストとしての素晴らしい演奏力と表現力が遺憾無く発揮された仕上がりになっております。』とのこと。『8曲目にはジョージ・ウィンストンがギターでゲスト参加。また、9曲目、15曲目のハワイアンスタンダード曲は必聴です。』と解説にある。直ぐに聞いてみたい物だ。ケオラはほぼ毎年ハワイから北米、日本、ヨーロッパとツアーやギターの講習で飛び回ってるそうな。ケオラは次の様に述べています。『スラック・キー・ギターを世に知らしめるのは本当に大変な仕事だけど、美しい心を持った世界中の人々に出会って、彼らが私たちの文化を受け入れてくれると苦労が報われるし、また感動する。それが私の推進力にもなっているんだ』とにもかくにも、はワイは音楽的にも素晴らしいところ。独自の音楽性があの「カレンカーペンタ−」の亡くなる前にレコーディングした「Honolulu City Lights』だったことを付け加えておこう。今現在はCDでビーマーブラザーズを聞くことが多いのですが、LPをはワイの中古レコードやで買って来てた物をCD化して良く聞いてます。当然、枕元とV40の中ですが。今、会社のヘッドホーンに流れてる曲もいいですね!スラックギタ−とはまた違うんです『Dramatic』KOTORO OSHIOなんです。「ジョージ・ウィンストン」もそうなんですが音の繋がりは本当に永久的に幅広いもんですと、つくづく感じてしまう今日この頃です。■ケオラ・ビーマーはち並みに1951年ホノルル生まれなそうな!親近感のわく人なんですね。改めて思いました。 コウジロウの独り言



焼岳の噴火でせき止められた梓川から生まれた「大正池」

f:id:kohyusya:20170718184337j:plainPhoto by Kojiro

普通なら鏡面のような美しい水面に、雄大な穂高の姿を映す大正池。となるところ、曇天の写真である。1971年頃。学生の頃にクルマ三台で上高地に兄の友人達と出かけた。その時撮影した大正池である。立ち枯れの木々が幻想的な風景は上高地を代表する一つとして多く紹介されてます。以前はあのトンネルにクルマ(乗用車)が入って行けたのです。今や排気ガス対策環境保全のため一般客のクルマは入れなくなった。トンネルをくぐって向こう側に出ないと見えなくなった大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然現れた池なんです。今は量としては少ないが蒸気を吐いている焼岳が大噴火をし、噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできたそうだ。水没した林は幻想的な立ち枯れ木となり、神秘の景観をもたらしています。大正池は当時、梓湖と呼ばれたこともあり、大正年間にできたことから今の名称が定着したそうだ。大昔に思えるが地球規模で考えるとつい最近のこと。標高1490メートル、深さ3.9メートル、周囲2.4キロメートル余の大正池。焼岳の噴火でできた当初の湖面積は3.9平方キロメートルもあったと言われます。これは現在の2倍以上の大きさで、水面上の立ち枯れの木々は、昭和初期には2000数百本を数えたらしい。1927(昭和2)年にはその豊富な水量と大きな落差が電力資源に利用できるとして、大正池は霞沢発電所の貯水池として使用されたそうだ。当時は相当な発電量を誇るものであったと言われてます。しかし大正池はその後、土砂の流出のため に縮小を続けて現在に至ったのそうです。上高地最大の美しい池、その姿を後世に残していってほしいものです。池の中に棲むイワナが虫を狙う風景からか「魔の池」とも作家達に呼ばれたそうです。最も2回しか行ってないからかイワナなんて魚をこの梓川でも大正池でも見た記憶はないのですが。ある作家さんは「あたりは、いたって静かだ。相変わらず蝶を呑むいはなが水の中を動いてゐる。水の中には悪魔がゐる。大正池は魔の池である」よくあることなんですが、クルマで行って着いてからこんなはずではなかったなんて。上高地は通年マイカーでの乗入れを規制しています。マイカーで行く場合は、沢渡駐車場または平湯のあかんだな駐車場に停めてバスかタクシーで行かねばならないのです。自分達が行った頃は上高地を抜けて平湯で一泊。そして高山へ向かった記憶がある。この上高地近辺ですと赤い屋根の帝国ホテルしかなかったような気がします。今は道路が整備されてよくなってますが、当時の平湯峠なんか舗装はされてた のですが、路面に細かいジャリがたくさんあり、冗談ではなく007の悪人の様に木に引っかかってるクルマがあったり、凄く忙しいハンドリングを要求される峠でした。そんなこんなで素晴らしく印象に残っている上高地近辺です。

コウジロウの独り言

努力のレーシングチーム監督。近藤真彦氏

 

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近藤真彦氏は1977年中学一年の時にジャニーズ事務所に入った。1979年10月、TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』の生徒「星野清」役でデビュー。この時の同生徒役だった田原俊彦野村義男とともに「たのきんトリオ」を結成。その頃だと思うが、「スニーカーブルース」なんて映画も観た記憶がある。そしてソロ歌手デビュー。1980年代を代表する男性アイドルとして、『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』などの歌番組を中心に大活躍。黒柳徹子さんに歌唱力を絶賛される。1987年の『第29回日本レコード大賞』において「愚か者」で大賞を受賞したのも良く再放送で見るでしょ。ファンによる“親衛隊”もこの頃誕生。ステージ用の応援コールとして「G・U・T・Sこんどーまさひこアダルトタッチのセクシーボーイ ま〜っさひ〜こ〜」というフレーズも作られたとされている。男性アイドルとしては珍しく、同年代の男性ファンも多く獲得。歌手活動と並行してテレビドラマや映画などで俳優としても活躍していた。年末にデビュー25周年を迎え、ソロとしては7年7ヶ月ぶりに新曲「挑戦者」をリリース。歌手としては約7年ぶりにファンの前に姿を現した。2007年5月9日に発売されたライブDVDについては、映像作品では1987年3月30日付にビデオ『OH! ROCK'A MONO』で獲得して以来、20年2か月ぶりの1位獲得となった。2010年11月20日、『第52回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞に選ばれ、自筆のコメントを発表した。2011年、『3年B組金八先生ファイナル』にて『3年B組金八先生』第4シリーズ第10話以来16年ぶりに「星野清」役として出演したらしい。1984年に富士フレッシュマンレース第2戦に日産・マーチで参戦(35400人の観客を動員)したのを皮切りに、「日本一速い男」の称号を持つレーサーの星野一義のもとでレース活動を始め、1988年から1993年にかけては全日本F3選手権に参戦した。写真はその1984年の最初の富士である。怒られるが最終近くの周回までマッチがドライブ、バトンタッチした星野氏がドライブするとトップ争いに転じる。そんな印象のレースだった。確かシルビアだったような気がする。ただしマッチを卒業した近藤真彦氏は1994年にはフランスのル・マン24時間レースに初参戦。この年、全日本GT選手権JGTC)GT1クラスにま参戦。初優勝をポール・トゥ・ウィンで飾る(1992年の全日本F3選手権チャンピオンのアンソニー・レイドとのコンビ)。1995年にも同じくGT1クラスで優勝した他、その後もGT500やGT300クラスにおいて数々の表彰台獲得やポイントを獲得していた。その後も、全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン全日本GT選手権などの全日本格式の最高峰だけでなく、ル・マン24時間レースにも継続して参戦した。ル・マン24時間レースに於いては1995年に雨に祟られて荒れるレース展開の中、マクラーレン・F1やフェラーリ・F40等600馬力を発揮するマシンが跋扈する同じGT1クラスの中で、450馬力と非力な日産GT-R LMで総合10位という殊勲を遂げている。また翌年には同じように雨の中のレースでフォーミュラ・ニッポンで入賞している。そのレースの体験を生かし、監督に就任。若手を上手く使うとか育成に努めており、輝けるチームを創っている。自分がツインリンク茂木で再度彼を見たのは10年近く前。ベントレーかロールスの中から登場し、髪を真ん中でかき分けて出て来た時には、さすがスターを感じた。坊やだったマッチから紳士の近藤真彦氏へ本当に素晴らしいあこがれる変身姿を世に魅せつけている。

コウジロウの独り言