焼岳の噴火でせき止められた梓川から生まれた「大正池」

f:id:kohyusya:20170718184337j:plainPhoto by Kojiro

普通なら鏡面のような美しい水面に、雄大な穂高の姿を映す大正池。となるところ、曇天の写真である。1971年頃。学生の頃にクルマ三台で上高地に兄の友人達と出かけた。その時撮影した大正池である。立ち枯れの木々が幻想的な風景は上高地を代表する一つとして多く紹介されてます。以前はあのトンネルにクルマ(乗用車)が入って行けたのです。今や排気ガス対策環境保全のため一般客のクルマは入れなくなった。トンネルをくぐって向こう側に出ないと見えなくなった大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然現れた池なんです。今は量としては少ないが蒸気を吐いている焼岳が大噴火をし、噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできたそうだ。水没した林は幻想的な立ち枯れ木となり、神秘の景観をもたらしています。大正池は当時、梓湖と呼ばれたこともあり、大正年間にできたことから今の名称が定着したそうだ。大昔に思えるが地球規模で考えるとつい最近のこと。標高1490メートル、深さ3.9メートル、周囲2.4キロメートル余の大正池。焼岳の噴火でできた当初の湖面積は3.9平方キロメートルもあったと言われます。これは現在の2倍以上の大きさで、水面上の立ち枯れの木々は、昭和初期には2000数百本を数えたらしい。1927(昭和2)年にはその豊富な水量と大きな落差が電力資源に利用できるとして、大正池は霞沢発電所の貯水池として使用されたそうだ。当時は相当な発電量を誇るものであったと言われてます。しかし大正池はその後、土砂の流出のため に縮小を続けて現在に至ったのそうです。上高地最大の美しい池、その姿を後世に残していってほしいものです。池の中に棲むイワナが虫を狙う風景からか「魔の池」とも作家達に呼ばれたそうです。最も2回しか行ってないからかイワナなんて魚をこの梓川でも大正池でも見た記憶はないのですが。ある作家さんは「あたりは、いたって静かだ。相変わらず蝶を呑むいはなが水の中を動いてゐる。水の中には悪魔がゐる。大正池は魔の池である」よくあることなんですが、クルマで行って着いてからこんなはずではなかったなんて。上高地は通年マイカーでの乗入れを規制しています。マイカーで行く場合は、沢渡駐車場または平湯のあかんだな駐車場に停めてバスかタクシーで行かねばならないのです。自分達が行った頃は上高地を抜けて平湯で一泊。そして高山へ向かった記憶がある。この上高地近辺ですと赤い屋根の帝国ホテルしかなかったような気がします。今は道路が整備されてよくなってますが、当時の平湯峠なんか舗装はされてた のですが、路面に細かいジャリがたくさんあり、冗談ではなく007の悪人の様に木に引っかかってるクルマがあったり、凄く忙しいハンドリングを要求される峠でした。そんなこんなで素晴らしく印象に残っている上高地近辺です。

コウジロウの独り言

努力のレーシングチーム監督。近藤真彦氏

 

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                                                                                                                                                                                photo by Kojiro

近藤真彦氏は1977年中学一年の時にジャニーズ事務所に入った。1979年10月、TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』の生徒「星野清」役でデビュー。この時の同生徒役だった田原俊彦野村義男とともに「たのきんトリオ」を結成。その頃だと思うが、「スニーカーブルース」なんて映画も観た記憶がある。そしてソロ歌手デビュー。1980年代を代表する男性アイドルとして、『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』などの歌番組を中心に大活躍。黒柳徹子さんに歌唱力を絶賛される。1987年の『第29回日本レコード大賞』において「愚か者」で大賞を受賞したのも良く再放送で見るでしょ。ファンによる“親衛隊”もこの頃誕生。ステージ用の応援コールとして「G・U・T・Sこんどーまさひこアダルトタッチのセクシーボーイ ま〜っさひ〜こ〜」というフレーズも作られたとされている。男性アイドルとしては珍しく、同年代の男性ファンも多く獲得。歌手活動と並行してテレビドラマや映画などで俳優としても活躍していた。年末にデビュー25周年を迎え、ソロとしては7年7ヶ月ぶりに新曲「挑戦者」をリリース。歌手としては約7年ぶりにファンの前に姿を現した。2007年5月9日に発売されたライブDVDについては、映像作品では1987年3月30日付にビデオ『OH! ROCK'A MONO』で獲得して以来、20年2か月ぶりの1位獲得となった。2010年11月20日、『第52回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞に選ばれ、自筆のコメントを発表した。2011年、『3年B組金八先生ファイナル』にて『3年B組金八先生』第4シリーズ第10話以来16年ぶりに「星野清」役として出演したらしい。1984年に富士フレッシュマンレース第2戦に日産・マーチで参戦(35400人の観客を動員)したのを皮切りに、「日本一速い男」の称号を持つレーサーの星野一義のもとでレース活動を始め、1988年から1993年にかけては全日本F3選手権に参戦した。写真はその1984年の最初の富士である。怒られるが最終近くの周回までマッチがドライブ、バトンタッチした星野氏がドライブするとトップ争いに転じる。そんな印象のレースだった。確かシルビアだったような気がする。ただしマッチを卒業した近藤真彦氏は1994年にはフランスのル・マン24時間レースに初参戦。この年、全日本GT選手権JGTC)GT1クラスにま参戦。初優勝をポール・トゥ・ウィンで飾る(1992年の全日本F3選手権チャンピオンのアンソニー・レイドとのコンビ)。1995年にも同じくGT1クラスで優勝した他、その後もGT500やGT300クラスにおいて数々の表彰台獲得やポイントを獲得していた。その後も、全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン全日本GT選手権などの全日本格式の最高峰だけでなく、ル・マン24時間レースにも継続して参戦した。ル・マン24時間レースに於いては1995年に雨に祟られて荒れるレース展開の中、マクラーレン・F1やフェラーリ・F40等600馬力を発揮するマシンが跋扈する同じGT1クラスの中で、450馬力と非力な日産GT-R LMで総合10位という殊勲を遂げている。また翌年には同じように雨の中のレースでフォーミュラ・ニッポンで入賞している。そのレースの体験を生かし、監督に就任。若手を上手く使うとか育成に努めており、輝けるチームを創っている。自分がツインリンク茂木で再度彼を見たのは10年近く前。ベントレーかロールスの中から登場し、髪を真ん中でかき分けて出て来た時には、さすがスターを感じた。坊やだったマッチから紳士の近藤真彦氏へ本当に素晴らしいあこがれる変身姿を世に魅せつけている。

コウジロウの独り言



エンパイアー・ステート・ビルを望めたこの場所に2度とは戻れない。

 

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                                                                                                                                     Photo by Kojiro

建築家集団、リッチモンド・H・シュリーブ、ウィリアム・F・ラム、アーサー・L・ハーモン(Shreve, Lamb and Harmon)の3名によって設計されたエンパイア・ステート・ビルディングは、マンハッタン島を代表する高級ホテルであるウォルドルフ=アストリアが建っていた跡地に建設された。とされている。クライスラービルに対抗して低層部や最頂部には、当時世界的に流行したアール・デコ様式が採用されている。ニューヨークを代表するスタイル。建設はニューヨーク州知事を務めたアル・スミスの指示によるものだとある。工事もクライスラー・ビルディングから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急ピッチで行われ、1931年に竣工したが、世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くが空室のままであった。そのため、「エンプティー(空っぽの)・ステート・ビルディング("Empty State Building")」と揶揄されることもあったらしい。ちょうどリーマンショック後の1年間1/3が空いていた680戸のわがマンションのようである。ニューヨークでは後で多くの人々が訪れる観光名所となり、1972年にワールドトレードセンターのノースタワーが竣工するまでの42年間、世界一の高さを誇るビルとなった。完成して55年が経った1986年には、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されるなど、ニューヨークのシンボルの一つとしてイメージングされた。もう15年以上も前になるのだが2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件でワールドトレードセンターが複数の旅客機の体当たり攻撃で多くの利用者も巻き込みながら崩壊してしまった際、ノースタワーを電波塔にしていた各局が放送不能になり、そんな中WCBS-TVはエンパイア・ステート・ビルの電波塔を活用し、放送を続けたことは周知の事実。事件後、WCBS-TVは被害を受けた各局に電波送信スペースの貸し出しを行った後、2005年より地上波テレビ各局の電波塔がこのビルに集約されることになったとある。これこそがビルトインデザインの骨頂であると思う。テロ事件でのワールドトレードセンターの崩壊による相手方の消滅という悲劇的な理由によるものではあるが、このビルが再び「ニューヨークで最も高いビル」となったのである。2012年4月30日、建設中のワールドトレードセンターのフロアの高さがエンパイアステートビルのフロアの高さを上回った。2013年5月10日ニューヨークで最も高いビルの座は再び入れ替わった。と書かれていたのだがこの写真の様に、This is The NEWYORK.の写真、あるいはスタチュウ、あるいは建造物は今も昔もエンパイヤーステートビルしかない。この写真はニューヨーク・ロケに行った際に嫌がるカメラマンに逆らってそのスタジオの屋上でモデルと一緒に撮影してもらったばしょ。その時に自分で風景のみ撮影した1カットである。このビルが何丁目の何番かも覚えておらず、知り合いも今はいない。だからこの場所へは2度と行けないのが残念である。                 コウジロウの独り言

 

オランダ・アムステルダム。ケン&メリーだけではなくカローラも快走していた。

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                                                                                                                                                                                    Photo by Kojiro

写真はおそらく2代目(1970年 - 1977年)のトヨタ・カローラ。販売期間 クーペ:1970年5月-1977年1月.およそ6年以上国内では販売されていた。乗車定員5人でこのボディタイプ2ドアクーペ。エンジン 1.6L 直4 駆動方式 FR 変速機 2速AT 5速 / 4速MT サスペンション 前:マクファーソンストラット 後:縦置き半楕円リーフリジット 全長3,995mm 全幅1,505mm 全高1,375mm ホイールベース2,335mm 車両重量750kg。全幅が1,505mmしかないのには驚く。今の軽自動車幅が1,475mmなのだから、対して変わらない幅だった。こんなにも狭かったのだ! 2ドアのクーペはの国内の種類は1200DX〜1600GT  4速MT(前期型)だった。発売前年の東名高速道路全線開通など「ハイウェイ時代」を迎えた事などから「東京ICから西宮ICまで無給油で走れる」前提で商品を開発されたらしい。したがって燃料タンクなどは先代より大型化したそうだ。キャッチコピーは『ちょっとうれしいカローラ』。CM出演者はマイク真木前田美波里。二人は覚えているがコピーは「ケンとメリー」に比較すると淋しい感じ。1970年5月6日にモデルチェンジした物が写真のカローラ。自分はこのカローラでも国内の旅行をしていた。コロナとカペラそしてローレルとカローナの4台で飛騨高山までの2泊3日の旅.1972年頃である。1971年4月 - T-B型OHV・ツインキャブエンジンと5速MTフロアシフトを搭載する「1400SL」、「1400SR」(いずれもTE20型)が追加された。1971年8月 に最初のマイナーチェンジが実行されたらしい。フロントグリルとリアコンビランプのデザインを変更し、保安基準改正[注釈 20]のため、後部ウインカーが赤一色のブレーキランプ兼用式から、オレンジ色発光の独立したレンズとなる。ヨーロッパ仕様がどうだったかは定かではない。1972年3月 - 2T-G型DOHCエンジン(有鉛ハイオクガソリン仕様・115馬力)および2T-GR型DOHCエンジン(無鉛ガソリン仕様・110馬力)を搭載する「レビン」(TE27型)が登場。だが写真はレビンやトレノではない。オーバーフェンダーが見れないからである。カローラツーリングカー等と紹介されていた。その後、1972年に、よりコンパクトで軽量な20系カローラセリカの2T-Gエンジンを搭載したカローラ・レビン/スプリンター・トレノが誕生。これがのちに歴史に名を残す「TE27」となる。翌1973年から、2T-Gエンジン搭載車としてカローラ・レビンがWRCに参戦。まず市販の8バルブのまま、グループ2でのラリー出場を開始する。1973年4月 - 2T-B型OHV・ツインキャブエンジン(105馬力。有鉛ハイオク仕様)を搭載したクーペに「レビンJ」、「1600SR」、「1600SL」(いずれもTE27型)、セダンに「1600SL」(TE21型)が追加。既存モデルは昭和48年排出ガス規制を実施。1973年6月 - 「1400HI-DX」にオーバードライブ付き5速MTを追加。1974年4月 - 後述するE30型へのフルモデルチェンジ。3KエンジンはE30型と同じ3K-Hに換装。以降、E20型カローラシリーズは「カローラ20(にーまる)」と称され、販売終了までE30型カローラシリーズの廉価版としてそのまま位置付けられたそうだ。ただ1974年の43年前にカローラがオランダを快走してたなんて凄い物をウォッチしてたのには自分自身驚きです。

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豊洲からの「ゆりかもめ」は旅立ちの時だった!

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                                                                                                                                    Photo by Kojiro

2017年6月7日16時37分に豊洲を出て有明の癌研に向かった。豊洲市場地を右に見ながらゆりかもめは進む.有明の癌研前。その病院に義理の妹が入院していた。小林麻央ちゃんが2017年6月22日に亡くなる。ブログに英語のコピーが書かれていた。「Tarking time but I walk  Feeling Breathless....  but I walk      Walk,walk, walk    The key to the cure is the sum of small efforts.    My husband is very good at making steady efforts.   I am totally not the one for that!     But, I just have to give it try!!!それぞれが感じて下さい。その下のスペースに履き慣れたスニーカーが写ってます。義理の妹が亡くなったのは6月24日の夜。麻央ちゃんが亡くなってから2日が経つか経たないかの夜。入院する数日前には一回癌研から退院し、実家の神楽坂に帰って弟夫婦に看病してもらっており、自分もお邪魔し「やだあ!おにいさんたら!」なんて騒いでいたのに!麻央ちゃんに呼ばれたのだろうか?後を追う様に亡くなってしまった。ベットの直ぐ傍にテレビが吊られており見るなって言うのが難しい位の位置だった。亡くなった実感がなかなかわかない。2年前には実の母と兄弟夫婦で軽井沢へ旅行へ行くはずだったのだが何故か彼女だけ行かなかった。とてつもない淋しさがやがて来るのだろうか?結婚当初はマンションの隣に住んでいたこともあり、甥の面倒もよく見ていた記憶がある。最もテレビゲームだが。このブログで言いたいのは、「本当に癌の特効薬であるのであろうか抗癌剤は?」と言うこと。30年前乳がんを患っており、手術で撤去。今回再発し最終的に抗癌剤のお世話になった。苦しんで亡くなって行った妹には間に合わなかったが、ネットで書かれている様にアメリカやヨーロッパでは抗癌剤が使われるケースが非常に少ないと言われている。だから欧米では癌で死ぬ率が下がっているとも言われている。本当にそうであれば抗癌剤を打たなくて良いはずだ。放射線抗癌剤を体験した自分が思うに、副作用が多すぎること。髪の毛が抜けたり皮膚がただれたり、骨が弱くなったり。感覚的かもしれないが、アメリカの廃棄処分にされる抗癌剤を日本に売りつけDNAの免疫療法とか本当に今の科学を生かされた医療を諸外国は実行し、20年遅れた日本が医療において取り戻す日は何時やってくるのだろうか?強制的に売られた原発のような被害を被るのはもうやめてほしい。もっと政府は勉強するべき。選挙のことや寄付金の事ばかり考えていても時は超えて過ぎて行くのです。

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スカイライン2000GT-TURBOはキーンとよく鳴りキューンとよく走った。

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Photo by Kojiro

大好きだった「鬼押出し展望台」(現町営-火山博物館上)に向かう「スカイラインターボ2000GT」!このクルマは「まさしく2000ccターボ」。インジェクションの「L20型エンジンにターボ」搭載。エクステリアはクサビ型で迫力があった。サーフィンラインは消えたものの、特にこのテールランプはマル型4灯の印象的だった。当時ではこの程度でも目を見張る程、格好よかったのだ。2000GT-TARBOのステッカーを貼るだけでも、クルマの性格を変えた。写真のこの頃は13万キロ走ったケンメリからの買い替えで新車。恥ずかしいのとボディに傷をつけるような気がしてバンパーより上には何も貼りたくなかった。この車で四国の嫁の親戚へ新婚旅行を兼ねてハイウェイを飛ばして行ったりもした。1981年8月 R30型発売。アメリカの俳優ポール・ニューマンが広告キャラクターであったため、「ニューマン・スカイライン」と呼ばれたらしい。C210型同様の直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TIシリーズ」の2系列だが、ホイールベースは1種類となった。ボディバリエーションは、4ドアセダン・2ドアハードトップ・5ドアハッチバック・後に追加されるライトバンエステート)の4種。ハッチバックスカイライン史上初である。現在は常識となっているテンパータイヤは、このR30ハッチバックが日本初採用。スペアタイヤに空気圧減圧警告灯なども装備されていた。これは記憶に新しい。なぜならば空気圧をいつも気にして乗ってたのがこの頃で空気圧ゲージを持参してた。搭載エンジンは、TIを除いて、L20E型/L20ET型/LD28型(GT)の3機種。。1981年10月には直列4気筒4バルブDOHC FJ20E型エンジ(150ps/6000rpm/18.5kgm/4800rpm)を搭載する「2000RS」(DR30型)を追加発売。GT-Rの再来と期待されたが、FJ20E型が直列4気筒であるがためにGT-Rを名乗らなかったともいわれている。1983年2月 FJ20E型にターボチャージャーを追加FJ20ET型(190ps/6400rpm)を搭載した「2000ターボRS」(DR30JFT型)を追加。歴代スカイラインのどれよりも高出力であったことから「史上最強のスカイライン」というキャッチコピーが用いられる。また、日産は、このモデルにてハコスカ以来となるワークスとしてレースに復帰。シルエットフォーミュラーTOMICAの一号車が由良拓也の手によって誕生。1983年8月・マイナーチェンジにより後期型へ。前後の意匠変更、大型バンパーの採用等を行う。RSの後期型は薄型ヘッドランプ、ラジエーターグリルレスのデザインにより「鉄仮面」と呼ばれた。パワーランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様「2000ターボRS-X」(DR30XFT型)を追加。レースではシルエットフォーミュラー後期型も誕生している。 鉄仮面は大嫌いだったが小のシルエットフォーミュラーは格好よかった。1983年10月・日本初のAT専用グレードであるNAの豪華仕様「2000RS-X(DR30XFE型)」、および15インチアルミホイール、ブロンズガラス、専用ステッカーを装備する「2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン」(HR30JFT型)を追加。1983年11月・日産50周年記念限定車「50アニバーサリー バージョン」を発売。そして次の7thスカイラインへと繋ぐのだがこの辺から32になるまでは興味をそそる物はなかった。7thもマークII化して大きくなり、自分は俊敏な動きの外車へと手を広げて行くのだが、コストパフォーマンス的にはベーシックな国産車スカイラインがよかった気がする。だからこの写真の様にあちこちドライブに行けてたのかもしれない。                                                      

                                                                                                                                       コウジロウの独り言


1974年のフィアットディーノ・クーペ Dino 2400 Coupe in Italia

 

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Photo by Kojiro

1967年にジュネーブショウに登場した「フィアット・ディーノ・クーペ」スパイダーはピニンファリーナカロッツェリアが制作。1974年のイタリアのミラノの街角。クーペのスタイリングはベルトーネカロッツェリアが担当している。この当時の写真を書籍等で見てもこの写真のようにアウトサイドのドアミラーがない。日本での当時はフェンダーミラーがしっかりと着けていたのに比べるとスタイリングの概念が違う。安全性はどうだったのでしょう。それは疑問?この写真のクルマの向かってフロント右側のエッジにキズがある。直ぐうしろのフィアットも隙間のない位に接近して駐車している。スパイダーより高い値段のクーペがバンパーをぶつけあって駐車していることを想像すると滑稽である。今のボルボV40や国産車の上級車等は自動で縦列駐車は当たり前になっているのに当時の日本はもとよりイタリアにも無かった。そんな駐車時のキズなんでしょうけどモッタイナイ。ディーノの誕生のきっかけとなったのがV6ユニット。86×57mmというショートストロークは極端に短いらしいのだがF1ユニットから来ているという。だから8500rpmまで高回転域に達していたらしい。この頃の日本車の4気筒といえば1800ccクラス。スカイラインやローレルだった。ホンダやトヨタにも多くあったがその振動たるや6気筒とは格段の差があった。この車はそんな回転数もあげられるのだから心地よい振動だったに違いない。クーペの室内はフル4シータ−と言える程十分な居住空間を持っていた。誕生が1967年。2年を経過するとそれまで固定式だったリヤサスペションも独立式と進化して行くのである。フェラーリ・ディーノも246GTと進化して行ったのだがこのクーペは脚光を浴びることはなかったようだ。ジュージアローの117クーペ等に見られるこのクラスの4座席のクーペが自分は大好きだった。でも選ぶときは国産五人乗りになってしまっていた。フェンダーにもデザインだけのエアーダクトがある。スタイリッシュだと思いませんか?BMWやレクサスの数車種が最近ビルトインデザインとして演出してるみたいですが、こんなバランスのよいデザインはあまり見たことがない。前述のボルボと大きく違うのは、Aピラーの細さであるのだが。安全性よりもデザイン優先のこの時代の車。もっと派手でも良かったって言う人が多かったのか?8,000台しか売れなかったそうだ!

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