世界で初めての乗用車タイプの四駆だった=スバル・レオーネ。

 

 

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                                                                                                                                                                               Photo by Kojiro

1970年代前半から1980年代後半にかけてスバル1000以来の伝統である水平対向エンジンを採用し、スペアタイヤがエンジンルーム内に収納。サッシュレスドアとステーションワゴンスタイル、そして4WDの技術は後のレガシィインプレッサの基礎となったクルマなのだ。写真は自分が結婚して初めて購入したクルマ。確か5〜6年落ちで6万円を出したと思う。友人から購入。査定は確か三万円。写真の場所は逗子マリーナのレストラン。今ではエントランスにRIVIERAGRAND BLUEなんて書かれリストランテAO逗子マリーナとか言っちゃっている。今よりか庶民派だった逗子マリーナ。クルマの話に戻って、スバルの基幹車種であったのはレオーネであることは間違いない。写真はスバル・レオーネ・2ドアハードトップ。初代は1971年10月7日に発売。当時のトレンドおよび提携先の日産自動車の影響が感じられるロングノーズ・ショートデッキのデザインだった。一方、レオーネの進歩的な部分としては、窓枠のないサッシュレスドアをバンを含む全車に採用したことが挙げられた。なぜエンジンのスバルがここまで考えていたのかは不明なのだが、サッシュレスドアは富士重工業にとっては1960年の試作車「A-5」以来追求されてきたテーマで、近年まで採用を続けていたが、インプレッサフォレスターでは2007年のフルモデルチェンジとともに一般的なサッシュドアに移行し、最後までサッシュレスドアを採用していたレガシィも2009年の5代目へのモデルチェンジによりラインナップから姿を消した。1972年8月1日、エステートバンに4WDを設定。前年に東北電力の要請に応じて数台が注文生産された「1300Gバン4輪駆動車」から得た経験をつぎ込んだ「ジープタイプではない量産4WD」が世界で初めて世に送り出された。それまで四輪駆動といえば、ジープに代表されるクロスカントリータイプの車を意味し、乗用車タイプの四輪駆動車は存在しなかったが、これ以降、他社の乗用車にも四輪駆動車が設定されるようになった。さらに同年12月1日には、専用ハードサスペンション、専用クロスレシオ5速MTを装備したホットモデル・「RX」が追加された。基本的な構成は「1400GSR」と共通だが、量産車では日本初となる4輪ディスクブレーキを装備していたことが特筆される。1973年6月には、ピラーレスの2ドアハードトップが追加された。後席ヘッドクリアランス確保のためにリヤウィンドウ傾斜角がクーペから若干立てられ、15mm全高が高められている。写真のクルマがそれである。1975年1月20日にはエステートバン4WDに続いて世界初の量産4WD乗用車「4ドアセダン4WD」が、同じく日本の前輪駆動車では初のフルオートマチック車(セダン・カスタムとハードトップGFに設定)と同時に発売された。あのGT-RのR32からすべて市販車は4駆となっており多大な影響も与えているのは事実。1977年4月には、日本初の全車53年度排気ガス規制適合を達成、スポーツカーが軒並み淘汰された他社を尻目にツインキャブのスポーツモデルも引き続き生き残り、スバルファンのみならず当時の車好きたちに喝采された。同時に大幅なマイナーチェンジが実施され、ボディサイズを拡幅、リヤトレッドも50mmのサイズアップとなった。同年11月にはセダン・2ドアハードトップポンティアックの車名から拝借した「グランダム」(GrandAm)なる車種を追加した。同車は北米仕様と共通の大型衝撃吸収バンパーや派手な色調の内外装を特徴とした。同年10月、北米の1978年モデルに合わせるタイミングで、輸出専用ピックアップトラックのブラットが発売された。北米ではこの車種が大ヒットとなのである。

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1985年FUJI。柳田春人選手とコンビを組んでいたのは鈴木亜久里選手だった

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photo by Kojiro

柳田 春人(やなぎだ はるひと、1950年10月21日 - )は、埼玉県出身のレーシングドライバー。自分と年がこんなに近いとは思ってもみなかった。今や自動車チューニングショップセントラル20代表取締役社長だそうな。自分では昔は「やなぎだはると」と言ってた気がする。実子は同じくレーシングドライバー柳田真孝フェアレディZで活躍していたことから「Zの柳田」と呼ばれている。また、かつてF-1で言われていた中島氏同様、国内戦に限るがどしゃ降りの中でも勝利をもぎ取る姿から「雨の柳田」とも呼ばれたらしい。自分の中の記憶にはないのだが言われているのだから本当なのであろう。1980年、1983年富士スーパーシルエットレースのシリーズチャンピオンに輝いている。写真は1985年の富士1,000kmに出場したCanonフェアレディZC。なんととられてた写真はKODAKのPKR。プロ級のカメラマンなら殆んどが記憶にあるはず。FUJIFILMからベルビアが出てからもある程度シェアは確保していた。写真の内容に戻ろう。当然ドライバーは柳田春人。コンビを組んでたのは なんとあの鈴木亜久里選手だった。当時は新鋭で現在のようにとてつもなく有名なドライバーでも無かった。富士1000km(ふじせんきろ)は、1967年から1992年まで毎年富士スピードウェイで開催されていた耐久レース。鈴鹿1000kmオイルショックで中断した時期もあったのに対し、富士1000kmはその間も中断せず開催され続けたが、1993年に全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)の崩壊、および景気後退で中止。以降は開催されなくなった。1999年に富士スピードウェイ35周年企画として、ル・マン24時間レース規定による「ル・マン富士1000km」として一度だけ復活した。 2007年、全日本スポーツカー耐久選手権の1戦として組み込まれ、8年ぶりに復活した。尚、1983年から1988年は「WEC-JAPAN」(WSPCの一戦)として、1989年から1991年は「インターチャレンジ富士1000km」(JSPCの一戦)として、1992年はMSCC(マツダスポーツカークラブ)主催で、富士の1000kmレースは年2回ずつ開催された。とされている。クルマはとにかく格好良かった。                                         コウジロウの独り言


中嶋悟元F-1パイロットの思い出のクルマはフェアレディZ。

                                                                                                                                

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                                                                                                                              photo by Kojiro

1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦していた。写真は1985年の富士500マイルレースでの1カット。本当に懐かしい写真である。元の化粧品会社に勤めていた同僚の義理の姉がチーム・ルマンの監督の奥様だった関係で¥5,000の保険を払ってサーキットパスを貰いレース前の中嶋悟氏を撮影出来た。その後F-1パイロットになるなんて考えても見なかったが、とにかく怖い方だった。「俺を撮ってどうすんの?」なんて言ってた気がする。対抗チームの星野一義さんも怖かったがリーボックシューズに短パンでサーッと直ぐに消えて行くスマートな印象だった。中嶋氏は1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス・86C/トヨタで予選トップタイムを出すも、Tカーだったために無効とされ、ポールポジションは獲得できなかった。決勝は9位だった。1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にも参戦した。、最高位4位(1回)を含む数回の入賞という結果。ホンダとの結びつきが強いイメージの中嶋氏だが、ワークス契約はなかったらしい。そうホンダ一辺倒だったわけではないのだ。デビュー当初は、信じられないがマツダ系ディーラーの碧南マツダの支援を受け、ファミリアやサバンナRX-3などで多くのレースに参戦していたらしいのだ。全日本F2でホンダのワークスエンジン供給を受け参戦するのと並行して、ロータスから技術供給、および資本提携していたトヨタがF1参戦の可能性があったこともあり、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC-JAPANなどでは、トヨタ系のマシンを数多くドライブしていたのだった。日産との関係は薄かったらしい、1979年のFPで星野一義氏の代役として数戦に出場した程度。この参戦時に長谷見昌弘氏とチームオーダーの件でもめたことが中嶋氏が日産から遠くなった一因と言われている。面白いコメントで中嶋氏本人は雑誌上でフェアレディZが思い出に残る車にあげていたこと。引退した翌年にさんまのまんまにゲスト出演した時でもフェアレディZが愛車であったと語ってたそうだ。

 

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完璧なインテリアを持つランボルギーニ・エスパーダは華麗なGT

 

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                                                                                                   PHOTO by KOjIRO  / February 1974 

イタリアのローマなのか?1974年2月。街中で見つけたランボルギーニエスパーダ。エスパーダの3ドアハッチバックのクーペボディのデザインは、ミウラ同様、ベルトーネに在籍していたマルチェロ・ガンディーニによるもので1967年ジュネーヴ・ショーに出品されたランボルギーニ・マルツァルと同年のロンドンショーにデビューしたジャガー・ピラーナという2つのプロトタイプのモチーフが生産モデルとして現実化されたものだったそうだ。ベルトーネの商品化計画はデザインの流行化計画ともとれるベルトーネとしての貫ぬく姿 勢を感じる。今では当時のライバルであるフェラーリにもない完全な4シータ−なのです 。フェルッチオ・ランボルギーニ自身が「私にとってのロールスロイス」と言わしめた様に2+2をベースに4人が普通に座れる様に超高速4シータ−・スポーツセダンとして世の中にも受け入れられた。エスパーダは完全4シーターのスーパーグランドツーリスモとして400GTミウラと同じV12エンジンをフロントに積み、全4輪ディスクブレーキを備えていた。エスパーダEspada )とは、イタリアの自動車メーカー、ランボルギーニ社製。1968年から1978年まで生産したグランツーリスモである。この写真のランボルギーニエスパーダは日本で紹介されている雑誌や本の写真のフロントライトとは違っていた。今頃になって希少価値のある珍しい写真だとわかった。エスパーダとはスペイン語で「剣」を意味する。僕の大好きなクルマの一台である。

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ギラギラテスラはキラキラテスラ。

 

 

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                                                                                                               photo by Kojiro  

ギンピカのテスラを京橋で見た。昨年の暮。まるであの消えるアストンマーティンの007をみてるようだ。街の光にとけ込んでいた。この手のクルマはオートサロンでよく見受けられていたが、まさか公道で見るとは思わなかった。さらッとおかれていたテスラ。正直テスラの車種等知る由もない。路上で最も安全なクルマとなるようゼロからデザインされた素晴らしい自動車テスラModel S。そのコンセプトは自分の乗っているボルボの神話に繋がるのか?テスラのユニークな電動パワートレインの凄いパフォーマンスで、Model Sはわずか2.7秒で時速100キロまで加速するそうだ。Model Sには、高速道路での運転をより安全でストレスフリーにするようデザインされたオートパイロット運転支援システムが搭載もされてるとなっている。オートパイロトデュアルモーターのModel Sは従来の全輪駆動(AWD)システムとはちょっとちがい、フロントとリアの各車軸に1つずつ割り当てられた2つのモーターで、フロントとリアのホイールにかかるトルクを独立的にデジタル制御。だからトラクション コントロール システムは、いかなる状況下でも圧倒的な性能を発揮するとされている。それぞれが反応するということなのか?一般的な全輪駆動車では、1つのエンジンから出力を各ホイールに配分するために複雑な機械的結合を採用しています。 これでは全天候に対応できるトラクションを得るために効率を犠牲にします。一方、デュアルモーターのModel Sの各モーターは、後輪駆動のModel Sのモーターと比べ小さく、軽く、効率良く作られているため、航続距離と加速力が向上します。とか言っても、サイズがヤバい!横幅1,964mmもある。長さも約5メートル。デザインがおとなしく綺麗だからなのかもしれませんが、2m近い幅には見えない。値段も凄い。900万〜1,700万円。テスラのエンジニアはまず、社名の由来となった発明家のニコラ テスラが1888年に特許を取得した交流誘導電動機を中心としたスポーツカーのパワートレインを設計。2008年に発売されたテスラ ロードスターは、リチウムイオン バッテリーを搭載し、1回の充電で最長394 kmの航続距離と3.9秒で時速100 kmまで加速する加速性能で、EVの新基準を確立しました。テスラは2,400台以上のロードスターを30カ国以上の国々で販売したらしい。テスラは2012年に、世界初のプレミアムEVセダンであるModel Sを発売。100%電気自動車となるようゼロから開発されたModel Sは、4ドア自動車のすべてのコンセプトを覆しました。7人が乗れるスペース、1,800リッターを超える荷室容量、最大航続距離がなんと500km以上、ファミリーセダンの快適さと利便性、そして約5秒で時速100 kmまで加速するというスーパーカー並の加速力を併せてデビューしたのでした。完全にフラットなバッテリーパックは、シャシーと一体化し、乗車スペースの下に位置するため、車の重心が下がり、卓越したロードホールディングとハンドリングを可能にします。そして、Model Sは米モータートレンド誌の2013年カーオブザイヤーに選ばれ、米国家道路交通安全局による安全性試験で5つ星評価を獲得しています。そんな凄いクルマを東京のド真ん中で見れるのだから!日本という国は凄い国なのだ。                                              コウジロウの独り言                                                                                                 

 

 


雪降るパリのノートルダム。

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                                                                                                                   photo  by kojiro

1974年2月。アンカレッジで10時間過ごした関係でローマが一日無くなり、ロンドン経由で最終目的地のパリ。初めての渡欧だった。そんな貴重なパリの自由時間。大雪の中、オプショナルツアーを頼まず二人で歩いて出かけた。今や知る人ぞ知るファッションデザイナーのM氏との二人だった。ルーブルに行く途中、ノートルダム寺院セーヌ川を挟んで撮影したややななめうしろの風景。こんな体験を出来るなんて今思えば幸せこの上ない。今でも夢にでてくるワン・シーン。でも現実も忘れてはいなかった。当時喫茶店にパネル化して飾って貰ったりもしたワン・カット。そんなワン・カットでも苦労はしていたのだった。TVやMOVIEでは雪降る街の人々の足下まではなかなか映さない。ストーリーとしては関係ないからなのか?自分達は大変な犠牲を払っていた。革靴がグチョグチョなのだ。上半身も2月の雪だからなのかビショビショでパリの雪はとても重たくひどく苦痛だった記憶がある。二人ともコートは着ていたので最悪な姿は免れた。ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神(古代ローマ最高神)域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。とある。関係あるかは定かではないがミラノのドーモにも似たところがある。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成したそうだ。ファサードは1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられたとされている。最終的に竣工されたのは1345年。全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成したのだった。1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されているとのこと。戦争で他宗教だからといって弾圧の意味で破壊することは許せないのだが。装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。下方から、大アーケード、トリビューン(階上廊)、高窓の3層構造となっている。水平的分割線が見られず、分断されることなく上昇する小円柱群が目立ち、垂直線が強調されている。 初期ゴシック建築では、4層式(大アーケード、トリビューン、トリフォリウム、高窓)が一般的であった。そのため、ノートルダム大聖堂も創建当初は4層構成にされており、トリビューンと高窓の間にもう一つの層があった。しかし、ノートルダム大聖堂の場合、左右の側廊が二重で五廊式バシリカ形式であるため、中央身廊部に十分な光が入ってこなかった。そのため13世紀初め、外光をより取り入れるために、高窓部分を拡張し、3層構成に改造されたのだそうだ。とにもかくにも横に延びた恐竜の骨のような骨格が何とも言えない美しい姿なのだから、現在までの施行が素晴らしかったのだと言えましょう。実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっているようだ。1804年5月28日に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルト戴冠式は1804年12月2日にノートルダム大聖堂で行われたのは有名。1885年に心理学者ジークムント・フロイトが留学に来た際に観光で立ち寄り、美しさに感動してここの塔に2度上り、後の妻となる女性に聖堂の写真を土産にしたとも言われた。最近では2015年11月15日にパリ同時多発テロ事件の追悼ミサが開かれ、大聖堂前の広場にも大勢のパリ市民が集まったことも記憶に新しい事実である。パリからの距離を表すときの 起点はノートルダム大聖堂の前が起点となっているそうだ。防寒着を身に纏い、最新のSUV車でまたノ−トルダムを訪ねたい。                                                                                                                                          コウジロウの独り言

 

日本アルペンラリーと 篠塚健次郎氏とCOLT SPEED。

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                                                                                                                photo by Kojiro

みんな驚くのですが。これらのブログの写真はすべて自分が撮影した物であること。そして版権も自分にあること。をお伝えしたい。さて本題に入るとする。1971年の9月16日〜19日行われた国内ラリーの最高峰第13回日本アルペンラリーのスタ−トだった。神宮絵画館前に115台と最高の参加台数。ますますスポーツ化する競技内容と交通事情の悪化のため、1/3以上が脱落し、完走は74台にとどまっていたらしい。驚いたことに自分はこのクルマが有名な選手のクルマらしいとシャッタ−をきっていたのが篠塚健次郎氏のギャランだった。本人をこのときは見ていない。自分の撮影した印画紙プリントを解析すると、カリーナGT・ギャランGTO・ブルーバード510・マークIIスバル1000スポーツそしてギャランGS。確かスカイライン2000GTの4ドアもあった。ラリーの状況は次のとおりであった。・第1ステージ 上野村を過ぎた塩沢峠の第2CPで先行の14台を除く101台がコースの土砂崩れなどで通行不能となり1時間半も遅れたため、再スタートと14台に時間調整のレスコンを与えるという不慮の事態発生したのだった。予定より1時間50分遅れて最初の車がゴールの濁河温泉に入ったとのこと。・第2ステージ 乗鞍山項では突如としてクルマの修理の為のサービス村が出現するなど、サービス競争が激しくなったと伝えられている。優勝侯補の筆頭だった篠塚/宮地チームは第1ステージを減点0で折り返しながらも、第2ステージでふるわず、代わって最大の難コース乗鞍を減点0におさえた片川/片川/伊藤チームのギャランが総減点2点という驚異の新記録で総合優勝したと記録に残っていた。●コースは 東京(神宮外苑)〜秩父〜田口峠〜大河原峠〜武石峠〜上田〜菅平〜渋峠中野市白馬村大町市野麦峠濁河温泉(第1ステージゴール)〜坂本峠〜天生峠〜小鳥峠〜乗鞍〜上諏訪〜韮崎〜大磯ロングビーチ●走行距離距離 約1900kmのロングコースだったのだ。自分でもこれらの峠でラリーチャレンジと題してその当時ケンメリでドライビングを楽しんだものだ。ラリーの話に戻るとそのスタ−トを待つクルマ達の中にいた篠塚健次郎氏のギャラン。何故か、スカイライン党だった自分でもラリーのときのギャランはとてつもなく格好いいと感じていた。スタ−トしてすぐに白バイに捕まるクルマもあったり、滑稽な風景でもあった。篠塚選手のクルマのステッカーに「MARCIAL」の文字。今やヤフオク扱いでしか買えないのか?「CIBIE」と同じで今やなかなか耳に入ってこないし見ることもない。このステッカーがスポーツラリー等のステータスだったことを忘れてはならない。この「日本アルペンラリー」も盛んなのか?あるのかも解ってない。第19回スパイク・インターナショナル 日本アルペンラリー(19th Spike International Japanese Alpine Rally)は、2001年5月19日〜20日に群馬県で日本初のインターナショナル格式として開催されたラリー。が最近の盛り上がりのあった催しなのか?ちょっと淋しい日本国内ラリーの世界かもしれませんね?

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