1974年ローマにて、フィアットジャンニーニ128

f:id:kohyusya:20170328141610j:plainこの写真は1974年2月のローマの街の1カット。フィアット・ジャンニーニ128とフィアットのもう一台。多分フィアットパンダかな?テールランプから車種を割り出そうとしたが実際は解っていない。フィアット・ジャンニーニ128はイタリアフィアットが1969年から1985年まで生産した前輪駆動方式の小型乗用車である。そんなのが街中にゴロゴロいた記憶がある。イタリアの当時のお巡りさんもいる。イタリアにおける法執行機関・警察機構は、所属の異なる複数の機関が、場合によっては重複する分野を管轄するなど複雑である。国家レベルの警察組織のみでも5つ設置されているそうだ。当時の組織と今が代わってなければその通りなのだがミラノのお巡りさんとは制服が異なっていたようだ。制服や車両の配色はそれぞれ違うため、所属部署は一目で確認できるそうだ。クルマにもどろう。エンジンと変速機を直列配置し、これらを車軸と並列にして車体前方に横置き搭載するという省スペースな前輪駆動方式を実用化した先進的自動車であった。技術・販売の両面で多大な成功を収めた素晴らしいクルマなんだそうだ。フィアットの主任設計者ダンテ・ジアコーサと言われる方が考案したこのレイアウトは「ジアコーサ式前輪駆動」と呼ばれた。スペース効率と生産性の高さから、この後に世界各国の前輪駆動車の大部分に採用されることになったそうだ。 フィアットが120番台のナンバーを用い始めたのは、社長がビットリオ・バレッタからジャンニ・アニエッリに交代した1966年に発表した後輪駆動セダン「124」からだそうだ。それまでの開発コード「ティーポ124」という呼び名をそのまま車種名に用いた。言うならばフィアットの戦後第2世代シリーズにあたる系統であり、128もそのグループに属するクルマだったのだ。それ以前のフィアットにおける戦後第1世代シリーズとしては、戦前型を代替するものとして、モノコックボディを導入した一連のモデルが存在した。とにかくクルマの中での先駆者だったのは事実である。見てほしいのはクルマだけではない。写真に写っている道路の舗装のオイル漏れ等による汚さである。写真は正直である。フランスの石畳とは異なりシミだらけである。イタリアは掘れば掘ったで直ぐに遺跡が発掘されるからかあまり舗装の為に深くほれないとは聞いている。だからなのか舗装をあまり行っていない。横断歩道の塗装の仕方、POLIZIAの表示。道路と歩道との間に立つ看板。どれも面白い。人に移ろう。モーニングカットされたパンツを履くサラリーマン風の男性。コートも2ボタンでサイドボタンの立ち襟コート。ハーフサイズ。日本では何回か繰り返しであろうが今の流行の物。カバンも取手までもが革製のビジネスルック。何気ない日常のスナップでもこんなに異国では異なるのである。お巡りさんのコートだって40年前からオシャレだったんだとつくづく考えさせられる。唯一、ださいと言えばクルマのホイール位かもしれませんね?これもマニアには怒られる産物なのでしょうけど!ね。

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桜並木とホンダエアーウェーブ

 

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                                                                                                                                                                                   photo by Kojiro

7年前の2010年頃の写真。もうすぐ4月。東京も桜の季節がやって来た。写真はかつての材木運搬のために張り巡らされた用水路に咲く桜である。清澄公園近くの運河にこぼれんばかり一列に咲くので有名である。今でも江東区深川エリアは水と調和した美しい佇まいを見せています。この辺は木場公園近くの運河とも言うらしいのだが通勤路としては美しかった。エアーウエイブはホンダ・オルティアの発売終了後、 該当する車種がなかった5ナンバーサイズのコンパクトステーションワゴンとして、2005年4月に登場した。名前は空気の流れ(風)が感じられる、洗練されたスタイルで、明るく、広く、開放感あふれる室内空間を持ち、自然との一体感を創造する爽快感あふれるクルマ。という意味からきてるらしい。自分は社用車としてハンドルを握っていた。タイヤは小さいのでホイールも小さく後輪はドラムブレーキでホイールから見えるドラムがちょい気恥ずかしかった。燃料タンクを車体中央にレイアウト。センタータンクレイアウトを採用した初代フィットのプラットファームをベースに、ホイールベースを100mm延長。後席および荷室に余裕のある空間が確保された。荷物の積み下ろしが容易にするためか低床だった。後席を倒す際は座面ごと下に沈んで荷室床をほぼ水平にでき、観葉植物等立てに入れて運ぶことも可能であった。ステーションワゴンとしての使い勝手はよかった。特長は、流麗な?フォルムと前席頭上から後席まで広がる「スカイルーフ」。今ではプジョー308やボルボV40の一部が継承してる。のか前からあったのかちょっと不明である。いつでも青空や星空が見え、開放感が味わえるようになっていた。スカイルーフは、プライバシーガラスと熱線吸収UVカットガラスの合わせガラスを採用。スカイルーフはガラス部分の面積が非常に大きいが、開口部を囲むフレームなどは閉断面化された。剛性および衝突安全性を確保している。但し春から夏の炎天下ではかなり暑かった印象がある。ちなみにメーカーの衝突実験においては50km/h以上で側面衝突を受けてもスカイルーフのガラスは1度も割れなかったそうだ。ドアミラーはデザイン上の理由から、S2000用のものが流用されていたとは驚きである。今思えばだから大きめだったのか?と思う。

搭載エンジン=ホンダ・L15A型 エンジン種類:水冷直列4気筒横置き 弁機構:SOHC チェーン駆動 吸気2 排気2 VTEC 最高出力:110PS/5,800rpm 最大トルク:14.6kgf·m/4,800rpm

総排気量:1,496cc 燃料供給装置形式:電子制御燃料噴射式(ホンダPGM-FI)

使用燃料種類:無鉛レギュラーガソリン 燃料タンク容量:42L この写真のクルマは5年で18万キロ走った。自分が乗ったクルマで最長である。全車にイモビライザーとアレルフリー脱臭フィルターを標準装備とした。2010年8月末・生産終了した。同時に、エアウェイブがベースとなっているライトバンのパートナーも生産終了となる。これにより、2011年6月にフィットシャトルが発売されるまでは、ホンダの5ナンバーステーションワゴンはストリームのみとなった。が、今ではそのストリームも消え、ジェイドとなっている。大幅に大きくなり価格も低価格の外車並みになった。に                                                                                                                                  コウジロウの独り言

 

ミラノ・ガラスアーケードと東京ディズニーランド。

写真は1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。一台しかこの当時はカメラを持っていないため、カメラは当然キャノン・ペリックスと24mmワイドレンズ。紳士・淑女達が当時としてはモダンで現代のファッションに近い。f:id:kohyusya:20170327143353j:plainヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア(イタリア語: Galleria Vittorio Emanuele II)は、イタリアの都市ミラノにあるアーケードの名称。ここには40年前と30年前に2回訪れている。2つのアーケード(8角形の建物に2つのアーケードが交差する)に覆われ、ドゥオーモ広場の北に位置し、ミラノスカラ広場へ通じているのである。これは知らなかったことなのだが、十字路の交わる付近に青いタイルで囲まれた牡牛のモザイクがあり、その股間部分がやや窪んでいる。この窪みに踵を合わせてクルリと一回転すると幸せが訪れると言われてるらしい、旅行者は再びミラノに戻れる等の言い伝えがある。一人しか出来ない為、行列ができるらしい。観光客よりも地元市民によって積極的に行われているようである。朝夕の通勤時にはスーツを着た当時の写真に見られるようなビジネスマンや、日中には主婦などが踏み付け回転する有様が頻繁に見受けられる。イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にちなんで名づけられたのこと。最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設されたとされている。通りはガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われ、19世紀のショッピングモール及びイギリス、ロンドンにあるバーリントン・アーケードのようなデザインである。天井の壁画は5大陸を現しており見事なものである。歩道のモザイク模様もイタリア発祥のデザインが描かれ面白い。ガッレリアはベルギーのブリュッセルにあるギャラリー・サン・チュベール(1847年)やロシア・サンクトペテルブルクにあるパッサージュ(1848年)、ナポリウンベルト1世のガッレリア(1890年)等から始まった、巨大なガラス張りのショッピング・アーケードの原型であったとされている。中央の十字路部分はガラス製のドームで覆われている。この八角形のガラスドーム広場の床面には、中央にイタリア王国の紋章やミラノトリノフィレンツェ、ローマの紋章が描かれている。自分ではじっくり美術を見るような目で見てた訳ではなく、ガイドもこの場所では付けてなかったので、素敵なアーケードだったな程度の印象だった。後に何年もしてからこのアーケードがただ物ではないと解るのである。自分が撮影し、紙焼きを見てからのこと。このミラノのガッレリアはそれまであったものよりも大きく釣り合いが取れており、近代的なショッピングモールの発展において重要な建造物だった。ガッレリアはミラノのドゥオーモとスカラ座という、ミラノにおける2つの著名な観光地へと繋がっている。最初の落成から130年以上を経た現在、アーケードにはオートクチュール店から書店に至るまでの上品な各種店舗、グッチ、プラダルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店の他、レストラン、カフェ、バーが入居している。残念ながら自分達家族で入ったのはバルだけだったのだが。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアへ直接つながっているのは、ミラノでも最高級のパーク・ハイアット・ホテルで、街の中でも最も豪華な部屋と設備を有しているらしい。自分達が宿泊していたのは傍だったがこの名前のホテルではなかった。何と大好きな東京ディズニーランドワールドバザールはこのガッレリアをモデルに作られているらしい。だから東京ディズニーランドに行った時どこかで見た風景と感じるのかもしれない。

 

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510ダットサン・ブルーバード(3代目)と檜原湖

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                                                                                                                photo by Kojiro

全長=4,095mm全幅=1,560mm全高=1,420mm ホイールベース=2,420mm 車両重量=945kgブレーキ=前:ディスクブレーキディスク後:=ドラム ドラムブレーキなんて堂々とよく書けたもんですね? 写真モデルは4ドアセダン 1300-4速コラムシフト まるで1600SSSである。

ブルーバードの歴代シリーズの中で後の910型と共に、最も大きな成功を収めたモデルである。1966年にはダットサンの1.0Lクラスの大衆車、ダットサン・サニーが発売されていたことから、ブルーバードは1.3L以上の中級モデルとして上位移行。ボディは大型化された。当初のボディタイプは2ドア / 4ドアセダン、4ドアワゴン / 4ドアバンの4種類。社内デザイナーにより「スーパーソニックライン」と称した。直線的で彫りの深いシャープなデザインとなった。従来装備されていたフロントドアガラスの三角窓は、換気装置の強化により省略された。デザイン面で大きく変わったのである。陰ながらローレル1800も登場し、自分はこれを操っていた。オースチンの影響が強いメカニズムは、410系までに比べて一新された。量販モデルである1.3LのL13型と、上級モデルとして1.6LのL16型を積んだ「SSS(スーパー・スポーツ・セダン)」のラインアップだった。日本国内では他社に先駆けた先進的設計と斬新なスタイリングをアピールし、オーソドックスな後輪車軸懸架構造ながらデラックスな装備を売りにするトヨペット・コロナとの「BC戦争」を競り合った。写真はT美大に入学して半年は経った夏休みに友人3人で東北ドライブの最中。檜原湖にさしかかったところ。日本国外では、廉価でありながら欧州車並みに高度なスペックを備えた魅力的なセダンとして「プアマンズ・BMW」との評を得、ラリーフィールドでのタフネスな活躍ぶりとも相まって人気を高め、史上初めて北米市場でヒットした日本車となった。自分たちもその気になり、特に現在はフェアレディを逆輸入販売している会社経営をしている友人のクルマにステッカーを貼り回らせ非公認のT美大ラリーカーもどきで緑を楽しんでいるところ。当時の米国では高校生が初めて乗るクルマとして人気を博し、その世代の米国人にとっては思い出深いクルマだという。続いて開発された初代フェアレディZと共に、北米輸出市場における日産(ダットサン)の躍進を実現した存在といえる。震災前の40年も前の風景である。写真もT美大の写真研究室で調色現像したものである。グリル周りは樹脂パーツを多用して610型系と類似したいかついデザインに変更された。テールランプとウインカーが独立したタイプを選ぶことができるようになった。最終期にはスモールランプも独立した。SSSは出力強化(100馬力 → 105馬力)、フェンダーミラーのブラック化、革巻き風ステアリングの採用なども実施。この時期に至っても市場からの人気は高かった。1972年12月 - 510型系生産終了。はかなきクルマの人生である。自分たちはこのクルマ同様大きな夢へ向かって羽ばたいて行くのである。                                                                                                                                                                                                       コウジロウの独り言

ミラノ美人とジャーマン・シェパード・ドッグ。

f:id:kohyusya:20170324222513j:plain1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。ジャーマン・シェパード・ドッグミラノ美人である。ミラノのドーモの前で一瞬撮影出来たワンカット。このカット前後に似よりの写真はない。ほんの一瞬である。自分の肩に下がっていたキャノン・ペリックスに24mmレンズを付けてF4位の絞りでとったのであろう。ややブレ気味だからである。といっても当時も今もオートで「エイッ、ヤッ」で撮っていたに違いないのである。直ぐその場から消え去ってしまったのだ。ジャーマン・シェパード・ドッグとは19世紀後半にドイツの馬学者でもあった元軍人が、理想的な牧羊犬をめざして様々な牧羊犬をもとに作出したのがこの犬種らしい。TVでは名犬リンチンチンの印象が自分にはあるのだが。最も種の改良の努力がされた犬種らしい。寿命は10から15歳らしい。第一次世界大戦時にドイツで軍用犬として活躍したのを機に、各国で軍用犬として用いられるようになりました。その能力の高さから現在では盲導犬災害救助犬などとして活躍しているのは周知の事実。日本で最初の盲導犬になった犬種らしい。ジャーマン・シェパード・ドッグは飛び抜けた天性の賢さに加え、旺盛な作業意欲・高い運動能力は他の犬種からは他にいない。万能犬なのだ。さらに「冷静沈着、勇敢で飼い主に忠実なこと」から家庭犬にも向いていると言われている。ただし、あらゆる能力が高いゆえに子犬の頃から十分な運動としかっりとしたしつけが必要とされており、屋外飼育を考える方は暑さと湿気に弱いので注意しなくてはならないらしい。また和犬の柴犬同様毛量が多いので定期的にブラッシングを要する。難点は胃腸が弱く股関節の病気が見られがちらしい。この写真で見られる犬の間接の手術跡が痛々しい。何故この女性とフルマッチングしてるのでしょう?女性はさりげない足下にグッチかフェラガモのようなパンプスを履きやすそうに洗練されたパンタローネと共にたたずまいを描画させている。「冷静沈着、勇敢で飼い主に忠実なこと」を示した一枚の写真だ。自分はこの写真を何度も夢でみるのです。このたたずまいが犬の一生のワンカットでもありこの女性の生活者としての美意識の定着をさせていたショットなのだ。「美しい生活の為の提案」を彼女と犬がさせてくれていたのである。タバコや麻薬から健康と言う美学をこの写真からもっと速く見いだしていれば、健康な毎日を送れていたに違いない。

                                                                         

 

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ビルトインされたボンネットデザインのスバル1000

f:id:kohyusya:20170322204918j:plain自分が中学生の頃。スバル360に代わって我が家に登場して来たのがこのスバル1000である。なぜか親父は軽免許しか所持しておらず、購入したにもかかわらず、しばらくディーラーにこのクルマが展示されていたのを覚えている。世の中の主流は軽トラックやスバル360。ホンダ360。当然カローラやサニーも走り出していた。道路事情は今思えば第3京浜が誕生して100kmで初めて走るクルマ達がボチボチ出て来た頃だ。20kmスピード違反で出口で捕まってる方々も多くいたころである。運転免許の話に戻ろう。軽免許を持っていると府中運転試験所で実地試験を受けて合格すすれば法令は免除されて普通免許証を貰える仕組みかと覚えている。親父は2〜3回不合格だったのか?一ヶ月近くこのクルマはディラーにあった。家族中が憧れていた5人乗り小型自動車スバル1000。360だと後席のうしろに3人乗って交番の傍を通る時、真ん中の自分が隠れることが必要だった。そんなことが必要なくなるクルマがスバル1000だった。しかも後席のフロアはフラット。本当に待望してたのである。スバル1000は富士重工業(スバル)が開発し、1966年から1969年まで生産していた同社初の量産小型乗用車である。スバル1000は1966年5月に富士重工業初の小型車として発売された。そのメカニズムや基本性能は当時のライバル車と大幅に異なっていた。「1,500ccクラス並み」と室内ユーティリティに優れたパッケージングや、ユニークかつ合理的なエンジニアリングは、後世が「スバリスト」と呼ばれる熱狂的なスバル愛好家を生んだ。開発の総指揮はスバル360の百瀬晋六だったそうだ。スバル360で進出に成功した富士重工業開発に当たって、スペース効率と、静粛性、振動には特に留意され、早期から水冷4サイクル水平対向エンジントランスミッションを縦置として、等長のドライブシャフトを用いたFF方式というパッケージングを核に開発を進められたらしい。サスペンションのスプリングにはスバル360と同じくトーションバー(ねじり棒ばね)を採用することによるスペース効率とコストダウンの両立、急坂登坂などFF方式の難点だったトラクション確保と軽量な車重の両立のために、スペアタイヤ、ジャッキ等の工具類までエンジンルームに収納し、フロントに全車重の60%程度の荷重を集中させた。ボンネットの開けられるスペースも確保されており多分開発にお金が掛かってたと思われる。静粛性に優れた「デュアルラジエーター」の開発や完全なフラット・フロアの実現のために、排気管を運転席側サイドシルに配置するなど、スバル1000は多くの特長をもった。合理的で独創的なメカニズムの数々が形成されていったのである。但し、2ドアのスバル1000だと思ったがうしろからバンパー下を見ると貧弱な印象さえ受けた。やがて出てくる他社と比較してシトエンの2CVを連想してしまうような貧弱さをも感じられた。スバル1000は、当時のトヨタや日産などの大メーカーが諦めざるを得なかったFF車両を実現させたことにより多くの自動車メーカーのFF方式への関心を高めた。そしてなんとアルファスッド、シトロエンGSの開発に多大の影響を与え、当時の2社の工場にはスバル1000の残骸が多く見られたと聞いている。発売当初は、トヨタ、日産、マツダなどがしのぎを削る小型車市場で、販売網の販売は立ち遅れたものの、伊藤忠商事との販売提携やエンジニアリングの理想を追求したメカニズムで「スバリスト」と熱心な信奉者を生んだ。徐々に販売台数を伸ばし、1969年3月には月販台数4,000台超と、カローラ、サニーに続き小型車市場の一角を確保したそうだ。またスバル1000の為に開発された「D.O.J」等速ジョイントの成功により、1970年代からの世界的な小型車のFF化への潮流が決定的になったのも事実であるようだ。トヨタに対抗したのか1969年3月にはボアを4mm拡げて1,088ccとしたスバルff-1シリーズへ移行した。妻の親父がこのff-1スポーツを長く乗っていて何度かハンドルを握らせて貰った感触として今でも残ってる。                 

 

 

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フィレンツェの大聖堂は時が設計者となった建造物。

この写真を撮影したのが今から43年前。この大聖堂の天辺まで上ったのが20年前。初めてこの大聖堂を見たときは中に入ることもせず、観光でフィレンツェを歩いただけだった。まさかその20年後にまた来るとは思っていなかった。現地では2回とも自由行動をとっていたのだが正式には3回目となる。20年前の訪問は家族全員で来たのだった。子供が5歳の時。フィレンツェでは2泊3日、イタリアだけの旅だった。ルネッサンスの発祥の地、フィレンツェ。花の都と呼ばれるのは、古代ローマ時代の地名・フロンティアが、”花が咲いた”という意味であることに由来するそうだ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。フェレンツェのシンボルとしてゴシック様式の教会のなかでは、世界第3位の規模を誇るらしい。今思えば、当時の映像は皆ビデオで押さえているのが多く、スチールは少なかった。したがって、記憶に薄いのである。フィレンツェと言えば自分はヴェッキオ橋が一番印象的だったヨーロッパもイタリアあ3回しか来ておらず、ドウモに上った記憶はあるのだが、どこのドオモだったか浅い記憶しか残ってない。600年もの歳月をかけて造り上げられたとされているこのフィレンツェの大聖堂は、まさにメディチ家が贅を尽くし栄華を極めた結晶そのもの。前のドゥオモ広場から見ると、その姿は圧巻。ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成されている。

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photo by Kojiro

メディチは受験の為のデッサンのモチーフ。目けんにシワを寄せて神経質そうな顔をしてたのを思い浮かべた。この 大聖堂の天辺に登った。外を見るとフィレンツェの建造物の屋根はレンガ色。本当に美しかった。宗教色の濃い建造物は何故こんなにも美しいのか?街全体をも染めてしまう。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、石積み建築のドームとしては現在でも世界最大なのだそうだ。二重構造のドームで互いを押し合う設計になっており、木枠を使わずに煉瓦を積み上げて製作しているのは予算削減と耐久性を考慮してたからだそうだ。鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されているそうだ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、イタリア・ゴシック様式に仕上がっている。現在のドームは3代目。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っているそうだ。ピサやシエナの大聖堂建立に触発されて建設を開始。1294年、羊毛業組合は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼したのだった。多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があり不明瞭な部分があるらしい。その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実だそうだ。1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更したらしい。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。メディチ家トスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去したり、フィレンツェの都市計画の一環としてすすめていたりしたが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかったとのこと。石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。そんなことは言われなければ解らない。一人のアイデアですべて設計され、建設されていたかの用に美しい建造物。議会制民主主義であるはずのない当時から時がデザインして来た物と言えよう。

 

         

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