ミラノ・ガラスアーケードと東京ディズニーランド。

写真は1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。一台しかこの当時はカメラを持っていないため、カメラは当然キャノン・ペリックスと24mmワイドレンズ。紳士・淑女達が当時としてはモダンで現代のファッションに近い。f:id:kohyusya:20170327143353j:plainヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア(イタリア語: Galleria Vittorio Emanuele II)は、イタリアの都市ミラノにあるアーケードの名称。ここには40年前と30年前に2回訪れている。2つのアーケード(8角形の建物に2つのアーケードが交差する)に覆われ、ドゥオーモ広場の北に位置し、ミラノスカラ広場へ通じているのである。これは知らなかったことなのだが、十字路の交わる付近に青いタイルで囲まれた牡牛のモザイクがあり、その股間部分がやや窪んでいる。この窪みに踵を合わせてクルリと一回転すると幸せが訪れると言われてるらしい、旅行者は再びミラノに戻れる等の言い伝えがある。一人しか出来ない為、行列ができるらしい。観光客よりも地元市民によって積極的に行われているようである。朝夕の通勤時にはスーツを着た当時の写真に見られるようなビジネスマンや、日中には主婦などが踏み付け回転する有様が頻繁に見受けられる。イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にちなんで名づけられたのこと。最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設されたとされている。通りはガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われ、19世紀のショッピングモール及びイギリス、ロンドンにあるバーリントン・アーケードのようなデザインである。天井の壁画は5大陸を現しており見事なものである。歩道のモザイク模様もイタリア発祥のデザインが描かれ面白い。ガッレリアはベルギーのブリュッセルにあるギャラリー・サン・チュベール(1847年)やロシア・サンクトペテルブルクにあるパッサージュ(1848年)、ナポリウンベルト1世のガッレリア(1890年)等から始まった、巨大なガラス張りのショッピング・アーケードの原型であったとされている。中央の十字路部分はガラス製のドームで覆われている。この八角形のガラスドーム広場の床面には、中央にイタリア王国の紋章やミラノトリノフィレンツェ、ローマの紋章が描かれている。自分ではじっくり美術を見るような目で見てた訳ではなく、ガイドもこの場所では付けてなかったので、素敵なアーケードだったな程度の印象だった。後に何年もしてからこのアーケードがただ物ではないと解るのである。自分が撮影し、紙焼きを見てからのこと。このミラノのガッレリアはそれまであったものよりも大きく釣り合いが取れており、近代的なショッピングモールの発展において重要な建造物だった。ガッレリアはミラノのドゥオーモとスカラ座という、ミラノにおける2つの著名な観光地へと繋がっている。最初の落成から130年以上を経た現在、アーケードにはオートクチュール店から書店に至るまでの上品な各種店舗、グッチ、プラダルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店の他、レストラン、カフェ、バーが入居している。残念ながら自分達家族で入ったのはバルだけだったのだが。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアへ直接つながっているのは、ミラノでも最高級のパーク・ハイアット・ホテルで、街の中でも最も豪華な部屋と設備を有しているらしい。自分達が宿泊していたのは傍だったがこの名前のホテルではなかった。何と大好きな東京ディズニーランドワールドバザールはこのガッレリアをモデルに作られているらしい。だから東京ディズニーランドに行った時どこかで見た風景と感じるのかもしれない。

 

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510ダットサン・ブルーバード(3代目)と檜原湖

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                                                                                                                photo by Kojiro

全長=4,095mm全幅=1,560mm全高=1,420mm ホイールベース=2,420mm 車両重量=945kgブレーキ=前:ディスクブレーキディスク後:=ドラム ドラムブレーキなんて堂々とよく書けたもんですね? 写真モデルは4ドアセダン 1300-4速コラムシフト まるで1600SSSである。

ブルーバードの歴代シリーズの中で後の910型と共に、最も大きな成功を収めたモデルである。1966年にはダットサンの1.0Lクラスの大衆車、ダットサン・サニーが発売されていたことから、ブルーバードは1.3L以上の中級モデルとして上位移行。ボディは大型化された。当初のボディタイプは2ドア / 4ドアセダン、4ドアワゴン / 4ドアバンの4種類。社内デザイナーにより「スーパーソニックライン」と称した。直線的で彫りの深いシャープなデザインとなった。従来装備されていたフロントドアガラスの三角窓は、換気装置の強化により省略された。デザイン面で大きく変わったのである。陰ながらローレル1800も登場し、自分はこれを操っていた。オースチンの影響が強いメカニズムは、410系までに比べて一新された。量販モデルである1.3LのL13型と、上級モデルとして1.6LのL16型を積んだ「SSS(スーパー・スポーツ・セダン)」のラインアップだった。日本国内では他社に先駆けた先進的設計と斬新なスタイリングをアピールし、オーソドックスな後輪車軸懸架構造ながらデラックスな装備を売りにするトヨペット・コロナとの「BC戦争」を競り合った。写真はT美大に入学して半年は経った夏休みに友人3人で東北ドライブの最中。檜原湖にさしかかったところ。日本国外では、廉価でありながら欧州車並みに高度なスペックを備えた魅力的なセダンとして「プアマンズ・BMW」との評を得、ラリーフィールドでのタフネスな活躍ぶりとも相まって人気を高め、史上初めて北米市場でヒットした日本車となった。自分たちもその気になり、特に現在はフェアレディを逆輸入販売している会社経営をしている友人のクルマにステッカーを貼り回らせ非公認のT美大ラリーカーもどきで緑を楽しんでいるところ。当時の米国では高校生が初めて乗るクルマとして人気を博し、その世代の米国人にとっては思い出深いクルマだという。続いて開発された初代フェアレディZと共に、北米輸出市場における日産(ダットサン)の躍進を実現した存在といえる。震災前の40年も前の風景である。写真もT美大の写真研究室で調色現像したものである。グリル周りは樹脂パーツを多用して610型系と類似したいかついデザインに変更された。テールランプとウインカーが独立したタイプを選ぶことができるようになった。最終期にはスモールランプも独立した。SSSは出力強化(100馬力 → 105馬力)、フェンダーミラーのブラック化、革巻き風ステアリングの採用なども実施。この時期に至っても市場からの人気は高かった。1972年12月 - 510型系生産終了。はかなきクルマの人生である。自分たちはこのクルマ同様大きな夢へ向かって羽ばたいて行くのである。                                                                                                                                                                                                       コウジロウの独り言

ミラノ美人とジャーマン・シェパード・ドッグ。

f:id:kohyusya:20170324222513j:plain1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。ジャーマン・シェパード・ドッグミラノ美人である。ミラノのドーモの前で一瞬撮影出来たワンカット。このカット前後に似よりの写真はない。ほんの一瞬である。自分の肩に下がっていたキャノン・ペリックスに24mmレンズを付けてF4位の絞りでとったのであろう。ややブレ気味だからである。といっても当時も今もオートで「エイッ、ヤッ」で撮っていたに違いないのである。直ぐその場から消え去ってしまったのだ。ジャーマン・シェパード・ドッグとは19世紀後半にドイツの馬学者でもあった元軍人が、理想的な牧羊犬をめざして様々な牧羊犬をもとに作出したのがこの犬種らしい。TVでは名犬リンチンチンの印象が自分にはあるのだが。最も種の改良の努力がされた犬種らしい。寿命は10から15歳らしい。第一次世界大戦時にドイツで軍用犬として活躍したのを機に、各国で軍用犬として用いられるようになりました。その能力の高さから現在では盲導犬災害救助犬などとして活躍しているのは周知の事実。日本で最初の盲導犬になった犬種らしい。ジャーマン・シェパード・ドッグは飛び抜けた天性の賢さに加え、旺盛な作業意欲・高い運動能力は他の犬種からは他にいない。万能犬なのだ。さらに「冷静沈着、勇敢で飼い主に忠実なこと」から家庭犬にも向いていると言われている。ただし、あらゆる能力が高いゆえに子犬の頃から十分な運動としかっりとしたしつけが必要とされており、屋外飼育を考える方は暑さと湿気に弱いので注意しなくてはならないらしい。また和犬の柴犬同様毛量が多いので定期的にブラッシングを要する。難点は胃腸が弱く股関節の病気が見られがちらしい。この写真で見られる犬の間接の手術跡が痛々しい。何故この女性とフルマッチングしてるのでしょう?女性はさりげない足下にグッチかフェラガモのようなパンプスを履きやすそうに洗練されたパンタローネと共にたたずまいを描画させている。「冷静沈着、勇敢で飼い主に忠実なこと」を示した一枚の写真だ。自分はこの写真を何度も夢でみるのです。このたたずまいが犬の一生のワンカットでもありこの女性の生活者としての美意識の定着をさせていたショットなのだ。「美しい生活の為の提案」を彼女と犬がさせてくれていたのである。タバコや麻薬から健康と言う美学をこの写真からもっと速く見いだしていれば、健康な毎日を送れていたに違いない。

                                                                         

 

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ビルトインされたボンネットデザインのスバル1000

f:id:kohyusya:20170322204918j:plain自分が中学生の頃。スバル360に代わって我が家に登場して来たのがこのスバル1000である。なぜか親父は軽免許しか所持しておらず、購入したにもかかわらず、しばらくディーラーにこのクルマが展示されていたのを覚えている。世の中の主流は軽トラックやスバル360。ホンダ360。当然カローラやサニーも走り出していた。道路事情は今思えば第3京浜が誕生して100kmで初めて走るクルマ達がボチボチ出て来た頃だ。20kmスピード違反で出口で捕まってる方々も多くいたころである。運転免許の話に戻ろう。軽免許を持っていると府中運転試験所で実地試験を受けて合格すすれば法令は免除されて普通免許証を貰える仕組みかと覚えている。親父は2〜3回不合格だったのか?一ヶ月近くこのクルマはディラーにあった。家族中が憧れていた5人乗り小型自動車スバル1000。360だと後席のうしろに3人乗って交番の傍を通る時、真ん中の自分が隠れることが必要だった。そんなことが必要なくなるクルマがスバル1000だった。しかも後席のフロアはフラット。本当に待望してたのである。スバル1000は富士重工業(スバル)が開発し、1966年から1969年まで生産していた同社初の量産小型乗用車である。スバル1000は1966年5月に富士重工業初の小型車として発売された。そのメカニズムや基本性能は当時のライバル車と大幅に異なっていた。「1,500ccクラス並み」と室内ユーティリティに優れたパッケージングや、ユニークかつ合理的なエンジニアリングは、後世が「スバリスト」と呼ばれる熱狂的なスバル愛好家を生んだ。開発の総指揮はスバル360の百瀬晋六だったそうだ。スバル360で進出に成功した富士重工業開発に当たって、スペース効率と、静粛性、振動には特に留意され、早期から水冷4サイクル水平対向エンジントランスミッションを縦置として、等長のドライブシャフトを用いたFF方式というパッケージングを核に開発を進められたらしい。サスペンションのスプリングにはスバル360と同じくトーションバー(ねじり棒ばね)を採用することによるスペース効率とコストダウンの両立、急坂登坂などFF方式の難点だったトラクション確保と軽量な車重の両立のために、スペアタイヤ、ジャッキ等の工具類までエンジンルームに収納し、フロントに全車重の60%程度の荷重を集中させた。ボンネットの開けられるスペースも確保されており多分開発にお金が掛かってたと思われる。静粛性に優れた「デュアルラジエーター」の開発や完全なフラット・フロアの実現のために、排気管を運転席側サイドシルに配置するなど、スバル1000は多くの特長をもった。合理的で独創的なメカニズムの数々が形成されていったのである。但し、2ドアのスバル1000だと思ったがうしろからバンパー下を見ると貧弱な印象さえ受けた。やがて出てくる他社と比較してシトエンの2CVを連想してしまうような貧弱さをも感じられた。スバル1000は、当時のトヨタや日産などの大メーカーが諦めざるを得なかったFF車両を実現させたことにより多くの自動車メーカーのFF方式への関心を高めた。そしてなんとアルファスッド、シトロエンGSの開発に多大の影響を与え、当時の2社の工場にはスバル1000の残骸が多く見られたと聞いている。発売当初は、トヨタ、日産、マツダなどがしのぎを削る小型車市場で、販売網の販売は立ち遅れたものの、伊藤忠商事との販売提携やエンジニアリングの理想を追求したメカニズムで「スバリスト」と熱心な信奉者を生んだ。徐々に販売台数を伸ばし、1969年3月には月販台数4,000台超と、カローラ、サニーに続き小型車市場の一角を確保したそうだ。またスバル1000の為に開発された「D.O.J」等速ジョイントの成功により、1970年代からの世界的な小型車のFF化への潮流が決定的になったのも事実であるようだ。トヨタに対抗したのか1969年3月にはボアを4mm拡げて1,088ccとしたスバルff-1シリーズへ移行した。妻の親父がこのff-1スポーツを長く乗っていて何度かハンドルを握らせて貰った感触として今でも残ってる。                 

 

 

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フィレンツェの大聖堂は時が設計者となった建造物。

この写真を撮影したのが今から43年前。この大聖堂の天辺まで上ったのが20年前。初めてこの大聖堂を見たときは中に入ることもせず、観光でフィレンツェを歩いただけだった。まさかその20年後にまた来るとは思っていなかった。現地では2回とも自由行動をとっていたのだが正式には3回目となる。20年前の訪問は家族全員で来たのだった。子供が5歳の時。フィレンツェでは2泊3日、イタリアだけの旅だった。ルネッサンスの発祥の地、フィレンツェ。花の都と呼ばれるのは、古代ローマ時代の地名・フロンティアが、”花が咲いた”という意味であることに由来するそうだ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。フェレンツェのシンボルとしてゴシック様式の教会のなかでは、世界第3位の規模を誇るらしい。今思えば、当時の映像は皆ビデオで押さえているのが多く、スチールは少なかった。したがって、記憶に薄いのである。フィレンツェと言えば自分はヴェッキオ橋が一番印象的だったヨーロッパもイタリアあ3回しか来ておらず、ドウモに上った記憶はあるのだが、どこのドオモだったか浅い記憶しか残ってない。600年もの歳月をかけて造り上げられたとされているこのフィレンツェの大聖堂は、まさにメディチ家が贅を尽くし栄華を極めた結晶そのもの。前のドゥオモ広場から見ると、その姿は圧巻。ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成されている。

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photo by Kojiro

メディチは受験の為のデッサンのモチーフ。目けんにシワを寄せて神経質そうな顔をしてたのを思い浮かべた。この 大聖堂の天辺に登った。外を見るとフィレンツェの建造物の屋根はレンガ色。本当に美しかった。宗教色の濃い建造物は何故こんなにも美しいのか?街全体をも染めてしまう。巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、石積み建築のドームとしては現在でも世界最大なのだそうだ。二重構造のドームで互いを押し合う設計になっており、木枠を使わずに煉瓦を積み上げて製作しているのは予算削減と耐久性を考慮してたからだそうだ。鐘楼は大聖堂の南西隅に配置されている。大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。三つの建築物とも世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として指定されているそうだ。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、イタリア・ゴシック様式に仕上がっている。現在のドームは3代目。旧聖堂は、現在の教会堂の地下に眠っているそうだ。ピサやシエナの大聖堂建立に触発されて建設を開始。1294年、羊毛業組合は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼したのだった。多くの工匠が携わったために、彼の最初の計画がどのようなものであったかは現在でも論争があり不明瞭な部分があるらしい。その形は現在のものとほぼ変わっておらず、中央部がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の影響を受けて八角形であったこと、ローマ・カトリックの教会建築としては当時世界最大のものだったことは確実だそうだ。1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更したらしい。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。メディチ家トスカーナ大公フランチェスコ1世の命で、建築家ベルナルド・ブオンタレンティがファサードを撤去したり、フィレンツェの都市計画の一環としてすすめていたりしたが、ブオンタレンティのデザインしたファサードに非難の声があがり、計画は実現しなかったとのこと。石とセメントの表面に彫刻がほどこされているかのようなだまし絵が描かれたこともあったが、それもはげおち、19世紀までファサードは未完成のままであった。そこでフィレンツェの自治体は最初の構想をもとにファサードを再建することを決定、1864年にコンクールが行われ、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建設された。この建設は1876年に始まり、1887年に完成した。銅製の巨大な扉は1899年から1903年にかけて製作されたものである。そんなことは言われなければ解らない。一人のアイデアですべて設計され、建設されていたかの用に美しい建造物。議会制民主主義であるはずのない当時から時がデザインして来た物と言えよう。

 

         

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深々と静かなアンカレッジ。行きたくても今は近くて遠い?

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1974年2月テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港JALのジャンボ機747が雪の滑走路に降りた。TVのかつてのドラマ「GOOD LUCK」風に言えば「ランディング」。何故かガタガタ大きく揺れ、上の荷物入れの傍の天井から黄色のエアマスクが細い透明ホースと共に殆ど全員の頭上に落ちて来た。「ガタガタランディング」。ヨーロッパ20日間の旅と卒業旅行を目的に自分を乗せたボーイング747はテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港に降りたのである。初めて乗った航空機の着陸の体感は「こんなに怖いんだ」だった。なんせ当時は羽田からのフライト。かつて北極圏回りヨーロッパ便が給油の為に必ず寄港。現在でも航空貨物のハブ空港であるなど、世界的に重要な空港であるため、航空貨物業も発達しているそうだ。自分の747は事実上オーバーランだった。雪だらけで何処までが滑走路なのか室内の窓越しからは解らなかった。逆噴射がうまくいかず、タイヤ6輪のバーストが発覚。ケガ人が出なかったのが幸いである。しばらくして空港から30分搭乗員全員がバスに乗り30分のところに移動。それからホテルに10時間カンズメだった。こんなブログに書く内容ではないが、決してこれから社会人になる物がやってはならないことに挑戦した。マイナス10度以上のところで立○○をしたらどうなるか?男3人でホテルの裏で実験をした。ただ普通の結果だった。USAの法律では禁固刑もあるとか?当時はそんなことすら考えてもいなかった。アンカレッジは北米を代表する港湾都市の一つであり、アラスカ州における商工業、金融の中心地である。写真は冬だけに真っ白な世界。古くからの水産業林業も盛んで、特に水産品は日本向けに多く輸出されているそうだ。アンカレッジはアラスカ州南部のクック湾の湾奥に位置し、北緯60度、西経150度とかなり高緯度である。北方には北アメリカ大陸の最高峰であるデナリ(マッキンリー山)、東部にはロッキー山脈の高峰がそびえ立つが、西部は原野が多い。写真の風景はニックアームと呼ばれる氷河の入り江なのか氷の湾が広がり、遠くにファイアー島とポイントマッケンジ−の丘が覗けるみたいである。今から40年以上前のアンカレッジの町は深々としてまさしく静かだった。アンカレッジの名は、この臨時の投錨地(anchorage)が置かれた時に作成された地図で、一般名詞の「anchorage」とすべきところを「Anchorage」と誤記してしまい、これが固有名詞として定着したことに由来する。1778年に周辺海域を探検したキャプテン・クックが投錨したことから名づけられたという伝承があるが、実際にはそうした記録はない。不思議なことでもある。前にも述べたがスタジオ・ジブリの読み方間違い。ギブリをジブリと読んでしまったが為に覚えやすいやさしい名前になった例もある。1990年ごろまで(冷戦時代)は、西側諸国の航空機はソビエト連邦領空の通過をほとんど許可されなかったため、日本とヨーロッパ間の航空便の経由地として頻繁に使用されており、なじみ深い地名であった。ツンドラ地帯をとんだ747。空からの地球は本当に不思議なせかいだった。当時のターミナルには日本人をターゲットにしたうどん屋まであった。日本からの定期旅客便は無くなったが、各国からの臨時便やアメリカ各州からの定期便は多数存在しており、2015年度の旅客実績は約540万人だそうだ。最後にアンカレッジの10時間の為に、ローマが一日減ったのを覚えている。追加料金で燃料代高騰のためと言われ、オイルショクの影響を受けたこともショックでした。

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お楽しみはこれからだ。スカイライン2000GT・EXと ハードトップ2000GT・TURBO・GT・ES。

1980年代に乗っていたC210系からR30系型に名称変更されモデルチェンジしたスカイラインf:id:kohyusya:20170303224606j:plain

6代目はC10型以来アイデンティティとなっていたリアフェンダーの"サーフィンライン"が廃され、リアのマル型ランプは残されたものの、ホイールベースは4気筒のTIも6気筒のロングに統一された。なんとボディの5ドアハッチバックも1ヶ月遅れで発表された。正直見るまでもない中途半端なデザインと思ったが。その点ハード・トップは素晴らしいデザインで乗る居住空間も確保され、アンテナが室内で上げ下げできたり、トランクスルー等優れたアイデア満載のクルマであった。買うまでの比較対象者はTOYOTA・CELICA・XXであった。デザインはコーリンチャップマンのロータス系の角ばったモノで、格好は抜群だった。しかし後席が自分の座高が高いせいか頭がつかえる状態だった。とても長距離を4人乗車程度でドライブは無理。ドライビングは重厚だったセリカ・XXだった。が、そんなこんなでやっぱりスカイラインとなるのである。当時はスカイラインの生みの親・桜井真一郎氏も多くのメディアに登場し、特にFM局のラジオを筆頭に今までの露出が数少ないテレビまで出てご本人が嬉しそうに語ってたのも記憶に新しい。売れたケンメリが嫌いだった彼はこれに命をかけていたのかもしれない。実家の家族会議では大きなクルマよりスカイライン・タ−ボのような走りの軽快なクルマのことが好きだったのだ。親、兄弟3人ともである。スバル1000からローレル1800そして13万キロ乗ったケンメリ・スカイライン2000GTX、そして2000GTハードトップ・タ−ボと続いたのである。レースでも4気筒だったRSが産まれシルエットファーミュラーと由良さんの手により華麗な姿を富士を飾っていた。自分はその後妻を娶り、新婚旅行は妻の親戚が大勢いる四国の高松へ、そのスカイライン・タ−ボ'ハードトップで向かったのだった。巡航スピード160km..。信じられないと言われますが、よく捕まらないで行けたもんです。ユーミンの中央フリーウエイを中国自動車道で聴きながら快適走行で岡山 アイビースクエアに一泊して大原美術館と、観光しながら。ただ、疲れ果てた自分は当然怒りっぽくなり、帰りの京都の銀閣寺では二人の関係危うし!なんて記憶もあります。その後お金がなかった自分は兄の友人から払い下げ下取り車であったスバル・レオーネのハンドルを握るのである。なんとそれは6万円のクルマ。なんとキャッシュで購入。 2年も経たないうちに、スカイラインを買う下取り車として19万円の価値として変貌するのである。イトコの旦那がスバルのコピーを書いてたこともあリスバルを所有。そのイトコの旦那へ、自分がはいていた純正の金色のアルミホイールを譲り、インチ違いの小さいホイールでニッサンの営業が持って行ったのを覚えている。ここでやって来たのが写真の4ドアの2000GT・EXである。新婚旅行を2000GT・タ−ボでハンドリングしたこともあり、ケンメリから歩んで来たスカイライン党としての意地からかL型エンジンの6気筒の味を掴みたく写真のクルマのオーナーになるのである。30代前半のことである。それからしばらくして兄がスカイライン・タ−ボ2000GTXータイプM(正式名称は割愛)、弟が7th・スカイライン・ターボ(R31型)、そして自分がノーマルエンジンL20のスカイライン2000GTと兄弟3人とも再スカイライン党となるのである。それから3人のドライバーはすべてマニュアルシフトを選択。ドライブをレーシーに楽しむタイプだった事実も言っておこう。やがて自分と弟はフランスのスポーティカー=シトロエンBX16V、プジョー405 Mi16と同エンジンのオーナーとなるのである。なんと影響はカーグラTVの松任谷さんではなく田辺さんと当時NAViの松本女史だった。お楽しみはこれからだと心から思ってた。

 

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