トレヴィの泉に後ろ向きにコインを投げて来たけど4回目は未だに来ない。

f:id:kohyusya:20170216183539j:plain後ろ向きにコインを投げ入れると「願いが叶う」という言い伝えがある。3回この場所に来れたのはそのおかげなのかも?但し「右手にとって左肩の上から投げるともう一度来れる」。なんて記憶があったが、「投げるコインの枚数によって願いが異なる」とされるのが本当らしい。「コイン1枚だと再びローマに来ることができ」、2枚では「大切な人と永遠に一緒にいることができ」、3枚になると「恋人や夫・妻と別れることができる」と言われる。この説が本当ならば3回来れたのはなんだったんでしょう?1枚だけを投げてたからなんでしょうか?但しそれも「ローマに」ではなく「トレビの泉に」。当然ローマに来てるわけですけど、その後4回目が実施されないのは公約違反ですかね?その三枚目のコインの願いはキリスト教が離婚を禁止していたという歴史の名残りでもあるらしい。トレヴィの泉は、ローマにある最も巨大なバロック時代の人工の泉。ローマの観光名所。トレビの泉、トレドの泉とも呼称される。ポーリ宮殿の壁と一体となったデザインで、まさしく「ビルト・インデザイン」そのもの。中央に水を司るネプトゥーヌスが立ち、左に豊饒の女神ケレース、右に健康の女神サルースが配置されている。これら池全体の造作はニコラ・サルヴィ の原案でピエトロ・ブラッチが制作したとされている。クイリナーレ宮殿の西側、スタンペリア通り沿いのトレヴィ広場にあり、ローマ地下鉄A線バルベリーニ駅から徒歩圏内に位置する。1から2回目はバスで、そして3回目に行った時はリムジンだったので地下鉄での生き方が解ってません。元々、古代ローマ時代にヴィルゴ水道の終端施設としての人工の泉が場所を替えた後、今の位置になったそうだ。その後、泉は教皇クレメンス12世の命によりローマの建築家ニコラ・サルヴィの設計で改造、彼の没後の1762年に完成した。最後に訪れた時には工事をしていてコインを投げる事をしませんでした。そこははっきりとは覚えてないのですが、だからなのか4回目はまだ無いのです。2回目かと思ってたのですが、3回目は家族で行ったので妻から言われ思い出したのです。公約違反どころかむしろ言い伝えは本当だったのです。肩からコインを入れてこなかったんです。高さ25m、幅役20mの巨大なトレビの泉は、バロック時代に建てられた最大の噴水。トレビという名前は、イタリア語で数字の3(トレ)と道(ビア)という意味をもつらしい。文字通り、3つの道が出会う場所。13キロも引かれた古代ローマの水道の終端点であった。この水道は、400年以上もの間、ローマ人に水を供給したという歴史を持っているからなのかもしれませんね。

                                                                                                                                      コウジロウの独り言

 

ピサの斜塔はもしかして、神々の怒りの産物なのか?

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                                                                                                                photo by Kojiro

前にブログに書かせて頂いた、フィレンツェの駅から出発してピサへの旅が出来ると言ってたのを覚えて頂いてましたか?ピサの建物はロマネスク様式のキリスト教の聖堂である。ピサは11世紀頃から自治都市として地中海貿易で繁栄したそうで、経済的繁栄を背景として聖堂の建設が計画されたそうです。聖堂は11世紀半ばに着工され、12世紀に完成した。続いて聖堂の周囲に洗礼堂や鐘楼が建設されていく。この聖堂の傍らにそびえる鐘楼が、あの「ピサの斜塔」である。このピサ大聖堂は、ロマネスク様式の代表として知られている。建築などの美術様式のことを差してお「ローマ風の」という意味で、ローマ時代の建築の影響が強く見られるのでこのように呼ばれるようになったそうだ。またバシリカ様式は、内部の広間が真上から見てラテン十字型の形状になっている構造である。ロマネスク様式のもう一つの特徴は、半円アーチが繰り返し使用されていること。廊下の天井やドームにおいて半円アーチの形状がある。こんなことを言いたくてこのブログを書いている訳ではありません。この大聖堂が出来たいきさつが問題。各地にキリスト教信仰の中心地が確立し、その富と権勢の大きさを表す手段としてピサ大聖堂が作られるようになったからである。言わば権力の象徴としての建造物なのです。ここが重要なことで内部の円柱の多くはイスラム教徒から略奪したもので、内部装飾にはイスラム様式のアーチやビザンティン風のモザイク画など、東方文化の影響を見ることができるのですが、そのほとんどが戦利品だと知ったらがっかりします。それらを集めて集約する慣習がこの頃からあったのだと痛感してしまいます。イスラム教徒はこの頃も迫害を受けていたのか?今と通ずる物があるのか?知りたいことでもあるのだ。ただ単に美しいだけでこれらの建造物は語れない。大聖堂は1064年、都市国家であるピサがイスラム軍と地中海貿易の覇権をアラブ勢力と争い大勝した「パレルモ沖海戦」を記念して起工されたんだそうだ。ギリシア人ブスケットの設計、指導の下に着工が行われ、12世紀にライナールドがファサードを完成させた。大聖堂の建設にかかった期間は1064年から1118年と約半世紀にもわたるとされる。約200年位かかっているのだ。血みどろの戦いや略奪からの結晶であるなら本当の美しさを疑いたくなる。それから34年後の1152年には洗礼堂が、さらにその19年後の1173年には鐘塔が、大聖堂の周りに建設され始めた。それぞれの建築物は14世紀後半に完成され、現在のドゥオモ広場が生まれた。11世紀から12世紀の西ヨーロッパではキリスト教信仰の高揚を背景に教会の建設がさかんになり、イタリアやフランスを中心としてロマネスク様式の聖堂が各地に建設された。とある。信者たちはピサの大聖堂を含む各地の教会を訪れ薄暗さや壁面の彫刻によって演出された重く深みのある空間のなかで、神への祈りを捧げたのだろう。それにしても、これほど安定感を持った聖堂の隣にある塔が傾いて斜めになってしまったというのは歴史のおもしろいところだと思う。もしかして、ピサの斜塔はその略奪や迫害からの神々の怒りからできたものなのか?だから傾いてしまったのではないだろうか?歴史を見抜かなければ今現実にある物の本質を掴むことは出来ないのである。単純にこの斜塔に登ったから!なんて簡単なお話ではない、歴史を語る貴重な建造物なのである。

                              コウジロウの独り言

もう一人の家族。彼女の名前。君の名は「カエラ」。

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                                                                                                                   Photo by Kojiro

我が家の一員。雑種のメス猫の「カエラ」です。我が家では皆にかわいがられている。一人でいつも過ごしているアメリカショートヘアの「達哉」とはまるで性格が違い、犬と同じ様に呼ぶとすぐにやって来る。おかげで私たち人間たちは本当に癒されているのです。マンションのクリスマスツリーの下に捨てられていたのか?起きざりにされてたのか?とにかく迷いネコだったのです。管理室にいるところを妻が見つけ連れて来たのですが、今や家のマスコットです。我が家の会社員の長男が帰ってくると直ぐ彼の足下に寄り添いゴロニャーンと甘える。エサやおトイレの世話をやっているのはほとんどが妻。フォローは自分。息子は何もやらない。そんな世話をしない息子に何故甘えてばかりいるのか不思議である。本当の優しい人を知ってるのかもしれません。息子はそのころファンクラブに入っていたのでこの女の子は「カエラ」という名前にになったのです。エサとベランダへ出たい時に意思表示をし、そのときだけ甘えてくる「達哉」は近づくとすぐ逃げる。「達哉」も息子がネーミング。前から決めてたみたい「達哉」も「カエラ」も飼い主が可愛い過ぎてるのか、まるで我が子の様に一緒に生活している。「カエラ」は最近のTVのCMで見る「じゃ乱の猫」に似ているとか、岩合さんの「海」に似てるとか言われていたのですが、太ってしまって、今は似ていないかも。遊びを求めて来たり、掃除機でなでなでするとフローリングでもソファの上でもごろにゃーンてさせてくれる「カエラ」は本当に素晴らしい家族の一員なのです。「達哉」も一員なんですが、甘えようと絶対にしないのです。「カエラ」はもう5〜7歳。猫の事解ってないのはもしかして自分だけなのかも?あれ?君の名は?  

                                                                                                          コウジロウの独り言

「かまぼこ屋根」を採用する、新渋谷駅と車両デザインの関係は?

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                                                                                                               photo by Kojiro

JR東日本の各線(後述)、京王の井の頭線、東急の各線、および東京メトロの各線という4社の路線が乗り入れるターミナル駅に完璧になる渋谷駅。JR以外の各線はすべて当駅を起点・終点としている。この写真は以前の東急東横線のプラットフォーム。このフォームの表面がデコボコしているのが目立つ。1972年頃の風景。古かったんだなあと改めて思う。東横線副都心線田園都市線半蔵門線はそれぞれ相互直通運転を行っている現在。東横線副都心線と、田園都市線半蔵門線との駅は東急と東京メトロの共同使用駅であり、4線を東急が一体で管理しているとのこと。かつてはシンプルに階段の上り下りで東急から山手線のホームへ。そして東急百貨店東横店にと簡単に行けた。確かに距離はあったのかもしれないのですが、見えるだけに目標が定まっていた。「渋谷駅南街区」は東横線の旧渋谷駅があった区域に相当するそうで、写真の「かまぼこ屋根」があるエリア。国道246号の南側に建設され、地上35階、地下4階建てとなる。名称は、「渋谷ストリーム」と発表されました(高さ約180mになるそうです)。「ストリーム」は「流れ」や「小川」を意味し(自分の乗っていたクルマの名前がホンダストリームだった)、下を流れる渋谷川などの「流れ」を表現。「クリエイティブワーカーの聖地」をコンセプトとし、オフィスにはデザイン系やIT系などのクリエイティブ企業が入る予定。「新たな次代の流れを生み出す」(東急電鉄)という意味だそうです。また、渋谷駅の地下2階から地上2階までつながる動線空間「アーバン・コア」と「国道246号横断デッキ」が建設され、「渋谷ストリーム」に直結するそうです。「国道246号横断デッキ」には、旧東横線渋谷駅のホーム高架橋が一部再利用されるほか、さらに旧駅舎の特徴だった、アーチ状の屋根が連なる「かまぼこ屋根」も再現される予定です。これにより、首都高3号渋谷線と国道246号による街の分断が解消されるといいます。いい物はそのまま残し、新しいものは自然なデザインに切り替える様はまさしく日本の真価。これから完成される渋谷駅をずうっと見続けようではありませんか?但し残念なことに写真で解る様に今の電車は私鉄でも東京メトロ(これも私鉄だが)でもあまり変わった印象がない。以前の車両はつり革にも特徴があった。思い出して下さい。日比谷線が13000系を出し、新しさを生活者に与えようとしてるらしいのですが、グッドデザイン賞を取った10000系はインテリアでとることができたらしいのですが、そんなに変化を感じない。ただし、天井部のトリプルスキン構造と、蛍光灯と空調ダクトを一体化したマルチファンクションモジュールの採用した天井内部の省スペース化を図り、従来構造より高い中央天井を実現してるそうだ。たぶん今の有楽町線に採用されているものですよね。まあ。以前の東横線とはかなり違ってますがね!「慣れる」っても恐ろしいですね!新鮮さが無くなってしまうんです!                                   コウジロウの独り言

 

Cat`s Eye Canonetから50年。我が輩は猫であるから111年。 我が家の猫はアメリカンショートヘア。

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我が家の猫。アメリカンショートヘアのオスの「達哉」です。我が家では高級な革製のソファアーに陣取り、一人でいつも過ごしてます。おかげで私たち人間はそのソファーには座れないでいるのです。購入してからこのかた、横になったりただ腰掛けたりも何回出来たのでしょうか?この猫の為に買ったソファーの様である。粗相をしてしまうのです。それをさせない様に100均のトゲトゲマットを引詰め猫のいる場所以外においてるわけです。もう一匹の猫・メスの「カエラ」が来てから自分の縄張りなのか、居る場所の周りにマーキング的にしている様です。アメリカン・ショートヘアは、17世紀にメイフラワー号でアメリカに上陸したネコの子孫らしい。「達哉」はこのアメリカンショートヘアである。運動能力の高い、大きな脚を持つ中型の猫である。と書かれている。寒さ、湿気、および表皮負傷からそれらを保護するために硬い毛皮を持つ。その通りでブラシで梳かすと和猫とは大きく毛並みは異なる。油っぽいっていうか何か保護されている物質が毛の周りにある様に感じる。人間の髪の毛のキューティクルとは異なるのだが何かWで毛がはいてるみたい。毛を梳かされるのが嫌いでベランダでほのぼのとした光を浴びている場所でないとなかなか梳かさせてくれない。毛皮は冬に厚く、春に薄くなる。いずれも同系のブリティッシュショートヘア種より体重が軽いのが特徴。ただし、容易に太り過ぎる傾向があるため、健康管理に注意を払う必要があるそうだ。陽気で賢く好奇心旺盛。遊び好きで、同居人と仲良く暮らすことが可能。なんて書かれていたのですが、うちの「達哉」はもう一匹の和猫「カエラ」には本当に拒否反応を示す。狩りが得意だとか、アメリカンショウトヘアーには特徴がある。「カエラ」に狙いを、毎日つけ追いかけている。明るく優しい気質とあるが。我が家では「カエラ」の方が明るくやさしい性格。「カエラ」はまるで犬に近い。呼ぶと来る。掃除機で毛並みを揃えようとすると「ゴロニャーン」とお腹を見せる。小さい子供の遊び相手にもなれるのは「カエラ」。「カエラ」と違い神経質で明るい気質とは思えないのが「達哉」。ただ一人おとなしくソファで寝ているだけである。ただ、2匹とも息子の部屋に入り浸りである。息子が帰ってくると何処に居ようととんで来て息子の部屋に入って行く。寝てるとその胸の上に「カエラ」。足下に「達哉」となるのだ。うちではとても飼いやすい猫だが餌代も馬鹿にならない。固形の餌の他、缶詰以外の生エサ(スープだけ)をあげ、決まって時間通りに食事をするのが日課となっている。その飼いやすさから日本でも1990年代後半頃より流行し始め、現在ではごく一般的な猫の品種として定着した。『アメショー』という略称で呼ばれる。「我が輩は猫である」というよりも「我が輩は一家の主である」という。我が家は猫無くして語られなくなった。ただ人間の世帯主が猫アレルギーであるのが残念なことである。

 

コウジロウの独り言

鮒子田 寛氏を覚えていらっしいますか?数々の記録の持主であるということを

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この写真は、あのサバンナが72日本グランプリTS-bレースにRX3で出場し、1 - 3位まで表彰台を独占した後の風景。ワークスGTRを撃破した時皆が騒いでいた。次のメインレースのフォーミュラに乗ろうと対照的に静かにセットアップしている鮒子田氏。パドックからピットに向かう途中のスペース。当時の富士サーキットはこんなに閑散としていた。ご存じないかもしれませんが、あのチャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田氏なのである。F-1にフル参戦したドライバーは中嶋悟氏ではあるが。ホンダの契約ドライバーに1965年に抜擢され、F-1とは異なるがS600でレースに参加している。20歳の若さでトヨタ『チームトヨタ』のドライバーに1966年、故・福沢幸雄氏らとともにトヨタ2000GTにて72時間スピードトライアルに挑戦もしている。世界速度・国際速度記録を16も樹立。トヨタ1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍した。1968年以降はトヨタ7で日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。日本人で初めてF1やル・マン24時間レースに参戦、伝説の生沢徹氏や(サーキットのオオカミは池沢悟さんだったっけ?)サーキットの貴公子だった故・風戸裕氏(実家の近くの吉祥寺の水道道路に面した豪邸に住んでいた)などと並び、海外レースの挑戦ドライバーと評されている。同志社大学在学中の秋ごろから、同志社中学校からの友人・林みのる氏や横山靖史氏らとともにホンダ・S600を駆って鈴鹿サーキットでスポーツ走行を開始する。この頃、鈴鹿サーキットで浮谷東次郎氏と出会う。浮谷氏は、後に今自分が住んでいるザウススキ−場になる以前の船橋サーキットで活躍した。カラスとよばれる「ホンダS600」で活躍。この世を去ってしまうのは林氏個人所有の「ホンダS600」でこの世を去るのだが。鮒子田氏と浮谷氏の間にいたのが林氏である。鮒子田氏は翌1965年にホンダの契約ドライバーに抜擢され、S600でレースに参加。1966年に20歳の若さでトヨタの一軍チームである『チームトヨタ』のドライバーになり、福沢幸雄氏らとともにトヨタ2000GTで72時間スピードトライアルに挑戦、計16の世界速度・国際速度記録を樹立。その後、1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍。1968年以降は3リッター、5リッターのトヨタ7で日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。1970年にトヨタワークスを離脱、アメリカに渡りフォーミュラAレース(F5000に相当)に参戦。翌1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦するが、車両トラブルによる事故で重傷を負い帰国。1972年から富士グランチャンピオンレース(富士GC)に参戦し、同年の年間チャンピオンになる。以後は富士GCなどの国内レースを中心に活動するが、海外レースにも参戦した。「その昔、誰よりも速く、そして誰よりも早く世界を駆け抜けた日本人ドライバーたちがいたことをご存知だろうか」その中の一人、「彼の名は “鮒子田 寛”」という。 鮒子田 寛氏は、誰よりも速く、さらに「耐久レースにめっぽう強く、」夢は、アメリカン・レースの最高峰である「インディ500マイルレース」に出場することであった。というフレーズまで飛び出していた。その位レースに集中してたのである。1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでそれでF1の決勝出場の記録は残していない。1974年、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのも鮒子田氏であったらしい。また1973年には生沢徹氏とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダRX-7)と計3回チャレンジしたが、いずれもマシントラブルで完走は残念ながらしていない。 1981年いっぱいで現役を引退している。2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。日本の自動車工業界に大きく活躍してる。一枚の写真から当時から現在を生きる人々へのノスタルジーを自分の記憶とともに歩む、コウジロウの独り言。間違った記述があったら教えてください    SeeYou!

 

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おとぎの国の謝肉祭。そして平和がそこに!

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1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。子供達は何歳位だろうか?本当に騎士になってるがごとくまるで映画のワンシーン。ミラノではなくベニスのこの時期の風景は見たことがないが、テレビ等の映像からは仮面舞踏会がうかびあがる。都市部の謝肉祭における仮面舞踏会のような乱痴気騒ぎは、正常な社会生活に対する社会的役割を転倒させたパフォーマンスであるとし、俗から聖への移行を象徴的に表現したものと考えたらしいのだ。当時の映像はそのベニスではなくミラノなのだ。髪の毛の色が以外とブラウンの子供達が多かったのには驚いた。ある者は謝肉祭を「地位転倒の儀礼」と呼び、謝肉祭は集団や社会が自らを見つめなおす時であり、社会全体で反省する作用を持っていたとのこと。その効力は資本主義の発達とともに薄れていったと説いているものもいる。カーニバルの語源は、俗ラテン語carnem(肉を)levare(取り除く)に由来してるらしい。四旬節が始まる灰の水曜日の前夜に開かれたのが始まりらしい。肉に別れを告げる宴のことを指した「断食の前夜」の意でもあった。この農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説もあるが、断食の前という意味の方が古いといってるものもいる。期間は異なるが、ほとんどが一週間で終わる。最終日はほとんどが火曜日(灰の水曜日の前日)であり、一部の地域では、この火曜日にパンケーキを食べる習慣があるとのこと。四旬節に入る前に卵を残さないために生じた習慣であり、シュロブ・チューズデーの名は、かつて謝肉祭最終日すなわち灰の水曜日前日に、みなが告悔を行う習慣があったことに由来する。現在はその起源である宗教的な姿を留めず単なる年中行事や観光行事になっている地域が多い。謝肉祭(カーニバル)は、もともとカトリックなど西方教会の文化圏で見られる通俗的な節期で、四旬節の前に行われる。仮装したパレードが行なわれたり、菓子を投げる行事などが行なわれてきたことから、現代では宗教的な背景のない単なる祝祭をもカーニバルと称することが少なくない。そんな難しいことよりこの時期に正装して協会に集まり楽しんでいる姿が健全な国を思わせてくれる。この40年で変わったか?ここに写ってる子供達をみて下さい。皆写ってる年寄りも40年以上年を取ってるのです。皆50歳を過ぎてるのではないでしょうか?本当に写真って素晴らしいですよね。まさか40年前に撮影したこのワンカットを、ブログとしてコンピュータを媒介に皆様にみて頂けるなんて思っても居ませんでした。

 

 

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