Cat`s Eye Canonetから50年。我が輩は猫であるから111年。 我が家の猫はアメリカンショートヘア。

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我が家の猫。アメリカンショートヘアのオスの「達哉」です。我が家では高級な革製のソファアーに陣取り、一人でいつも過ごしてます。おかげで私たち人間はそのソファーには座れないでいるのです。購入してからこのかた、横になったりただ腰掛けたりも何回出来たのでしょうか?この猫の為に買ったソファーの様である。粗相をしてしまうのです。それをさせない様に100均のトゲトゲマットを引詰め猫のいる場所以外においてるわけです。もう一匹の猫・メスの「カエラ」が来てから自分の縄張りなのか、居る場所の周りにマーキング的にしている様です。アメリカン・ショートヘアは、17世紀にメイフラワー号でアメリカに上陸したネコの子孫らしい。「達哉」はこのアメリカンショートヘアである。運動能力の高い、大きな脚を持つ中型の猫である。と書かれている。寒さ、湿気、および表皮負傷からそれらを保護するために硬い毛皮を持つ。その通りでブラシで梳かすと和猫とは大きく毛並みは異なる。油っぽいっていうか何か保護されている物質が毛の周りにある様に感じる。人間の髪の毛のキューティクルとは異なるのだが何かWで毛がはいてるみたい。毛を梳かされるのが嫌いでベランダでほのぼのとした光を浴びている場所でないとなかなか梳かさせてくれない。毛皮は冬に厚く、春に薄くなる。いずれも同系のブリティッシュショートヘア種より体重が軽いのが特徴。ただし、容易に太り過ぎる傾向があるため、健康管理に注意を払う必要があるそうだ。陽気で賢く好奇心旺盛。遊び好きで、同居人と仲良く暮らすことが可能。なんて書かれていたのですが、うちの「達哉」はもう一匹の和猫「カエラ」には本当に拒否反応を示す。狩りが得意だとか、アメリカンショウトヘアーには特徴がある。「カエラ」に狙いを、毎日つけ追いかけている。明るく優しい気質とあるが。我が家では「カエラ」の方が明るくやさしい性格。「カエラ」はまるで犬に近い。呼ぶと来る。掃除機で毛並みを揃えようとすると「ゴロニャーン」とお腹を見せる。小さい子供の遊び相手にもなれるのは「カエラ」。「カエラ」と違い神経質で明るい気質とは思えないのが「達哉」。ただ一人おとなしくソファで寝ているだけである。ただ、2匹とも息子の部屋に入り浸りである。息子が帰ってくると何処に居ようととんで来て息子の部屋に入って行く。寝てるとその胸の上に「カエラ」。足下に「達哉」となるのだ。うちではとても飼いやすい猫だが餌代も馬鹿にならない。固形の餌の他、缶詰以外の生エサ(スープだけ)をあげ、決まって時間通りに食事をするのが日課となっている。その飼いやすさから日本でも1990年代後半頃より流行し始め、現在ではごく一般的な猫の品種として定着した。『アメショー』という略称で呼ばれる。「我が輩は猫である」というよりも「我が輩は一家の主である」という。我が家は猫無くして語られなくなった。ただ人間の世帯主が猫アレルギーであるのが残念なことである。

 

コウジロウの独り言

鮒子田 寛氏を覚えていらっしいますか?数々の記録の持主であるということを

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この写真は、あのサバンナが72日本グランプリTS-bレースにRX3で出場し、1 - 3位まで表彰台を独占した後の風景。ワークスGTRを撃破した時皆が騒いでいた。次のメインレースのフォーミュラに乗ろうと対照的に静かにセットアップしている鮒子田氏。パドックからピットに向かう途中のスペース。当時の富士サーキットはこんなに閑散としていた。ご存じないかもしれませんが、あのチャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田氏なのである。F-1にフル参戦したドライバーは中嶋悟氏ではあるが。ホンダの契約ドライバーに1965年に抜擢され、F-1とは異なるがS600でレースに参加している。20歳の若さでトヨタ『チームトヨタ』のドライバーに1966年、故・福沢幸雄氏らとともにトヨタ2000GTにて72時間スピードトライアルに挑戦もしている。世界速度・国際速度記録を16も樹立。トヨタ1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍した。1968年以降はトヨタ7で日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。日本人で初めてF1やル・マン24時間レースに参戦、伝説の生沢徹氏や(サーキットのオオカミは池沢悟さんだったっけ?)サーキットの貴公子だった故・風戸裕氏(実家の近くの吉祥寺の水道道路に面した豪邸に住んでいた)などと並び、海外レースの挑戦ドライバーと評されている。同志社大学在学中の秋ごろから、同志社中学校からの友人・林みのる氏や横山靖史氏らとともにホンダ・S600を駆って鈴鹿サーキットでスポーツ走行を開始する。この頃、鈴鹿サーキットで浮谷東次郎氏と出会う。浮谷氏は、後に今自分が住んでいるザウススキ−場になる以前の船橋サーキットで活躍した。カラスとよばれる「ホンダS600」で活躍。この世を去ってしまうのは林氏個人所有の「ホンダS600」でこの世を去るのだが。鮒子田氏と浮谷氏の間にいたのが林氏である。鮒子田氏は翌1965年にホンダの契約ドライバーに抜擢され、S600でレースに参加。1966年に20歳の若さでトヨタの一軍チームである『チームトヨタ』のドライバーになり、福沢幸雄氏らとともにトヨタ2000GTで72時間スピードトライアルに挑戦、計16の世界速度・国際速度記録を樹立。その後、1600GT、2000GTで耐久レースを中心に活躍。1968年以降は3リッター、5リッターのトヨタ7で日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、優勝などの好成績を収める。1970年にトヨタワークスを離脱、アメリカに渡りフォーミュラAレース(F5000に相当)に参戦。翌1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦するが、車両トラブルによる事故で重傷を負い帰国。1972年から富士グランチャンピオンレース(富士GC)に参戦し、同年の年間チャンピオンになる。以後は富士GCなどの国内レースを中心に活動するが、海外レースにも参戦した。「その昔、誰よりも速く、そして誰よりも早く世界を駆け抜けた日本人ドライバーたちがいたことをご存知だろうか」その中の一人、「彼の名は “鮒子田 寛”」という。 鮒子田 寛氏は、誰よりも速く、さらに「耐久レースにめっぽう強く、」夢は、アメリカン・レースの最高峰である「インディ500マイルレース」に出場することであった。というフレーズまで飛び出していた。その位レースに集中してたのである。1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでそれでF1の決勝出場の記録は残していない。1974年、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのも鮒子田氏であったらしい。また1973年には生沢徹氏とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダRX-7)と計3回チャレンジしたが、いずれもマシントラブルで完走は残念ながらしていない。 1981年いっぱいで現役を引退している。2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。日本の自動車工業界に大きく活躍してる。一枚の写真から当時から現在を生きる人々へのノスタルジーを自分の記憶とともに歩む、コウジロウの独り言。間違った記述があったら教えてください    SeeYou!

 

コウジロウの独り言

 

おとぎの国の謝肉祭。そして平和がそこに!

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1974年2月に訪れたミラノでのワンカット。子供達は何歳位だろうか?本当に騎士になってるがごとくまるで映画のワンシーン。ミラノではなくベニスのこの時期の風景は見たことがないが、テレビ等の映像からは仮面舞踏会がうかびあがる。都市部の謝肉祭における仮面舞踏会のような乱痴気騒ぎは、正常な社会生活に対する社会的役割を転倒させたパフォーマンスであるとし、俗から聖への移行を象徴的に表現したものと考えたらしいのだ。当時の映像はそのベニスではなくミラノなのだ。髪の毛の色が以外とブラウンの子供達が多かったのには驚いた。ある者は謝肉祭を「地位転倒の儀礼」と呼び、謝肉祭は集団や社会が自らを見つめなおす時であり、社会全体で反省する作用を持っていたとのこと。その効力は資本主義の発達とともに薄れていったと説いているものもいる。カーニバルの語源は、俗ラテン語carnem(肉を)levare(取り除く)に由来してるらしい。四旬節が始まる灰の水曜日の前夜に開かれたのが始まりらしい。肉に別れを告げる宴のことを指した「断食の前夜」の意でもあった。この農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説もあるが、断食の前という意味の方が古いといってるものもいる。期間は異なるが、ほとんどが一週間で終わる。最終日はほとんどが火曜日(灰の水曜日の前日)であり、一部の地域では、この火曜日にパンケーキを食べる習慣があるとのこと。四旬節に入る前に卵を残さないために生じた習慣であり、シュロブ・チューズデーの名は、かつて謝肉祭最終日すなわち灰の水曜日前日に、みなが告悔を行う習慣があったことに由来する。現在はその起源である宗教的な姿を留めず単なる年中行事や観光行事になっている地域が多い。謝肉祭(カーニバル)は、もともとカトリックなど西方教会の文化圏で見られる通俗的な節期で、四旬節の前に行われる。仮装したパレードが行なわれたり、菓子を投げる行事などが行なわれてきたことから、現代では宗教的な背景のない単なる祝祭をもカーニバルと称することが少なくない。そんな難しいことよりこの時期に正装して協会に集まり楽しんでいる姿が健全な国を思わせてくれる。この40年で変わったか?ここに写ってる子供達をみて下さい。皆写ってる年寄りも40年以上年を取ってるのです。皆50歳を過ぎてるのではないでしょうか?本当に写真って素晴らしいですよね。まさか40年前に撮影したこのワンカットを、ブログとしてコンピュータを媒介に皆様にみて頂けるなんて思っても居ませんでした。

 

 

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ちょっと一休み。写真表現と材料。

ここで前に登場してた白根山の紙焼き写真とモノクロと比較して心象度の違いを述べてみよう。はじめに登場するのがコダックのキットで焼いた2種類のカラー写真。遠い昔の画像処理であるが、今とは異なりフィルム現像をしてから紙焼きをする段取り。フィルム現像は温度が非常に敏感で上高下するだけで色が出なくなる。従ってフィルム現像はノーマル。外部でやってもらっている。カラ−紙焼きがが何枚かありますが自分で現像した紙焼きに、マックのPhoto shopで加工したものである。色が出てないのがお分かりですよね。

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次はあまりご存じないであろうモノクロのフィルムのお話。今や便利になりスマフォやiPadで撮影が出来、すぐに画面で見られ、ヨドバシやビックカメラの出力機に持って行くとわずか数十円で紙焼きが出来る。昔のコダックのキットなんか一枚焼くのでもバットや現像する容器等揃えると何万円もかかった。お水も必要でしたし、後はサーモスタット付現像バットや水洗が出来る大きめなスペースが必要になるのです。次にみて頂きたいのはモノクロの写真である。最初の一枚はカラーをグレースケールにしたもの。(まだ載せてない)  何か甘い感じがしますよね。次にお見せするのが赤外フィルムで撮影し、紙焼き現像をやや硬めにしたもの。当然レンズには赤外線レッドフィルタ−を付けて撮影している。空と白根山コントラスト、そして浮遊する雲。僕はこれが一番好きなんです。まるで違う星に来たような錯覚になるからなんです。黒のコントラストはいつも自分に刺激を与えてくれる。今やモノクロをもう一度見直す次期なのではないでしょうか?この白根山が一番イメージだと思う!

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やさしく心地よい風はクルーの心を温め和ませてくれる。

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三浦半島和田名浜の6月。三戸浜の隣。神奈川県の青少年の家なんかも傍にあった浜辺から一艘のヨットが海に出ていった。1980年頃のお話。まだ海水浴客がいない海の家が出来る前の浜から操船して出航したヤマハ・シカーラ「HARBOR LIGHT」ディンギーだった。「HARBOR LIGHT」の名前は当時好きだった「ボズ・スギャックス」の曲名からとった。「シーボニア」や「葉山マリーナ」とは訳が違い海岸からの出航は防波堤的な係留出来る場所はまるでない。ディンギーは2人乗りなのだが4人まで乗れるので3人だととてもスムースである。この遠浅の海岸のこの波がくせ者なのである。風がなく海そのものが凪いでいる時がある。安心してマストを建てボーラインノットや8ノットでシートを縛り上げ操船の準備をする。先端に座ってパドリングをする。これは自分の役割。波打ち際に大きな波が来てセールに風が入らないとそのまま先端が持ち上がってチンすることもあった。本来兄弟で操船してるのだが、この日は学生時代の同級生のF氏と操船。当時は千駄ヶ谷と青山の間にある「ビクタ−スタジオ」の裏にあった飲み屋さんのマスタ−兼オーナーF氏。そのお店にはスタジオの裏だけに「ユーミン」やあの「矢沢永吉さん」までも来たことのあるそれでいてリーズナブルな飲み屋でもあり、なぜか敷居の高いお店でもあった。そこのマスタ−がその時のクルー。当時、客として通ってたのでよく会ってくれ、ヨットの話で盛り上がっていた。そんなこんなでヨットに誘い、同船することとなったのだ。お店に来た時はその前の通りにクルマを置いて、そのままでも警察のご厄介にもならないいい時代でした。当然自分も独身時代だった。高度成長のまっただ中なのか、イケイケドンドンとそのまま六本木の「フライデー」に行き、今は亡き「清水クーコ」さんとか「サーカス」のメンバー。そして「かまやつひろし氏」とかとおなじフロアで談笑してたのを遠くからみてたことを思い出す。だから「知り合い」って言えないんですよ。見かけたって程度ですよ。シカーラ「HARBORLIGHT」は「スクリュー・マリーンクラブ」と名前がつけられていた民宿の駐車場のような場所に陸揚げされていた。その海辺に艇を出すまでは専用の台車に乗せ、砂浜にのって斜めに海の中にすべらせて、そおっと浮かべる原始的なやり方で海に。ゴルフに興味を抱かなかった自分は、まじめな品行方正な青年と思っていたのですが、今思えばかなり行動派のやなタイプの男だったのかも知れませんせんね!少しでもその感触が残っていれば海辺の家に留まり、まだSea Breezeの音を聞けてたでしょう。

 

 

コウジロウの独り言

2度と訪れなかったピサの斜塔は外観を、 観光としての見学は大聖堂をみたほうがいい!

前にブログに書かいた、「フィレンツェの駅からピサへの旅が出来る」と言ってたのを覚えてますか?有名なあのピサの斜塔は、ロマネスク建築の代表例である。イタリア・トスカーナ州、ピサに位置する「ピサのドゥオモ広場」に建てられたピサ大聖堂としての一部。8階建ての塔ですが、増改築中に土台が地面にめり込んで傾いてしまったらしい。学者達が計算した結果、完成させても倒れないというので、建造を続けたという。写真はピサの斜塔の最上階付近から撮影した「ピサの大聖堂=ドゥオーモ」(Duomo di Pisa)です。この角度から大聖堂を撮った写真は見たことがない。

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調べてみると1063年にこの大聖堂の建築が始められたそうだ。完成したのは14世紀になってから。上から眺めるとラテン十字の形をしている、ピサ・ロマネスク様式の最高傑作。68本の円柱が内部には密に並んでいる。その円柱の多くは古代遺跡から戦利品として運ばれたものだそうだ。内装にはビサンティン様式やイスラムなど様々なスタイルが融合してる。フランスのパリやイタリアのミラノのドウモとはまた違ったみえかたをしてる。パリとミラノのドウモは何回か足を運んだことがあるのでその見え方の違いが分かる。このドウモのファサード全面にはアーチが5段にわたって整然と並び、2段目から上にはそのアーチとアーチを支えるかのように優美な柱が並んでいます。なんと、これらの柱は飾りであり、建物を支えているものではないのだそうだ。建物全体に軽快さを与え、建物全体にレース模様を施したような優美さを感じさせる。8枚のパネルを6本の円柱と人物像の彫られた5本の柱が支える造りで、柱には信仰、希望、慈愛を表す擬人像がいる。1枚のパネルの人物像に動きや激しさを感じることができるそうです。大聖堂の中には、ピサの守護聖人ラニエリの墓があります。今では透明な棺に移されいつもその姿を見ることができます。 6月17日の聖人の祝日には伝統的なピサの祭りである「聖ラニエリレガッタ(ボートレース)」が催され、その前日16日には14世紀から続く何千ものろうそくでアルノ川沿を美しく照らし出すルミナーラが開催されるそうです。このピサの斜塔と大聖堂のある奇跡の広場まではPisa中央駅から約徒歩25分、Pisa San Rossore駅からは徒歩約5分と、実はPisa San Rossore駅の方が最寄り駅になってるそうです。せっかく訪れたのならピサの斜塔だけではなく、この大聖堂を観光して帰国することを絶対お勧めします。40年以上前に一回訪れ、登ることだけを考え、ピサの斜塔の天辺までの経験はあるものの、この40年間の間にの数回イタリアに訪れたものの、ピサに足を運ぶことはなかったから言ってるんです。

 

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葉山港の風を呼ぶ!1等航海士は台風の前日でも出航! ベテランのスキッパーは超スリリングだった!

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嵐が2日後には上陸か?とニュースで伝えられていたある土曜日の朝。兄弟二人とオーナ−のI氏が旧葉山港(鎧摺港)に集合。ラマーレ茶屋の隣の港。三浦半島相模湾側に位置し、「鎧摺港」と呼ばれてかつては古くからの沿岸漁業の基地だったが、当時「コンンテッサJr」(石原慎太郎が元所有してた)を代表とするクルーザーが多く置かれていた港である。当時は周辺にクルマが停められた「コンテッサJr」の隣に停泊していた国産の木造船のデッキにもう一人のボーイッシュな女性と4名のスキッパー&クルーが揃った。写真ではあまり厳しくは写ってはいないが、この後パーカーを冠っていた全身がズブ濡れになる。よく見て頂きたいのがヨットの傾斜角度。そして遠方のウネリ。その操船の技術が素晴らしかった。自分とか若いスキッパーだったら、強い風に任せて風の向きに合わせボートのハルを思い切りたたいてでもまっすぐ角度の通り向かい、速度を上げ「ドンドン・バタンバタン」進んで行ってしまう。がそのI氏は違っていた。海軍の経験もあるとか言われるだけあって、「1等航海士」であることは間違う余地もなかった。素晴らしい風を掴みながらの操船。波の尾根づたいになめらかに進んで行くのだ。「ディンギー」ではやや横波にあたる量が多かったらチンしそうなイメージがあるが、長さが短い24フィートの「クルーザー」でもびくともせず風をとらえてスムースに進んで行った。「ゼノア(前の帆)」も「ストーム」にせずノーマルで操船。(自分では絶対無理)1980年近い70年代のお話である。船の種類も解らず?足立の木造船か?I氏がご健在なのか?も現在は解っていない。自分も震災後の海の怖さを知りあまり通わなくなった「ヨットハーバー」。三浦半島では「シーボニア」や「佐島マリーナ」にはドライブでよらせていただいていたが、ここのところ「葉山マリーナ」や「旧葉山港」に近寄ったこともない。一枚の写真からあの頃のスリリングな時や、あの船はどうしてるのか?色々と思い出と質問したい内容までも蘇ってくる。もう帰ってこないクルーとしてのポジショニング。30年前のまた別のクルーと操船したことのある油壷のクルーザー。「ブルーウォータ−派」の「格好附けヨットマン」は自分の体の中の思いでからも消えて行ってしまうのか?ヨットの時はカメラを持たない主義だった自分がほんの数枚だけ残した写真。本当に嘘をつかない新鮮な空気、そして風までも運んでくれた。

 

コウジロウの独り言