公営の鬼押出し園方向の道路の方がドライバー的には気持良かったが、 火山博物館の上には淋しく荒れ放題の展望台が残ってた。

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1974年頃の大好きだった「鬼押出し展望台」に向かう「230型セドリックGX」!何故かこのクルマは「スカイラインと同じ2000cc」だった。シングルキャブの「L20型エンジン」搭載。エクステリアはまるでアメ車を連想させるかのごとく迫力があった。特にこのテールランプは印象的だった。当時ではこの程度でも目を見張る程、格好よかったのだ。「Playboy」のロゴステッカーを貼るだけでも、クルマの性格を変た。後輪は「ホイール」こそ同じ径だったが扁平率が異なるワイドタイヤを履いていて、うしろが迫り上っていた記憶がある。但し、タイヤがタイヤハウスの縁にあたってしまうのでその部分は曲げていた。当然、自分のクルマではない。オーナー本人はデザイナーへの道は進まず、今ではスポーツカー関係のクルマを扱う会社の経営をしている。まあそのことは置いといて、本題に入ろう!クルマの走っている方向を見て頂きたい。まっすぐに延びる道。まるで何処までも行ってしまうような道が続いてるではありませんか。左手奥には「浅間山」。現在は手前でクロスし、公営の「火山博物館」方向と民営の「鬼押出し園」に分かれています。この道をご存知の方も多いと思いますが、公営の展望台方向、つまり「火山博物館」のある道へは数年前までに何回か訪れていました。というよりも、軽井沢周辺に来ると必ずこの道だけはドライブしていたんです。ここはドライバーにとって最高なシチュエーション。「すばらしいロード」いや「道」です。いつもここでは「ビートルズ」の「Here Comes The Sun」とか「The Long and Winding Road」を聞きながらドライブを楽しんで走行しています。日本の代表的「活火山」、「浅間山」の麓。この「浅間山」は「円錐{えんすい}火山」で、標高2568m。山麓には「天明の大噴火(1783年)」による「溶岩流群」「鬼押出し」が広がり、鬼神の造化を思わせる巨岩が累々と連なっている。だからなのか、この辺の景色は素晴らしい。軽井沢への行く途中には「白糸の滝」があったり、下に降りると「三笠会館」があった。「万平ホテル」で宿泊したり、知人の別荘も多く、よく足を運んでいた。このエリアの道路も素晴らしくよくなっている。「白糸の滝」や「旧軽井沢周辺」は観光客でごった返している。「プリンスホテルのコテージ」や「スキ−場」にも何回か来たこともある。道路整備が整い、東京から日帰りでも楽しめる総合的レジャーエリアになった。大好きな「軽井沢千住博美術館」が高速の出入り口近くにあったりするが、美術館へよったりもするが、今では観光よりも軽井沢のアウトレットモールへ足を運んでしまうことが多い!

 

コウジロウの独り言

Firenze Santa Maria Novella railway stationですかね?

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イタリアの旅の途中下車。のワンカット。途中下車と言っても43年前のバスツアーの途中下車。この写真の列車はいくら調べても名称やナンバーが解らなかった。

「Firenze Santa Maria Novella railway station  」であることは60%あたってるはず。連結部のストッパーの突起の形がイタリアンだと思う。駅の名前は記憶にある。友人達がこの駅から「ピサの斜塔」に向かったからだ。当然自分たちもオプショナルツアーでバスで向かった。そんな場面を心残りしないように写真におさめこの日の一日は終えた。日本に帰ってからフィルム現像から紙焼きまですべて自分でやっていた1974年。だから「ネオパンSSS」であり「4号の紙焼き」とか言ってるんです。「トライX」とかだと現像液とか異なるからか国産フィルムばかり使ってたのです。鉄道の趣味も若干ありましたが、それは兄弟に譲り自分はクルマへの興味を抱くこととなるのです。かといってオモチャレベルのミニカーしか収集していないのですが。ドライブ好きで若干レーシィーな走りが得意である。最近ではやや高額のミニカーを買える様にはなったものの、2年に1回程度。イタリアでかった「フェラーリのミニカー」なんかMade in Chinaだったんです。ドライブのハンドリングはやや衰えたものの「レインボーブリッジ」から首都高速、湾岸に入る「お台場ジャンクション」が大好き。あの滑る様におりて行くスピード感と景色がたまらないのである。お話は脱線したものの、この駅の風景も43年経った今でも忘れられない。この写真では人が少なくローカルな印象になってるけど、到着した時は多くのヨーロッパの人々で混雑してた。当時の上野駅のようではないが、海外の心地よい混雑風景が脳裏に蘇って来た。もしこの車両が何なのかお分かりの方がいらしたらこのブログの意見に書き入れて下さい。一枚の写真から勝手ですが自分はこのブログを書き続ける様にします。もしつまらなかったら、画像だけでも見てやって下さい。100回目位になったら本人登場なんてしてもいいですかね?本人が何故か写ってる写真も多くあり、(ナルシストなのかな)なかなか難しいところに来ています。ただ、自分の周りの風景と空気をご紹介することでわたし自身を理解してくれるだろうと思ってます。「See you again!」

 

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クロスオーバーのダイヤを引いていた房総特急。 三鷹電車区の「わかしお」。

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1972年7月に房総電化が完成、国鉄総武本線の東京乗り入れが開始された。

わかしお」「さざなみ」は房総初の特急である。運転を開始したのもこの頃。自分では忘れてるが1970年始めの三鷹電車区の「わかしお」である。「わかしお」「さざなみ」は、初登場でありながらいきなり夏ダイヤで運転を任されたらしい。かつての寝台特急をも感じさせていたフロントマスクは何故か間延びをしたカピバラのようである。鉄仮面にも見える。特急だったのだが時刻の変更は往々にしてあった。80年代になってから大船発の「わかしお」が出てきたりもした。72年には八王子発着の「わかしお」と「さざなみ」もあったそうだ。だから三鷹電車区にあったのか季節列車扱いで設定された。それは新宿発だった。1往復が八王子までの延長運転を行ったという事だが、こんな列車は国鉄時代の72年だけだった。写真は「わかしお」です。今では信じられない区間を走るのが当たり前の時代。国鉄時代のクロスオーバー列車とも言えよう「わかしお」の写真はモノクロのため帯がブルーかと思っていた。本当は東海道線に最初に走った「特急こだま」カラーのエンジ色の帯だった。

 

 

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皆様覚えてらっしゃいますか?TOYOTA7と戦い抜いた 天才レーシングドライバーと呼ばれていた高橋晴邦選手を!

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あのルマン24時間レースを日本人として初めて完走した方である。1960年代後半から、1970年代前半のオイルショックによるモータースポーツ活動縮小に至るまで、8年の間、トヨタのドライバーとして数々の名レースに参戦した。20代の若さで第一線から退き、1974年と1975年のル・マン24時間レースに日本製マシンで参戦し完走した。何と今私が住んでいるあたりにあった船橋サーキット(今はない)での第2回ゴールデンビーチトロフィーにフェアレディ1500で初参戦し、総合5位になったとも記録されている。1967年にTMSC(トヨタ・モータースポーツ・クラブ)に加入。1968年はTMSCの若手ドライバーとしてトヨタ・カローラを操り、全日本ドライバー選手権T-Ⅰ部門で9戦中7勝してチャンピオンとなる。当時は、F1ドライバーになることを夢見ており、ヨーロッパのレーシングスクールに入校希望の手紙を書いたこともあったらしいが、トヨタのワークスドライバーを選択する。1969年にトヨタ自販ワークスとして契約し、プロドライバーとなる。今もこんな選択肢を持つドライバーがいるといいんですがね!みんなF-1とかに本当に行ってしまう!同じ年の4月にトヨタ・1600GTで出場した第11回全日本クラブマンレース(富士スピードウェイ)では、ニッサン・ワークスのブルーバードSSSを破り優勝。後トヨタ7 のドライバーに抜擢される。トヨタは、新型プロトタイプレーシングカーの5リッタートヨタ・7の開発と選手層強化をはかり、ワークスに当時22歳の高橋選手 を選択。高橋選手は好タイムを記録し、総勢5台のトヨタ・7で決勝レースに鮒子田寛選手とコンビを組み出場。だが鮒子田選手がバンク下でスピンし脱落。高橋選手の出番はなかった。トヨタ福沢幸雄氏と川合稔氏を立て続けに失い社会批判を浴びた。結果トヨタは1971年新たにTMSC-Rというレース活動専門の別会社を設立。この会社から選手と契約を交わした。トヨタのレーシングカー開発部門も大幅に縮小され、以後しばらくセリカカローラスターレットといった市販車をベースのレース活動が中心になった。高橋選手のレースは上記のGT-R勢との争いの他、1972年3月、全日本鈴鹿自動車レースでのニッサン・ワークスvsトヨタ・ワークス(高橋晴邦選手と久木留博之選手のカローラクーペ(たぶんレビン))との激闘があったらしい。1973年7月富士1000km、新型セリカ・リフトバック・ターボを駆り、見崎清選手とコンビを組んでの大雨の中の快勝が挙げられる。1973年の秋にオイルショックが発生。本当についていないのだが世界的にモータースポーツ活動の自粛が叫ばれた。1974年初旬にはTMSC-Rが活動休止を表明。事実上、トヨタのワークス・レース活動が消滅(再開は約15年後になるのだが)。海外レースへの挑戦に挑もうと高橋選手のレーサーとしての活動は事実上ここで終了した。オイルショック明けの1974年7月、富士1000km(ショートコース = 30度バンクを使わない後の標準仕様)では、かつての僚友・鮒子田寛氏に請われて彼のシェブロン・フォードをドライブし総合優勝。前年に次いでの富士1000km連覇となった。上記写真はこの頃の前哨戦のカローラレビンの写真なのでは?レーサーとして日本での参戦はこれが最後となった。その後、1974年と1975年のル・マン24時間レースに参戦。シグマMC74・マツダロータリーを岡本安弘選手/寺田陽次朗選手とのトリオで駆った。1975年春、家族とともに渡米し、約一年半ロサンゼルスにビジネス留学する。帰国後、現在は自動車関連部品を取り扱う会社の代表取締役社長を務めて活躍してるとの事。

 

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目的地までのドライブのサウンドが心を揺さぶっていた。 本当にスチール撮影ロケは楽しかった。

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前の会社のディレクタ−時代のスチール撮影。一軒家スタジオ前の駐車風景です。完璧なスーパースポーツカーを目指した4代目フェアレディZスカイライン2000GT「スポーツカーに乗ろうと思う」というキャッチフレーズだったZの向こうにはBMW2002がある。バブル景気を物語っているかの様に面白い光景である。確か久里浜だったと思うが、ロケバスとスタジオが写ってる写真には'90が記されている。Zがモデルチェンジした次の年である。このZは日産が景気低迷だったのか?人気があったのか?世界戦力品だったのか?不明だが長期に渡り生産されたモデルである。スカイラインは1980年代のポールニューマンバージョンがあった最後のL型エンジン搭載車のノーマル2000GT4Door。Zのエクステリアデザインは当時の日産自動車デザイン部にいた前澤義雄氏・園勲夫氏・山下敏男氏等数名の手によるものだそうだ。トレンドを考慮し、新たにワイド&ローというスポーツカーという概念の元に制作されたらしい。「沈まないカリフォルニアの太陽に映えるボディデザイン」を考慮したと言われてたので自分はアメリカ人の「カリフォルナデザイン」かと思っていた。マイナーチェンジの際に前後オーバーフェンダーにし、ホイールを17インチ化する計画があったものの実現しなかったらしい。ただこれには続きがあり、友人のダットサンを取り扱っているオーナーがアメリカから逆輸入をし、日本でもワイド&ローの迫力のあるボディが見ることが出来ていた。当然左ハンドルだった。ヘッドランプは3代目のパラレルライジングタイプから、再び固定式に戻された。ただし欧州仕様のみフルリトラクタブル式を採用してたらしい。車体寸法は幅方向が特に大きくなり完全な3ナンバーサイズに変更された。2シーターおよび2by2と2つのボディがあり、この写真は2by2である。フェアレディZの2シーターと2by2の外観上の違いは燃料給油口の位置が2シーターはドアとリヤタイヤハウスの間で2by2はリヤタイヤハウスの後ろに位置しているこの差があるのだ。但しAピラーからCピラーに行くルーフからの曲線が後の車軸に(ホイールの真ん中)設計されておりデザイン場の差はあまり感じられないように設計されていた。2代目(S130型)の様に2by2と2シーターの差はなかった。Tバールーフも引き継がれ、2by2はTバールーフが標準装備になっていた。特徴的なのは車載ジャッキはアルミ製、スペースセーバー式スペアタイヤもアルミホイールである。つまり軽く強度のあるものを選んで設定してたようだ。現在では多くの外車を始めとする新車にはスペアタイアという存在すらなくなって来ているが、その方向性をいち早く導入していたようでもある。BMW2002は今から50年前の1966年、BMWが通称「02シリーズ」として発表。現在の『3シリーズ』のルーツともいえる。1973年に追加された高性能グレードが2002ターボ。写真のクルマはターボルックのノーマル。シートは運転席のみレカロだった記憶がある。レトロな雰囲気を持たせたボディは、ターボを思わせるデザインとカラーリング。フロントスポイラーやオーバーフェンダー、リアスポイラーが、迫力のルックスを実現していた。なぜこのブログではZのことを長く述べたかと言うと、先ほどの友人のクルマ屋での陸送の際、Zか32GTRどちらを選んでいいことになり自分はガンメタGTRよりも黄色のZを選んだ。「Zが単純に好きだったから」それがこのブログでのZの取り上げたコピーが多かった理由です。

 

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W124メルセデスはコンフォータブルないいクルマだった!どの位今でも走ってるのでしょうか?

f:id:kohyusya:20170126112224j:plainW123型の後継車にあたる1980年代に自分が乗っていたW124型メルセデス。ボディは4ドアセダン。230Eの右ハンドル。230Eしか当時は右ハンドルはなかった。リアシートのヘッドレストが運転席の操作でパタ−ンと倒れるのが面白かった。今ではバックモニタ−があるのでその必要はなくなったが後が見やすい設計なのか配慮が素晴らしかった。イタリアに家族で旅行した時、イタリア語なんか当然話せない自分。着いてからのトラブルを避ける為に、安全策としての迎車を日本で手配しておいた。日本が大雪で飛行機が遅れ、ミラノの到着が一日遅れてしまった。前日から泊まっていた成田のホテルに自分のW124を残し、ロンドン〜レオナルド・ダビンチ空港経由の空の旅でマルペンサ空港へ。迎えてくれたのは一日遅れなのにも関わらずリムジン。自分たちの前にサーッと現れた。紺色のW123のロングボディーメルセデスだった。ホテルまでの30分間、快適に自分達を運んでくれた。ヨーロッパではこのメルセデスを見ない国はないと言える位W123/W124は多かった。ローマでも英語のできるガイド付きクルマをチャーター。実際にはバスツアーと変わらない費用だったので、東京で予約しておいた。この時も白いW124のロングボディのリムジンだった。本国ドイツではタクシーがW124だった。このクルマは機構的にW201型 (190E)のサイズと全長を大型化したもので、台形のテールランプが特徴だった。リアサスペンションは190Eで開発されたマルチリンク式に。外板の平滑化が推し進められた結果、以前ブログで述べた様にメルセデスの市販車では初となる0.29のCd値を得ている。つまり何も突起がないということだ。最後のミディアム・クラスとして現在でも人気は高く、W124を中心に中古車販売店では扱う店も多かった。1985年、ドイツ本国で発売開始。翌1986年に日本に輸入。当初はセダンの230E、260E、300Eだったはず。詳しくは自分でもよく解っていない。1987年に260Eとクーペの300CEが追加。ともに230Eの右ハンドル車があった。1988年、ステーションワゴン230TEを追加。W123以来、あの後席に3つのヘッドレストがあるものです。1989年、300TE、260E 右ハンドル追加。1990年には外装を中心にマイナーチェンジされたそうだ。自分のメルセデスは9万8千kmでミッションが壊れ、自分の手からは離れて行ったのだが、維持費がやたら高かった印象がある。後にクーペに装備されていたサイドプロテクトパネル (サッコプレート) を全車に標準装備とした。自分のにはこのプレートはついていなかった。ナンバープレート脇も面一に変わっていた。それ以前のクルマに純正とは思われないパネルをはったクルマも多かったようだ。年式の違いがエクステリアで見分けられた。1991年には500Eおよび400Eを発売。500Eは標準のボディに500SL (R129系) に搭載されていたV8エンジンを載せたモデル。ノーマルに比べフェンダーが大きく張り出している。あこがれたものだ!ポルシェのバイザッハ研究所が開発し、生産工程の一部は1992年までポルシェの工場で行われていたらしい。限定車としてE500リミテッドが500台限定発売された。日本へはヤナセではなく並行輸入が多かった。。400Eも北米や日本向けのクルマで、開発のきっかけとなったのはレクサスLS400 (トヨタセルシオ) に対抗したクルマ。W124はレクサスよりもクラス下のセグメントだが、北米での価格・車格はほぼ同等で実質的なライバルとされていた。日本車もここまで脅かしてるとは凄いことである。とにもかくにも未だに高額なクルマ、メルセデス。といっても日本車のレクサスブランドも高額設定である。選ぶ基準が難しくなっている今日この頃です。

 

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一枚の写真から当時の本当の歴史の一遍を! 碓氷峠と熊の平信号所。

f:id:kohyusya:20170124185659j:plainかつて駅だった「熊の平」で停車していた急行列車と鈍行列車。確かではないがサイドから見るに165系を押すEF63の重連連結なのか?熊ノ平駅で急行列車に抜かれる茶褐色の旧型客車・鈍行列車。「熊ノ平駅」は、かつて群馬県碓氷郡松井田町にあった、日本国有鉄道国鉄信越本線の駅である。自分はJRとなっても「熊ノ平駅」であったような感じがしてしょうがない。この写真の次期は「信号場」になっている。旧・国鉄=JRの路線としては最も急勾配の線区「碓氷峠」。日本の鉄道技術の歴史に置いて特殊な急勾配線区でした。駅から「信号場」に降格したという歴史を持つ「熊ノ平」。現在もトンネルやホームなどの面影と跡地があるらしい。大昔にこの駅でお弁当をを買った記憶もあるのだが、1966年2月1日に信号場に降格とのこと。自分が小学生の頃である。まさか「おぎのやの釜飯」ではと疑問を抱く?雉子焼き弁当だったかも?記憶違いかもしれないが「横河駅」と間違えてるのかも知れません?1987年4月1日 の国鉄民営化に伴い、JR東日本になるのだが。1997年9月30日に北陸新幹線高崎駅 から 長野駅間)開通、信越本線横川駅から軽井沢駅間の廃線・廃止。信号場となり「熊ノ平信号場」となる。国鉄国鉄民営化後はJR東日本が管轄。信越本線中山道善光寺街道北陸道高崎駅から長野駅直江津駅から新潟駅に至る路線。1997年10月1日の北陸新幹線高崎駅から長野駅間が先行開業となり新幹線の並行在来線区間の横川駅と軽井沢駅間が廃止となった。軽井沢駅から 篠ノ井駅間が「第三セクターしなの鉄道」になった。2015年3月14日の北陸新幹線長野駅から金沢駅間が開業し長野駅 から直江津駅間も経営が分離。長野駅から妙高高原駅間が「しなの鉄道」。妙高高原駅から直江津駅間が「えちごトキめき鉄道」に。3区間に路線も分断されてしまった。何がなんだか解らない。全線を直通できる列車は、信越本線全線開通後からなくなってしまったのだ。現在信越本線として残されている区間のうち、直江津駅から新潟駅間は、JR東日本羽越本線奥羽本線。「えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン」、「あいの風とやま鉄道線」、「IRいしかわ鉄道線」、JR西日本北陸本線湖西線とともに、日本海縦貫線とよばれ優等列車や貨物列車が多く運行されているらしい。「熊の平駅」時代ははトンネルに挟まれ有効長を十分に確保できないため、「アプト式」鉄道時代の列車は突込線によっていったんトンネルに突っ込んでから本線脇の引上線に後退して停車する、スイッチバック駅だった記憶がある。信号場としての末期は複線だったため、閉塞境界としての機能があった。アプト式終了後は横川からのEF63系電気機関車の切り離し地点だったのか?相互間の乗り入れ待ちなのかスイッチバックなのか数分止まってから走り出したのも記憶に新しい。残念ながら列車の記録写真は少なく、世の中の好景気に伴って家族兄弟全員がスカイラインGT党であり、長野へはクルマでのドライブが多くなった次期でもある。碓氷峠の旧道をトラックの隙間を縫ってタイヤをならしながら走って行った記憶もある。                                    

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